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  11. 阿弥陀

阿弥陀

ジャパンナレッジで閲覧できる『阿弥陀』の世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

改訂新版 世界大百科事典
阿弥陀
あみだ

極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので,後世の中国,日本では称名念仏の根拠とされた。この仏はサンスクリット文献ではAmitābha(無量光),Amitāyus(無量寿)として現れるが,阿弥陀はおそらくこの前半部amita(無限)の方言であろう(他にも説がある)。阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(1~2世紀)に登場したらしいが,その起源に関してイラン思想の影響がいわれている。1977年7月にインドのマトゥラー博物館が入手した,足だけを残す仏の台座に,この像が阿弥陀Amitābhaであることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカHuviṣka王の28年(2世紀後半)と記されている。《無量寿経》が中国で翻訳されたのは252年であるが,それより前に安世高や支婁迦讖(しるかせん)(いずれも2世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ,クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され,また神や王の姿には光線や焰がそえられており,〈無量の光〉を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として,従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち,修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身trikāya説では報身とされる。観音,勢至を脇侍とする。
[定方 晟]

日本における阿弥陀信仰

阿弥陀信仰は中央アジアを経て,中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは4世紀後半から5世紀以後である。日本へは7世紀のはじめに伝わった。人々をひきつけたのは《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》であり,これらは阿弥陀仏とその浄土を語り,阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり,追善的性格が濃厚であった。奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ,阿弥陀仏と浄土への観想に関心が寄せられたが,往生を願う中心に死者だけでなく,自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに,その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。

 阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり,源信の《往生要集》であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが,官人,武士,農民,沙弥など各層に及び,奴婢,屠児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。〈往生伝〉はこれら信仰者の往生の証の書であるが,10世紀末から約2世紀の間に,慶滋保胤の《日本往生極楽記》以下7種類も著された。鎌倉時代になると,阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願,往生,名号などに関する教学が深まり,いわば念仏宗ともいうべき新宗派,すなわち法然の浄土宗,親鸞の浄土真宗,一遍の時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は,阿弥陀仏の〈来迎引接〉と,行者の〈極楽往生〉に特別の関心が寄せられていたこと,阿弥陀仏の〈本願〉への絶対的な帰信がみられたこと,念仏が自身の〈滅罪〉と死者への〈追善〉に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗,西山系の浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗など)の信者は,今日,全仏教徒の約5分の2を占め,阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。
[伊藤 唯真]

図像

阿弥陀如来は浄土教信仰の主尊であり,したがって浄土教美術の中心的尊像である。薬師如来像とは異なり手に持物はないが,さまざまな印相(いんそう)(手の形)で表現され,印相の違いにより与願・施無畏印,転法輪印(説法印),定印,来迎印の像の4種に大別できる。

 与願・施無畏印の像は,左手は下げて右手は掌を外に向けて上げる。転法輪印の像は,両手を胸前にあげ,左手は大指(親指)と中指をつけて掌を内に向け,右手は大指と頭指(人指し指)をつけて掌を外に向ける。これは阿弥陀如来が説法する姿を写すもので,阿弥陀浄土図,観経変相図などの画像に表される。与願・施無畏印と転法輪印は釈迦如来像にも表されており,阿弥陀特有の印相ではないが,阿弥陀には比較的古い時代から用いられたと推測される。定印の像は,腹の前で両手掌を上に向けて両手指を交差し,左右の頭指を立てて背中合せにし,その上に左右の大指を置く。《両界曼荼羅》のうち胎蔵界の無量寿如来と金剛界の阿弥陀如来に表されており,平安時代の阿弥陀堂本尊(彫像)はこの印相の像である。来迎印は,両手とも大指と頭指とを合わせたまま右手は上げ左手は下げ,掌はいずれも外に向ける。往生者を迎える姿として表現されている。

