鎌倉仏教は新仏教の成立と南都仏教の復興に分けて論ぜられる。新仏教は法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗であるが、その成立の原因については仏教思想の変遷を主軸とする研究と、社会・経済の変遷に即して見る研究とがある。しかし仏教思想の流れを主とし、社会・経済の面を従として考察すべきであろう。新仏教の開宗者は一遍を除いてみな叡山の出身者であるから、天台宗を母胎としていることは明らかであり、したがって天台教学を修学している間にそれぞれが思想的疑問にぶつかって、それを解決しようとして新しい道を探求したと見るべきである。その思想的疑問というのは道元が叡山修学中に提起したと伝えられる「顕密二教共に談ず、本来本法性
(ほっしょう)、天然自性身と、若し此の如くならば則ち三世の諸仏甚
(なに)に依て更に発心して菩提を求むる耶」(『建撕記』、原漢文)という、天台本覚思想の矛盾についてである。その主旨は天台・真言二宗では衆生は本来仏であると説いているが、それならば三世の諸仏は何故に発心修行したのであるかというのである。天台宗の本覚思想は宗祖最澄が入唐して密教をとり入れたのに始まり、円仁・円珍によって密教を重視する台密という傾向を発達させ、さらに良源を経て源信・覚運に至ると浄土教を加え、天台教学と密教・念仏を融合して即身成仏の行法を工夫したのであった。源信は『観心略要集』の中で、阿弥陀の三字には仏の一切の教法・智徳が含まれているから「其の名号を唱ふるは即ち八万の法蔵を誦し、三世の仏身を持
(じ)するなり」(原漢文)と述べ、覚運は『念仏宝号』の中で、極楽教主の弥陀仏と久遠実成
(くおんじつじょう)の釈迦仏と密教の大日如来との一体を説き、「願はくは聖、大智慧を得せしめ、自他同じく大菩提を証せんことを」(原漢文)と述べている。つまり衆生と諸仏と一体であるという前提に立って、衆生の即身成仏のための直接的な方法を苦心工夫したのである。こういう本覚思想に基づく即身成仏の方法に法然以下の開宗者はひそかに疑問を抱いて、それぞれの道を選んで解決をはかろうとしたものと推測される。法然は安元元年(一一七五)四十三歳のとき、唐の善導の『観経疏』の「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるを、是を正定業
(しょうじょうごう)と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文を読んだ際、阿弥陀仏の本願を信ずる他力の信に帰入することができて解決に到達した。これは体験的な解決であるから、理論的な論証は不要であったのである。法然はこうして弥陀の本願に帰入して専修
(せんじゅ)念仏の一宗を開いたのであるが、建久九年(一一九八)『選択本願念仏集』を撰述したころまでは、本覚思想の滓が多少残っていた。同書の第三章「念仏往生本願篇」に弥陀の名号には諸仏の四智・三身といった内証の功徳、相好・光明といった一切の外用
(げゆう)の功徳が含まれているから、名号の功徳が最も勝れていると論じている。これは上述の源信の思想と全く類同である。けれども最晩年の『一枚起請文』になるとそういった本覚思想は全く払拭されて、「一文不知の愚とんの身になして」「ちしやのふるまいをせずして、只一かうに念仏すべし」という念仏一筋に浸りきる心境に到達した。ここに天台教学を脱却した法然の全人格を見ることができる。ただそこには念仏するのは自分であるという意識が底にあるので、まだ自力的余習からは脱しきれていないようである。そういう自力的余習が全く消えて、純粋他力の信心に安住したのが親鸞である。親鸞は叡山の修学二十年間は源信の系統の天台本覚法門を学び、また堂僧として不断念仏を勤めていたようである。建仁元年(一二〇一)二十九歳のとき叡山を下りて京都の六角堂に参籠したが、やはり本覚法門の疑問に逢着したからであろう。そして法然の弟子となり、やがて承元元年(一二〇七)越後国に流され、建保二年(一二一四)常陸国稲田(茨城県笠間市稲田)に移住した。常陸にとどまることおよそ二十年、農民層の間に念仏の教えを弘めるとともに『教行信証』の撰述を続けたが、寛喜三年(一二三一)五十九歳のときに自力的根性がきれいに払拭されて、純粋他力の信を体験することができた。その結果、念仏を唱えるのは自分の力ではなく、阿弥陀仏から賜わった信の力によるのであるという新しい廻向
