ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 遺跡
  8. >
  9. >
  10. 彦根城跡

ジャパンナレッジで閲覧できる『彦根城跡』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

日本歴史地名大系

日本歴史地名大系
彦根城跡
ひこねじようあと

[現]彦根市金亀町・尾末町・城町

湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦は一七日の佐和山合戦で石田三成の佐和山さわやま城が陥落、井伊直政は徳川家康により三成の旧領近江の地を与えられ、従来の一二万石に六万石を加えられ一八万石を領する有力大名となった(井伊年譜・井伊家譜)。のち加増を重ね、彦根城を築き城下町を建設し、近江の地にあって幕府の意を受けて京都および西国・中国を押える任務を負った。彦根の位置は中山道にやや離れるが、琵琶湖岸に近い朝鮮人街道を整備するとともに両道を結ぶ道を開いた。北方米原からは北国街道が発しており、有事の際にはこれらの幹道により東・北・南の三方を押えうる要地であった。一方、西は湖に面し、湖南の坂本に走る舟運力をもってすれば京都は近い。幕府が井伊家に与えた役割の重要さがうかがえ、その信任の厚さは何代にもわたって就任した大老職をあげるまでもなく知られるところである。彦根城は天守のみでなく、櫓・門・馬屋などを含め城郭総体としてまとまった姿を今日に伝える。

〔築城前後〕

築城以前の景観は、彦根古絵図(彦根市立図書館蔵)などによれば、佐和山城を古城と記し、彦根山の谷間に観音信仰で平安時代から都人に知られた彦根寺などが描かれ、北西方に長尾ながお山、その西麓に金亀こんきガ淵、東方に尾末おすえ山があり、尾末山の東端に世理せり(善利川とも、現芹川の旧流路)が流れ、彦根山の北裏手に広がる松原まつばら内湖に注いでいる。同川は南方で西に分流し、やはり湖に注ぐ。この絵図で見る限り水城とはいいきれないものの、湖上水運を最重視した選地であることがうかがえる。ただ直政は松原の北、磯山いそやま(現坂田郡米原町)に移築しようとしていたらしいが、その没後、嫡子直継(直勝に改名)が幼少であったため老臣木俣土佐が駿府へ下り、幕府の許可を得て彦根城に決定した。

築城の期間は慶長八年から元和八年(一六二二)にわたるが、大坂両陣を境に二期に分けられる。工事を監督する公儀奉行は山城忠久・佐久間政実・犬塚平右衛門が任じられ、役夫は伊賀(上野藩)・伊勢(桑名藩・津藩・亀山藩など)・美濃(大垣藩・加納藩)・若狭(小浜藩)・越前(福井藩)の七国一二大名に賦課された(井伊年譜)。なお「木俣記録」では二八大名・九旗本となっている。一方、井伊家は家中に縄張りとして四人、普請奉行として三人、作事奉行として一人、大工棟梁として一人を任じている。慶長九年かねの丸が成り、同一一年本丸天守が完成、併せて藩主の居館本丸広間も建てられた。これらいわば第一郭のおもな建設が終了、佐和山からの移転が行われたらしい。第二郭ほかの普請は元和二年藩主直孝のときに開始され、西の丸・土佐とさ郭・天秤てんびん櫓をはじめ堀・土居などが築造された。表御殿もこの第二期工事により造営がなり、ようやく藩政庁としての体裁を整えた。

