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  11. 来迎図

ジャパンナレッジで閲覧できる『来迎図』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

世界大百科事典・Encyclopedia of Japan

改訂新版 世界大百科事典
来迎図
らいごうず

浄土教美術の中では最も重要な主題の一つで,その大部分は阿弥陀如来の来迎を説く阿弥陀来迎図であるが,ほかに弥勒菩薩や十一面観音などの来迎図もある。また絵画として表現されるもののほかに彫像によって表現される来迎像もある。来迎図の教理的根拠は《無量寿経》所説の阿弥陀仏の四十八願中の第十九願において,大衆を救済するために臨終まぎわの往生者のもとに阿弥陀仏が諸尊を従えて来迎するという誓約にもとづくものであるが,さらに《観無量寿経》ではこれをいっそう発展させ,大衆の機根に応じて上品上生より下品下生にいたる九品(9通り)の往生すなわち来迎のあり方を説いている。このような経意にもとづいて表現されたのが阿弥陀来迎図であり,まず《観無量寿経》にもとづいて描かれた〈観無量寿経変〉(略して観経変と言う)の中に表された。観経変の成立は中国においては7世紀にさかのぼり,8世紀には最盛期を迎えたとみられ,敦煌においても同期の遺品が少なくない。とくに431窟南壁の九品往生図は観経変中のその部分を独立して描いたもので,九品来迎図の早期(7世紀)の遺品として注目される。浄土信仰の盛んであった7,8世紀の中原の来迎図については遺品がまったくなく,不明というほかはないが,西域では引き続き浄土信仰が盛んであったとみえ,カラ・ホトの地から11~12世紀ごろの来迎図が発見されており,この方面における浄土信仰の状況をうかがうことができる。しかし大陸における阿弥陀浄土信仰は造形芸術の面では阿弥陀浄土変が主流をなし,来迎図に関しては必ずしも顕著な展開を見なかったものであり,来迎図の隆盛は日本固有のものといっても過言でない。

 日本の来迎図も最初は観経変とくに8世紀後半の制作になる《当麻曼荼羅》下縁の九品往生図にその源流を見ることができる。さらに9世紀後半比叡山東塔常行堂に九品往生図の壁画があったと伝えるが,その伝統は1053年(天喜1)に創建された平等院鳳凰堂の壁扉画に受けつがれた。しかしこれらはいずれも《観無量寿経》にもとづく九品来迎図である。ところがこれとは別に10世紀の末ごろ天台僧源信によって撰述された《往生要集》は末法到来の近いことを前提に極楽往生の緊要なことを説き,阿弥陀仏を観想する法と併せて臨終時に阿弥陀来迎を請い願う作法を説き示した。源信の伝記には彼がその生前に阿弥陀来迎を儀式化した迎講(むかえこう)と来迎図を発案したと記している。ここに観無量寿経所説の九品来迎図とは別個にまったく独立した来迎図が描かれるとともに来迎像が造られはじめる。当時来迎図は迎接曼荼羅,来迎像は迎接像と呼ばれたが,1045年(寛徳2)には敦明親王邸内に阿弥陀迎接像が安置され,11世紀後半には極楽迎接曼荼羅の記録がしきりに現れ,阿弥陀来迎図が隆盛期を迎えたことをうかがわせる。ことに1052年(永承7)は末法到来の年とされ,この年を境に貴族階級の間に末法思想が広まったことは忘れがたい。当時の代表的な来迎図はもと比叡山に伝来し現在高野山に伝わる《阿弥陀聖衆来迎図》で3幅の中に正面向きに来迎する阿弥陀仏と30余体の諸尊を表す。このほか平安時代の来迎図としては奈良法華寺,京都安楽寿院など正面向きの構図をとるものが多い。平安末期の源平争乱を境に世紀末的不安はいっそうの高まりを見せ,浄土信仰は新時代を画するが,鎌倉時代は来迎図の盛期であるとともに新しい形式のものが登場した。当代の代表的遺品は知恩院の《阿弥陀二十五菩薩来迎図》で,自然景をバックに阿弥陀仏の一行が向かって左の山の端から右下辺の往生者の邸に直線的に下降する様を表す。当代のものにはこのような斜構図により来迎の必然性を説き示す形式が主流をなす。このほか当代の来迎図には京都禅林寺本,金戒光明寺本に代表される《山越阿弥陀図》や,帰路を急ぐ〈帰り来迎図〉などがあり,鎌倉時代浄土信仰が各階層に対応しつつ多様な展開を示したことをうかがわせる。
→浄土教美術
[浜田 隆]

