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  11. 趙之謙

ジャパンナレッジで閲覧できる『趙之謙』の辞書・事典・叢書別サンプルページ

岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書

岩波 世界人名大辞典
ちょうしけん趙之謙
Zhào Zhīqiān
字:益甫; 撝叔 号:悲盦; 无悶
1829[道光9]~84[光緒10]

中国清の金石家,書画家.

紹興(現,浙江紹興)の人.挙人 [1859:咸豊9].紹興の富裕な家に育ったが,少年の頃に家運が翳り,困苦を味わうことが多くなった.30歳の頃に太平天国軍が江南地方をかけめぐり,戦禍がおびただしくなると,知人の丁令威の招きによって温州に移り [61],さらに章安,瑞安を転々とし,福州に至る [62:同治1].その途中で妻を失う.同年の暮に温州から乗船し,翌年3月の会試に応ずるためはじめて北京に上り,紹興会館に滞在したが,その念願は果たされず,以後も2度落第.その間,北京・杭州の往復生活を余儀なくされるが,北京では書画家,金石家としての名が高まり,北京の龍樹寺における潘祖蔭(はんそいん)主宰の宴席に,胡澍(1825~72),王懿栄(おういえい)孫詒譲(そんいじょう)李慈銘(りじめい)とともに招かれている [71].翌年紹興に帰り,江西巡撫劉坤一(りゅうこんいつ)の招きにより,南昌志局において《江西通志》の編集に携わる [-78:光緒4夏].この大作業ののち,江西各地の知県を歴任し,最後に南城の知県に在職中,南城官舎で没した.文字の学に詳しく,殷周の金文を研究し,古文辞を修め,その〓文は六朝人の風度ありと称された.書は顔真卿(がんしんけい)から入り,のち北朝碑版を宗とし,また包世臣(ほうせいしん)の唱える逆入平出の法を駆使して独特の隷書法を導き,篆書においてもこの書法によった.篆刻にも優れ,強靱な造形と線質は世を冠絶する.また画は陳道復や李鱓(りぜん)に私淑し,主としてあでやかな花卉を得意とする一方で,繊細巧緻な表現も絶妙であった.書画作品のいずれにも不遇の境涯に対する悲憤が注がれた激しい筆意と感性が打ち出されている.著に《六朝別字記》《補寰宇訪碑録》《悲盦居士詩賸》《悲盦居士文存》《二金蜨堂印譜》などがある.

〖文献〗 碑伝集補25.清代画家詩史(辛・下).国朝書画家筆録4.鄒濤:趙之謙年譜.



日本大百科全書(ニッポニカ)
趙之謙
ちょうしけん
[1829―1884]

中国、清 (しん)末の書家、画家、篆刻 (てんこく)家。字 (あざな)は益甫 (えきほ)、のち撝叔 (きしゅく)と改め、梅庵 (ばいあん)、冷君、悲盦 (ひあん)、憨寮 (かんりょう)、无悶 (むもん)などと号した。浙江 (せっこう)省紹興の人。31歳のときに郷試に及第したが、北京 (ペキン)で行われる会試には5回応じてことごとく失敗し、子供に読み書きを教えたり、書画や篆刻を売って生計をたてた。晩年は江西省の知県を歴任したが、過労のために没した。書は初め顔真卿 (がんしんけい)を習ったが、やがて包世臣 (ほうせいしん)の「逆入平出 (ぎゃくにゅうへいしゅつ)」の用筆法を取り入れて北碑を学び、鬱勃 (うつぼつ)たる熱情を近代的な知性と感覚で造型して各体をよくし、「北魏 (ほくぎ)書」と評される独得の書風を創始した。画は惲寿平 (うんじゅへい)や徐渭 (じょい)の風を慕って優麗な没骨 (もっこつ)の花卉 (かき)を得意とし、近代初頭の花卉画の代表的作家となった。篆刻は漢印や鄧石如 (とうせきじょ)を基礎として、理知的かつ繊細で、静かな高い風格を示す。大正時代以来、日本の書道界に与えた影響は大きく、作品も多く伝来している。作品集に『悲盦賸墨 (あんようぼく)』『二金蝶堂 (にきんちょうどう)遺墨』『二金蝶堂印譜』『趙撝 (ちょうき)叔印譜』などがあり、著書に『六朝別字記』『補寰宇 (かんう)訪碑録』『梅庵集』などがある。

[筒井茂徳]