〔城郭の構成〕

山頂にある本丸を中心に、南西に空堀と廊下橋を隔てて鐘の丸があり、北西方には西の丸、出郭とよばれる郭、内湖に突き出た山崎やまざき郭が連なる。鐘の丸の北には表御殿、本丸の北と南西には武器庫・米蔵などが置かれていた。これら政庁施設を擁する第一郭は湖に連なる内堀によって第二郭(内曲輪)と隔てられ、中堀をもってその周りに内町、さらに外堀の周りに町が形成されている。本丸の天守は切妻破風・入母屋破風・唐破風を多様に配置し、二階と三階に花頭窓、三階には高欄付の廻縁を四隅に取付ける。構造は通柱を用いず、各階ごとに積上げていく工法で、全体的に櫓の上に高欄を付けた望楼をのせる古い形式を残す。昭和三二―三五年(一九五七―六〇)の解体修理でもと五階四重のものを移築したことが判明。この天守は大津城からの移築からという(井伊年譜)。天守の東側に本丸広間があり、表御殿が造られるまで藩主の居館に充てられていた。本丸表口を固める櫓門太鼓たいこ門櫓は佐和山城から移築されたもの、西の丸の三重櫓は小谷おだに(現東浅井郡湖北町)の天守、鐘の丸の天秤櫓は長浜城大手門をそれぞれ移築したものと「井伊年譜」は伝えるが明らかではない。表御殿は寄附・広間・書院と、これらの西方の御守殿・笹之間・表御座間、および奥座敷・長局などからなり、表御座間は藩主の平常の居間として、また政務を執る場となった。江戸後期には表御座間の東の中庭に能舞台があった(現彦根城博物館内能舞台)。奥向の諸室は藩主とその家族の私的な部屋となった。この表御殿跡は昭和五八年発掘調査が実施されている。延宝七年(一六七九)二の丸内曲輪の松原内湖畔にまったく私的な利用となる下屋敷が建てられる。のち縮小・増築を経ながら文化期(一八〇四―一八)けやき御殿の名称を得、槻のお庭と称された現玄宮げんきゆう園も営まれた。米蔵一七棟・材木蔵一〇棟・竹蔵四棟が置かれた。

〔歴代城主とおもな治績〕

井伊直政を藩祖とする井伊家は明治四年(一八七一)の廃藩置県の時の直憲まで一四代を彦根藩主として領内三〇万石を治め、また幕政に重きをなした。井伊家は藤原氏を始祖とし、その共保のとき遠江守に任じられ、遠江国引佐いなさ井伊谷いいのや(現静岡県引佐郡引佐町)にあって井伊氏を称したという。戦国期、今川氏の勢力下にあったが、誹謗などにより井伊家当主は討死を繰返すなかで、直政は徳川家康により井伊家再興の機をつかみ、天正三年(一五七五)井伊谷に二千石を与えられた。翌四年家康の対武田氏との戦での大功で一万八千石となり、同一〇年には駿河国に加増四万石、同一八年の家康の江戸移封に伴い上野国箕輪みのわ(現群馬県群馬郡箕郷町)城主となり一二万石を得た。関ヶ原の戦では軍奉行として働き、家康の筆頭大名の位置にあった。佐和山城の直政は、京極・浅井両氏の遺臣を招き国風を尋ね、家臣に石田三成への悪口を止め、民政は広く旧例を尊重したとされる。慶長七年、関ヶ原の戦で島津軍を追討した際の鉄砲傷が悪化し、数え四二歳で没した。

嫡子直継は直政の後を継ぎ、慶長八年家康の命で彦根城築城に着工した。同一九年の大坂冬の陣では病臥にあり、庶弟の直孝が従軍。元和元年直孝が直政を継ぐことになり、直継は一八万石のうち上野の三万石を与えられ、安中あんなか(現群馬県安中市)城主となった(直勝と改める)。彦根藩一四代はこの直継を数えない。直孝は同年五月の夏の陣でも功をあげ、五万石の加増を約束されたらしく、一一月都合二〇万石の知行が通達された。さらに同三年・寛永一〇年(一六三三)に各五万石の加増で三〇万石となった。寛永九年年寄衆の一人として幕政に参与、秀忠・家光・家綱の将軍三代にわたって補佐した。藩政では人材の登用に門閥に偏らず実をとり、厳格な教育を推進し、藩の諸制度は直孝の時に整備されたという。万治二年(一六五九)没。なお直孝の嫡子直滋は寛永一三年父に代わり彦根に帰り国政を治めるよう命じられるが、万治元年百済ひやくさい(現愛知郡愛東町)に入る。三代直澄は直孝五男。延宝四年没。