作例

西北インドのガンダーラ地方において仏教の造像活動が活発になる1~2世紀ころ,北西インドでは大乗仏教がかなり広まり,阿弥陀信仰が行われていても不思議でない状況であったとされているが,その時代に造られた阿弥陀像と断定できる完全な作例はまだ報告されていない。西域ではトゥルファン地方に大乗仏教が伝えられたが,西域の特色を示す阿弥陀像は発見されていない。注目すべきはトゥルファン東部のトユク(吐峪溝)から発見された中国唐代の大歴6年(771)の銘をもつ阿弥陀浄土図断片(絹絵)である。8世紀のトゥルファン地方では,仏教東漸の方向とは逆に唐代美術の影響が西方に及んだことをこの断片は示している。中国においてもこの頃から阿弥陀如来を表現することが盛んになった。竜門石窟では6世紀に阿弥陀像が造られているが,著名な作例としてはアメリカのボストン美術館蔵の隋の開皇13年(593)銘を持つ《青銅阿弥陀如来像》がある。また,敦煌石窟では初唐時代から阿弥陀浄土図や観経変相図が数多く描かれた。彫像は左右に観世音菩薩,勢至菩薩を脇侍にした三尊形式の像で,与願・施無畏印が多い。朝鮮においても6世紀には阿弥陀如来像が造られたと考えられている。辛卯銘《金銅三尊仏》は517年,癸酉銘《全氏阿弥陀仏三尊石像》(ソウル,国立中央博物館)は673年の造像と推定され,ともに右手は施無畏印である。左手は,前者が与願印に似るが無名指,小指を曲げ,後者は掌を上にして胸前に添える。7世紀末ころの作と推定されている慶尚北道の軍威三尊石窟本尊も脇侍の表現によって阿弥陀如来と考えられる。

 日本には7世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は7世紀末ころのものばかりだが,東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち〈山田殿像〉と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵《橘夫人厨子》の本尊は与願・施無畏印で,同寺金堂壁画(6号壁)の《阿弥陀浄土図》や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり,その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。さらに奈良の当麻(たいま)寺には観経変相図があり《当麻曼荼羅》と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は,密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが,単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると,その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は,やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿,すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。《阿弥陀聖衆来迎図》がその代表例で,さまざまな形式に表現された。特殊な例としては,説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す《山越阿弥陀図》,後方を振り返る姿の《見返り阿弥陀像》(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は,当麻寺の《当麻曼荼羅》や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は〈善光寺式阿弥陀三尊〉と呼ばれている。なお,九品阿弥陀の印相について,上品・中品・下品の各上生の印を定印とし,同じく中生印を説法印に,下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが,《仏像図彙》(江戸時代)などに見られ,現在も一般の概説書等に取り上げられているが,これらを説く儀軌はなく,しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから,この九品印は近世に考案されたものと推定され,阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。
[関口 正之]

[索引語]
極楽浄土 弥陀 無量寿経 Amitābha 無量光 Amitāyus 無量寿 フビシュカ Huviṣka 三身 trikāya 阿弥陀信仰 阿弥陀如来 印相 与願・施無畏印 転法輪印 説法印 定印 来迎印 阿弥陀堂 見返り阿弥陀像 九品阿弥陀


