生物個体あるいは生物集団の伝達的性質の累積的変化.どのレベルで生じる累積的変化を進化とみなすかについては意見が分かれる.種あるいはそれより高次レベルの変化だけを進化とみなす意見があるが,一般的には集団内の変化や集団・種以上の主に遺伝的な性質の変化を進化と呼ぶ.進化遺伝学では,集団内の遺伝子頻度の変化を進化と呼ぶ.また,文化的伝達による累積的変化を進化に含めるときもある.さらに,生物個体や集団の進化に伴って生じる生物群集の構造変化も進化とみなすことがある.生物進化は,遺伝的に異なる性質をもつ生物個体の頻度が時間につれて変化することによって,あるいは異なる特性をもつ生物集団が新たに起原することによって生じるので,生物集団(個体群,あるいは種)より高次のレベルの変化は,生物個体や集団の進化の結果であるとみなす考えもある.evolutionの語は,元来,発達・発生・発展・展開などの意味や,個体発生上の展開の意味で用いられていたが,後に種の分化や種形成,あるいはそれより高次レベルでも用いられるようになった.なお,歴史的にC.Darwinは「変化を伴う由来」(descent with modification)で進化の意味を表し,フランス語ではtransmutation,transformation,ドイツ語ではDeszendenz,Abstammung,ときとしてEntwicklung(Entwickelung)の語が使われた.(⇒大進化)
長大な時間経過に伴い生物が変化していくことをいう。生物の形質(形態・生理・行動など)が生息する環境に、より適合したものになる、既存の種から新しい種が形成される、単純な原始生命から複雑多様なものへ変化する、などがその変化の内容である。対象とする変化の内容により、小進化、大進化と区別することも一般に行われている。なお、宇宙の進化といったように生物以外の現象に対して適用されることもある。
生物進化の観念は、現存する個々の生物の種が、天地創造以来、不変のままに存続している(特殊創造説)とか、地表でたびたび大異変がおこり、そのつど新しい生物が創造された(天変地異説)といった、神による生物の創造の観念を排除したところに成立しており、生物の連続性と可変性に対する認識が根本にある。進化論の確立者であるC・R・ダーウィンが、「変化を伴う由来」ということばで進化を表現した理由もこのあたりにある。進化についての先駆的な考えは、18世紀以来繰り返し出現している。これは、生物学的事実の蓄積に伴い、神による創造では説明できないほど著しい生物の多様性が明らかになってきたことや、その一方で、その根底に斉一性(共通性)が存在すること、さらに、物事が変化するとの観念が普遍的になってきたことが認識されていき、そのような状況をつくりだしたのであろう。似ているけれども違うという事実は、生物の連続性と可変性という両面の表現にほかならず、進化論とは、生物の多様性を連続性と可変性という二つの基本仮定のもとに説明しようとする立場にほかならないからである。体系的な進化論は、用不用説や獲得形質の遺伝で有名なフランスのラマルクが初めて提唱し、19世紀なかば、イギリスのダーウィンに至って確立された。ダーウィンは著書『種の起原』(1859)において多くの品種改良の例をあげて生物の可変性を示すとともに、人為的選択によってその変化の方向を左右しうることを示し、ついで、この人為選択に似た仕組みが自然界にもあるに違いないと類推、自然選択説を展開している。
すなわち、彼は、まず生物の多産性という事実に注目し、それは生物の無限の増加をもたらすはずなのに実際にはそうではないことを指摘、数の増加を抑える仕組みとしての生存競争を想定する。この概念を生物の変異性というもう一つの事実と結合させることによって、生存競争の結果、生き残り、子孫を残すのは、わずかでも有利な遺伝する変異をもった個体であるという、自然選択説が引き出されるわけである。『種の起原』の残りの部分では、それまで明らかになった生物学的・古生物学的事実が、自然選択による進化という仮説で、いかに合理的に説明できるかを説いている。進化論が扱うのは、すべて過去におこった現象であり、実験や観察によって直接証明しうる性質のものではない。したがって彼は、生物が進化するとの仮定によって、さらにはその仮定によってのみ合理的に説明しうる事実を多数示すことによって、進化がおこったことを証明しようとしたのである。この事情は、もちろん現在においても変わらない。
一般に進化を証明する事実とされるものには、次のようなものがある。
(1)二つの分類群の中間的形態をもった化石や現生生物が存在する。
(2)変化の道筋を示すような化石系列、現生生物のグループがみいだされる。
(3)分岐をもった階段のように生物を分類することができる。
(4)共通の祖先からの由来を示すような相同器官や痕跡 (こんせき)器官が多く存在する。
(5)地域ごとに特有の生物が分布している、などである。