四代直興は延宝四年就封、彦根藩中興の英主といわれる。同五年下屋敷の造営に着手。元禄元年(一六八八)日光東照宮修造の総奉行。同八年大洞弁財天を建立するため領内すべてに一人一文の奉加金を募るなど文治政治に力を注ぐ。同一〇年大老職、同一三年病を理由に辞し、第八子直通に家督を継がせ直治と改め養生する。宝永七年(一七一〇)五代直通が没し、次弟直恒が就封するがわずか五〇日で死去、直興は再び藩主となる。翌年大老に就き、直該と改める。正徳四年(一七一四)職を免じられ彦根に帰る。享保二年(一七一七)没。七代直惟は同年一五歳で就封、元文元年(一七三六)没。狩猟を好み、絵画をよくし、詩文に親しんだという。八代直定は享保二〇年就封するが、それ以前正徳三年に一万石を分知されていたのを(彦根新田藩)、就封とともに返還。質素倹約の生活を徹底し、奢侈を戒めた。幕府奏者番を勤める。宝暦四年(一七五四)致仕するが、九代直〓が死去、再び藩主になる。同年直〓の子直幸を嗣子とし、翌年一〇代目に就け、致仕。天明四年(一七八四)大老を命じられ、同七年辞すが、なお政務に参与。天明の飢饉の際には施粥場を設けた。その子直富は父に代わって国政に当たる。

一一代直中は寛政元年(一七八九)就封。藩士の俸禄の半分を上納する制度や租税の納入期を改めたほか、町会所を設置し、殖産奨励のため国産方を開き、また学館稽古けいこ館を創立した。弓馬・鉄砲など武芸を好み、倹約に勤めた。また藩財政の回復に伴い下屋敷槻御殿の増築、能役者の召抱え、香道の奨励など文化振興にも力を注いだ。一二代直亮は文化九年に就封、天保六年(一八三五)より同一二年まで大老職にあり、弘化四年(一八四七)から相模国の海岸警備を命じられた。

直弼は、埋木舎うもれぎのやで歌や茶の世界に遊び、古道を極め剣槍を修めていたが、兄直元の死により思いがけなくも弘化三年世子となり、嘉永三年(一八五〇)一三代藩主に就封、同じく相模国警備の任に就く。同六年ペリー来航の際には開国を主張、「別段存寄書」なる建白書を提出。安政五年(一八五八)に大老職に就任、同年六月日米通商条約に調印、イギリス、フランス、ロシア、オランダの四国とも開港条約を締結した。九月一連の外交政策や将軍の継嗣問題に反対する大名や浪人・公家のなかに不穏な計画があるのを知り、防止のためいわゆる安政の大獄を断行。翌六年一〇月には関係者の断罪を終えるが、攘夷倒幕の運動が高まるなか、翌安政七年三月三日、水戸浪士らの暴徒に討たれた。桜田門外の変である。しかし直弼の死は秘され、三〇日に大老職を免じられ、閏三月三日の発表となった。井伊家断絶を避けるための幕府の恩命であった。四月、直弼の次男直憲が一四代となる。文久二年(一八六二)八月京都守護職という井伊家の名誉職を免じられ、一一月父直弼の失政をとがめられ、一〇万石を減封された。以降、横浜港の警衛、長州征伐、京都の警護などに勤めた。明治二年版籍奉還により藩知事、同四年廃藩置県に伴いこれを免じられ、同一七年伯爵となる。

