1. 渋沢栄一画像
日本大百科全書
近代日本資本主義の指導者。天保てんぽう11年2月13日、武蔵国むさしのくに榛沢はんざわ郡血洗島ちあらいじま(埼玉県深谷市)の豪農の家に生まれた。幕末、一時尊王攘
2. 渋沢栄一
世界大百科事典
1840-1931(天保11-昭和6) 実業家。武蔵国榛沢郡血洗島村(現,埼玉県深谷市)の富農の家に生まれ,年少のころから家業に従事した。尊王攘夷論に傾倒し,一
3. しぶさわ‐えいいち【渋沢栄一】
日本国語大辞典
実業家。子爵。号は青淵。武蔵榛沢(埼玉県)出身。尊王攘夷運動に参加。明治二年(一八六九)新政府に登用され、金融・財政制度の制定・改正に尽力。のち実業界に転じ、第
4. しぶさわえいいち【渋沢栄一】
国史大辞典
穂積陳重・阪谷芳郎・明石照男はその女婿。 [参考文献]竜門社編『渋沢栄一伝記資料』、渋沢秀雄『父渋沢栄一』、白石喜太郎『渋沢栄一翁』、幸田露伴『渋沢栄一伝』、渋
5. しぶさわ-えいいち【渋沢栄一】画像
日本人名大辞典
1840−1931 明治-大正時代の実業家。天保(てんぽう)11年2月13日生まれ。渋沢敬三の祖父。生家は武蔵(むさし)榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)の名主。一橋
6. 渋沢栄一[文献目録]
日本人物文献目録
6』-『経済と道徳』渋沢栄一『人使い金使い名人伝 』中村竹二(編)『国宝渋沢栄一翁』渋沢栄一翁頌徳会(編)『渋沢栄一伝』土屋喬雄『渋沢栄一』山口平八『渋沢栄一』
7. 渋沢栄一[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. Shibusawa Eiichi 【渋沢栄一】画像
Encyclopedia of Japan
1840−1931 Entrepreneur and business leader; played a central role in the establi
9. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談
東洋文庫
最後の将軍徳川慶喜は,毀誉褒貶にかこまれてその実体が捉えがたい。本書は私家版として25部だけひそかに刷られ,以後公刊されることのなかった稀覯本。読書人垂涎の書で
10. 徳川慶喜公伝 3
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
11. 徳川慶喜公伝 4
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
12. 徳川慶喜公伝 1
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
13. 徳川慶喜公伝 2
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完
14. しぶさわえいいちでんきしりょう【渋沢栄一伝記資料】
国史大辞典
財団法人竜門社の編纂・刊行による渋沢栄一の伝記資料。竜門社では、栄一の死後、嫡孫で相続人だった渋沢敬三の意見により伝記の執筆と伝記資料の蒐集編纂とを分けて行う
15. 『渋沢栄一伝記資料』
日本史年表
1955年〈昭和30 乙未〉 4・‐ 財団法人竜門社 『渋沢栄一伝記資料』 発刊(~昭和46年5月)。
16. あかしてるお【明石照男】
国史大辞典
三井銀行との合併により帝国銀行取締役会長となり二十年三月辞任。昭和三十一年九月二十九日没。七十五歳。妻は渋沢栄一の長女。『明治銀行史』『大正銀行史』などの著書が
17. あかし-てるお【明石照男】
日本人名大辞典
1881−1956 大正-昭和時代の銀行家。明治14年3月30日生まれ。渋沢栄一の娘婿。欧米に留学後,第一銀行にはいり,昭和10年頭取,18年三井銀行との合併に
18. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 257ページ
東洋文庫
