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  11. 渋沢栄一

ジャパンナレッジで閲覧できる『渋沢栄一』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

国史大辞典・世界大百科事典

国史大辞典
渋沢栄一
しぶさわえいいち
一八四〇 - 一九三一
近代日本の指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷および仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年五月までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月から昭和六年(一九三一)十一月までの主に社会公共事業に尽力した時代の三期に大別できよう。

(一)在郷および仕官時代

 栄一は天保十一年二月十三日、武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)に市郎右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍を兼営。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て儒者海保漁村および剣客千葉栄次郎に文武を学んだ。文久三年同志と攘夷を決行し高崎城を攻略せんと計画したが、従兄尾高長七郎の説得により中止した。元治元年(一八六四)二月、平岡円四郎の推薦により一橋家の家臣となり、慶応二年(一八六六)同家の財政充実につとめた功によってその勘定組頭に抜擢された。翌三年正月、将軍徳川慶喜の弟昭武がパリ万国博覧会に列席するのに扈従して外遊。フランスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪し、彼地の進んだ文物と近代的技術・経済制度を親しく見学した。この見学は、その後の栄一の開明的な考え方を形成する上で、大きな意味をもつこととなった。明治元年十一月、幕府倒壊のため帰国。一時静岡藩に仕えたが、同二年十一月明治新政府に仕官し、民部省に入って租税正となり、租税事務の処理にあたった。翌三年民部・大蔵両省の分離に伴い大蔵省に属し、四年五月大蔵権大丞となり、新貨条例・造幣規則ならびに国立銀行条例の起草立案にあたった。また地租改正事務局の設置や第一国立銀行および抄紙会社の設立などにも尽力したが、六年五月、大蔵大輔井上馨とともに健全財政を主張して容れられず、大蔵省を辞任した。時に三十四歳であった。

(二)実業界指導時代

 大蔵省を退官後、栄一は民間にあって多くの近代的企業の創立と発達に尽力し、この方面で指導的役割を果たした。彼はまず第一国立銀行の総監役、つづいて頭取として同行の発達につとめた。これが彼の本業であった。その他第十六・第二十・第七十七国立銀行など、いくつかの国立銀行の設立を指導し、特殊銀行・普通銀行の創立にも力を貸すこと少なくなかった。さらに率先して択善会とその後身である銀行集会所および手形交換所の設立にあたり、それらの活動にも力を尽くした。銀行以外では、明治六年にわが国最初の洋紙製造会社である抄紙会社(王子製紙会社)の創立を指導し、野に下ってからは事実上の社長として同社の発達に尽力した。十二年からはわが国最初の本格的紡績会社である大阪紡績会社の設立を指導し、十九年からは三重紡績会社の創立にも尽力した。その他鐘淵紡績会社・大日本紡績連合会の運営に力を与えた。また十二年には、わが国最初の海上保険会社である東京海上保険会社が創立されたが、その創立も栄一の力によるところが大きかった。海運においては、十五年に益田孝らとともに郵便汽船三菱会社に対抗して共同運輸会社の設立を助け、十八年両社が合併して日本郵船会社が設立されるとその取締役として同社の発展を援助した。また二十九年には浅野総一郎の東洋汽船会社の創立を助け、四十年には日清汽船会社の創立委員長をつとめている。鉄道では、わが国最初の民営鉄道会社で、東北線を開いた日本鉄道会社の創立・発展に多くの貢献をしたほか、両毛鉄道会社・北海道炭礦鉄道会社などの設立にも尽力した。以上のほか、京都織物会社・北海道製麻会社・東京帽子会社・日本精糖会社・明治製糖会社・札幌麦酒会社・東洋硝子会社・浅野セメント会社・石川島造船所・東京人造肥料会社・東京瓦斯会社・東京電燈会社・東京株式取引所・帝国ホテルなど、栄一が創立を指導したり経営を援助したりした会社は非常に多かった。そして彼は、これらの企業の創立にあたって、多くの人々から資本を調達できる合本組織、すなわち会社組織によるべきであることを強く主張し、その実現に努力した。ところで、栄一がこのように多くの企業の創立・経営に関与したのは必ずしも財を築くためではなかった。それは、彼が三井・三菱・住友・安田のような大財閥にならなかったことからも知られる。また、企業をおこすこと自体に強い関心をもっていたためでもなかった。それよりも彼は、先進諸外国の圧迫のもとにあった後進国日本にとって、自国の近代産業を育て発達させることこそが最大の急務と考え、その実現に全力を傾けたのである。彼はまた、商工業の発達には、官尊民卑の風を打破し自主独立の発展をはかることと、実業教育をひろめ実業道徳を向上させることとの二つが必要であると考え、その実現に努力した。すなわち彼は、明治十一年から同三十八年まで当時の重要経済団体である東京商法会議所・東京商工会・東京商業会議所の会頭として、また時には商業会議所連合会の代表者として、政府にしばしば実業家の主張を建議応答してその実現につとめたほか、東京高等商業学校・大倉高等商業学校・高千穂学校・東京高等蚕糸学校・岩倉鉄道学校などの実業学校の創設・発展に尽くした。さらに『論語』を徳育の規範として「論語算盤説」または「道徳経済合一説」を唱え、それを実践することによって実業界の道徳水準をたかめ、その社会的地位を向上させることにつとめた。

