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  11. 法隆寺
日本大百科全書(ニッポニカ)

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法隆寺
ほうりゅうじ

奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。
[里道徳雄]

歴史

草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ、大王天皇(推古(すいこ)天皇)と聖徳太子を召して造寺と薬師像の造立を誓願したが果たさず崩御した。推古天皇と聖徳太子はその遺命を受けて、推古天皇15年(607)に寺と薬師像を完成したという。これは『顕真得業口訣抄(けんしんとくごうくけつしょう)』『古今目録抄』などにも「推古2年起工15年完成」とあって確かめられる。しかし、『東寺王代記』の記す崇峻(すしゅん)天皇の代、『興福寺年代記』の推古7年説、『興福寺略年代記』の推古21年説など、建立年代をめぐって諸説がある。いずれにせよ、金堂の釈迦(しゃか)如来三尊像が623年、聖徳太子逝去の翌年に造像されており、この年を下るものではない。太子は598年に播磨(はりま)国の地50万代(しろ)を法隆寺に施入、その後も606年に播磨国水田100町を施入、609年に270余町ずつ施納して経済的基盤を築いている。
 寺域は、太子が605年から622年まで住し政務をとった斑鳩宮(いかるがのみや)の西に位置した。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)によって太子の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が襲撃され斑鳩宮は全焼したが、法隆寺は類焼を免れた。しかし『日本書紀』によれば、670年(天智天皇9)落雷によって全焼したとあり、その後に再建された伽藍(がらん)が現在の法隆寺伽藍とされる。この天智(てんじ)天皇9年焼亡説に対し、『法隆寺伽藍縁起並(ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がないところから、法隆寺再建非再建論争が起こり、大正から昭和にかけて、『日本書紀』に信を置く歴史学者と、様式論から立論する美術史学者の間で激論が展開された。しかし1939年(昭和14)の若草伽藍跡発掘調査などにより、現在では再建説が定説化している。それによれば、法隆寺草創の伽藍は、現在の伽藍から南東に位置する若草伽藍跡とよばれる地にあったとされる。同地から塔の心礎、金堂と塔の基壇の跡が発見されており、伽藍配置は塔と金堂が南北に一直線上に並ぶ四天王寺式で、中軸線は北より約20度西に傾斜(現法隆寺は西へ4度傾斜、16度の差がある)しており、斑鳩宮跡の方位とほぼ一致すること、また瓦(かわら)は現在の複弁ではなく、飛鳥(あすか)寺や四天王寺のように単弁の蓮華(れんげ)文であったことなどが判明した。さらに1968~69年(昭和43~44)の金堂解体修理の際、金堂礎石が旧伽藍の焼けた礎石を流用したものであることが明らかになった。
 再建法隆寺は旧若草伽藍から北西に位置を変え結構を変更して建立されたが、再建年代は不明。しかし、711年(和銅4)に五重塔の釈迦涅槃(ねはん)像などの塑像と中門の金剛力士像がつくられているので、金堂、五重塔、中門、回廊などは、持統(じとう)天皇の代(在位686~697)には建立されていたとみられ、8世紀初頭には経蔵などの建立をみ、諸堂が完成されたらしい。
 739年(天平11)僧行信(ぎょうしん)は斑鳩宮の跡に八角円堂の夢殿(ゆめどの)を中心とする伽藍を建立した。これが今日、金堂・五重塔の伽藍を西院とよぶのに対し、東院とよばれる上宮(じょうぐう)王院伽藍である。夢殿は現存の八角円堂中最古のもので、堂内には聖徳太子等身の御影(みえい)と伝えられる本尊救世観音(ぐぜかんのん)像を安置。行信の建立100年後、道詮(どうせん)律師が堂の修復を果たしたので、堂内には行信僧都(そうず)・道詮律師の坐像が並祀(へいし)されている。