[索引語]
無量寿経 観無量寿経 観経変 カラ・ホト 源信 往生要集 迎接曼荼羅 迎接像 阿弥陀二十五菩薩来迎図


Encyclopedia of Japan
raigōzu
来迎図

More formally, shōju raigōzu. Also known as gōshō mandara (mandalas of the welcoming) or gōshō hensō (illustrations of the welcoming). Raigōzu (literally, “welcoming pictures”) are pictorial representations of the idea that the Buddha Amida (Skt: Amitābha) and bodhisattvas descend to welcome the dying faithful into the Pure Land of the Blessed (see Pure Land Buddhism). They became an important genre of Buddhist art in Japan.

Based on a belief expressed in the Kan muryōju kyō (Amitāyurdhyāna-sūtra), a canonical scripture, it was thought that Amida would come to welcome (raigō) the faithful in nine different ways in accordance with the nine different levels of their commendable deeds. It has been maintained that the raigōzu painted at the bottom of a large Pure Land mandala at the temple Taimadera (the Taima mandara; 8th century) is the oldest of this type. The restoration of the Taima Mandala in 1217 spurred production of raigōzu, particularly around the 14th century.

Raigōzu based on Pure Land beliefs that developed within the Tendai sect of Buddhism were introduced from China by the monk Ennin (794−864) and were promoted and popularized by Genshin (942−1017). The latter is said to have initiated the gōshō mandara, which is a prototypical raigōzu. Masterpieces of this tradition produced toward the end of the Heian period (794−1185) include those at the Phoenix Hall of Byōdōin, at the temple Hokkeji in Nara, and at Mt. Kōya (Kōyasan).

Raigōzu were the principal images in the rite for the dying. Some raigōzu depicted Amida and his retinue bending forward as if they were hastening to welcome the dead (hayaraigō, literally, “swift welcome”). In others a length of thread links the hand of Amida to that of the dying. Divine figures other than Amida were also depicted in raigōzu during the Kamakura period (1185−1333): the bodhisattva Miroku (Skt: Maitreya), the bodhisattva Kannon with eleven heads, the bodhisattva Jizō (Skt: Kṣitigarbha), and the Buddha Śākyamuni.