(えこう)の意義を証
(さと)り、自我の執が全くなくなった境地に到達した。この体験を説いた思想が諸仏等同説である。『浄土和讃』の中に「信心よろこぶそのひとを、如来とひとしとときたまふ、大信心は仏性なり、仏性すなはち如来なり」と詠んでいる。つまり信心に安住したときに如来と等しい境地になるということで、ただ理論的に衆生即如来と説く本覚思想とは次元を異にした体験の表現である。次に同じ浄土系統でも一遍の思想は全く傾向を異にしている。一遍は浄土教に天台本覚思想をとり入れた証空(法然の弟子)の法系であるから、文永十一年(一二七四)熊野権現から授けられたという偈の中にも「六字名号一遍法、十界依正一遍体」と本覚論的思想が説かれている。そして浄土三部経の中でも『阿弥陀経』を特に重んじ、同経の「臨命終時」の句により、平生時を常に臨終時と心得て念仏するようにと説くところから、時衆の宗名が生じた。また一遍は捨聖
(すてひじり)と呼ばれるようにすべての煩悩を捨棄する「離三業
(りさんごう)の念仏」を説き、諸国を遊行
(ゆぎょう)しながら賦算と称して「南無阿弥陀仏(決定往生六十万人)」と書いた紙片を人々に配って念仏を勧めた。なお熊野権現から神勅を受けたことから明らかなように、神道との結びつきが目立ち、宇佐八幡宮・男山八幡宮・住吉神社・三嶋神社に参詣し、当時高まってきた神国思想の流れに乗って教勢を拡げていった。浄土の新宗派と並んで中国宋朝の禅宗が伝えられて発展していった。まず臨済宗は十二世紀末に能忍が達磨宗として弘めたが、入宋して正式に伝えたのは栄西である。栄西は建久二年帰朝して黄竜
(おうりょう)派の臨済禅を伝え、博多に報恩寺などを建てて弘めたが、比叡山の訴えで同五年朝廷から禅宗の弘通を停止された。そこで栄西は『興禅護国論』を著わして諸宗の非難を排し、禅宗の立場を明らかにした。同書のはじめに参禅問道は戒律を先と為すことが説かれているように、栄西には戒律重視の思想があった。また栄西は入宋以前に伯耆大山
(だいせん)寺の基好について台密を学び、延暦寺で灌頂を受け、葉上流という台密の一派を開いているので、その禅は純粋な臨済禅ではなく、禅・戒・密兼修の傾向が濃かった。したがって天台本覚思想に疑問をいだいた跡はなく、むしろそれに同調したように思われる。その法系もこの宗風を継承している。このような兼修禅に対して純粋な臨済禅を弘めたのは南浦紹明の法系の応燈関の一派と、宋から来朝した禅僧である。応燈関の一派は大徳寺派と妙心寺派に分かれて発展していった。来朝した宋僧の中で蘭渓道隆は北条時頼の帰依をうけて建長寺の開山となり、その法系を大覚派といい、無学祖元は北条時宗に迎えられて円覚寺の開山となり、その法系は仏光派と呼ばれ、夢窓疎石が出るに及んで室町時代の五山禅林に圧倒的勢力を占めた。このほか兀庵
(ごったん)普寧・大休正念・一山一寧なども来朝している。曹洞宗を伝えたのは道元である。道元が叡山で修学中、十五歳のとき天台本覚思想に大きな疑問をいだいたことははじめに述べた。この疑問を解決しようとして建仁寺に栄西を訪ね、栄西の死後その弟子の明全に従い、貞応二年(一二二三)ともに入宋することになった。そして天童山の如浄
(にょじょう)の下で参禅し、宋の宝慶元年(嘉禄元、一二二五)二十六歳で身心脱落
(しんじんだつらく)の悟りを開き、ここにかつての本覚思想の疑問は体験的に解決したのであった。安貞元年(一二二七)帰朝後は深草の興聖
(こうしょう)寺で懐奘
(えじょう)以下の弟子を指導し、比叡山から迫害を受けると越前国の御家人波多野義重の招聘によって寛元元年(一二四三)越前国に下向し、永平寺に止住した。道元は師如浄の誡めに随って権門勢家に近づかず、只管