〔所領の変遷〕

慶長五年の佐和山城入封のときは上野国三万石を含む一八万石で、近江は神崎郡内二万四千一七八石余・愛知えち郡内五万六〇一石余・犬上郡六万一四一石余・坂田郡内一万四千二八九石余(ほか多賀大社領などを含む)であった(慶長高辻帳)。翌年直継への上野三万石を分ける。同二〇年の五万石加増の内訳は坂田郡内二万二千六四二石余・浅井郡内一万三千九七六石余・伊香いか郡内三千三九一石余・愛知郡内五千六〇九石余・神崎郡内四千三九〇石余。元和三年の五万石加増は坂田郡内二万七千九六五石余・愛知郡内三千八一三石余・神崎郡内一千九九七石余・蒲生がもう郡内一万六千二二三石余。寛永一〇年の五万石加増は伊香郡内一万五千九八〇石余・蒲生郡内六六七石余・愛知郡内一千石・坂田郡内四千九四四石余・浅井郡内七千四〇八石。同年のうち坂田郡の三千二七〇石余を浅井郡三千五一五石余・伊香郡二四五石余と、また浅井郡の一部と蒲生郡の一部が取替えられている。こうして寛永一一年八月段階で近江の犬上郡六万六七五石余・愛知郡内六万一千二〇石余・神崎郡内三万五六七石・蒲生郡内一万七千二三五石余・坂田郡内六万六千八一七石余・浅井郡内二万四千五五五石余・伊香郡内一万九千一二五石余と、下野国(安蘇郡内一万七千六九三石余)・武蔵国(橘樹郡内二千三〇六石余)を合せ三〇万石となった。これでみると替地などによるものか蒲生郡で一〇八石余が減り、またのちの寛文四年(一六六四)の領地目録改と照らすと、犬上・坂田両郡内ほかで替地があったようである。

現在のところ、最大三〇万石の具体的な村々を知るには寛永石高帳・正保郷帳以下の郷帳によるほかないが、一括彦根藩領の村名と村ごとの高をみるには延享二年(一七四五)の高辻帳があり、それによれば近江は犬上郡一円一一九村・愛知郡内一〇四村・神崎郡内五五村・蒲生郡内四〇村・坂田郡内一三四村・浅井郡内四一村・伊香郡内三九村の都合七郡内五六六村二八万石である(ほかは下野国安蘇郡内一五村、武蔵国荏原郡内一一村・多摩郡内八村)。なおこのほか御用米という城付米があり、これと本高三〇万石と合せ三五万石の格式とされたという。

文久二年の一〇万石減封は、近江の神崎・蒲生両郡と下野・武蔵両国の分は残らず上知となり、以下犬上郡内は五万八千二二三石余・愛知郡内二万八千六五四石余・坂田郡内六万四千一〇三石余・浅井郡内一万一千四八二石余・伊香郡内一万四千一一九石余に減じ、村数は三八三となった。この措置に対し、同年九月蒲生・神崎両郡の五〇村が幕府領への知行替えに反対し、一〇日に彦根城下へ押しかけ、一八日まで騒いだという(平松文書など)。上知は変更されなかったが、年貢徴収などの事務は彦根藩が継続したらしい。旧領民の要求が反映したものか、慶応元年(一八六五)この上知分のうち愛知・坂田・浅井・伊香四郡内の三万一千石余を井伊家への預所とした(以上、井伊家文書、「彦根市史」)。この預所の諸村は旧高旧領取調帳で知りうるが、たとえば神崎郡内にも預所と記す村があり、正確には把握しがたい。

〔家臣〕

身分上、五階級に分れる。笹之間詰は禄高一千石以上で三四家あり、老中・中老・用人らはこれから選ばれた。武役席は一千―三〇〇石の者で約六〇人、町奉行・筋奉行などを勤めた。平士は三〇〇―五〇石で約四八〇人、勘定奉行はじめ藩経営の用務にあたる。平士以上が知行取で、これらにつぐ小姓・中小姓・騎馬徒士までが士であり、切取米・扶持米取であった。これ以下に歩行(歩行・伊賀歩行・七十人歩行)・足軽(弓組・鉄砲組)が置かれた。知行取は一万石から五〇石までの田禄を与えられた。一万石の田禄は一万石の米を産する土地の知行権を得ることだが、この地方知行制は早くに実質を失い、正保二年(一六四五)には「彦根知行地方渡り相止む」とあるように(井伊年譜)、その知行権は井伊家に吸収されたという。扶持米取および切取米の士は御蔵入地(藩直轄領)から支給されたため、蔵取米などとよばれた。

