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芳沢あやめ

ジャパンナレッジで閲覧できる『芳沢あやめ』の歌舞伎事典・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

新版 歌舞伎事典
芳沢あやめ
よしざわあやめ
 歌舞伎役者。
【初世】1673‐1729 前名吉沢あやめ。元禄初年には若女方で出演の記録が見え、以後京・大坂の舞台で次第に認められ、元禄一一(1698)年《傾城浅間嶽けいせいあさまがたけ》の傾城三浦の好演で、この年若女方上上吉に進む。上方の女方四天王の一人と称され、正徳一(1711)年歌舞伎役者として初めて極上上吉の位を与えられた。正徳三年冬から一年間江戸に出演、この時の《女楠天下太平記おんなくすのきてんがたいへいき》の芸は《浅間嶽》とともに終生の当り芸となり、翌年極上上吉無類、それより三ヶ津惣芸頭さんがのつそうげいがしら、三国無双、日本第一、三ヶ津極無類さんがのつごくむるいなど空前の位を与えられた。しかし享保六(1721)年冬芳沢権七と改名して立役に転じたのは失敗で、一年後女方芳沢あやめに復帰した。所作より地芸にすぐれ、実の女の情を表現しようと努めて、歌舞伎の写実的な地芸を成長させた功は大きい。晩年の芸談を集めた《あやめぐさ》は女方の心得を説く貴重な文献となった。
【二世】初世の長男。前名芳沢崎之助。享保一四(1729)年襲名。若女方で極上上吉に至った。
【三世】初世の四男。前名二世芳沢崎之助。明和一(1764)年襲名。若女方で極上上吉に至った。以後あやめの名跡は文化年間(1804‐1818)の五世まで続いた。
あやめぐさ
[松崎 仁]


改訂新版 世界大百科事典
芳沢あやめ
よしざわあやめ

歌舞伎役者。(1)初世(1673-1729・延宝1-享保14) 前名吉沢あやめ。元禄(1688-1704)初年には若女方で出演の記録が見え,以後京,大坂の舞台でしだいに認められ,1698年(元禄11)《傾城浅間嶽(けいせいあさまがたけ)》の傾城三浦の好演で,この年若女方上上吉に進む。上方の女方四天王の一人と称され,1711年(正徳1)歌舞伎役者として初めて極上上吉の位を与えられた。13年冬から1年間江戸に出演,このときの《女楠天下太平記(おんなくすのきてんがたいへいき)》の芸は《浅間嶽》とともに終生の当り芸となり,翌年極上上吉無類,それより三ヶ津惣芸頭(さんがのつそうげいがしら),三国無双,日本第一,三ヶ津極無類(さんがのつごくむるい)など空前の位を与えられた。しかし21年冬,芳沢権七と改名して立役に転じたのは失敗で,1年後女方芳沢あやめに復帰した。所作より地芸にすぐれ,実の女の情を表現しようと努めて,歌舞伎の写実的な地芸を成長させた功は大きい。晩年の芸談を集めた《あやめぐさ》は女方の心得を説く貴重な文献となった。(2)2世(1702-54・元禄15-宝暦4) 初世の長男。前名芳沢崎之助。1729年(享保14)襲名。若女方で極上上吉に至った。(3)3世(1720-74・享保5-安永3) 初世の四男。前名2世芳沢崎之助。1764年(明和1)襲名。若女方で極上上吉に至った。以後あやめの名跡は文化年間(1804-18)の5世まで続いた。
[松崎 仁]

[索引語]
あやめぐさ


国史大辞典
芳沢あやめ
よしざわあやめ
歌舞伎俳優。屋号橘屋。

(一)初代

一六七三 - 一七二九
延宝元年(一六七三)紀州に生まれる。本姓斎藤。幼名綾之助。通称権七。五歳で父に死なれ、大坂道頓堀で色子となり、丹波の郷士橘五郎左衛門の世話をうけ、橘屋権七の名で舞台に立った。若衆方や立役を経て女方となり、元禄六年(一六九三)、吉沢あやめと改名、のち芳沢に改めた。三都を歴勤、正徳元年(一七一一)十一月には京夷屋座の座本となった。享保六年(一七二一)、芳沢権七の名で立役となったが、一年で女方に復帰。傾城事・女房役などを得意とし、「三ケ津総芸頭」と称えられた。享保十四年七月十五日没。五十七歳。芸談に『あやめ草』がある。

(二)二代

一七〇二 - 五四
元禄十五年(一七〇二)初代の長男として生まれ、芳沢崎之助の名で若衆方として初舞台、享保二年(一七一七)若女方に転じ、同十四年二代目あやめを襲名。宝暦四年(一七五四)七月没。五十三歳。