 その後、法隆寺は、925年(延長3)大講堂が焼失し再建された。諸堂の修理は数度に及ぶ。わけても鎌倉時代の修理は1219年(承久1)東院の舎利殿(しゃりでん)・絵殿(えでん)の拡張再建、1230年(寛喜2)の再建に近い諸堂の改造、あるいは西円堂、聖霊院(しょうりょういん)、西室(にしむろ)・三経院(さんぎょういん)、東院礼堂(らいどう)、東院鐘楼の再建などがあって伽藍の様相を一新するものであった。江戸時代には慶長(けいちょう)大修理(1600~06)や元禄(げんろく)大修理(1690~1707)が行われ、各堂の部材が取り替えられた。また1933年から53年にかけて法隆寺伽藍昭和大修理がなされ、建物はすべて解体修理し、改造部分を除いて建造当初の姿に復原された。この間、1949年1月に金堂壁画が焼失する不幸があったが、68年模写再現された。その後、大宝蔵殿が完成、綱封蔵(こうふうぞう)伝来品ほか多数の寺宝を収蔵、展観されるようになった。
 聖徳太子が『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』(「勝鬘経(しょうまんきょう)義疏」「維摩(ゆいま)義疏」「法華(ほっけ)義疏」)を作成し講じたことは有名であるが、この伝統はよく護持され、法隆寺は法相(ほっそう)、三論、律、真言(しんごん)の四宗兼学道場として南都の学問の中心に位置し、道詮をはじめ高僧が歴住し、倶舎唯識(くしゃゆいしき)の学者を輩出した。1585年(天正13)の古図によると子院は62を数え、太子信仰の中心としても栄え、明治以降も聖徳太子奉賛会などの組織を通して維持管理されている。1950年太子の遺徳を表す意味をもって聖徳宗を開き、その総本山となった。
[里道徳雄]

伽藍・行事

現法隆寺境内は西院伽藍と東院伽藍からなり、10余の塔頭(たっちゅう)を擁している。伽藍の総門にあたる南大門左右には長い築地(ついじ)塀が延びる。西院伽藍は五重塔が西に、金堂が東に並列する法隆寺式伽藍配置で、金堂、五重塔、中門と回廊部分は飛鳥時代の建築様式を伝える世界最古の木造建築である。回廊の外、東側には東室・聖霊院、妻室、綱封蔵、細殿(ほそどの)、食堂など、西側には西室・三経院がある。東院伽藍は夢殿を中心として、礼堂、舎利殿・絵殿、回廊、鐘楼、伝法(でんぽう)堂などからなる。これら建築物の多くが国宝、国重要文化財に指定されており、また堂内には貴重な仏像、絵画、工芸品を多く蔵し日本美術史の一大宝庫となっている。1993年(平成5)には、法隆寺地域の仏教建造物が世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産)。
 なお、明治維新後、法隆寺も衰退し、1878年(明治11)宝物の一部を皇室に献納して下賜金を受けた。これは法隆寺献納宝物とよばれ、現在は東京国立博物館に展示されている。
 おもな年中行事には、東院舎利殿で行われる舎利講(1月1~3日)、金堂修正会(しゅしょうえ)(1月8~14日)、西円堂修二会(しゅにえ)(2月1~3日)、お会式(えしき)(3月22~24日)、夏安居(げあんご)(5月16日~8月15日)などがある。修二会は薬師如来の前で修され、3日目夜の結願(けちがん)に行われる追儺(ついな)式は名高い。またお会式には聖霊院内に米粉でつくった鳥・花など華麗な供物が供えられ、聖徳太子を賛嘆する。
[里道徳雄]

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検索コンテンツ
1. 法隆寺
日本大百科全書
この天智(てんじ)天皇9年焼亡説に対し、『法隆寺伽藍縁起並(ならびに)流記資財帳』やその他の法隆寺関係文書に火災記事がないところから、法隆寺再建非再建論争が起こ ...