おもな職制(平時)は老中・中老・用人・物頭(足軽組を管轄)・母衣役(物頭とともに士組付の編成外で、用人・側役・町奉行などの要職に就いた)をはじめ、寺社奉行を兼帯し彦根・長浜両町を管轄した町奉行、地方行政にあたる筋奉行、その補佐役の代官役、年貢米収蔵・管理の松原蔵奉行、領内の米の換金をつかさどるために置かれた大津蔵屋敷奉行・大坂蔵屋敷留守居、京都に急があれば松原湊から湖上三時間で坂本に走り山越えで入京するという水軍をつかさどる船奉行など。

〔地方行政〕

二代直孝のとき領内を三分、天野あまの川の北を北筋、宇曾うそ川筋の南を南筋、その中を中筋とし、各筋に筋奉行二人を置いた。御蔵入地と家臣の給所の別なく、村方の庄屋・年寄・横目・組頭を指揮し、行政・司法・警察など一切を管轄した。中筋は犬上郡一二〇村・愛知郡二七村・坂田郡五五村の二〇二村、南筋は愛知郡一〇〇村・神崎郡四五村・蒲生郡三九村の一八四村、北筋は犬上郡二村・坂田郡七三村・浅井郡四八村・伊香郡四二村の一六五村(「彦根領村帳」彦根市史)

慶長検地のあと承応二年(一六五三)藩独自の検地が行われるが(承応の畔走り)、年貢率はこれより先正保二年に定免制をとっていた。善政を布いたとされるが、小物成の取立ては「彦根掃部さんは油屋のしめ木、三十五万石しめなさる」とは里謡が語るところである。小物成は多種多様で、竹年貢(藪年貢)は現物納三分の一(ほか銀納)、茶運上は銀納、葦年貢は湖岸沿いの村からの徴収で米納とされる。ほか網年貢・海年貢・川年貢・入江年貢・船運上・〓運上・鳥札運上・酒造稼冥加・大工職冥加など。高掛物には千石夫米・五百石中間米・川除一分米・海道掃除米などがあり、うち中間米は藩と諸村の連絡役ほか公用雑務に充てていた費用を村方に課したものという。

彦根藩領内では一揆・騒動が少ないとされ、宝暦期の柳川騒動が知られるくらいだが、その理由には大藩であることがあげられる。財政規模が大きくやりくりに柔軟で領民に大幅な負担を強いることが少なかった。広い領域で他領との水・境・山をめぐる争いが少なく、他領と争論があった場合には井伊家の力が強大でその点での領主への信頼があったといえる。また一度も国替がなかったこともあり、形式化したとはいえ地方知行制が不満・動揺を表面化させなかったからともいわれる。

旱魃に恒常的に襲われる村方を頻度数順に一番・二番・三番とし、救恤施策の基準とした。また水害では湖岸沿いや荒川流域の村々に対し、水場二五ヵ村と水場村村を指定し、被害に応じて救米を支給している。天保の飢饉に際しては七年に蔵米三千俵を臨時に払米とし、翌八年には城下の六千九七二人に四一四俵余を安値で払下げている。備荒・救荒対策には義倉が採られたが、藩米と富農からの借用米で貯蓄米とする方策で、天保期の史料では金融制度化した側面がうかがえ、しかもそれが藩財政の補填に使われたのではないかという。