A 14th-century raigōzu depicting the descent of the Buddha Amida. 129.3 x 158.4 cm. Tōkyō National Museum.
© Tōkyō National Museum
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検索コンテンツ
1. 来迎図
世界大百科事典
儀式化した迎講(むかえこう)と来迎図を発案したと記している。ここに観無量寿経所説の九品来迎図とは別個にまったく独立した来迎図が描かれるとともに来迎像が造られはじ
2. らいごう‐ず[ライガウヅ]【来迎図】
日本国語大辞典
〔名〕平安中期以降の浄土信仰による仏画。阿彌陀如来が、諸菩薩を従えて、念仏者を浄土に迎えるために人間世界へ下降するさまを描いたもの。特に鎌倉時代に多く描かれた。
3. らいごう‐ず【来迎図】
仏教語大辞典
平安中期以降の浄土信仰による仏画。阿弥陀如来が、諸菩薩を従えて、念仏者を浄土に迎えに来るさまを描いたもの。特に鎌倉時代に多く描かれた。
4. 【来迎図(圖)】らいごう(がう) ず(づ)
新選漢和辞典Web版
西方浄土の極楽(ごくらく)から阿弥陀如来(あみだにょらい)たちが人々をすくうために人間世界に迎えにくる姿を描いた平安朝時代の仏画。
5. raigōzu 【来迎図】画像
Encyclopedia of Japan
More formally, shoju raigozu. Also known as gosho mandara (mandalas of the welco
6. らいごうず【来迎図】
国史大辞典
⇒聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)
7. 阿弥陀聖衆来迎図
世界大百科事典
経た後,87年(天正15)に高野山に納められたと伝えている。→浄土教美術須藤 弘敏 聖衆来迎図 来迎図 高野山有志八幡講十八箇院聖衆来迎図
8. あみだしょうじゅらいごうず【阿弥陀聖衆来迎図】 : 高野山
国史大辞典
阿弥陀聖衆来迎図(あみだしょうじゅらいごうず)  十二世紀前半期に描かれた代表的仏画。中幅には来迎印を結んで蓮台に趺坐する阿弥陀像と、その左右に半跏跪坐する観
9. あみだらいごうず【阿弥陀来迎図】 : 知恩院
国史大辞典
阿弥陀来迎図(あみだらいごうず)  阿弥陀聖衆が飛来する速さが表わされているとして「早来迎(はやらいごう)」の名で親しまれる来迎図の代表作。絹本著色、掛幅装、
10. しょうじゅらいごうず【聖衆来迎図】
国史大辞典
ようになった。来迎図を大別すると聖衆来迎図をはじめ、西方(さいほう)極楽浄土の教主である阿弥陀如来だけを画いた一尊来迎図や、その両側に観音・勢至の二菩薩を配した
11. あみだらいごうず【阿弥陀来迎図】
国史大辞典
⇒聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)
12. にじゅうごぼさつらいごうず【二十五菩〓来迎図】
国史大辞典
⇒聖衆来迎図(しょうじゅらいごうず)
13. あにちじ【阿日寺】奈良県:北葛城郡/香芝町/良福寺村
日本歴史地名大系
寺宝は国指定重要文化財の絹本著色聖衆来迎図(鎌倉時代、奈良国立博物館寄託)・木造大日如来坐像(平安後期、香芝市常盤寺の客仏)のほか、源信像・二十五菩薩来迎図(六
14. 阿弥陀
世界大百科事典
》であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧
15. あみだ【阿弥陀】
日本架空伝承人名事典
源信の『往生要集』であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂、迎接堂が建てられ、聖衆来迎図が描かれ、迎講、往生講、阿弥陀講などが営まれた
16. あみださんぞんぞうおよびどうじぞう【阿弥陀三尊像及び童子像】 : 法華寺
国史大辞典
阿弥陀三尊像及び童子像(あみださんぞんぞうおよびどうじぞう)  特異な阿弥陀来迎図で、転法輪印を結ぶ阿弥陀如来の幅、両手で蓮台を捧げる観音と天蓋を差掛ける勢至
17. あみだ‐にじゅうごぼさつ[‥ニジフゴボサツ]【阿彌陀二十五菩薩】
日本国語大辞典
唱える人のもとに現われて、極楽浄土に連れて行くとされる。そのさまを描いたものを阿彌陀二十五菩薩来迎図といい、古来多く描かれた。
18. あみだ‐にじゅうごぼさつ【阿弥陀二十五菩薩】
仏教語大辞典
念仏者の臨終に来迎する阿弥陀仏に随伴する二十五人の菩薩。この来迎のさまを図示したものを阿弥陀二十五菩薩来迎図と称するが、二十五菩薩のうちに観音・勢至を数えない場