2. 法隆寺画像
世界大百科事典
。山岸 常人 法隆寺献納宝物 法隆寺の文化財のうち,国宝,重要文化財の指定を受けたものは,約200件に及ぶ。このうち61件が,東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管 ...
3. ほうりゅう‐じ【法隆寺】画像地図
デジタル大辞泉
多い。金堂の壁画は昭和24年(1949)の火災で焼失したが、のち復元。平成5年(1993)「法隆寺地域の仏教建造物」として世界遺産(文化遺産)に登録された。法隆 ...
4. ほうりゅう‐じ[ホフリュウ:]【法隆寺】
日本国語大辞典
現存世界最古の木造建築として知られ、その後、各時代の建物がある。金堂・五重塔を左右に並置した伽藍配置は法隆寺式といわれる。天平一一年(七三九)斑鳩宮の跡に夢殿を ...
5. ほうりゅうじ【法隆寺】画像
国史大辞典
若草伽藍と確定するに至ったのである。 →法隆寺論争(ほうりゅうじろんそう) [参考文献]喜田貞吉『法隆寺論攷』、石田茂作『総説飛鳥時代寺院址の研究』、同『法隆寺 ...
6. ほうりゅうじ【法隆寺】奈良県:生駒郡/斑鳩町/法隆寺村
日本歴史地名大系
文献上の初見は「日本書紀」天智天皇九年四月三〇日条に「夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋余ること無し。大雨ふり雷震る」とみえる法隆寺全焼の記事であるが、法隆寺の再 ...
7. ほうりゅうじ【法隆寺】島根県:邑智郡/川本町/川本村
日本歴史地名大系
僧絵像を与えている(御影様之留)。五世大蓮の享保元年(一七一六)に法隆寺と改称。寛政七年(一七九五)に弓市に移ったが(法隆寺文書)、水害のため大正七年(一九一八 ...
8. 法隆寺
デジタル大辞泉プラス
青江舜二郎による戯曲。副題「鳥の時代」。初演は劇団民芸(1958年)。同年、第4回新劇戯曲賞(のちの岸田国士戯曲賞)の候補作品となる。 2013年07月 ...
9. 法隆寺
デジタル大辞泉プラス
推古天皇と聖徳太子が創建。世界最古の木造建築とされる金堂、五重塔のほか、多くの国宝を所有。「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録。南都七大 ...
10. 法隆寺(ほうりゅうじ)[大和]【篇】
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 1277ページ ...
11. 法隆寺(ほうりゅうじ)[羽前]【併入】
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 783ページ ...
12. 法隆寺(ほうりゅうじ)[近江]
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 668ページ ...
13. 法隆寺〔出羽〕
日本史年表
856年〈斉衡3 丙子〉 3・9 出羽国 法隆寺 を定額寺とする(文徳実録)。  ...
14. 法隆寺〔大和〕
日本史年表
670年〈天智9 庚午⑨〉 4・30 法隆寺 全焼(紀・聖徳太子伝補闕記)。  ...
15. 伽藍配置復元図1[図版]画像
国史大辞典
山田寺 川原寺 飛鳥寺 四天王寺 法隆寺 薬師寺 興福寺 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
16. 僧坊の間取り[図版]画像
国史大辞典
薬師寺 法隆寺 元興寺 東大寺 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
17. Hōryūji 【法隆寺】
Encyclopedia of Japan
A monastery temple, also known as Ikarugadera, located in the town of Ikaruga, s ...
18. ほうりゅうじいっさいきょう【法隆寺一切経】画像
国史大辞典
法隆寺に聖徳太子以来の将来経が多数伝来したことは想像されるが、『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』『法隆寺東院縁起資財帳』には一切経伝存の記述はみえない。古くまとま ...