〔財政・国産方〕

藩財政はほぼ健全であったとされるが、江戸中期以降は必ずしも豊かではなく、幕末には七〇万石の借財があり、家臣の俸禄から融通することがあったらしい。将軍上洛の供奉、日光名代、朝鮮通信使来聘、大老職在任による江戸在府の長期化など出費の大きさは並大抵のものではなかっただろう。国産方の設置はこれを背景に推進されたとみられる。享保一五年米札(藩札)を発行、寛保二年(一七四二)には領内での幕府の貨幣の使用を禁止し、城下本町・長浜町・高宮宿に引替所を置き、米札流通の徹底を図った。この米札を基金に寛政一一年国産会所を城下ふな町に設置、浜縮緬・浜蚊帳・浜ビロード・高宮布のほか、政所茶・伊吹もぐさ・湖東焼などを保護、資金の貸付けや販路の確保などを行った。商業活動に積極的になるに伴い諸物産への統制のため産地に直接会所を設置するようになった。業務は所属の株仲間の統制のほか資金の貸付け・販路の確保などだが、実務はほとんど有力商人などに委嘱していた。なお藩は近江商人に対し御用金を調達させる一方、庇護を加え、苗字帯刀を許したり郷士の待遇を認めたりしたという(彦根市史)。井伊家は大名のなかで唯一牛肉の製造を認められており、将軍家や老中への献上品であった。元禄期、大石良雄が「彦根之産、黄牛の味噌漬」を食したことが伝えられるが(杉浦文書)、加工品には干牛肉・酒煎牛肉・粕漬牛肉などがあった。

〔文化・宗教〕

藩校は寛政一一年創立の稽古館があり、天保元年弘道こうどう館と改称した。藩学者には藩校で教えた伴只七(洞庵)・中村不能斎や、藩儒学者の中川禄郎、井伊直弼の側近で国学者の長野主膳がいる。大洞弁財天堂は藩主の意向で建立されたものだが、城下の寺社は彦根城の建設に伴い彦根山から移転したもの、上野国から移建したもの、同国以来の僧を開基とするものなどが知られる。これら寺社は北野きたの神社・北野寺をはじめとして井伊家の保護を受けるとともに、東照宮への将軍代参や大老職就任の祈願をするなど、井伊家との密接なつながりがあり、多賀大社の場合、社の経費の不足分を補ったり、祭礼の警備員を派遣するなど特別の計らいがあった。火災で焼失した寺院の復興には藩林などが寄進された。

明治四年の廃藩置県に伴い、彦根藩領は彦根県の管轄となり、城内に県庁が置かれた。同七年から城郭の解体が進められ、同一一年には天守閣解体の準備も整っていたが、同年一〇月北陸巡幸の明治天皇に現近江町長沢ながさわ福田ふくでん寺摂専の室が解体中止を嘆願、かろうじて城郭の一部が残された。現在国宝の天守閣をはじめ、天秤櫓・太鼓門櫓・西の丸三重櫓・馬屋・多聞櫓(以上国指定重要文化財)などの建造物を中心に、本丸および内曲輪一帯は国指定特別史跡として保存されている。また表御殿跡に昭和六二年開館した彦根城博物館は旧藩領および井伊家にかかわる史資料の収集・整理や公開を進め意欲的な企画展が行われている。



地図・資料
旧郡界図「滋賀県(旧郡域・現郡市町村域対照図)」(PDF)
図表・資料「行政区画変遷・石高一覧」(PDF)
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。
ジャパンナレッジの利用料金や
収録辞事典について詳しく見る

彦根城跡の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 4
検索コンテンツ
1. ひこねじょうあと【彦根城跡】滋賀県:彦根市/彦根城下
日本歴史地名大系
[現]彦根市金亀町・尾末町・城町 湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦
2. 滋賀(県)画像
日本大百科全書
日吉ひえ大社などのある大津市に集中している。また国指定の史跡の数も多く、特別史跡の安土城跡と彦根城跡をはじめとして40以上の史跡がある。これは、古代以来長年にわ
3. 彦根[市]
世界大百科事典
築いたのが町の起源で,1871年(明治4)の廃藩置県まで井伊氏35万石の城下町として繁栄した。彦根城跡は国の特別史跡に指定されており,城内に玄宮楽々園(げんきゆ
4. 彦根(市)画像
日本大百科全書
さらに特色あるものとして仏壇製造業も盛ん。市内には滋賀大学や滋賀県立大学、聖泉大学のキャンパスがある。彦根城跡は特別史跡、玄宮楽々園げんきゅうらくらくえんは国名
「彦根城跡」の情報だけではなく、「彦根城跡」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