19. あんらくじ【安楽寺】福井県:坂井郡/芦原町/北方浦
日本歴史地名大系
定文化財)をはじめ、室町期の薬師如来坐像などの木仏や、絹本著色釈迦涅槃図・紙本著色阿弥陀三尊来迎図などがある。〈近江・若狭・越前寺院神社大事典〉
20. あんらくじゅいん【安楽寿院】画像
国史大辞典
現在の建物は江戸時代以後の再建である。二御陵のほかは、寺宝阿弥陀如来坐像・孔雀明王画像・阿弥陀二十五菩薩来迎図(いずれも藤原時代、重要文化財)などによって往時の
21. あんらくじゅいん【安楽寿院】京都市:伏見区/竹田村地図
日本歴史地名大系
か、絹本著色孔雀明王像(平安時代)・絹本著色普賢菩薩像(鎌倉時代)・絹本著色阿弥陀二十五菩薩来迎図(平安時代、以上京都国立博物館寄託)を蔵する。そのほか、室町末
22. あんらくりついん【安楽律院】
国史大辞典
兼学派が退去させられたこともあったが、安永元年(一七七二)再び律院となる。弥陀三尊二十五菩薩来迎図などを蔵する。 [参考文献]辻善之助『日本仏教史』九、末広照啓
23. あんらくりついん【安楽律院】滋賀県:大津市/北部地域/延暦寺/横川飯室谷
日本歴史地名大系
安楽律創唱の慈山・光謙・智幽の三師や、ここに隠遁したという歌人藤原定家の墓がある。絹本著色の弥陀三尊二十五菩薩来迎図・千手観音像は国指定重要文化財。〈近江・若狭
24. 池田(徳島県)画像
日本大百科全書
。北部に四国霊場66番札所の雲辺(うんぺん)寺と番外の札所箸蔵寺がある。雲辺寺の絹本著色聖衆来迎図は国指定重要文化財。箸蔵寺は本殿など6棟が国指定重要文化財。黒
25. 板絵
日本大百科全書
また宇治平等院鳳凰堂(ほうおうどう)の本尊の周囲の壁画、扉(とびら)絵も大画面の板絵として描かれた来迎図(らいごうず)で、大和絵(やまとえ)の名品として知られる
26. いまいずみむら【今泉村】千葉県:香取郡/東庄町地図
日本歴史地名大系
利根川対岸からの参詣者が多い。東泉寺は昭和三五年(一九六〇)弥勒院と観音寺が合併して成立。同寺には阿弥陀三尊来迎図像の常総系板碑があり、南北朝期の作とされる。
27. いりえ-まさみ【入江正巳】
日本人名大辞典
制作・研究し,昭和48年高松塚古墳壁画の模写に参加。53年奈良県の当麻寺(たいまでら)壁画「来迎図」,58年大和郡山(こおりやま)市の慈光院天井画「雲竜」を完成
28. うんぺんじ【雲辺寺】徳島県:三好郡/池田町/白地村
日本歴史地名大系
奉納堂などを記す。什宝中、平安時代後期作の木造千手観音坐像(経尋作)、同毘沙門天立像および絹本著色聖衆来迎図は国指定重要文化財。千手観音像の胎内銘に「常住聖人西
29. えいかんどう【永観堂】京都市:左京区/南禅寺門前地図
日本歴史地名大系
日証恵の奥書。十六羅漢像以下は鎌倉時代)・絹本著色仏涅槃図・絹本金彩阿弥陀二十五菩薩来迎図、二十五菩薩来迎図絵扉(京都国立博物館・大阪市立美術館寄託。仏涅槃図以
30. 栄花物語 299ページ
日本古典文学全集
堂の側面である北と南の隅、および正面である東面の両端にある扉。以下は阿弥陀堂の扉に描かれた九品来迎図について
31. 栄花物語 300ページ
日本古典文学全集
須臾刹那も経ぬほどに、極楽界にいき着  の記述。扉の上方に色紙の形に輪郭を描き、詞を書いた。九品来迎図は『観無量寿経』に基づくので、その一節であろう。書は源兼行
32. 往生
世界大百科事典
仏が臨終に来迎して,浄土へ引導接取すること)が強く想念された。来迎引接(摂)を絵画化したのが来迎図であり,儀礼化したのが迎講や来迎会である。立形の阿弥陀仏像が造
33. 往生要集
世界大百科事典
の片言隻句を引用したり,本書に主題を求めている。美術では迎接(ごうしよう)形の阿弥陀像や聖衆来迎図(しようじゆらいごうず)あるいは六道図や地獄変相図などが本書の
34. 往生要集 1 日本浄土教の夜明け 201ページ
東洋文庫
る、と考えられた。この来迎思  想は源信以来さかんとなり、多くの迎講・往生講を生みだし、また来迎図(解説参照)をつ  くり出している。二十五菩薩の名は第七章第五
35. 往生要集 1 日本浄土教の夜明け 346ページ
東洋文庫
そしてこうした臨終の念仏が浄土からのお迎えを期待する「来迎」思想の鼓吹となり、迎講を生み、「来迎図」などの形となってあらわれたのである。源信において阿弥陀仏の第
36. 往生要集 1 日本浄土教の夜明け 377ページ
東洋文庫
絵画では、いわゆる「来迎図」、「地獄変相図」などを注意されるが、もちろん来迎思想は源信にはじまるものではない。すでに『無量寿経』や『観無量寿経』にみえ、シナでも