イタリアおよびデンマークとの 条約締結に当った。慶応元年(大甕)横須賀製鉄 所建設のため、再び渡欧した。渋沢栄一(篤太夫)〔天四〇一一九≡〕 幕臣、実業家。 武
19. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 275ページ
東洋文庫
古川・山下の九名、乗船帰国。慶応三年 三ハ歳 三月、徳川昭武の一行パリ着。山高信 (一八宅) 離・渋沢栄一より一行の経費遅着によ る金策の
20. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 308ページ
東洋文庫
参考文献 一、単行本徳川慶喜公伝 四冊 東洋文庫 昭和四二年四月一四三年一月刊渋沢栄一若干凡社 原本八冊(本伝四冊、資料編三冊、索引一冊) 大正七年
21. あさのセメントがいしゃ【浅野セメント会社】
国史大辞典
、実際には年利四分五厘で還元して即金一万六千五百円を納めたのみである。この時から経営は浅野と渋沢栄一との匿名組合組織のもとで行うことになった。出資額はそれぞれ三
22. 浅野総一郎
日本大百科全書
種の商業を営んだが失敗し、1871年(明治4)東京へ出奔した。やがて薪炭、石炭などの商売から渋沢栄一の知遇を得るなど、後日の発展の糸口をつかんだ。1884年渋沢
23. 浅野総一郎
世界大百科事典
1871年(明治4)上京,お茶の水橋で水売を始め,竹の皮商から薪炭商へ転じ,コークスの売込みで成功した。渋沢栄一の知遇を得て,投機商人から産業資本家への道が開け
24. あさの‐そういちろう【浅野総一郎】
日本国語大辞典
実業家。越中国(富山県)出身。渋沢栄一の後援で官営セメント工場の払い下げを受け、以後各種の事業に着手して浅野財閥を築く。嘉永元~昭和五年(一八四八~一九三〇)
25. あさのそういちろう【浅野総一郎】
国史大辞典
込むことに成功した。また、王子抄紙部(のちの王子製紙会社)への石炭販売を契機として、その総理渋沢栄一の知遇を得ることになった。同十六年、渋沢の斡旋で深川セメント
26. あさの-そういちろう【浅野総一郎】画像
日本人名大辞典
明治-大正時代の実業家。嘉永(かえい)元年3月10日生まれ。明治6年横浜で薪炭・石炭販売店をひらく。17年渋沢栄一の助力で官営深川セメント工場の払い下げをうけ,
27. 足尾鉱山
世界大百科事典
明治維新後国に没収されるが,71年(明治4)民営に移り,77年古河市兵衛が買収した。市兵衛は相馬家の志賀直道と渋沢栄一からの資金援助と,草倉銅山の利益をつぎこん
28. 足尾銅山画像
日本大百科全書
このため明治初めの官営銅山の選から外れた。1877年(明治10)古河市兵衛は志賀直道なおみち(直哉の祖父)や渋沢栄一しぶさわえいいちの協力を得て再開発に着手、1
29. 安達憲忠
世界大百科事典
ある。その後上京し,1888年東京府に奉職,92年養育院幹事となる。1919年退職するまで,渋沢栄一養育院院長の補佐役として,井之頭学校,安房分院,巣鴨分院,板
30. あだちけんちゅう【安達憲忠】
国史大辞典
新聞記者当時瓜生岩を知る。明治二十年(一八八七)東京府属に就任。二十四年養育院幹事となる。院長渋沢栄一の下で、光田健輔らの助言を得て、収容者の処遇改善に努めた。
31. あだち-けんちゅう【安達憲忠】
日本人名大辞典
安政4年8月3日生まれ。岡山の遺芳館にまなび,新聞記者として自由民権運動に参加。明治24年東京市養育院院長渋沢栄一のすすめで同院幹事となる。里親制度の開拓や伝染
32. あべ-ごいち【阿部吾市】
日本人名大辞典
1873−1933 明治-昭和時代前期の実業家。明治6年3月15日生まれ。34年渋沢栄一らの後援により,茨城採炭を設立。その後,東京瓦斯(ガス)コークス社長や山
33. アメリカ彦蔵自伝 2 208ページ
東洋文庫
琉球の大使一行が訪問したことなど一が起こっている間に、大蔵省の大臣と次官〔大蔵卿井上馨と大丞渋沢栄一〕の連署した建白書が、日本の新聞に掲載された。それは、陛下の
34. いしいりょういち【石井亮一】
国史大辞典
白痴児教育専門のものとし、同二十九年「滝野川学園」と改称した。大正九年(一九二〇)財団法人に改め、初代理事長渋沢栄一とともに経営の安定をはかった。昭和三年(一九