19. 法隆寺一切経印[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
20. 法隆寺印[図版]画像
国史大辞典
法隆寺印 鵤寺倉印 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
21. ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう【法隆寺伽藍縁起〓流記資財帳】
国史大辞典
食封が列記される。法隆寺に伝えられた建築・彫刻・仏具・調度などで資財帳に記載されているものは多数あり、法隆寺の歴史と古代の様子を示す重要な史料である。九―十五世 ...
22. ほうりゅうじきほぼうしゅう【法隆寺記補忘集】
国史大辞典
法隆寺に関する金石文・記録・文書などを抄録したもの。江戸時代中期の法隆寺中院の僧良訓が編集した。主として法隆寺に蔵せられる仏像・仏具・器物などの記文、古文書、 ...
23. 法隆寺裂
日本大百科全書
奈良・法隆寺に伝来した飛鳥(あすか)・奈良時代の染織品。その大部分は1876年(明治9)に皇室に献上された献納宝物品に属するもので、今日、東京国立博物館内の法隆 ...
24. 法隆寺献納舎利殿擬宝珠[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
25. ほうりゅうじけんのうほうもつ【法隆寺献納宝物】
国史大辞典
理により、法隆寺献納御物は国有となり、東京国立博物館に保管されている。同三十九年法隆寺宝物館が開館され、三百余件の品々が一堂に収納展示された。ただし、寺にゆかり ...
26. ほうりゅうじけんもつちょう【法隆寺献物帳】
国史大辞典
聖武天皇の遺品を法隆寺に奉献した際に添えられた目録・祈願文。原本は、もと法隆寺に伝わったが、いわゆる法隆寺献納宝物の一つとして、現在は東京国立博物館に蔵せられる ...
27. ほうりゅうじさいけんろん【法隆寺再建論】 : 法隆寺
国史大辞典
法隆寺再建論〕  若草伽藍の発掘は、現西院伽藍に先行する伽藍が存在したことを明らかにし、明治以来の法隆寺再建非再建をめぐる問題は、若草伽藍の確認によってほぼ ...
28. 法隆寺再建非再建論争
世界大百科事典
榲邨(すぎむら)(1834-1910)が《日本書紀》天智9年(670)4月条の法隆寺全焼の記事によって,創建法隆寺は同年に焼亡し,現在の西院伽藍は和銅年間(70 ...
29. ほうりゅうじ‐しき[ホフリュウジ:]【法隆寺式】
日本国語大辞典
〔名〕寺院の伽藍配置の形式の一つ。法隆寺の西院伽藍がその代表で、南面する中門から出た歩廊に囲まれた矩形の中庭に東に金堂、西に五重塔が並立する建て方。わが国独自の ...
30. ほうりゅうじしゃく【法隆寺尺】
国史大辞典
法隆寺に伝わる象牙の尺。聖徳太子の遺品と伝えられる。幅約二〇ミリ、厚さ約六ミリの矩形断面で、全長九寸八分(約二九七ミリ)。表面に一寸ごとに五寸までの目盛を刻み ...
31. ほうりゅうじ‐じゃく[ホフリュウジ:]【法隆寺尺】
日本国語大辞典
〔名〕法隆寺東院所蔵の奈良時代の古尺。聖徳太子の頃、初めて日本に渡来したものという。長さ・幅・厚さはそれぞれ二九・七センチメートル、二・八センチメートル、〇・八 ...
32. 法隆寺建物配置図[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
33. ほうりゅうじとういんえんぎしざいちょう【法隆寺東院縁起資財帳】
国史大辞典
それを明治十八年(一八八五)に法隆寺管主千早定朝が三冊に編んだ。そのうちの第一冊『法隆寺東院縁起』(法隆寺所蔵)の第四番の史料として、保安二年(一一二一)に法隆 ...
34. 法隆寺版
世界大百科事典
→寺院版 ...