(ひたすら)坐禅弁道につとめ、僧堂生活の規則を作って厳しく学人を接得した。その説法は『普勧坐禅儀』『正法眼蔵』に集録されているが、正伝の仏法は坐禅において現われると説いて祗管打坐
(しかんたざ)を勧める。そして坐禅といっても悟りを得るための手段ではなく、坐禅はそのまま悟りの境地であるといって、これを修証一等、本証妙修と呼ぶ。表現は本覚思想と変わらないが、道元には身心脱落の体験があるから、理論だけの本覚思想とは根本的に違うのである。このように道元は坐禅を生命とする宗風を開いたが、三代の法嗣のときに永平寺に争論が起り、瑩山紹瑾
(けいざんじょうきん)が能登国に永光
(ようこう)寺・総持寺を開いてからは教団勢力の発展をはかるようになって、道元の宗風は失われてしまった。以上の諸宗とは異なって天台宗の法華思想を継承して一宗を立てたのは日蓮である。日蓮は十余年にわたる叡山の修学を終えて建長五年(一二五三)故郷の安房国に帰り、清澄山で法華宗を開いた。その宗旨は『法華経』だけが釈迦の真実の教えであるから、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えて『法華経』を信ずるようにというのである。文応元年(一二六〇)『立正安国論』を書いて幕府に提出したために伊豆に流され、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と唱えて他宗批判をしたために、文永八年佐渡流罪となった。このような迫害を受けるたびに日蓮は『法華経』の行者の自信をますます強め、佐渡においては自身が末法の世に『法華経』流布を釈迦から直接付嘱されたという上行
(じょうぎょう)菩薩の再誕であるとの信念をもつに至った。そして佐渡では『開目鈔』『観心本尊抄』の二大著作を撰し、自宗の根本教義を宣述した。『観心本尊抄』の中で、「妙法蓮華経」の五字には釈尊の因行果徳が含まれているから、この題目を唱えれば釈尊の因果の功徳が譲り与えられると説いている。これは天台本覚思想を集約した修行方法で、その主旨を図に顕わしたのが曼荼羅であるから、日蓮の思想は本覚思想を中核とし、それに真言宗の曼荼羅、念仏宗の口称念仏を融合したものと見ることができる。さて新仏教の背景である社会情勢は、旧仏教の堕落に伴う僧兵の乱暴と天災地変の頻発、盗賊の横行などで末法思想が深刻になり、民衆の間に新しい救済が望まれていた。そういう民衆の要望を満たしてくれたのが浄土教諸宗と日蓮宗である。また禅宗の僧堂規範は武士の生活態度と相通ずるものがあり、武士も宋・元の文化を受容するまでに成長したので、鎌倉時代の禅宗は皇室・貴族をはじめとして武士階級に受容されていった。終りに南都仏教の復興について簡単に触れることにする。南都の六宗は一般に学解
(がくげ)仏教といわれるように教学の研究が主であったから、新仏教のように実践修行の分野での根本的改革はなされなかった。まず華厳宗では高弁が出て華厳教学を研究し、栂尾
(とがのお)山を華厳の道場とした。しかし華厳の学匠というよりは戒律を厳守したことによって貴族層の崇敬をあつめた。また弥勒信仰をいだき、兜率往生を願っている。法相宗の貞慶
(じょうけい)も唯識教学の著書はあるがやはり厳格な持戒者であり、弥勒信仰をいだいていた。次に律宗は復興が最も著しかった。律宗は京都の北京律と奈良の南京律に分かれた。北京律には俊
(しゅんじょう)が出て入宋して南山律を伝え、京都の泉涌寺を再興して戒律の講説を行なったが、その内容は天台・禅・律三宗の合一したものであった。南京律には叡尊・忍性が出て戒律思想の民衆化をはかったが、その内容は戒律と密教が融合した真言律宗であったのである。戒律の民衆布教のために叡尊は非人救済事業をおこし、忍性は奈良に北山十八間戸と呼ばれる癩患者の宿舎を作ったりしたので、世人の尊敬をあつめ鎌倉幕府の厚い帰依をうけた。
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