新版 日本架空伝承人名事典
阿弥陀
あみだ
 極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。『無量寿経』によれば、過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて、長期間の修行を果たし、現在では阿弥陀仏となり、極楽浄土の主となって、その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので、後世の中国、日本では称名念仏の根拠とされた。この仏はサンスクリット文献ではAmitābha(無量光)、Amitāyus(無量寿)として現れるが、阿弥陀はおそらくこの前半部amita(無限)の方言であろう(他にも説がある)。阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(一~二世紀)に登場したらしいが、その起源に関してイラン思想の影響がいわれている。一九七七年七月にインドのマトゥラー博物館が入手した、足だけを残す仏の台座に、この像が阿弥陀であることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカ王の二八年(二世紀後半)と記されている。『無量寿経』が中国で翻訳されたのは二五二年であるが、それより前に安世高や支婁迦讖しるかせん(いずれも二世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ、クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され、また神や王の姿には光線や焔がそえられており、「無量の光」を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として、従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち、修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身説では報身される。観音、勢至を脇侍とする。
[定方 晟]
日本における阿弥陀信仰
 阿弥陀信仰は中央アジアを経て、中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは四世紀後半から五世紀以後である。日本へは七世紀のはじめに伝わった。人びとをひきつけたのは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』であり、これらは阿弥陀仏とその浄土を語り、阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり、追善的性格が濃厚であった。奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ、阿弥陀仏と浄土への観相に関心が寄せられたが、往生を願う中心に死者だけでなく、自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに、その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。
 阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり、源信の『往生要集』であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂、迎接堂が建てられ、聖衆来迎図が描かれ、迎講、往生講、阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが、官人、武士、農民、沙弥など各層に及び、奴婢、屠児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。「往生伝」はこれら信仰者の往生の証の書であるが、一〇世紀末から約二世紀の間に、慶滋保胤の『日本往生極楽記』以下七種類も著された。鎌倉時代になると、阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願、往生、名号などに関する教学が深まり、いわば念仏宗ともいうべき新宗派、すなわち法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は、阿弥陀仏の「来迎引接」と、行者の「極楽往生」に特別の関心が寄せられていたこと、阿弥陀仏の「本願」への絶対的な帰信がみられたこと、念仏が自身の「滅罪」と死者への「追善」に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗、西山系の浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗など)の信者は、今日、全仏教徒の約五分の二を占め、阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。
[伊藤 唯真]
図像