37. 往生要集 1 日本浄土教の夜明け 378ページ
東洋文庫
後にはいろいろのものが描かれている。 このほか「九品弥陀来迎図」、「阿弥陀三尊来迎図」、「阿弥陀一尊来迎図」などがある。このうち「九品弥陀来迎図」は九品一つ一つ
38. 往生要集 1 日本浄土教の夜明け 379ページ
東洋文庫
朱色の描線で仏がえがかれ、朱の裳、緑の光背といった配色がうかがわれて、美しい。 「阿弥陀三尊来迎図」には法華寺のものが注目される。上品下生印を手に結んだ仏が右よ
39. おおくぼむら【大窪村】宮城県:桃生郡/矢本町
日本歴史地名大系
ほかに地蔵堂・薬師堂がある。隆泉寺(現廃寺)は長江氏の菩提寺とされ、僧坊跡に弘安三年(一二八〇)銘の阿弥陀三尊来迎図板碑や延元二年(一三三七)銘の板碑がある。中
40. おおくらでら【大蔵寺】奈良県:宇陀郡/大宇陀町/栗野村
日本歴史地名大系
後期)・木造地蔵菩薩坐像(嘉禎三年銘)・絹本著色聖徳太子絵伝(室町時代)・絹本著色阿弥陀聖衆来迎図は県指定文化財。そのほか明応三年(一四九四)の鰐口、保延六年(
41. おおやべまがいぶつ【大矢部磨崖仏】神奈川県:横須賀市/大矢部村地図
日本歴史地名大系
左側二尊は随求菩薩と地蔵菩薩を描いたと考えられている。B面は像高五〇センチ前後の阿弥陀三尊の早来迎図を描く。勢至像は剥落してほとんどみえない。如来は立像形で踏分
42. おりいむら【下り居村】奈良県:桜井市/安倍・多武峯地区
日本歴史地名大系
十六日死 於十市郡下居」とある。集落中央の西福寺の本尊は阿弥陀如来。地蔵菩薩画像・阿弥陀三尊来迎図・尊勝曼荼羅画像・藤原鎌足画などを蔵する。
43. かいづかむら【貝塚村】千葉県:香取郡/小見川町地図
日本歴史地名大系
され、高弁を開山としたという。源頼朝が鹿島社参宮の折休憩したと伝える(小見川町史)。弥陀三尊来迎図像を陰刻した嘉元四年(一三〇六)銘などの常総系板碑が残る。
44. かくりんじ【鶴林寺】
国史大辞典
組物は簡単な三斗組で、軽快優美な姿をもち、平安時代小仏堂の特色をよく現わし、聖徳太子像・九品来迎図・涅槃図などは数少ない平安時代の壁画として貴重である。国宝(壁
45. かくりんじ【鶴林寺】兵庫県:加古川市/旧加古郡地区/刀田村
日本歴史地名大系
県指定文化財。絹本著色弥陀三尊像(高麗時代)・板絵著色聖徳太子像(太子堂壁画、天永三年、附仏涅槃図・九品来迎図)・絹本著色聖徳太子像(鎌倉期)・絹本著色慈恵大師
46. かくりんじ【鶴林寺】徳島県:勝浦郡/勝浦町/鶴敷地村
日本歴史地名大系
地蔵菩薩立像(国指定重要文化財)のほか、鎌倉末期から南北朝期にかけてと推定される絹本著色地蔵来迎図、南北朝期から室町初期にかけてと推定される絹本著色釈迦三尊像(
47. かすがじんじゃ【春日神社】奈良県:奈良市/都南地区/北椿尾村・南椿尾村
日本歴史地名大系
天文五年(一五三六)銘の不動石仏がある。当社南方の融通念仏宗地福寺所蔵の宝永七年(一七一〇)の二十五菩薩来迎図裏書には「神宮寺間淳」と記す。〈大和・紀伊寺院神社
48. かつうらむら【勝浦村】香川県:仲多度郡/琴南町
日本歴史地名大系
浄土真宗本願寺派長善寺は勝浦権右衛門の次男応教の開山と伝え、本尊は阿弥陀如来、什物の絹本著色阿弥陀三尊来迎図は鎌倉時代の作とされる。茅葺の本堂は宝暦六年(一七五
49. 鎌倉時代美術画像
世界大百科事典
や知恩院《阿弥陀二十五菩薩来迎図》,聖衆来迎寺《六道絵》など,教理上の主題とは別に,背景をなす風景描写にそれが歴然と見られよう。特に〈早来迎〉と称される知恩院の
50. かみおぐむら【上尾久村】東京都:荒川区地図
日本歴史地名大系
金沢区)の地蔵寺より寺名を譲渡された(尾久の民俗)。文明一五年(一四八三)一〇月七日銘の三尊来迎図の板碑、伝狩野探幽作の屏風絵、普化宗関連の古文書などを有する。
「来迎図」の情報だけではなく、「来迎図」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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来迎図(世界大百科事典・Encyclopedia of Japan)
浄土教美術の中では最も重要な主題の一つで,その大部分は阿弥陀如来の来迎を説く阿弥陀来迎図であるが,ほかに弥勒菩薩や十一面観音などの来迎図もある。また絵画として表現されるもののほかに彫像によって表現される来迎像もある。来迎図の教理的根拠は《無量寿経》
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