(三)社会公共事業尽力時代

 栄一は七十歳になったのを機に、明治四十二年六月金融関係以外の事業会社の役職を退任した。その会社数は約六十社に及んだ。さらに大正五年(一九一六)十月には金融界からも引退し、もっぱら社会公共事業に尽力することとなった。彼は前時代からひきつづいて東京市養育院の院長として活動したのをはじめ、多くの社会公共事業に関与し、それを育成発達させることに努力したが、この期において特に力を尽くしたのは国際親善についてであった。彼はすでに明治三十五年にアメリカおよびヨーロッパ諸国を訪問し、これら諸外国との親善をはかっているが、四十二年八月には東京・大阪・京都・横浜・神戸の五商業会議所の代表によって結成された渡米実業団の団長として渡米し、主要都市を歴訪して彼地の実業家との交流を深めた。さらに大正四年十月にもパナマ太平洋万国博覧会の開催を機に渡米し、十年十月ワシントン軍縮会議開催の際にも渡米して側面から平和外交を展開した。また、大正三年五月には中日実業株式会社の設立を機に中国に出かけ、同国実業家との親善をはかっている。彼はまた各種国際親善事業に進んで協力するとともに、来日した各国の賓客を歓迎招待して国民外交を展開した。王子飛鳥山の栄一の邸宅を訪れた外国人の数は、記録に残っているだけで千名を下らなかったという。こうして近代日本の発達に大きな役割を演じた栄一も、昭和六年十一月十一日死去した。享年九十二。墓は東京都台東区の谷中墓地にある。法名、泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。なお明治三十三年に男爵、大正九年に子爵を授けられている。穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。
[参考文献]
竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、白石喜太郎『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、渋沢雅英『太平洋にかける橋』
(山口 和雄)


改訂新版 世界大百科事典
渋沢栄一
しぶさわえいいち
1840-1931(天保11-昭和6)

実業家。武蔵国榛沢郡血洗島村(現,埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ,年少のころから家業に従事した。尊王攘夷論に傾倒し,一時は横浜の外国人居留地の襲撃をも計画した。1864年(元治1)一橋家に仕え,67年(慶応3)慶喜の弟昭武に随行してフランスの万国博使節団に加わり,ヨーロッパ各地を訪問して近代的社会経済の諸制度や産業施設を見聞した。このとき得た知識が,のち政府高官としてまた近代産業の指導者としての教養の基盤となった。69年(明治2)明治政府に招聘されて大蔵省に出仕,大蔵省租税司(現在の課長クラス)となり,税制の改正その他江戸時代以来の行政の改革にあたり,71年大蔵権大丞(局長級,事実上の次官)となったが,陸海軍費節約による均衡財政の主張が認められず井上馨とともに辞任。以来,野にあって革新的な近代企業の推進者としての役割を遂行する。73年第一国立銀行(のちの第一銀行)を創設し,近代的金融・信用制度の成立にあたる。ついで株式会社方式(合本主義といった)による近代企業の設立を精力的に推進した。また銀行家や実業家のための組織づくりにも尽力し,銀行集会所,手形交換所および東京商法会議所(現,東京商工会議所)などの創設にあたった。渋沢は,欧米の資本主義についての理論や思想をもたず,伝統的な儒教道徳の持主であったから,道徳・経済の合一主義をとなえ,近代企業は国家・公共のための実業でなければならないことを強調し,会社企業の生成を促進した。大正時代には,実業界から引退し,各種の社会・公共事業にひろく関係した。
→渋沢財閥
[由井 常彦]

