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世界大百科事典

改訂新版 世界大百科事典
徽宗
きそう
Huī zōng
1082-1135

中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策),旧(保守政策)を折衷した政治を行ったが,太后が没して親政すると,父神宗の断行した新法を採用した。しかし,政治には熱心でなく,蔡京(さいけい)を信任してまかせきりにし,豪奢な生活をして国費をついやした。その時,女真族が遼(契丹)の支配を脱して東北地方に金国を建てた。徽宗は宦官の童貫の進言により,金と同盟して遼を挟撃し,五代の後晋以来,遼の領土になっている燕雲地方(燕雲十六州という)を回復しようと企てた。しかし宋軍は燕京(今の北京)を攻めて失敗し,雲州(大同)を攻め落とした金軍の援助を請い,燕京は金軍の手に帰した。その結果,宋は1123年(宣和5),燕京とその付近6州の地の割与をうけたが,その時結んだ約束を実行しなかったので金軍の怒りを買い,25年,宋の国都開封は金軍の攻撃をうけることとなった。金軍南下の報に接した徽宗は,あわてて皇太子(欽宗)に譲位し,道士となって(教主道君皇帝という)26年(靖康1),ひそかに鎮江(江蘇省)まで逃れ,金軍北帰ののち開封へ帰った。しかし,宋は金との約束を履行しなかったので,この年開封は再度金軍の攻撃をうけて陥落した。金軍は宋室の存続を許さず,徽宗は欽宗,后妃,皇族などとともに金軍の捕虜となり,北方に送られ,28年(建炎2),韓州(遼寧省八面城付近)に抑留,30年,はるか東北の五国城(黒竜江省依蘭県)に移され,35年(紹興5)この地に没し,42年,金・宋両国の和議成立とともにその遺体は宋にかえった。

 徽宗は皇帝としては失格者であったが,文化人としてはすぐれた天分に恵まれ,詩文・書は瘦金体(そうきんたい)といわれる,書画をよくした。細く鋭い一種独特の書体をひらき,後世にまで影響を与えた。画における才能はさらに大きく,崔白(さいはく)の門人呉元瑜(ごげんゆ)に学んで,従来の黄氏体に代わる新しい院体画(いんたいが)をかき,一流大家に伍して遜色がない。日本人になじみのふかい《桃鳩図(ももはとのず)》のような細密な花鳥画にその実力を知ることができる。徽宗はまた,皇帝として文化事業の保護奨励に熱意を示し,翰林院の書画院の作家に保護を加えて奨励し,書・画学を設けて作家の養成につとめた。とくに画院は空前の盛況を示し,宣和(せんな)時代と呼ばれる盛世を現出した。生来,書画,古器物を愛好する徽宗は,全国より名器を開封に集め,鑑賞のベテランでもある蔡京や,書・画学の博士らと鑑識,整理のうえ,内府に蔵した。このころ勅撰せられた《宣和書譜》《宣和画譜》《重修宣和博古図》などが現存するが,これらは書画,古器物鑑賞の学問を集大成したものとして高く評価される。このほか徽宗の悪政の一つに数えられている花石綱(かせきこう)も,文化史の上からみれば,またちがった評価が下される余地があるようである。
[外山 軍治]

[索引語]
Huī zōng 趙佶 向太后 蔡京 教主道君皇帝 瘦金体 宣和(せんな)時代 宣和書譜 宣和画譜 重修宣和博古図
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検索コンテンツ
1. 徽宗画像
日本大百科全書
中国、北宋ほくそうの第8代皇帝(在位1100~1125)。名は佶きつ。第6代神宗の第11子であるが、兄の第7代哲宗に子がなかったので、哲宗の死後、帝位についた。
2. 徽宗
世界大百科事典
な生活をして国費をついやした。その時,女真族が遼(契丹)の支配を脱して東北地方に金国を建てた。徽宗は宦官の童貫の進言により,金と同盟して遼を挟撃し,五代の後晋以
3. き‐そう【徽宗】
日本国語大辞典
中国、北宋の第八代皇帝(在位一一〇〇~二五年)。旧法党を退けて、新法を採用し、蔡京(さいけい)らを重用。道教を崇拝し、国費を乱費して、農民暴動「方臘(ほうろう)
4. きそう【〓宗】
国史大辞典
伝世の名品であり国宝に指定されている。 [参考文献]『宋史』徽宗本紀、米沢嘉圃「北宋後期の宮廷絵画」(平凡社『世界美術全集』一四所収)、鈴木敬「画学を中心とした
5. 【徽宗】きそう
新選漢和辞典Web版
宋(そう)の第八代の天子。芸術に関心が深く、書画がたくみなことで有名。
6. ちょうきつ【趙佶】(Zhào Jí)
世界人名大辞典
 諡号:体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝 廟号:徽宗〔1082.11.2[元豊5.10.10]~1135.6.4[紹興5.4.21]〕 中国北宋の第8代皇帝
7. 徽宗『竹禽図巻』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
部分。北宋ほくそう代(12世紀初期) 絹 巻物 縦33.7cm(巻物の長さ839cm)メトロポリタン美術館所蔵
8. 【宋徽宗】そうのきそう
新選漢和辞典Web版
北宋第八代の天子。芸術を理解し、書画に巧みであった。
9. うぶんきょちゅう【宇文虚中】(Yǔwén Xūzhōng)
世界人名大辞典
謚:粛愍〔1079[元豊2]~1146[皇統6]〕 中国北宋-金の詩人.華陽(現,四川成都)の人.北宋徽宗(趙佶(ちょうきつ))の時の進士[1109:大観3].