 阿弥陀如来は浄土教信仰の主尊であり、したがって浄土教美術の中心的尊像である。薬師如来像とは異なり手に持物はないが、さまざまな印相いんそう(手の形)で表現されており、印相の違いによって与願・施無畏印、転法輪印(説法印)、定印、来迎印の像の四種に大別できる。
 与願・施無畏印の像は、左手は下げて右手は掌を外に向けて上げる。転法輪印の像は、両手を胸前にあげ、左手は大指(親指)と中指をつけて掌を内に向け、右手は大指と頭指(人指し指)をつけて掌を外に向ける。これは阿弥陀如来が説法する姿を写すもので、阿弥陀浄土図、観経変相図などの画像に表される。与願・施無畏印と転法輪印は釈迦如来像にも表されており、阿弥陀特有の印相ではないが、阿弥陀には比較的古い時代から用いられたと推測される。定印の像は、腹の前で両手掌を上に向けて両手指を交差し、左右の頭指を立てて背中合せにし、その上に左右の大指を置く。『両界曼荼羅』のうち胎蔵界の無量寿如来と金剛界の阿弥陀如来に表されており、平安時代の阿弥陀堂本尊(彫像)はこの印相の像である。来迎印は、両手とも大指と頭指とを合わせたまま右手は上げ左手は下げ、掌はいずれも外に向ける。往生者を迎える姿として表現されている。
 日本には七世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は七世紀末ころのものばかりだが、東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち「山田殿像」と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵『橘夫人厨子』の本尊は与願・施無畏印で、同寺金堂壁画(六号壁)の『阿弥陀浄土図』や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり、その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。さらに奈良の当麻たいま寺には観経変相図があり『当麻曼荼羅』と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は、密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが、単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると、その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は、やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿、すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。『阿弥陀聖衆来迎図』がその代表例で、さまざまな形式に表現された。特殊な例としては、説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す『山越阿弥陀図』、後方を振り返る姿の『見返り阿弥陀像』(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は、当麻寺の『当麻曼荼羅』や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は「善光寺式阿弥陀三尊」と呼ばれている。なお、九品阿弥陀の印相について、上品・中品・下品の各上生の印を定印とし、同じく中生印を説法印に、下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが、『仏像図彙』(江戸時代)などに見られ、現在も一般の概説書等に取り上げられているが、これらを説く儀軌はなく、しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから、この九品印は近世に考案されたものと推定され、阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。
[関口 正之]
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1. 阿弥陀
世界大百科事典
Huviṣka 三身 trikāya 阿弥陀信仰 阿弥陀如来 印相 与願・施無畏印 転法輪印 説法印 定印 来迎印 阿弥陀堂 見返り阿弥陀像 九品阿弥陀
2. あみだ【阿彌陀】画像
日本国語大辞典
すべって、やけに阿彌陀となる」(2)「あみだがさ(阿彌陀笠)」の略。(3)「あみだくじ(阿彌陀籖)」の略。*歌舞伎・百千鳥鳴門白浪〔1797〕四段「『サア、阿彌
3. あみだ【阿弥陀】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
阿弥陀(あみだ)の光(ひかり)・阿弥陀(あみだ)の光(ひかり)も=金程(かねほど)〔=銭次第(ぜにしだい)〕・阿弥陀(あみだ)も=銭程(ぜにほど)光(ひか)る〔
4. あみだ【阿弥陀】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕 ❶《仏教語。梵語の音写。無量光・無量寿などと訳す》仏の名。西方極楽浄土の主である如来。すべての人々を救うため四十八の願を立てた。日本では平安中期以後こ
5. あみだ【阿弥陀】
数え方の辞典