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検索コンテンツ
1. 渋沢栄一画像
日本大百科全書
近代日本資本主義の指導者。天保てんぽう11年2月13日、武蔵国むさしのくに榛沢はんざわ郡血洗島ちあらいじま(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘
2. 渋沢栄一
世界大百科事典
1840-1931(天保11-昭和6) 実業家。武蔵国榛沢郡血洗島村(現,埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ,年少のころから家業に従事した。尊王攘夷論に傾倒し,一
3. しぶさわ‐えいいち【渋沢栄一】
日本国語大辞典
実業家。子爵。号は青淵。武蔵榛沢(埼玉県)出身。尊王攘夷運動に参加。明治二年(一八六九)新政府に登用され、金融・財政制度の制定・改正に尽力。のち実業界に転じ、第
4. しぶさわえいいち【渋沢栄一】
国史大辞典
穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。 [参考文献]竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、白石喜太郎『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、渋
5. しぶさわ-えいいち【渋沢栄一】画像
日本人名大辞典
1840−1931 明治-大正時代の実業家。天保(てんぽう)11年2月13日生まれ。渋沢敬三の祖父。生家は武蔵(むさし)榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)の名主。一橋
6. 渋沢栄一[文献目録]
日本人物文献目録
6』-『経済と道徳』渋沢栄一『人使い金使い名人伝 』中村竹二(編)『国宝渋沢栄一翁』渋沢栄一翁頌徳会(編)『渋沢栄一伝』土屋喬雄『渋沢栄一』山口平八『渋沢栄一
7. 渋沢栄一[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. Shibusawa Eiichi 【渋沢栄一】画像
Encyclopedia of Japan
1840−1931 Entrepreneur and business leader; played a central role in the establi
9. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談
東洋文庫
最後の将軍徳川慶喜は,毀誉褒貶にかこまれてその実体が捉えがたい。本書は私家版として25部だけひそかに刷られ,以後公刊されることのなかった稀覯本。読書人垂涎の書で
10. 徳川慶喜公伝 3
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
11. 徳川慶喜公伝 4
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
12. 徳川慶喜公伝 1
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
13. 徳川慶喜公伝 2
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
14. しぶさわえいいちでんきしりょう【渋沢栄一伝記資料】
国史大辞典
財団法人竜門社の編纂・刊行による渋沢栄一の伝記資料。竜門社では、栄一の死後、嫡孫で相続人だった渋沢敬三の意見により伝記の執筆と伝記資料の蒐集編纂とを分けて行う
15. 『渋沢栄一伝記資料』
日本史年表
1955年〈昭和30 乙未〉 4・‐ 財団法人竜門社 『渋沢栄一伝記資料』 発刊(~昭和46年5月)。
16. あかしてるお【明石照男】
国史大辞典
三井銀行との合併により帝国銀行取締役会長となり二十年三月辞任。昭和三十一年九月二十九日没。七十五歳。妻は渋沢栄一の長女。『明治銀行史』『大正銀行史』などの著書が
17. あかし-てるお【明石照男】
日本人名大辞典
1881−1956 大正-昭和時代の銀行家。明治14年3月30日生まれ。渋沢栄一の娘婿。欧米に留学後,第一銀行にはいり,昭和10年頭取,18年三井銀行との合併に
18. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
イタリアおよびデンマークとの 条約締結に当った。慶応元年(大甕)横須賀製鉄 所建設のため、再び渡欧した。渋沢栄一(篤太夫)〔天四〇一一九≡〕 幕臣、実業家。 武
19. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 275ページ
東洋文庫
古川・山下の九名、乗船帰国。慶応三年 三ハ歳 三月、徳川昭武の一行パリ着。山高信 (一八宅)    離・渋沢栄一より一行の経費遅着によ         る金策の
20. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 308ページ
東洋文庫
    参考文献   一、単行本徳川慶喜公伝 四冊 東洋文庫 昭和四二年四月一四三年一月刊渋沢栄一若干凡社 原本八冊(本伝四冊、資料編三冊、索引一冊) 大正七年
21. あさのセメントがいしゃ【浅野セメント会社】
国史大辞典
、実際には年利四分五厘で還元して即金一万六千五百円を納めたのみである。この時から経営は浅野と渋沢栄一との匿名組合組織のもとで行うことになった。出資額はそれぞれ三
22. 浅野総一郎
日本大百科全書
種の商業を営んだが失敗し、1871年(明治4)東京へ出奔した。やがて薪炭、石炭などの商売から渋沢栄一の知遇を得るなど、後日の発展の糸口をつかんだ。1884年渋沢
23. 浅野総一郎
世界大百科事典
1871年(明治4)上京,お茶の水橋で水売を始め,竹の皮商から薪炭商へ転じ,コークスの売込みで成功した。渋沢栄一の知遇を得て,投機商人から産業資本家への道が開け
24. あさの‐そういちろう【浅野総一郎】
日本国語大辞典
実業家。越中国(富山県)出身。渋沢栄一の後援で官営セメント工場の払い下げを受け、以後各種の事業に着手して浅野財閥を築く。嘉永元~昭和五年(一八四八~一九三〇)
25. あさのそういちろう【浅野総一郎】
国史大辞典
込むことに成功した。また、王子抄紙部(のちの王子製紙会社)への石炭販売を契機として、その総理渋沢栄一の知遇を得ることになった。同十六年、渋沢の斡旋で深川セメント
26. あさの-そういちろう【浅野総一郎】画像
日本人名大辞典
明治-大正時代の実業家。嘉永(かえい)元年3月10日生まれ。明治6年横浜で薪炭・石炭販売店をひらく。17年渋沢栄一の助力で官営深川セメント工場の払い下げをうけ,
27. 足尾鉱山
世界大百科事典
明治維新後国に没収されるが,71年(明治4)民営に移り,77年古河市兵衛が買収した。市兵衛は相馬家の志賀直道と渋沢栄一からの資金援助と,草倉銅山の利益をつぎこん
28. 足尾銅山画像
日本大百科全書
このため明治初めの官営銅山の選から外れた。1877年(明治10)古河市兵衛は志賀直道なおみち(直哉の祖父)や渋沢栄一しぶさわえいいちの協力を得て再開発に着手、1
29. 安達憲忠
世界大百科事典
ある。その後上京し,1888年東京府に奉職,92年養育院幹事となる。1919年退職するまで,渋沢栄一養育院院長の補佐役として,井之頭学校,安房分院,巣鴨分院,板
30. あだちけんちゅう【安達憲忠】
国史大辞典
新聞記者当時瓜生岩を知る。明治二十年(一八八七)東京府属に就任。二十四年養育院幹事となる。院長渋沢栄一の下で、光田健輔らの助言を得て、収容者の処遇改善に努めた。
31. あだち-けんちゅう【安達憲忠】
日本人名大辞典
安政4年8月3日生まれ。岡山の遺芳館にまなび,新聞記者として自由民権運動に参加。明治24年東京市養育院院長渋沢栄一のすすめで同院幹事となる。里親制度の開拓や伝染
32. あべ-ごいち【阿部吾市】
日本人名大辞典
1873−1933 明治-昭和時代前期の実業家。明治6年3月15日生まれ。34年渋沢栄一らの後援により,茨城採炭を設立。その後,東京瓦斯(ガス)コークス社長や山
33. アメリカ彦蔵自伝 2 208ページ
東洋文庫
琉球の大使一行が訪問したことなど一が起こっている間に、大蔵省の大臣と次官〔大蔵卿井上馨と大丞渋沢栄一〕の連署した建白書が、日本の新聞に掲載された。それは、陛下の
34. いしいりょういち【石井亮一】
国史大辞典
白痴児教育専門のものとし、同二十九年「滝野川学園」と改称した。大正九年(一九二〇)財団法人に改め、初代理事長渋沢栄一とともに経営の安定をはかった。昭和三年(一九
35. いしかわじまぞうせんじょ【石川島造船所】
国史大辞典
民間造船所による最初の軍艦建造の栄誉をになった。この間たえず資金難にあえぎ、融資をうけていた第一国立銀行頭取渋沢栄一のすすめで、個人経営を廃し二十二年一月十七日
36. いその-ふじこ【磯野富士子】
日本人名大辞典
1918−2008 昭和後期-平成時代のモンゴル研究家。大正7年3月24日生まれ。渋沢栄一の曾孫。昭和18年夫の磯野誠一とともにモンゴルにわたり,滞在中モンゴル
37. いとう-でんしち【伊藤伝七(10代)】
日本人名大辞典