趙之謙『篆書五言対聯』[百科マルチメディア]
趙之謙『篆書五言対聯』[百科マルチメディア]

清(しん)代(1867年) 作品部各181.9×48.1cmメトロポリタン美術館所蔵
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検索コンテンツ
1. ちょうしけん【趙之謙】(Zhào Zhīqiān)
世界人名大辞典
堂印譜》などがある.〖文献〗 碑伝集補25.清代画家詩史(辛・下).国朝書画家筆録4.鄒濤:趙之謙年譜.
2. 趙之謙画像
日本大百科全書
中国、清しん末の書家、画家、篆刻てんこく家。字あざなは益甫えきほ、のち撝叔きしゅくと改め、梅庵ばいあん、冷君、悲盦ひあん、憨寮かんりょう、无悶むもんなどと号した
3. 趙之謙
世界大百科事典
1829-84 中国,清代末期の書画・篆刻(てんこく)家。浙江省紹興の人。字は益甫,撝叔,号は悲盦(ひあん),无悶(むもん)。咸豊9年(1859)の挙人。初め科
4. 趙之謙『篆書五言対聯』[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
清しん代(1867年) 作品部各181.9×48.1cmメトロポリタン美術館所蔵
5. えきじゅ【易孺】(Yì Rú)
世界人名大辞典
優れ,特に篆刻は黄牧甫(1849~1908)に学び,趙之謙の法を継承しつつも古拙なるところは趙氏を超えていたと評される.書を学ぶ際も趙之謙から入り,晩年には豪放
6. こうしりょう【黄子陵】(Huáng Zǐlíng)
世界人名大辞典
活を過ごした.書,篆刻,絵画のいずれにも秀でた資質を発揮し,特に篆刻は呉譲之(ごじょうし),趙之謙(ちょうしけん)を師法とし,さらに秦・漢の鉥印に遡って一家を成
7. ちょうじこう【趙時棡】(Zhào Shígāng)
世界人名大辞典
,辛亥革命後は上海に寓居して書画印で自給した.書は四体に通じ,行楷は趙孟頫(ちょうもうふ),趙之謙の影響を受けて,温潤高雅,篆隷も凡庸ではなかった.篆刻は若くし
8. りくかいきん【陸開鈞】(Lù Kāijūn)
世界人名大辞典
物学・文字学・書法・篆刻等を教えた.人民共和国建国後は中央文史館館員となった.書画を善くし,趙之謙の遺意を継いだ.篆刻では習熟した金石学と文字学を基に,高雅な作
9. 印章画像
日本大百科全書
、安徽の古名によって皖派かんぱとよばれる。清朝末期の呉譲之ごじょうし(1799―1870)、趙之謙ちょうしけん(1829―1884)、呉昌碩ごしょうせき(184
10. 印譜
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堂印譜》50巻(1747)などがある。専集では明の何震の《何雪漁印海》4巻(1621),清の趙之謙の《二金蝶堂印存》8巻(1904),呉昌碩の《缶廬印存》4集1
11. 寰宇訪碑録
世界大百科事典
樹が完成した。1812年(嘉慶17)に平津館叢書の一つとして刊行。その不備を補訂したものに,趙之謙の《補》《失編》,羅振玉の《刊謬》《補刊誤》,劉声木の《校勘記
12. 顔氏家訓 2 141ページ
東洋文庫
……異なった文字になる 以上の変態文字の用例は邪樹の『金石文字辮異』、楊紹   康の『金石文字辮異補編』、趙之謙の『六朝別字記』、楊守敬の『楷法溯源』および羅振
13. 呉昌碩
世界大百科事典
30歳ころから本格的に絵画創作を始めて以来,明の徐渭や明末・清初に革新的芸術を樹立した石濤や大胆な筆致に富む趙之謙等の画風をよく吸収して竹石,山水をよくし,なか
14. 支那史学史 2 225ページ
東洋文庫
石碑の数を載すること八千余に達し、碑名・その地方、年代・書者を記してみる。これに次いで、後に趙之謙の補簑宇訪碑録・羅振玉の再続簑宇訪碑録が出来た。金石の目録を大
15. 支那史学史 2 359ページ
東洋文庫
259昆公武       1-333趙師淵       1-2g4張軸        1-226趙之謙       II-225張爾田       n:卿291