(三)三代

一七二〇 - 七四
享保五年(一七二〇)、初代芳沢あやめの四男に生まれた。色子から若女方となり、京坂の舞台を歴勤、明和元年(一七六四)三代目あやめを襲名。安永三年(一七七四)十一月十八日没。五十五歳。

(四)四代

一七三七 - 九二
元文二年(一七三七)大坂に生まれ、二代あやめの養子となる。三都の舞台を歴勤。安永七年(一七七八)四代襲名。寛政四年(一七九二)九月没。五十六歳。

(五)五代

一七五四 - 一八一〇
三代あやめの子として宝暦四年(一七五四)生まれる。初代芳沢いろは。文化七年(一八一〇)八月没。五十七歳。
[参考文献]
八文舎自笑『役者論語』(『日本古典文学大系』九八)
(諏訪 春雄)
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検索コンテンツ
1. 芳沢あやめ
日本大百科全書
歌舞伎かぶき俳優。初世。代々若女方わかおんながたで文化ぶんか年間(1804~18)の5世まであるが、初世がとくに有名。初世坂田藤十郎と並び称される、元禄げんろく
2. 芳沢あやめ
世界大百科事典
空前の位を与えられた。しかし21年冬,芳沢権七と改名して立役に転じたのは失敗で,1年後女方芳沢あやめに復帰した。所作より地芸にすぐれ,実の女の情を表現しようと努
3. よしざわあやめ【芳沢あやめ】
国史大辞典
宝暦四年(一七五四)七月没。五十三歳。 (三)三代 一七二〇―七四 享保五年(一七二〇)、初代芳沢あやめの四男に生まれた。色子から若女方となり、京坂の舞台を歴
4. 芳澤あやめ(よしざわあやめ)
古事類苑
樂舞部 洋巻 第2巻 185ページ
5. よしざわあやめ【芳沢あやめ】
歌舞伎事典
与えられた。しかし享保六(1721)年冬芳沢権七と改名して立役に転じたのは失敗で、一年後女方芳沢あやめに復帰した。所作より地芸にすぐれ、実の女の情を表現しようと
6. 芳沢あやめ[文献目録]
日本人物文献目録
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7. よしざわ‐あやめ【芳沢あやめ】
日本国語大辞典
歌舞伎俳優。初世。紀州の人。大坂道頓堀の色子から俳優になる。所作より地芸に秀で、元祿期(一六八八~一七〇四)の代表的な女方。芸談に「あやめ草」がある。延宝元~享
8. よしざわ-あやめ【芳沢あやめ(初代)】
日本人名大辞典
1673−1729 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。延宝元年生まれ。色子(いろこ)から若衆方をへて女方となる。所作より地芸にすぐれ上方歌舞伎の女方芸を確立した。
9. よしざわ-あやめ【芳沢あやめ(2代)】
日本人名大辞典
1702−1754 江戸時代中期の歌舞伎役者。元禄(げんろく)15年生まれ。初代芳沢あやめの長男。若衆方から女方に転じ,享保(きょうほう)14年2代あやめを襲名
10. よしざわ-あやめ【芳沢あやめ(3代)】
日本人名大辞典
1720−1774 江戸時代中期の歌舞伎役者。享保(きょうほう)5年生まれ。初代芳沢あやめの4男。京都で兄(のちの2代芳沢あやめ)の名をついで2代芳沢崎之助を名
11. よしざわ-あやめ【芳沢あやめ(4代)】
日本人名大辞典
1737−1792 江戸時代中期の歌舞伎役者。元文2年生まれ。2代芳沢あやめの養子。はじめ初代山下又太郎,のち2代芳沢あやめの門人となり芳沢五郎市を名のり若女方
12. よしざわ-あやめ【芳沢あやめ(5代)】
日本人名大辞典
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13. あさお-じゅうじろう【浅尾十次郎】
日本人名大辞典
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14. あやめぐさ
国史大辞典
元禄時代の名女形初代芳沢あやめの芸談を福岡弥五四郎が書き留めたもの。序に「三十ヶ条」とあるが、実際は二十九ヵ条。明和八年(一七七一)刊の『新刻役者綱目』の付録
15. あやめぐさ
歌舞伎事典
歌舞伎役者の芸談集。元禄‐享保期の役者兼作者福岡弥五四郎(1641‐?)が、同時代の女方の名優芳沢あやめ(1673‐1729)の芸談二九ヵ条を記録したもの。宝暦
16. あやめ‐ぞめ【菖蒲染】
日本国語大辞典