35. ほうりゅうじ‐へきが[ホフリュウジヘキグヮ]【法隆寺壁画】
日本国語大辞典
奈良県法隆寺金堂内の壁に描かれた仏画。白鳳時代の作。外陣四面の大壁に四仏浄土図、八面の小壁(しょうへき)に一体ずつの菩薩図、さらに外陣頭貫上小壁(こかべ)一八面 ...
36. ほうりゅうじべっとうき【法隆寺別当記】
国史大辞典
法隆寺別当に関する記録。原本はもと法隆寺に伝わり、独立した三部の書であったが、元禄九年(一六九六)に修補した際に、一括して「別当記」と名付けたもの。修理の時に ...
37. ほうりゅうじべっとうしだい【法隆寺別当次第】
国史大辞典
歴代の法隆寺別当の次第を示し、その任期中に起った重要な出来事を記したもの。二種の伝本があり、ともに『法隆寺別当記』に含まれるが、(一)は承和年中(八三四―四八 ...
38. ほうりゅうじむら【法隆寺村】奈良県:生駒郡/斑鳩町
日本歴史地名大系
[現]斑鳩町大字法隆寺 矢田丘陵南麓の村。「大和志」によると、法隆寺村は町名一四、属邑四とある。法隆寺の西にあたる西里からは縄文中期の土器や石器が出土した。村域 ...
39. ほうりゅうじもんじょ【法隆寺文書】
国史大辞典
。 [参考文献]高田良信『法隆寺』一(『日本の古寺美術』一)、荻野三七彦「法隆寺の文書について」(石田茂作編『法隆寺秘宝』上所収)、同「太子史料の二三に就て」( ...
40. ほうりゅうじろんそう【法隆寺論争】
国史大辞典
している。→法隆寺(ほうりゅうじ) [参考文献]聖徳太子奉讃会編『法隆寺論抄』、足立康『法隆寺再建非再建論争史』、会津八一『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究 ...
41. 法隆寺若草伽藍跡発掘実測図[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
42. ほうりゆうじあと【法隆寺跡】和歌山県:和歌山市/河南地区/中野島村
日本歴史地名大系
[現]和歌山市中之島 金剛山医王院と号し、真言宗古義で京都勧修寺(現京都市山科区)末であったが、現存しない。「続風土記」はもとは東方有本にあったが、正徳年間(一 ...
43. 法隆寺観音菩薩像
日本史年表
649年〈大化5 己酉〉 この頃 法隆寺玉虫厨子 成るか。 法隆寺観音菩薩像(百済観音) 成るか。  ...
44. 『法隆寺記補忘集』
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1720年〈享保5 庚子〉 この春 良訓編 『法隆寺記補忘集』 成る(元文元年6月頃まで書き継がれる)。  ...
45. 法隆寺旧蔵金銅観音菩薩像
日本史年表
651年〈白雉2 辛亥⑨〉 この年 法隆寺旧蔵金銅観音菩薩像 成る(「辛亥年」銘)。  ...
46. 法隆寺金堂四天王像
日本史年表
650年〈白雉元(2・15) 庚戌〉 この頃 法隆寺金堂四天王像 成る(光背銘)。  ...
47. 法隆寺金堂釈迦三尊像
日本史年表
623年〈推古31 癸未〉 3・‐ 法隆寺金堂釈迦三尊像 成る(光背銘)。  ...
48. 法隆寺金銅薬師如来像
日本史年表
607年〈推古15 丁卯〉 この年 用明天皇のために 金銅薬師如来像 を造る(法隆寺薬師像光背銘)(一説、天智九年法隆寺罹災後の擬古作)。  ...
49. 法隆寺釈迦如来
日本史年表
628年〈推古36 戊子〉 12・15 法隆寺釈迦如来 ・ 脇侍菩薩像 成る(光背銘)。  ...
50. 法隆寺釈迦如来脇侍菩薩像
日本史年表
628年〈推古36 戊子〉 12・15 法隆寺釈迦如来 ・ 脇侍菩薩像 成る(光背銘)。  ...
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奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
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