。9代伊藤伝七の長男。堺紡績所で研修。明治13年父らとともに郷里三重県に三重紡績所をおこし,渋沢栄一の支援をえて業務を拡張。大正3年大阪紡績と合併して東洋紡績(
38. 伊藤博文[文献目録]
日本人物文献目録
洋の大偉人 大勲位伊藤公爵伝』-『立身亀鑑 伊藤博文公』榊原編輯所(編)『伊藤公と財政経済』渋沢栄一『書生の境遇』伊藤博文『伊藤博文論』池辺吉太郎『故伊藤公爵銅
39. いなはたかつたろう【稲畑勝太郎】
国史大辞典
染色を学び十八年帰国して京都府勧業課に勤務し、染色技術の普及にあたった。二十年京都織物会社を渋沢栄一を説いて設立、渡仏して会社の諸機械を購入し技師長を勤めた。二
40. 井上馨
世界大百科事典
掛,会計官判事,造幣頭,民部大輔などを経て大蔵大輔となり,73年,各省の政費増加を不可として渋沢栄一とともに辞職した。また,尾去沢銅山事件などに関与し,先収会社
41. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
また尾去沢鉱山の私有をめぐって司法卿江藤新平から追及を受けるなど内閣からの風当りが強く、同六年渋沢栄一とともに連袂辞職した。その後、益田孝らと先収会社(のちの三
42. 井上馨[文献目録]
日本人物文献目録
猪一郎『井上馨侯元治の難』井上馨侯伝記編纂会(編刊)『伊藤博文・井上馨』伊藤痴遊『井上馨侯』渋沢栄一『大隈重信と井上馨侯』渡辺幾治郎『別府潜伏時代及其前後の井上
43. いのべ-しげお【井野辺茂雄】
日本人名大辞典
学者。明治10年1月25日生まれ。39年から東京帝大史料編纂所で「国史大辞典」を,42年から渋沢栄一のもとで萩野由之らと「徳川慶喜(よしのぶ)公伝」を編修。大正
44. いまいちむら【今市村】兵庫県:高砂市
日本歴史地名大系
当村の仲買三人が姫路藩領内で規格外品を買い回っていた。慶応元年(一八六五)から同二年にかけて渋沢栄一は三卿の一橋家の財政改革を図り、木綿専売制の実施のため今市会
45. いわきたんこう【磐城炭鉱】
国史大辞典
西南戦争により筑豊の産炭が減少したのでにわかに注目を浴び、明治十六年(一八八三)資本金四万円で浅野総一郎・渋沢栄一らにより創設された磐城炭礦会社が小野田坑を買収
46. いわはなだいかんしょあと【岩鼻代官所跡】群馬県:高崎市/岩鼻村
日本歴史地名大系
果した(同年「御公用村用控」飯塚文書など)。文久三年(一八六三)夏、赤城山麓で桃井可堂が攘夷の挙兵を、また渋沢栄一らが高崎城や岩鼻代官所を襲撃するという噂が流れ
47. いん‐しん【印信】
日本国語大辞典
〔名〕(1)印。印形(いんぎょう)。また、印を押して証拠とした文書。*立会略則〔1871〕〈渋沢栄一〉預り金仕法「此通帳は紙数を定め精密なる会社の印信を押すべし
48. うえはら-とよきち【上原豊吉】
日本人名大辞典
1854−1923 明治-大正時代の経営者。安政元年生まれ。明治7年渋沢栄一の後援で渋沢喜作が設立した渋沢商店の支配人をつとめた。大正12年1月6日死去。70歳
49. うえむらちょうざぶろう【植村澄三郎】
国史大辞典
後、明治二十二年(一八八九)北海道炭礦鉄道創立と同時に入社して経理部支配人となった。この時、渋沢栄一の知遇を得た。同二十六年同社監査役に就任したが、翌年渋沢に推
50. うえむら-ちょうざぶろう【植村澄三郎】
日本人名大辞典
文久2年10月11日生まれ。明治22年北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となる。のち渋沢栄一の勧めで27年札幌麦酒専務取締役,39年大日本麦酒常務取締
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一八〇〇 - 六〇 江戸時代末期の常陸国水戸藩主。第七代治紀(武公)の三男。母は烏丸資補の女。幼名敬三郎。はじめ紀教(のりたか)のちに斉昭。兄の第八代藩主斉脩(なりのぶ、哀公)の嗣子となる。字は子信、号は景山・潜竜閣。夫人は有栖川宮織仁親王女吉子
渋沢栄一(国史大辞典・世界大百科事典)
一八四〇 - 一九三一 近代日本の指導的大実業家。その生涯は、(一)天保十一年(一八四〇)二月から明治六年(一八七三)五月までの在郷および仕官時代、(二)明治六年六月から同四十二年五月までの主として実業界の指導に力を注いだ時代、(三)明治四十二年六月
徽宗(世界大百科事典)
中国,北宋第8代の皇帝。在位1100-25年。姓名は趙佶(ちようきつ)。第6代皇帝神宗の第11子。母はその侍御陳氏。兄の第7代皇帝哲宗の病死後,向太后(しようたいこう)(神宗の皇后)の支持をうけて帝位についた。太后摂政中は,新(革新政策)
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