1. ぶんちょうめい【文徴明】(Wén Zhēngmíng)
世界人名大辞典
徴仲 号:衡山 諡:貞献〔1470[成化6]~1559[嘉靖38]〕 中国明の書家.長洲(現,江蘇蘇州)の人.詩文書画篆刻を能くし,沈周(しん
2. 文徴明画像
日本大百科全書
中国、明(みん)代中期の文人、書画家。初名は璧(へき)、徴明は字(あざな)。のち字をもって行われ、さらに徴仲(ちょうちゅう)と字を改めた。号は衡山(こうざん)。
3. 文徴明
世界大百科事典
徴仲と改めた。号は衡山,停雲生など。父の文林は成化8年(1472)の進士で温州知府に終わった。文徴明は詩文を呉寛に,書を李応禎に,画を沈周(しんしゆう)に学んで
4. ぶん‐ちょうめい【文徴明】
日本国語大辞典
中国明の文人・書画家。号は衡山。沈(しん)周をついで呉派の南宗画風を確立し、唐寅(とういん)・祝允明(しゅくいんめい)と並称される。著「甫田集」。(一四七〇~一
5. 文徴明 【ぶん・ちょうめい/ウェン・ヂョンミン】
世界文学大事典
輩出し,いずれも文徴明の様式を祖述した。画家としての文徴明の名声はその90という長寿と周辺の彼よりも高度の画技をもつ一族の画家たち,たとえば文伯仁らによって支え
6. 文徴明『楼居図』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
明みん代(1543年) 作品部95.3×45.7cmメトロポリタン美術館所蔵
7. おうちとう【王穉登】(Wáng Zhìdēng)
世界人名大辞典
まった.詩は当時在野の第一人者であり,書は篆隷楷草の各体に巧みで,文徴明の弟子周天球と対抗して互いに譲ることがなかった.文徴明没後は後継者として30年余にわたり
8. おうちょう【王寵】(Wáng Chǒng)
世界人名大辞典
年あって両親に会う以外は城市に入ることなく,晩年は虞山の白雀寺に住んだ.幼少期より同郷の先輩文徴明と深く交遊し,また彼について学んで愛重された.江南第一の風流才
9. おうふつ【王紱】(Wáng Fú)
世界人名大辞典
初を代表する呉派系山水画家の一人.倪瓚(げいさん)など元末四大家に学び,沈周(しんしゅう)・文徴明に先立って江南系山水画の技法を消化した独自の画風を確立した.文
10. かりょうしゅん【何良俊】(Hé Liángjùn)
世界人名大辞典
倭寇の猖獗に遭遇し晩年まで帰郷できず,南京,蘇州に寄寓した.この間,豊かな学識と文才によって文徴明をはじめとする著名な文人や高官の知遇を得て見聞を広め,筆記小説
11. きゅうえい【仇英】(Qiú Yīng)
世界人名大辞典
り,とりわけ呉派の中心人物である文徴明とは,仇英作画の〈蓮社図, 1520〉(伝称作品は南京博物院・台北故宮博物院などに所蔵)に文徴明が画記を著したり,文徴明が
12. こうせいぼ【項聖謨】(Xiàng Shèngmó)
世界人名大辞典
中国明末清初の画家.秀水(現,浙江嘉興)の人.書画収蔵家として著名な項元汴(こうげんべん)の孫.画は同時代の文徴明や宋元の古画を学び,墨気の強い輪郭線を特徴とす
13. ごかん【呉寛】(Wú Kuān)
世界人名大辞典
諡:文定〔1435[宣徳10]~1504[弘治17]〕 中国明代の官僚,文人,書家.長洲(現,江蘇蘇州)の人.文徴明の文学の師.会試,廷試ともに第一で進士に及第
14. しゃじしん【謝時臣】(Xiè Shíchén)
世界人名大辞典
生業としたといい,文人でありながら職業的な絵画も描いた人物と考えられ,沈仕(しんし),周臣,文徴明(ぶんちょうめい)などとも交遊した.沈周(しんしゅう)の粗筆を
15. しゅうしん【周臣】(Zhōu Chén)
世界人名大辞典
躍期は天順4年[1460]から嘉靖14年[1535]までと推測され,謝時臣,沈仕(しんし),文徴明ら文人との交流があった.画はまず同郷の画家陳暹(1405~96
16. しゅうてんきゅう【周天球】(Zhōu Tiānqiú)
世界人名大辞典
正徳9]~95[万暦23]〕 中国明の書家.太倉(現,江蘇太倉)の人.父に従って蘇州に移り,文徴明に学ぶ.書を能くして,各体にすぐれ,徴明をしてわが筆法を会得す
17. しゅくいんめい【祝允明】(Zhù Yǔnmíng)
世界人名大辞典
後,しばらくして退官し,故郷の蘇州に懐星堂を構えたが,時を経ずして没した.交遊のあった文人,文徴明・唐寅・徐禎卿とともに〈呉中の四才子〉と称された.このうち「江
18. しんしゅう【沈周】(Shěn Zhōu)
世界人名大辞典
寛ほか,文徴明の父文林,祝允明の妻の父李応禎(1431~93)など,多数の著名な文人が親しく集った.家学を受けて詩文書画のいずれにもすぐれたが,とりわけ画は明代
19. じょい【徐渭】(Xú Wèi)
世界人名大辞典
ものを持ち,多方面にすぐれた.自らについて「書は第一,詩は二,文は三,画は四」と評し,書画は文徴明,董其昌に比肩され,詩文・戯曲も当時の名家に並ぶ.特に草書は筆
20. せんと【銭杜】(Qián Dù)
世界人名大辞典
04~?)の第7子.挙人[1800:嘉慶5].官は主事,旅を好み,自適の生涯を送った.山水は文徴明を,花卉は惲寿平(うんじゅへい)を学んだ.繊細な線描と奇抜な造
21.