10. おうあんせき【王安石】(Wáng Ānshí)
世界人名大辞典
著したり,禅僧とも交流している.この間,舒国公[78:元豊1],次いで荊国公[80]に封じられた.死後,徽宗(趙佶(ちょうきつ))の時に,孔子廟に配享される[1
11. おうきもう【王希孟】(Wáng Xīmèng)
世界人名大辞典
〔1096[紹聖3]?~?〕 中国北宋の画家.政和年間[1111-18],徽宗(きそう)が設立した画学の生徒となり,徽宗より直接手ほどきを受け,半年を経ずして画
12. おうけい【王珪】(Wáng Guī)
世界人名大辞典
平章事(宰相)となる.哲宗擁立に貢献し,哲宗即位直後に没した.日和見主義的な態度をとったため,徽宗(きそう)朝に姦党碑に名前を刻まれた.〖文献〗 宋史312.
13. おうせん【王詵】(Wáng Shēn)
世界人名大辞典
れた[80-84].官は定州観察使,開国公に至り,晩年には宗室画家の趙令穣とともに,端王時代の徽宗と親しかった(《鉄囲山叢談》巻1).山水画を得意とし,李成・郭
14. おう【王黼】(Wáng Fǔ)
世界人名大辞典
進し,梁師成と結んで権勢を強め,少宰(宰相)となる[1119:宣和1].瞳が金色で風姿が美しく徽宗(きそう)の寵愛を受けた.蔡京退任後は,その政策を改めて人気取
15. おうぶんけい【王文卿】(Wáng Wénqīng)
世界人名大辞典
豊(現,江西南豊)の人.林霊素の推薦により徽宗(趙佶(ちょうきつ))に仕える.宮中で雨を降らせたり妖異を退治したりするなどの霊異をたびたび現わし,徽宗の信任を得
16. しっちゅう【何執中】(Hé Zhízhōng)
世界人名大辞典
[慶暦3]~1116[政和6]〕 中国北宋の宰相.処州龍泉県(現,浙江龍泉)の人.進士に及第.徽宗(きそう)の信任を得て,尚書右丞となり,中書門下侍郎に進み,宰
17. かんがんけい【完顔璟】(Wányán Jǐng)
世界人名大辞典
南宋からの討伐軍などで国は混乱し,国力が衰えた時代であったが,金朝随一の風流皇帝として,北宋の徽宗に倣って痩金体の書を善くし,また書画のコレクション(いわゆる明
18. かんがんせい【完顔晟】(Wányán Shèng)
世界人名大辞典
滅ぼし[1125:天会3],ついで対宋戦争を開始し,宋の都開封(現,河南開封)を陥落させ[27],徽宗(きそう),欽宗を捕虜として宋(北宋)を滅ぼし(靖康の変)
19. かんがんそうぼう【完顔宗望】(Wányán Zōngwàng)
世界人名大辞典
西元帥)の完顔宗翰(そうかん)とともに開封を陥落させて[27]宋(北宋)を滅ぼし(靖康の変),徽宗(きそう),欽宗を捕虜として帰還した.〖文献〗 金史74.