3〕一・一「あやめそめの大振そで、御所ぬり笠に浅き紐」*俚言集覧〔1797頃〕「あやめ染 芳沢あやめと云芝居役者の着しより流行したる染也」
17. あやめ‐ぼうし【菖蒲帽子】
日本国語大辞典
〔名〕野郎帽子の一つ。元祿(一六八八~一七〇四)の頃、女形俳優の初代芳沢あやめが工夫し、用い始めた紫帽子。*役者全書〔1774〕下・紫帽子「菖蒲帽子、元祖芳沢あ
18. あらし-かのう【嵐かのふ(初代)】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代後期の歌舞伎役者。初代芳沢(よしざわ)いろは(のちの5代芳沢あやめ)の門から文化元年(1804)叶〓子(4代嵐小六)の門にはいり
19. いろこ【色子】
歌舞伎事典
この中からやがて若女方・若衆方・立役へと進む者が分かれた。元禄期(1688‐1704)の代表的女方芳沢あやめが、五歳の時大坂道頓堀の色子となり、綾之助と名のって
20. えんげきおんがく【演劇・音楽】 : 近世
国史大辞典
蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』はじめ多くの傑作が作られた。これと対応して坂田藤十郎・芳沢あやめらの上方における写実的歌舞伎、市川団十郎による荒唐無稽な江戸
21. 近江源氏先陣館
世界大百科事典
で歌舞伎化された。時政・高綱を初世中山文七,頼家・三浦之助を初世小川吉太郎,宇治の方を3世芳沢あやめ,時姫を初世市川吉太郎,盛綱を初世三枡大五郎,和田兵衛を初世
22. おうみげんじせんじんやかた【近江源氏先陣館】
歌舞伎事典
で歌舞伎化された。時政・高綱=初世中山文七、頼家・三浦之助=初世小川吉太郎、宇治の方=三世芳沢あやめ、時姫=初世市川吉太郎、盛綱=初世三枡大五郎、和田兵衛=初世
23. おおさかさんごう【大坂三郷】大阪府:大阪市
日本歴史地名大系
作者には豊竹座に紀海音がありすぐれた脚本を生んだ。歌舞伎は浄瑠璃に押されたものの、嵐三右衛門・岩井半四郎・芳沢あやめらの名優がいた。遊所は初めは市中各所に散在し
24. 女方
日本大百科全書
積み重ねられ、世界にも独特な女方演技術が生み出されたのである。古くから著名な女方の名跡には芳沢あやめ、中村富十郎、瀬川菊之丞きくのじょう、岩井半四郎らがあり、近
25. 女方(形)
世界大百科事典
禁じたため,能以来の伝統によって男性が女の役をつとめ,現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ,瀬川菊之丞によって作られた。2人とも日常生活を女性のように
26. おんながた【女方】
国史大辞典
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27. おんながた【女方(形)】
歌舞伎事典
を禁じたため、能以来の伝統によって男性が女の役を勤め、現在に至る。女方の演劇的基礎は初期の芳沢あやめ、瀬川菊之丞によって作られた。二人とも日常生活を女性のように
28. 歌舞伎画像
世界大百科事典
的な場面であった。一般的にいって,元禄歌舞伎では写実的な芸が重んじられた。その趨勢の中で,芳沢あやめらによる女方芸の完成が果たされたのである。敵役(かたきやく)
29. かぶき【歌舞伎】
国史大辞典
引幕が創始され、大道具なども発明された。一六七〇年代から上方では近松門左衛門、坂田藤十郎・芳沢あやめらが世話物(せわもの)と呼ばれる写実的な現代劇を創演、女形の
30. 享保十六辛亥年歳旦(著作ID:4375276)
新日本古典籍データベース
きょうほうじゅうろくしんがいのとしさいたん 芳沢あやめ二世(よしざわあやめ2せい) 等 俳諧 享保一六
31. きんせい【近世】画像
国史大辞典
蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』はじめ多くの傑作が作られた。これと対応して坂田藤十郎・芳沢あやめらの上方における写実的歌舞伎、市川団十郎による荒唐無稽な江戸
32. 傾城浅間嶽
世界大百科事典
演。小笹巴之丞を中村七三郎,傾城奥州を岩井左源太,家老和田右衛門を山下半左衛門,傾城三浦を芳沢あやめほか。京東山における浅間明神の開帳を当て込んだ作品。1幕目,
33. けいせいあさまがたけ【傾城浅間嶽】
歌舞伎事典
演。浅間巴之丞=中村七三郎、傾城奥州=岩井左源太、家老和田右衛門=山下半左衛門、傾城三浦=芳沢あやめほか。京東山における浅間明神の開帳を当て込んだ作品。一幕目、