16. 書
世界大百科事典
これを碑学後期とよぶ。この期の書家は多くていちいち挙げきれないが,呉煕載(ごきさい),何紹基,趙之謙,張裕釗(ちようゆうしよう),呉昌碩らがおもな人々である。碑
17. 清代学術概論 中国のルネッサンス 189ページ
東洋文庫
中国各地の石碑の目録で、石 碑の数八千余、碑名、所在地、年代、書者をあきらかにしたもの。のちに趙之謙が『補簑宇訪 碑録』、羅振玉が『再続簑宇訪碑録』を編纂して補
18. 清代美術
世界大百科事典
くの名家が現れて,絢爛たる書風を競った。阮元,包世臣,呉煕載(1799-1870),何紹基,趙之謙らがそれである。この時期に至って帖学と碑学とを兼ねて学び,金文
19. 清朝史通論 228ページ
東洋文庫
鼓吹するには余程の力がありました。 今まで申したのは道光以後、道光・威豊の頃といってよいが、其の以後即ち趙之謙から後は極く最近のものでありまして、近頃まで生きて
20. 清朝史通論 253ページ
東洋文庫
変遷に就いて著明なる徴候であります。 其の次に現代に至るまでの人を一通り挙げて見ると、王素・趙之謙・張熊・任伯年・顧若波・銭吉生・陸恢といふやうな人々で、此の中
21. 清朝史通論 254ページ
東洋文庫
かういふ際にも非常の天才が現はれることがある。今挙げた中の趙之謙の如きはそれである。其の画は卓抜なる特色を有って居るので、言はば純然たる印象派であります。元来趙
22. 清朝史通論 255ページ
東洋文庫
居るので、画に於ても各種各様に盛況を極めた時代は已に過ぎ去ったのでありまずけれども、其の間に趙之謙のやうな天才が出る処を見れば、支那の芸術の潜勢力は全く消磨した
23. 清朝史通論 257ページ
東洋文庫
み難い。それで湯胎扮・戴煕の二人が威豊時代になくなった後は大家が起らないと言はれて居ります。趙之謙などは特殊の天才で、通例代表的の大家といふものとは撰を異にして
24. 清朝史通論 285ページ
東洋文庫
 何紹基  以上諸人皆為二北派之前駆り 趙之謙 楊活孫 楊蜆 翁同餅 播存 張裕釧 楊守敬 呉昌碩  北派至レ今極二其盛運り而楊星吾新以曹晴唐遺墨一欲ヒ変二其格
25. 清朝史通論 293ページ
東洋文庫
雍名人つ前後同殉二於髪匪之難一臭。沈宗籍奉和永 二家先後檀長二論画つ而其自運亦時篠二妙境り王素趙之謙張熊任伯年顧若波銭吉生 同光之際。作家寥寥若二農星り撚叔挺二
26. 中国美術画像
日本大百科全書
同一の画題で作画することが多かった。八怪の主観主義的絵画は、杭州の華嵓かがん、咸豊かんぽうの趙之謙ちょうしけん、清末の呉俊卿ごしゅんけいらに受け継がれていった。
27. 篆刻
日本大百科全書
清代はまた金石学完成の時期でもあり、篆刻もそれに伴いいっそう興隆し、鄧石如とうせきじょ、呉譲之ごじょうし、趙之謙ちょうしけんらの名手が相次いで現れ、清代末期から
28. 篆刻
世界大百科事典
篆刻の新天地を開いて,印壇の老化現象を改めた。 清代後期,各派それぞれがマンネリ化したとき,趙之謙が出て,鄧派・浙派を兼ねて学ぶとともに,篆刻の領域を秦・漢・六
29. てんこく【篆刻】
国史大辞典
派・皖派と呼ばれ、包世臣・呉譲之・趙之謙・徐三庚・呉昌碩ら優れた後継者を得て印壇の主流をなした。日本へは江戸時代に、明の遺民や僧により
30. 中村蘭台
日本大百科全書
うの繊細流麗な作風に傾倒、さらに秦漢しんかんの古銅印や浙派せっぱ、および鄧完白とうかんぱく、趙之謙ちょうしけんらの刀法をも取り入れ、独自の刻風を打ち出した。こと
31. 文人画
世界大百科事典
そのうち文人画本来の写意を尊ぶ伝統は,明末の徐渭(じよい)に始まり,遺民画家,揚州八怪を経て,清末の趙之謙,呉昌碩(ごしようせき)に至る花卉(かき)雑画の画家た
「趙之謙」の情報だけではなく、「趙之謙」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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