35. いしかわじまぞうせんじょ【石川島造船所】
国史大辞典
民間造船所による最初の軍艦建造の栄誉をになった。この間たえず資金難にあえぎ、融資をうけていた第一国立銀行頭取渋沢栄一のすすめで、個人経営を廃し二十二年一月十七日
36. いその-ふじこ【磯野富士子】
日本人名大辞典
1918−2008 昭和後期-平成時代のモンゴル研究家。大正7年3月24日生まれ。渋沢栄一の曾孫。昭和18年夫の磯野誠一とともにモンゴルにわたり,滞在中モンゴル
37. いとう-でんしち【伊藤伝七(10代)】
日本人名大辞典
。9代伊藤伝七の長男。堺紡績所で研修。明治13年父らとともに郷里三重県に三重紡績所をおこし,渋沢栄一の支援をえて業務を拡張。大正3年大阪紡績と合併して東洋紡績(
38. 伊藤博文[文献目録]
日本人物文献目録
洋の大偉人 大勲位伊藤公爵伝』-『立身亀鑑 伊藤博文公』榊原編輯所(編)『伊藤公と財政経済』渋沢栄一『書生の境遇』伊藤博文『伊藤博文論』池辺吉太郎『故伊藤公爵銅
39. いなはたかつたろう【稲畑勝太郎】
国史大辞典
染色を学び十八年帰国して京都府勧業課に勤務し、染色技術の普及にあたった。二十年京都織物会社を渋沢栄一を説いて設立、渡仏して会社の諸機械を購入し技師長を勤めた。二
40. 井上馨
世界大百科事典
掛,会計官判事,造幣頭,民部大輔などを経て大蔵大輔となり,73年,各省の政費増加を不可として渋沢栄一とともに辞職した。また,尾去沢銅山事件などに関与し,先収会社
41. いのうえかおる【井上馨】
国史大辞典
また尾去沢鉱山の私有をめぐって司法卿江藤新平から追及を受けるなど内閣からの風当りが強く、同六年渋沢栄一とともに連袂辞職した。その後、益田孝らと先収会社(のちの三
42. 井上馨[文献目録]
日本人物文献目録
猪一郎『井上馨侯元治の難』井上馨侯伝記編纂会(編刊)『伊藤博文・井上馨』伊藤痴遊『井上馨侯』渋沢栄一『大隈重信と井上馨侯』渡辺幾治郎『別府潜伏時代及其前後の井上
43. いのべ-しげお【井野辺茂雄】
日本人名大辞典
学者。明治10年1月25日生まれ。39年から東京帝大史料編纂所で「国史大辞典」を,42年から渋沢栄一のもとで萩野由之らと「徳川慶喜(よしのぶ)公伝」を編修。大正
44. いまいちむら【今市村】兵庫県:高砂市
日本歴史地名大系
当村の仲買三人が姫路藩領内で規格外品を買い回っていた。慶応元年(一八六五)から同二年にかけて渋沢栄一は三卿の一橋家の財政改革を図り、木綿専売制の実施のため今市会
45. いわきたんこう【磐城炭鉱】
国史大辞典
西南戦争により筑豊の産炭が減少したのでにわかに注目を浴び、明治十六年(一八八三)資本金四万円で浅野総一郎・渋沢栄一らにより創設された磐城炭礦会社が小野田坑を買収
46. いわはなだいかんしょあと【岩鼻代官所跡】群馬県:高崎市/岩鼻村
日本歴史地名大系
果した(同年「御公用村用控」飯塚文書など)。文久三年(一八六三)夏、赤城山麓で桃井可堂が攘夷の挙兵を、また渋沢栄一らが高崎城や岩鼻代官所を襲撃するという噂が流れ
47. いん‐しん【印信】
日本国語大辞典
〔名〕(1)印。印形(いんぎょう)。また、印を押して証拠とした文書。*立会略則〔1871〕〈渋沢栄一〉預り金仕法「此通帳は紙数を定め精密なる会社の印信を押すべし
48. うえはら-とよきち【上原豊吉】
日本人名大辞典
1854−1923 明治-大正時代の経営者。安政元年生まれ。明治7年渋沢栄一の後援で渋沢喜作が設立した渋沢商店の支配人をつとめた。大正12年1月6日死去。70歳
49. うえむらちょうざぶろう【植村澄三郎】
国史大辞典
後、明治二十二年(一八八九)北海道炭礦鉄道創立と同時に入社して経理部支配人となった。この時、渋沢栄一の知遇を得た。同二十六年同社監査役に就任したが、翌年渋沢に推
50. うえむら-ちょうざぶろう【植村澄三郎】
日本人名大辞典
文久2年10月11日生まれ。明治22年北海道炭礦鉄道設立のときに入社し経理部支配人となる。のち渋沢栄一の勧めで27年札幌麦酒専務取締役,39年大日本麦酒常務取締