ちょういこう【趙

光】(Zhào Yíguāng)
世界人名大辞典
能くして草篆を創作した.門人の楚之才が編纂した《寒山帚談》は,帖学派の先駆的書論とされる.妻は文徴明の高弟陸師道(1512?~80?)の娘,子の趙均の妻は文嘉の
22. ちょうぎん【張崟】(Zhāng Yín)
世界人名大辞典
の人.貢生.家蔵の古画に学び,潘恭寿(1741~94)に師事.山水は明の沈周(しんしゅう)と文徴明に倣い,独特な大気の表現と緻密な景物描写が特徴.松を画くことに
23. ちょうひつ【張弼】(Zhāng Bì)
世界人名大辞典
ほしいままにした.《明史》には,張弼の草書は怪偉奔放で,時代を震撼させたとあるが,やがて祝允明,文徴明ら蘇州文人の台頭によりその名声は薄れていった.張弼の「詩は
24. ちんじゅん【陳淳】(Chén Chún)
世界人名大辞典
号:白陽山人〔1483[成化19]~1544[嘉靖23]〕 中国明代の文人.長洲(現,江蘇蘇州)の人.父が文徴明と同郷で交友が深かった縁から幼くしてその門に入り
25. とういん【唐寅】(Táng Yín)
世界人名大辞典
売ることで生計を立てた.祝允明(しゅくいんめい),文徴明,徐禎卿(じょていけい)とともに呉中の四才子とされ,特にその絵は沈周(しんしゅう),文徴明,仇英(きゅう
26. ぶんか【文嘉】(Wén Jiā)
世界人名大辞典
号:文水〔1501[弘治14]~83[万暦11]〕 中国明代の文人.長洲(現,江蘇蘇州)の人.文徴明の次子,文彭の弟.諸生となって烏程訓導を務め,のち和州学正に
27. ぶんしんこう【文震亨】(Wén Zhènhēng)
世界人名大辞典
字:啓美〔1585[万暦13]~1645[順治2]〕 中国明末の書家,画家.長洲(現,江蘇蘇州)の人.文徴明の曽孫,文彭(ぶんぽう)の孫,恩貢により貢生となり[
28. ぶんはくじん【文伯仁】(Wén Bórén)
世界人名大辞典
75[万暦3]?〕 中国明代後期の画家.「ぶんぱくじん」ともよむ.長洲(現,江蘇蘇州)の人.文徴明の甥.県の学生だったが,官途にはつかなかった.山水画は王蒙①の
29. ぶんぽう【文彭】(Wén Péng)
世界人名大辞典
号:三橋〔1497[弘治10]~1573[万暦1]〕 中国明の書家,印人.長洲(現,江蘇蘇州)の人.文徴明の長子,文嘉の兄.科挙には及第しなかったが,のちに南京
30. ようじゅ【姚綬】(Yáo Shòu)
世界人名大辞典
受け継ぐ.山水画は趙孟頫(ちょうもうふ),呉鎮,王蒙①の画風を学び,沈周(しんしゅう)や文徴明にも通じる平明で穏やかな作品を描いた.明代中期の文人画風を支え,董
31. りくち【陸治】(Lù Zhì)
世界人名大辞典
栽培し自適の生活を送った(王世貞《陸叔平先生伝》).文徴明,祝允明,王世貞らと交流があり,明代中期の呉派文人サークルにおける主要人物の一人である.山水画を文徴明
32. 印章画像
日本大百科全書
る石材を発見してから、多くの文人たちがこれを手がけるようになり、明(みん)朝になると、有名な文徴明の子の文彭(ぶんほう)(1498―1573)のように、篆刻の大
33. おうかんちょう【往還町】愛知県:名古屋市/東区
日本歴史地名大系
天明五年(一七八五)の大火以後は一般の武家屋敷となったという。篆刻家六竹主人(斎斐こと斎藤五郎左衛門)、文徴明の書法を学んだ本田山雪などが町に住んでいた(張城人
34. 王船山詩文集 修羅の夢 230ページ
東洋文庫
高椋に酬答、李東陽に感春、陳献章に晩酌、祝允明に悲秋、唐寅に落花、李夢陽に懐古、何景明に遊歴、文徴明に斎宿、鄭善夫に送客、楊慎に塞垣、李墓龍に登眺、王世貞に投贈
35. おおはたむら【大畑村】青森県:下北郡/大畑町