34. けいせいあさまがだけ【傾城浅間嶽】
国史大辞典
肝胆を砕いて大当りをとった狂言である。傾城買い狂言の伝統に立ち、すぐれた脚本は七三郎をはじめ、芳沢あやめ・岩井左源太の傾城役、山下半左衛門その他の持ち味をよく生
35. げんろく‐かぶき【元祿歌舞伎】
日本国語大辞典
歌舞伎、浪漫的な荒事芸の江戸歌舞伎に二分される。この期の代表的な役者は、上方の坂田藤十郎・芳沢あやめ、江戸の市川団十郎・中村七三郎ら、また、作者では近松門左衛門
36. げんろくぶんか【元禄文化】
国史大辞典
次に演劇・音曲がある。大坂の嵐三右衛門、京都の坂田藤十郎らの俳優を中心とする歌舞伎が栄え、水木辰之助や芳沢あやめらによって女形演技の伝統が作られる。また大坂では
37. 声色
世界大百科事典
うかん)によって宴席で行われていたという。正徳年間(1711-16)にあやめ屋平治が名女方芳沢あやめの,また神田紺屋町の酒屋の下男が藤村半太夫の浄瑠璃を真似て評
38. こわいろ【声色】
歌舞伎事典
すでに幇間によって宴席で行われていたという。正徳年間(1711‐6)にあやめ屋平治が名女方芳沢あやめの、また神田紺屋町の酒屋の下男が藤村半太夫の浄瑠璃を真似て評
39. さんだい【三代】 : 芳沢あやめ/(三)
国史大辞典
(三)三代 一七二〇―七四 享保五年(一七二〇)、初代芳沢あやめの四男に生まれた。色子から若女方となり、京坂の舞台を歴勤、明和元年(一七六四)三代目あやめを
40. してん‐にてん【四天二天】
日本国語大辞典
将衆とせり合、合戦・城攻・夜込・かまりあひといへども」*評判記・役者略請状〔1701〕京・芳沢あやめ「上々吉今の世の名人、但し水木殿と此君両輪成べし〈略〉いづれ
41. 四天(してん)二天(にてん)
故事俗信ことわざ大辞典
ひといへども」俳諧・毛吹草(1638)二「してんにてん」評判記・役者略請状(1701)京・芳沢あやめ「上々吉今の世の名人、但し水木殿と此君両輪成べし〈略〉いづれ
42. しょだい【初代】 : 中村富十郎/(一)
国史大辞典
江戸時代中期の名女方。俳名慶子。別号琴嶺舎。屋号天王寺屋。享保四年(一七一九)生まれる。初代芳沢あやめの三男。初代中村新五郎の養子。天明六年(一七八六)八月三日
43. しょだい【初代】 : 芳沢いろは/(一)
国史大辞典
(一)初代  五代目芳沢あやめの前名。
44. 心中重井筒(近松門左衛門集) 190ページ
日本古典文学全集
祭る)」の意をかける。歌舞伎の愁嘆場における、人を泣かせるような悲しい思いを伝えるせりふ。芳沢あやめ。女形の名人。この年、岩井半四郎と同座。芸談に『あやめ草』を
45. じ‐きょうげん[ヂキャウゲン]【地狂言】
日本国語大辞典
鳴の露 地狂言罷出たる月の影」*浮世草子・元祿大平記〔1702〕八・女と見えて男なりけり「芳沢あやめ、地狂言(ヂキャウゲン)は水木におとらず、うれひ事、やつし事
46. 千両役者
世界大百科事典
1000両の高額に達した者を千両役者という。その最初は正徳・享保期(1711-36)の初世芳沢あやめや2世市川団十郎といわれる。その後それ以上の高給の役者も出た
47. せんりょうやくしゃ【千両役者】
歌舞伎事典
その給金が千両の高額に達した者を千両役者という。その最初は正徳・享保期(1711‐1736)の初世芳沢あやめや二世市川団十郎といわれる。その後それ以上の高給の役
48. そう‐げいがしら【総芸頭・惣芸頭】
日本国語大辞典
〔名〕歌舞伎俳優の位付けの一つ。立役・敵役・女方・道外方など役柄を総括したあらゆる俳優中の最高位をさす。初世芳沢あやめ・初世中村富十郎など。*劇場一観顕微鏡〔1
49. 増訂 武江年表 1 118ページ
東洋文庫
留むる、あやめや平次とて大坂より来り、両国の大木伝四郎といへる歯磨店の口上いひける男、かぶき役者芳沢あやめの声色を真似けるが、又紺屋町にて山城屋といふ酒屋の下男
50. 壇浦兜軍記
世界大百科事典
人形浄瑠璃が歌舞伎化されたのは,初演の翌年3月,大坂嵐三右衛門座(角の芝居)で,配役は阿古屋を2世芳沢あやめ,岩永を藤川平九郎,重忠を3世嵐三右衛門。それ以来琴
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ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
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