彦根城跡と同じカテゴリの記事
大坂城跡(日本歴史地名大系)
日本歴史地名大系/平凡社/[現]東区大阪城。東区の北東の一角にある城跡で、本丸と二ノ丸のほぼ全域七三万平方メートルが国の特別史跡。城跡にもと玉造定番屋敷・同与力同心屋敷の一部を加えた約一〇三万平方メートルが大阪城公園となっている。
伏見城跡(日本歴史地名大系)
伏見山(桃山丘陵)に豊臣秀吉によって築かれた城。関ヶ原の合戦に伴う東軍と西軍の攻防戦で被害を受けた後、徳川家康の手で大規模な修築復興がなされたが、元和九年(一六二三)廃城になった。
井伊谷城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷の盆地北側、標高一一四メートルの城(しろ)山の山頂とその南東方向の麓にあった居館。井伊(いい)城ともいい、井伊氏の居城。なお史料上、南北朝期にみえる井伊城は三岳(みたけ)城をさす。
三岳城跡(日本歴史地名大系)
[現]引佐町三岳・川名。三岳山の山頂部にある山城跡。標高四六六・八メートルの山頂を中心として東西約七〇〇メートルにわたる尾根上に築かれていた。国指定史跡。井伊氏の本城で、平時の居館であった井伊谷(いいのや)の井伊谷城に対し、詰の城として利用され、当城と井伊谷城は同一視されていた。御嵩城・三嶽城・深嶽城あるいは
(日本大百科全書(ニッポニカ))
塁、堀、柵など外敵の侵入を防ぐために設けられた軍事的構築物のことをいい、さらにそれによって防衛された地域もいう。城郭という語も城と同義に用いられる。しかし火器の発達した近代に構築された軍事的防衛施設は城とよばず要塞とよばれる。最初は自然の地形を利用して防衛のためにのみ築城したが
城と同じカテゴリの記事をもっと見る


「彦根城跡」は日本の重要文化財に関連のある記事です。
その他の日本の重要文化財に関連する記事
彦根城跡(日本歴史地名大系)
[現]彦根市金亀町・尾末町・城町湖岸に近い彦根山(金亀山)に築かれた彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)の政庁。慶長五年(一六〇〇)九月の関ヶ原の戦は一七日の佐和山合戦で石田三成の佐和山(さわやま)城が陥落、井伊直政は徳川家康により三成の
大念仏(日本大百科全書・日本国語大辞典)
大ぜい集まって念仏を唱える行事。世阿弥(ぜあみ)作の能『百万』の背景となった嵯峨釈迦(さがしゃか)堂清凉寺(せいりょうじ)(京都市右京区)の大念仏は1279年(弘安2)に、また壬生寺(みぶでら)(京都市中京区)の大念仏は1300年(正安2)に円覚上人
岸和田城(国史大辞典・日本歴史地名大系)
大阪府岸和田市岸城町にあった。縄張りが滕(ちぎり)に似ているところから別称を千亀利城という。本丸・二ノ丸・三ノ丸と総曲輪からなる臨海の平城で、総面積約七万二千坪。建武年間(一三三四―三八)楠木正成に属した和田新兵衛高家が構えたのがはじまり
平戸城(国史大辞典)
長崎県平戸市岩の上町所在。亀岡城・朝日岳城・玄武城ともいう。平山城。平戸藩主松浦氏の居城。宝永四年(一七〇七)松浦棟が築城、以後明治維新に至る。実はこれ以前、同地には慶長年間築城の日之岳城があった。しかし、これは慶長十八年(一六一三)
高山陣屋跡(日本歴史地名大系)
[現]高山市八軒町城山の西方、宮川に架かる中橋を西に渡った地点に東に向いて位置する。敷地は一千一九二坪で、陣屋門(天保三年築造)・表玄関、広間(書院造)・白洲・庭園・収納米蔵などがあり、現存する唯一の郡代陣屋跡として国指定史跡
日本の重要文化財に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る