浄土教美術の中では最も重要な主題の一つで,その大部分は阿弥陀如来の来迎を説く阿弥陀来迎図であるが,ほかに弥勒菩薩や十一面観音などの来迎図もある。また絵画として表現されるもののほかに彫像によって表現される来迎像もある。来迎図の教理的根拠は《無量寿経》所説の阿弥陀仏の四十八願中の第十九願において,大衆を救済するために臨終まぎわの往生者のもとに阿弥陀仏が諸尊を従えて来迎するという誓約にもとづくものであるが,さらに《観無量寿経》ではこれをいっそう発展させ,大衆の機根に応じて上品上生より下品下生にいたる九品(9通り)の往生すなわち来迎のあり方を説いている。このような経意にもとづいて表現されたのが阿弥陀来迎図であり,まず《観無量寿経》にもとづいて描かれた〈観無量寿経変〉(略して観経変と言う)の中に表された。観経変の成立は中国においては7世紀にさかのぼり,8世紀には最盛期を迎えたとみられ,敦煌においても同期の遺品が少なくない。とくに431窟南壁の九品往生図は観経変中のその部分を独立して描いたもので,九品来迎図の早期(7世紀)の遺品として注目される。浄土信仰の盛んであった7,8世紀の中原の来迎図については遺品がまったくなく,不明というほかはないが,西域では引き続き浄土信仰が盛んであったとみえ,カラ・ホトの地から11~12世紀ごろの来迎図が発見されており,この方面における浄土信仰の状況をうかがうことができる。しかし大陸における阿弥陀浄土信仰は造形芸術の面では阿弥陀浄土変が主流をなし,来迎図に関しては必ずしも顕著な展開を見なかったものであり,来迎図の隆盛は日本固有のものといっても過言でない。
日本の来迎図も最初は観経変とくに8世紀後半の制作になる《当麻曼荼羅》下縁の九品往生図にその源流を見ることができる。さらに9世紀後半比叡山東塔常行堂に九品往生図の壁画があったと伝えるが,その伝統は1053年(天喜1)に創建された平等院鳳凰堂の壁扉画に受けつがれた。しかしこれらはいずれも《観無量寿経》にもとづく九品来迎図である。ところがこれとは別に10世紀の末ごろ天台僧源信によって撰述された《往生要集》は末法到来の近いことを前提に極楽往生の緊要なことを説き,阿弥陀仏を観想する法と併せて臨終時に阿弥陀来迎を請い願う作法を説き示した。源信の伝記には彼がその生前に阿弥陀来迎を儀式化した迎講(むかえこう)と来迎図を発案したと記している。ここに観無量寿経所説の九品来迎図とは別個にまったく独立した来迎図が描かれるとともに来迎像が造られはじめる。当時来迎図は迎接曼荼羅,来迎像は迎接像と呼ばれたが,1045年(寛徳2)には敦明親王邸内に阿弥陀迎接像が安置され,11世紀後半には極楽迎接曼荼羅の記録がしきりに現れ,阿弥陀来迎図が隆盛期を迎えたことをうかがわせる。ことに1052年(永承7)は末法到来の年とされ,この年を境に貴族階級の間に末法思想が広まったことは忘れがたい。当時の代表的な来迎図はもと比叡山に伝来し現在高野山に伝わる《阿弥陀聖衆来迎図》で3幅の中に正面向きに来迎する阿弥陀仏と30余体の諸尊を表す。このほか平安時代の来迎図としては奈良法華寺,京都安楽寿院など正面向きの構図をとるものが多い。平安末期の源平争乱を境に世紀末的不安はいっそうの高まりを見せ,浄土信仰は新時代を画するが,鎌倉時代は来迎図の盛期であるとともに新しい形式のものが登場した。当代の代表的遺品は知恩院の《阿弥陀二十五菩薩来迎図》で,自然景をバックに阿弥陀仏の一行が向かって左の山の端から右下辺の往生者の邸に直線的に下降する様を表す。当代のものにはこのような斜構図により来迎の必然性を説き示す形式が主流をなす。このほか当代の来迎図には京都禅林寺本,金戒光明寺本に代表される《山越阿弥陀図》や,帰路を急ぐ〈帰り来迎図〉などがあり,鎌倉時代浄土信仰が各階層に対応しつつ多様な展開を示したことをうかがわせる。
→浄土教美術
More formally, shōju raigōzu. Also known as gōshō mandara (mandalas of the welcoming) or gōshō hensō (illustrations of the welcoming). Raigōzu (literally, “welcoming pictures”) are pictorial representations of the idea that the Buddha Amida (Skt: Amitābha) and bodhisattvas descend to welcome the dying faithful into the Pure Land of the Blessed (see
Based on a belief expressed in the Kan muryōju kyō (Amitāyurdhyāna-sūtra), a canonical scripture, it was thought that Amida would come to welcome (raigō) the faithful in nine different ways in accordance with the nine different levels of their commendable deeds. It has been maintained that the raigōzu painted at the bottom of a large Pure Land mandala at the temple Taimadera (the Taima mandara; 8th century) is the oldest of this type. The restoration of the Taima Mandala in 1217 spurred production of raigōzu, particularly around the 14th century.
Raigōzu based on Pure Land beliefs that developed within the
Raigōzu were the principal images in the rite for the dying. Some raigōzu depicted Amida and his retinue bending forward as if they were hastening to welcome the dead (hayaraigō, literally, “swift welcome”). In others a length of thread links the hand of Amida to that of the dying. Divine figures other than Amida were also depicted in raigōzu during the Kamakura period (1185−1333): the bodhisattva
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