▲尊、▲体 「尊」は仏を数える語で、「体」は仏像を数える語です。
6. 阿彌陀(あみだ)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 77ページ
7. あみだ【阿弥陀】
日本架空伝承人名事典
ひきつけたのは『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』であり、これらは阿弥陀仏とその浄土を語り、阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている
8. あみだ【阿弥陀】
仏教語大辞典
ある。 観心略要集 「於阿弥陀三字、可観空仮中三諦」 覚禅鈔 阿弥陀・上 「法相義云、以阿弥陀三字配遍計・依他・円成三性、即是三身也」 御文章 二・一五 「され
9. おみと【阿弥陀】
仏教語大辞典
阿弥陀の唐音。 塩尻 三五 「阿弥陀〈アミダ漢音。アフミタ呉音。オミト唐音〉」
10. 【阿弥(彌)陀】あみだ
新選漢和辞典Web版
《仏教》西方浄土の仏。如来。
11. 阿弥陀(著作ID:1935735)
新日本古典籍データベース
あみだ 真言 
12. あみだ【阿弥陀】[方言]
日本方言大辞典
(1)(阿弥陀如来の光背に似ているところから)真桑瓜まくわうりを輪切りにした時の中心部。 高知県長岡郡869明治大正時代国府村民俗語彙(高村晴義)1961(2)
13. Amida 【阿弥陀】
Encyclopedia of Japan
A Buddha of cardinal importance in the Mahayana tradition who presides over the
14. 以阿彌陀人名 (見出し語:阿彌陀)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 653ページ
15. 六阿彌陀詣 (見出し語:阿彌陀)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 318ページ
16. 善光寺阿彌陀 (見出し語:阿彌陀)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 692ページ
17. 毛越寺阿彌陀 (見出し語:阿彌陀)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 778ページ
18. 證據阿彌陀 (見出し語:阿彌陀)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 729ページ
19. 阿彌陀三尊 (見出し語:阿彌陀)
古事類苑
帝王部 洋巻 第1巻 1173ページ
20. あみだ‐いけ【阿彌陀池】
日本国語大辞典
大阪堀江の、善光寺の本尊が捨ててあった池。池畔に常念仏堂があった。西区北堀江の和光寺境内にある。*雑俳・青木賊〔1784〕「斯ふ仕て見い・あのこちらのがあみだ池
21. あみだいん【阿弥陀院】茨城県:那珂郡/緒川村/国長村
日本歴史地名大系
北を国長川が流れ、南西には道を隔てて伊勢神明社がある。五仏山西蓮寺と号し、真言宗豊山派。本尊は阿弥陀如来、脇仏勢至菩薩・観音菩薩。寺伝によると弘法大師が奥州へ巡
22. あみだいんあと【阿弥陀院跡】茨城県:久慈郡/水府村/中染村
日本歴史地名大系
鼓山如意輪寺持宝院跡があり、近くの同宗阿弥陀院跡地に阿弥陀堂がある。両院とも元治元年(一八六四)の水戸藩党争の折に焼失したが、阿弥陀院の本尊鉄仏の阿弥陀如来立像
23. あみだいんあと【阿弥陀院跡】茨城県:笠間市/箱田村
日本歴史地名大系
[現]笠間市箱田 箱田の東端にある。当寺はもと真言宗の醍醐光台院の末寺で金亀山阿弥陀院無量寿寺と号した。建永元年(一二〇六)弁海の開山。弁海は笠間時朝の家臣入江
24. あみだ‐うお[‥うを]【阿彌陀魚】
日本国語大辞典
阿彌陀が化したという伝説上の大魚。天竺(てんじく)の執師子国に現われ、その住民を仏道に入れたという(三宝感応要略録)。*百座法談〔1110〕三月九日「しまのうち
25. あみだかいどうしゅく【阿弥陀海道宿】山梨県:大月市/吉久保村
日本歴史地名大系
た。宿名は「甲斐国志」によると、宿の南側に行基菩薩の作と伝える弥陀像を安置する阿弥陀堂があったので、当地を阿弥陀ヶ谷とよんだことに由来するという。宿村大概帳によ
26. あみだ‐かぶり【阿彌陀被・阿彌陀冠】
日本国語大辞典
〔名〕阿彌陀の後光のように、笠や帽子などを、後頭部の方を引きさげてかぶること。あみだ。*狂文・四方のあか〔1787か〕上・なつくさ「うらちかく水くむうばのたけの
27. あみだ‐がき【阿彌陀─】
日本国語大辞典
〔名〕植物「しゃじくそう(車軸草)」の異名。
28. あみだ‐がさ【阿彌陀笠】
日本国語大辞典
あおむけかげんにして笠の内側の骨が阿彌陀の光背にみえるようにかぶること。また、そのようにかぶった笠。あみだ。*俳諧・犬子集〔1633〕五・月「西へ行月のきるをや
29. あみだ-がさ【阿弥陀笠】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕笠を、内側が見えるように後ろに傾けてかぶること。阿弥陀像の光背に似ているのでいう。
30. 阿彌陀笠(あみだがさ)
古事類苑
