が華厳宗の章疏類を伝えた。同十二年二月に聖武天皇・光明皇后は河内国智識寺にて盧舎那仏像を拝し、同年金鐘山寺の良弁はかつて新羅に留学した大安寺審詳を講師とし、慈訓・鏡忍らを複師にむかえて、『華厳経』(旧訳)の講経を行い、三ヵ年で終講し、以後は後年華厳講師ともいわれた慈訓らが講師となり続行された。いわゆる「知識華厳別供」と称せられたもので、日本の華厳宗では審詳を始祖、良弁を檀主としている。盧舎那大仏の造立は華厳隆昌をもたらし、天平勝宝元年(七四九)閏五月には産金の瑞祥による官大寺への施物の詔に「以
華厳経
為
本」とあり、諸大寺での該経転読が指示され、六宗の一つとしてこのころ華厳宗が成立した。華厳教主盧舎那大仏を本尊とした東大寺、華厳院をもった大安寺では以後華厳宗が盛んであったが、平安時代には法相・三論あるいは真言・天台宗に圧倒されて宗勢は衰退したが、天長七年(八三〇)には六本宗書の一つである『華厳一乗開心論』を著述して淳和天皇の請に応じた普機が出で、仁寿元年(八五一)六月に没した道雄は、もと空海の高弟の一人であったが、長歳に華厳を学び、山城国乙訓郡に海印寺を創建した。天暦元年(九四七)に至って光智は東大寺内に尊勝院を創建して御願寺となり、華厳宗の本所として華厳の学僧の育成につとめ、華厳宗の復興を計った。光智の門流には二流が生まれ、一つは尊勝院を中心とする東大寺華厳(本寺華厳)、もう一つは洛西の栂尾高山寺華厳である。鎌倉時代の東大寺復興期には、尊勝院の再建と教学復興にあたった弁暁や、宗性・凝然がおり、中でも凝然は『探玄記洞幽鈔』『五教章通路記』をはじめ、『三国仏法伝通縁起』などを著作して、華厳宗の興隆につとめた。その高足のうち禅爾・湛睿は和泉国久米田寺・鎌倉称名寺においてそれぞれ華厳宗の宣揚につとめた。室町時代には入明して、明の太宗に『華厳経』を説き、普一国師の号をおくられた志玉が輩出している。高山寺系では平安時代末から鎌倉時代に及んで、良覚・景雅が出で、景雅の門に明恵(高弁)が輩出した。建久の初め尊勝院聖詮にも華厳を学び、神護寺の別院を再興して高山寺とし、『華厳唯心義』などを著わすとともに華厳興隆の寺とした。室町時代中期以降両流とも振るわず、江戸時代に至って鳳潭(僧濬)が華厳宗の復興を計り、宝永年間(一七〇四―一一)に江戸の大聖寺で華厳を講じ、享保八年(一七二三)に山城国松尾に華厳寺を建て、『華厳五教章匡真鈔』『起信論義記幻虎録』など多くの章疏を述作し、華厳宗の宣揚につとめた。廃仏毀釈と廃藩置県により東大寺は明治五年(一八七二)九月に浄土宗知恩院派の所轄に入り、同十九年六月に独立して華厳宗本山となり、東大寺住職(別当)が華厳宗管長を兼ねるに至った。《華厳経》を所依とする仏教の一派。
中国では5世紀の初めに,覚賢が訳出した60巻本《華厳経》を読誦し,供養することによって,霊験を求める民俗信仰にはじまる。南北朝より隋・唐にかけて,終南山至相寺を中心に,初祖杜順,2祖智儼,3祖法蔵の伝統を確立し,五教十宗の教学体系と,独自の実践,結社の組織化を完成する。天台の実相論に対し,〈一即一切,一切即一〉の縁起を説き,〈縁来れば生ず,縁去れば滅す〉という従来の縁起に対し,〈縁来るも生ぜず,縁去るも滅せず〉という絶対実在の性起を主張する。とくに唐代以後,実叉難陀の80巻本《華厳経》と,般若の〈入法界品〉を合わせて,教義の深化を見ると共に,4祖澄観,5祖宗密が,天台・戒律・禅の思想を総合し,のちに宋学に影響するほか,古くより朝鮮,日本に伝わって,それぞれの民族文化の開花を導いた。
中国における華厳隆昌の動向は,新羅や日本にも多大の影響を与えた。法蔵の兄弟子に当たる新羅の義湘は,帰国すると慶尚北道大伯山に浮石寺を建て,あるいは元暁などと全羅南道の華厳寺で,当宗の布教や著述に専念した。両者は新羅華厳の基をひらいた学僧として著名である。11世紀中期には高麗の皇子義天も宋より帰国し,華厳・天台などの興隆につとめた。
日本では華厳宗は八宗および南都六宗の一つである。新羅華厳の隆昌は日本にも影響を与え,入新羅留学僧などにより,旧訳の60巻本の《華厳経》が伝えられ,新訳の80巻本は,道慈(大安寺)により請来されたし,736年(天平8)の遣唐船で来日した唐僧道璿(どうせん)によりもたらされた。教理の研究は740年に金鐘寺(東大寺の前身)において良弁が新羅で華厳を学んだ大安寺の審祥を講師とし,慈訓,鏡忍を複師として開始し,大仏造顕の教理の基を開いた。749年(天平勝宝1)には15大寺に対して〈華厳を以て本と為す〉の勅旨が示され,752年4月には大仏開眼供養会が行われた。奈良時代には東大寺,大安寺,薬師寺,西大寺などに華厳専攻の学僧が止住し研究に当たったが,政治社会の動向で衰退していった。819年(弘仁10)に道雄は山城国に海印寺を建て,955年(天暦9)に光智は東大寺に尊勝院を創建し,華厳宗の本所とし,宗の復興宣布に務めた。12世紀末には景雅,弁暁が出て,弁暁は当院の再興を図るとともに,その門下より明恵,さらに宗性,凝然などの学僧が輩出した。しかし以後宗風は振るわず,江戸時代中期に鳳潭や普寂が復興を図った。明治維新に際し,東大寺は1873年に浄土宗に属し,1886年に華厳宗大本山として独立,現在に至っている。
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