20. かんせつ【韓拙】(Hán Zhuō)
世界人名大辞典
中国北宋の画家,絵画評論家.南陽(現,河南南陽)の人.王詵(おうせん)によって親王時代の徽宗に推挙され,のち徽宗の画院に入り,翰林書芸局祗候を経て直長秘書待詔に
21. きょそん【許遜】(Xǔ Xùn)
世界人名大辞典
[374:寧康2]とされる.没後は許真君と呼ばれて尊崇を受け,後に浄明道の祖師に奉られた.宋の徽宗(趙佶(ちょうきつ))から神功妙済,元の成宗(テムル)から至道
22. かんしん【魏漢津】(Wèi Hànjīn)
世界人名大辞典
歴は不明.仙人に教えを受け,徽宗(趙佶(ちょうきつ))の詔により知音の士として出仕した時[1102:崇寧1]には,90歳を超えていたともいう.夏の禹王にならい,
23. ぎょくこうたいてい【玉皇大帝】(Yùhuángdàdì)
世界人名大辞典
第1階位の右位とそれほど高くなかった.ところが,宋代になると,国家祭祀の対象にまで格上げされ,徽宗の時には「太上開天執符御暦含真体道昊天玉皇上帝」という尊号が献
24. こうきゅう【高俅】(Gāo Qiú)
世界人名大辞典
中国北宋の武将.蘇軾(そしょく)や王晋卿に仕える.蹴鞠(しゅうきく)がうまかったため,端王(後の徽宗(きそう))に寵愛される.徽宗即位後,官職につき累進して殿前
25. こうていけん【黄庭堅】(Huáng Tíngjiān)
世界人名大辞典
,蔡卞(さいべん)らに排斥され[94:紹聖1],涪州別駕に落とされ,黔州,戎州へと貶謫された.徽宗朝[1100-25]に大赦によって召還され,荊南にとどまるが,
26. こはん【呉湖帆】(Wú Húfān)
世界人名大辞典
革命中批判され,失意の中に自殺した.画は秀逸清麗な独自の風を成し,書は董其昌(とうきしょう),徽宗(きそう)の痩金体,米芾(べいふつ)の影響をうけた行書作を得意
27. さいけい【蔡京】(Cài Jīng)
世界人名大辞典
興化仙游(現,福建仙游)の人.弟は蔡卞(さいべん).兄弟揃って進士に及第[1070:熙寧3].徽宗(趙佶(ちょうきつ))が専ら新法を採用することになり宰相に抜擢
28. さいべん【蔡卞】(Cài Biàn)
世界人名大辞典
娘を妻とする.哲宗親政開始後,尚書左丞となり,宰相の章惇(しょうとん)とともに新法を強行する.徽宗(きそう)が即位し,向(しょう)太后(向皇后)が垂簾(すいれん
29. さいゆう【蔡攸】(Cài Yōu)
世界人名大辞典
賜る[1104:崇寧3].龍図閣学士兼侍読などを歴任,《国朝会要》の編修などを行う.宮中にみだりに出入りして徽宗(きそう)を惑わせ,父の京と権勢を競った.欽宗即
30. しゅべん【朱弁】(Zhū Biàn)
世界人名大辞典
避けて江南地方に移り,通問副使として正使の王倫(1084~1144)に随行して金に赴き[1127:天会5],徽宗・欽宗をたずねた.金に17年間留まったが,帰順せ
31. しゅめん【朱〓】(Zhū Miǎn)
世界人名大辞典
とともに武官を得る.父子は江南の珍奇な花卉や石を貢納して徽宗に取り入り,政和[1111-18]中,進奉は激増して貢物は延福宮・艮嶽等に満ち,その調達・運搬
32. しょうこうごう【向皇后】(Xiànghuánghòu)
世界人名大辞典
位時に皇后となり[1067:治平4],哲宗即位後,皇太后となる.哲宗没[1100:元符3]後,徽宗(きそう)を即位させて,垂簾(すいれん)聴政を行う.新旧両法を
33. しょうとん【章惇】(Zhāng Dūn)
世界人名大辞典
抜擢して新法を復活させ,旧法党を徹底的に弾圧し,高太后が立てた孟皇后を廃位に追い込んだ.しかし徽宗(きそう)即位後,弾劾・左遷された.書は王羲之風の伝統派を学ん
34. しょうはくおん【邵伯温】(Shào Bówēn)
世界人名大辞典
を終えた.新法党の章惇(しょうとん)が宰相になった際,父との縁で登用の誘いを受けたが,断った.徽宗が日食について意見を求めた際には,元祐の党禁を解くよう上書した
35. しんかん【秦観】(Qín Guān)
世界人名大辞典
酒税に左遷され[94:紹聖1],さらに郴州[96],横州から雷州へと遷された[98:元符1].徽宗の即位によって赦され,衡州へ向かう途中,藤州(広西)の光華亭で