器用部 洋巻 第2巻 423ページ
31. あみだ‐がさ【阿弥陀笠】
仏教語大辞典
笠をあおむけかげんにして笠の内側の骨が阿弥陀の光背にみえるようにかぶること。また、そのようにかぶった笠。 嬉遊笑覧 二 「あみだ笠は笠の名にはあらず、笠を仰いで
32. あみだがたき【阿弥陀ヶ滝】岐阜県:郡上郡/白鳥町/前谷村
日本歴史地名大系
鏡」宝幢坊文書)。滝の左方にあった岩窟において長滝寺道雅法印が護摩を焚いた時、阿弥陀如来像が滝に映ったので阿弥陀ヶ滝と名付けられたという(新撰美濃志)。柳田国男
33. あみだがばらこふんぐん【阿弥陀原古墳群】岡山県:総社市/奥坂村
日本歴史地名大系
[現]総社市奥坂 鬼城山の東南山裾を通り、阿弥陀原から北に至る山道の両脇に、約二〇メートルを隔てつつ六基の横穴式石室が開口していた。これらは一括して阿弥陀原古墳
34. あみだ‐が‐みね【阿彌陀峰】
日本国語大辞典
東山三十六峰の一つ。山腹と山すそに阿彌陀堂があったところからいう。山頂に豊臣秀吉の墓がある。標高一九六メートル。豊国山。鳥辺山。*太平記〔14C後〕一七・山門牒
35. 阿彌陀峯(あみだがみね)
古事類苑
神祇部 洋巻 第3巻 1654ページ
36. あみだがみね【阿弥陀ヶ峰】京都市:東山区/新熊野村地図
日本歴史地名大系
建て、毎夜、四十八灯を点じて大念仏を修したので阿弥陀ヶ峰と称したという異説を載せるが、阿弥陀ヶ峰の名称は、すでに「枕草子」に「峰は、(中略)阿弥陀の峰」とみえ、
37. あみだがわ【阿弥陀川】青森県:東津軽郡/蓬田村/阿弥陀川村
日本歴史地名大系
旧名は江利前川。江利前山(阿弥陀岳)を水源として東流し、陸奥湾に注ぐ、長さ約一五キロ。天明八年(一七八八)の菅江真澄の「外が浜つたひ」に「中沢、長科をへて阿弥陀
38. あみだがわ【阿弥陀川】鳥取県:西伯郡/大山町
日本歴史地名大系
いあげられた阿弥陀仏を大山に安置、これが今の阿弥陀堂であるとし、この故事により阿弥陀川と称するようになったが、俗に誤ってあんだ川というようになったと記す。また川
39. あみだがわむら【阿弥陀川村】青森県:東津軽郡/蓬田村
日本歴史地名大系
[現]蓬田村阿弥陀阿弥陀川流域一帯にあり、東は陸奥湾に臨み、南は長科村、西は大倉岳で金木村(現北津軽郡金木町)、北は蓬田村に接する。伝説では古くからあった村
40. あみだ-きゃう【阿弥陀経】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕仏教の教典名。浄土三部経の一つで、極楽浄土に往生するために、阿弥陀の名号を唱えることを勧めている。
41. 阿弥陀経
日本大百科全書
玄奘訳はかなり増広されている。 本経の内容は、阿弥陀仏(あみだぶつ)の浄土である西方極楽世界の優れた光景(荘厳)を描写し、この浄土に往生するために阿弥陀仏の名号
42. 阿弥陀経
世界大百科事典
漢訳は,鳩摩羅什(クマーラジーバ)訳《阿弥陀経》(402ころ),玄奘訳《称讃浄土仏摂受経》(650)各1巻のうち,簡潔で流麗な前者が多く用いられる。内容は,まず
43. あみだ‐きょう[‥キャウ]【阿彌陀経】
日本国語大辞典
の鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。阿彌陀の極楽浄土のすがたをたたえ、この仏の名を称えて、その浄土に往生することを勧めた経典。浄土宗、真宗で用いる。小無量寿経。小阿彌
44. あみだきょう【阿弥陀経】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
阿弥陀経(あみだきょう)読(よ)むのと滑(すべ)り道(みち)は早(はや)いがよい
45. あみだきょう【阿弥陀経】
国史大辞典
ょう)に『阿弥陀経義疏』の著がある。わが国へも奈良時代にはすでに伝来し、『正倉院文書』神亀四年(七二七)の「写経料紙帳」に『阿弥陀経』、天平十年(七三八)の「経
46. あみだ‐きょう【阿弥陀経】
仏教語大辞典
姚秦(四世紀初)の鳩摩羅什訳。阿弥陀の極楽浄土のすがたをたたえ、この仏の名を称えて、その浄土に往生することを勧めた経典。 あみだ‐きょう 阿弥陀経 の持者 『阿
47. あみだきょう の 持者(じしゃ)
日本国語大辞典
阿彌陀経を常に読誦(どくじゅ)する者。*古今著聞集〔1254〕二〇・七〇一「先生(せんじゃう)阿彌陀経の持者の畜生道に入りにけるにや。あはれなる事也」
48. 阿弥陀経の持者
仏教語大辞典
阿弥陀経』を常に読誦する者。 古今著聞集 二〇・七〇一 「先生阿弥陀経の持者の畜生道に入りにけるにや。あはれなる事也」
49. 阿弥陀経(あみだきょう)読(よ)むのと滑(すべ)り道(みち)は早(はや)いがよい
故事俗信ことわざ大辞典
「滑り道とお経は早いほうがよい」に同じ。〔日本俚諺大全(1906~08)〕
50. あみだくじ
日本大百科全書
あるいはお使い役を書いておき、その上に硬貨をのせて隠すか、円形に切り抜いて、各人に線を引かせる。その形状が阿弥陀仏(あみだぶつ)の後光に似ているところからこの名
「阿弥陀」の情報だけではなく、「阿弥陀」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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