日本歴史地名大系
大畑登せ材木江戸支配人佐井能登屋より森川六郎兵衛、武川より筑前屋伝七等の人々、帰郷の将来には文徴明の書、広沢の書、里恭の書、無名氏廿六夜弦月の男筆力最も凡ならず
36. おんこう【飲光】
国史大辞典
道説を説き、伝授した。その書は、その高い人格をよく示すものとして、尊ばれている(その書風は、文徴明・祝枝山らの明人の書に淵源すると、神田喜一郎は説いている)。『
37. 嘉靖帝
世界大百科事典
社会不安は増大し,士風も頽廃したが,文化的には,文学に李攀竜(りはんりゆう)・王世貞,書画に文徴明や董其昌らがあらわれ,一種の黄金時代であった。また,この時代か
38. 唐様画像
世界大百科事典
ものがあった。書道では江戸時代に中国の書を学んだ一派の書風を唐様という。北島雪山は明代の文人文徴明の書風を学び,細井広沢に伝えた。広沢が普及につとめた唐様は,江
39. 韓天寿
日本大百科全書
も)といい、自ら韓国余璋王の子孫と称して韓氏を名のった。江戸に出て、まず松下烏石(うせき)に文徴明(ぶんちょうめい)の書法を、ついで沢田東江(とうこう)の指導を
40. かんてんじゅ【韓天寿】
国史大辞典
号は大年・酔晋斎。韓はその祖、馬韓余璋王によるという。若くして池大雅・高芙蓉と識り、書は松下烏石に文徴明の書法を習ったと伝え、細井広沢門人ともいう。儒学は伊勢の
41. かん-てんじゅ【韓天寿】
日本人名大辞典
江戸時代中期の書家,篆刻(てんこく)家。享保(きょうほう)12年生まれ。松下烏石(うせき)に文徴明の書風をまなび,沢田東江のすすめで王羲之(ぎし),王献之を研究
42. 北島雪山
日本大百科全書
のち室町浮世小路の寓居(ぐうきょ)に移った。雪山の書は元(げん)の趙子昂(ちょうすごう)や明(みん)の文徴明(ぶんちょうめい)の筆法を根幹としており、細井広沢(
43. 北島雪山
世界大百科事典
に赴き,陽明学を修め,来朝の黄檗僧独立,即非に書法を学び,さらに兪立徳(ゆりつとく)から明の文徴明の筆法を授けられた。その後,熊本侯に儒臣として仕えたが,やがて
44. きたじま‐せつざん【北島雪山】
日本国語大辞典
江戸中期の書家。通称、三立。別号、花隠、蘭隠。肥後国熊本の人。長崎で、明の兪立徳から文徴明の書法を学び、また黄檗(おうばく)宗の禅僧即非や独立(どくりゅう)につ
45. きたじませつざん【北島雪山】
国史大辞典
の陽明学御改に遇い、藩を辞して長崎に移住した。明の遺民兪立徳、黄檗僧雪機・即非・独立と交友し文徴明・趙子昂を正脈とする中国の書を学び、その書風は法を得て法に捉わ
46. きたじま-せつざん【北島雪山】
日本人名大辞典
肥後熊本藩の儒者をつとめたが,辞任して長崎に移住。兪立徳(ゆ-りっとく)や即非如一らとまじわり,文徴明,趙子昂(ちょう-すごう)の書風をまなぶ。江戸にでて名をあ
47. 仇英
日本大百科全書
宋(そう)の李公麟(りこうりん)以来の線描様式を集成した画風で、鮮麗な濃彩と写実的で細密な描写に特色がある。文徴明をはじめ当時の文人たちとも交わり、画(え)も彼
48. 仇英
世界大百科事典
人。山水,人物,花鳥に長じ,沈周(しんしゆう),文徴明,唐寅(とういん)とともに明四大家と称される。四大家のうち唯一の職業画家であるが,文徴明らとの交流によって
49. 琴棊書画 124ページ
東洋文庫
る楊慎に傾倒して六朝初唐の詩風に出入し、当時一般の風潮に逆つた詩人である。図を画いた文伯仁は文徴明の従子で、山水画家として知られている。何良俊はまさに命脈を絶た
50. 琴棊書画 129ページ
東洋文庫
服で、虹橋を渡り画堤を歩いて来たので、先ず枕姻亭に案内した。亭には他物無く、看客の外に机上に文徴明の「蘭亭修襖図記」が一巻置かれてあるのみである。やがて舟に登り