36. せんせん【銭選】(Qián Xuǎn)
世界人名大辞典
終えた.人物画は李公麟を,山水画は趙令穣(ちょうれいじょう),趙伯駒(ちょうはくく)を,花鳥画は趙昌を学んだ.徽宗画院風の折枝花鳥画,復古的な青緑山水などで知ら
37. そう【曽幾】(Zēng Jī)
世界人名大辞典
]~1166[乾道2]〕 中国南宋の詩人.先祖は贛州の人だが,河南府(現,河南洛陽)に移った.徽宗期に兄曽弼(そうひつ)(†1109?)の恩蔭により将仕郎となり
38. そう【曹組】(Cáo Zǔ)
世界人名大辞典
著して自らを推す.徽宗(趙佶(ちょうきつ))の信篤く,進士出身を賜り[1121:宣和3]後に武階に改められ,勅命により睿思殿応制の同僚李質と共に《艮嶽百詠》を作
39. そうてき【宋迪】(Sòng Dí)
世界人名大辞典
没年が想定される.李成の画を学んだといい(米芾(べいふつ)《画史》),長兄の選の子である子房は徽宗朝に画学博士となり,兄の宋道,選の子である荘も画をよくし(鄧椿
40. そう【曽布】(Zēng Bù)
世界人名大辞典
直言したため,安石の反感を買って左遷された.哲宗(趙煦(ちょうく))親政開始後,知枢密院事となり,徽宗(きそう)(趙佶)即位後,右僕射となるが,蔡京(さいけい)
41. しょう【蘇頌】(Sū Sòng)
世界人名大辞典
て観文殿太学士などの閑職に就いた後,地方に出,召し返されて[97:紹聖4]太子少師となり退官.徽宗の時太子太保となり,趙郡公の爵を受ける.死後司空を贈られた.《
42. てつ【蘇轍】(Sū Zhé)
世界人名大辞典
紹聖1],次いで新法党の復権によって地方を転々とし,雷州や循州(現,広東省)にまで流謫された.徽宗が即位すると赦免されて都に上り,晩年のおよそ10年は潁昌(現,
43. ちょうかん【趙桓】(Zhào Huán)
世界人名大辞典
.父は徽宗(きそう).母は王氏(徽宗の皇后).初名は亶.烜と改名[1102:崇寧1],さらに桓と改名.皇太子となり[15:政和5],金軍が都開封(現,河南開封)
44. ちょうきょく【趙頊】(Zhào Xū)
世界人名大辞典
8-85]に官制改革を行った.しかし,改革半ばに没した.皇后は向(しょう)氏(向皇后).哲宗,徽宗(きそう)は彼の子.〖文献〗 宋史14-16.〖参考〗 佐伯富
45. ちょうきょせい【張虚靖】(Zhāng Xūjìng)
世界人名大辞典
虚靖先生〔1092[元祐7]~1126[靖康1]〕 中国北宋の道士,正一派30代天師.徽宗(きそう)に召され虚靖先生の号を賜る[1105:崇寧4].雷法を駆使
46. ちょう【趙煦】(Zhào Xù)
世界人名大辞典
)であったが,親政開始後廃位にし,かねてより寵愛していた劉賢妃を立てた.息子がいたが病死した.徽宗(きそう)(趙佶)は彼の弟.〖文献〗 宋史17,18.
47. ちょうけん【張萱】(Zhāng Xuān)
世界人名大辞典
宗(李隆基)期に集賢院の画直となり宮廷画家としての訓練を受けた.画の現物は残っていないが,宋の徽宗(きそう)(趙佶)が模写したと伝えられる〈虢国夫人游春図〉(模
48. ちょうこう【趙構】(Zhào Gòu)
世界人名大辞典
127/62].徽宗(趙佶(ちょうきつ))の子.母は韋氏(徽宗の賢妃).金軍侵攻に際し[1126:靖康1],兵馬大元帥として金軍の南下を食い止めるために河北にお
49. ちょうしょうえい【張商英】(Zhāng Shāngyīng)
世界人名大辞典
進士に及第.王安石に認められて,監察御史となる.哲宗親政開始後,右正言となり旧法党を攻撃した.徽宗(きそう)即位後,尚書左丞となるが,宰相の蔡京(さいけい)と不
50. ちょうたくたん【張択端】(Zhāng Zéduān)
世界人名大辞典
用いて建築物や器物を描く技法)に長けた.伝記史料はほとんど現存せず,いずれの時期の人であるか詳らかにしないが,徽宗画院に奉職した画家とする説が有力である.唯一の
「徽宗」の情報だけではなく、「徽宗」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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