生物が進化するものであるとの考えは、その後の生物学の進歩によってますます確からしいものとなり、一部の信仰的立場の人々を除けば、もはや疑いのない事実となっている自然選択説も、その後の遺伝学の進歩などにより一部修正されたところもあるが、その基本的な考え方は、現代の進化論においても、大ぜいの人の認めるところとなっている。ただし、自然選択説のみでは、進化のすべての面が説明できないとして、新しい仮説の模索も行われている。ここで注意しておく必要があるのは、進化がおこる要因、あるいは仕組みを説明するものとしての自然選択説と、生物は進化するということとは別のものであり、前者がかりに否定されるような事態になっても、後者が否定されるわけではないということである。
現在の地球上には、200万を超える生物の種が存在するが、過去に存在し、すでに絶滅したものも含めれば、少なくともその10倍以上(100倍ないし1000倍という推定もある)の生物種が存在していたともいわれる。種というのは、大まかにいえば、相互に区別できないほどよく似た個体の集合であり、ある程度以上の相違があるものは異種とされるわけであるから、実に莫大 (ばくだい)な数の異なった生物が存在していることになる。しかし、このような種における多様性は、それらが無秩序に存在することを意味するわけではない。これらの種の間には、その差異性や類似性においてさまざまなものがみられる。たとえば、ウマとシマウマは、その色彩を別とすれば非常によく似ているが、それらはキリンやゾウとはかなり異なっている。しかし、その違いは、ウマとスズメの違いほどは大きくない。さらにウマとスズメの違いも、タコとの違いを前にすれば小さくなってしまう。このように類似性や差異性の程度に基づいて生物を段階的に分類することができるのは、どうしてであろうか。
イルカとサメのように外見的類似にかかわらず、体のつくりにかなりの違いがみられる場合もあるが、一般に外見的によく似た生物は、その体のつくりも似ていることが多い。また、外見的にかなり異なったものでも、体のつくりが驚くほど似ている場合もある。たとえば、ヒトの手とチンパンジーの手は、その外見においても骨格においてもよく似ているが、それらは、外見的にはまったく異なるコウモリの翼やクジラのひれとも骨格やその位置において驚くほどの共通性がみられるのである。骨格を詳しくみれば、これらの動物の前肢の外見的相違は本質的なものではなく、特定の部分の骨の相対的長さの違いや、ごく一部の骨の欠落・付加といった部分的な相違にほかならないことがわかる。この例のように、異なる生物において、構造や体における位置関係などで類似が認められる器官を、互いに相同であるという。相同な器官は、胚 (はい)発生の過程においても共通しており、同一の胚葉から出現してくる。これら相同器官の類似性は、それらが共通の祖先の器官に由来するためだと考えられている。つまり、共通の祖先に由来する器官が、それぞれの生物の生活上の役割に応じて部分的に変化することによって形成されたとみるわけである。もしも、それらが共通の祖先の器官に由来しないのであれば、ヒトの手とコウモリの翼のように、機能も形態も違う器官が同じような骨格をもつ必然性を説明しなければならないが、それは非常に困難であろう。
相同器官の例としては、肺と硬骨魚類のうきぶくろ、多様に変化した昆虫の口器の相同性などが有名であるが、それ以外にもさまざまなものが知られている。また、相同器官のなかには、クジラの後肢などのように成体では痕跡的に残っているにすぎないものや、魚類のえらに相当する哺乳 (ほにゅう)類の鰓裂 (さいれつ)のように、成体では完全に消失し、発生の初期にのみ一時的に出現するものもある。また、ヒトの盲腸の虫垂や耳殻筋のように、ほかの哺乳動物では有用だが、ヒトにおいては不用と考えられる相同器官もある。このような痕跡器官や不用器官の存在もまた、生物が進化の産物であることの証拠となりうるであろう。
相同器官の存在は、このようにそれらの生物の共通の由来を示すものと考えられる。哺乳類にも、一時的にえらに相当する器官が出現するということは、哺乳類と魚類の共通祖先の存在を示唆していると考えられる。また、両者の間には、うきぶくろと肺、背骨など多数の相同器官がみいだされる。相同器官が共通の祖先に由来するものであれば、それをより多く共有するものほど類縁が近く、それが少ないほど類縁が遠いと考えることは自然であろう。このように相同関係をもとにして生物の系統をたどることができる。すなわち、哺乳類は爬虫 (はちゅう)類から生じ、爬虫類は両生類から、両生類は魚類から生じたというぐあいに、進化の道筋をたどることができるわけである。もちろん、魚類は現在も多数存在するのであるから、魚類のすべてが両生類に変化したわけではなく、魚類の一部の種が両生類の祖先になったという意味である。長い進化の過程においては、祖先種から多数の新しい種が分かれ、分かれた種からまた新しい種が分かれるということが繰り返されてきたに違いない。こうして生物の進化を、時間の経過にしたがって図に表せば、それは1本の木に似たものになるであろう。それを系統樹とよぶ。植物や動物は、その木のそれぞれの太い枝であり、それぞれがさらに細かく枝を出し、脊椎 (せきつい)動物、哺乳類、霊長目といったように、より小さな分類群を生み出していくと考えるわけである。
爬虫類から鳥類への移行を示すといわれる始祖鳥のように、異なった分類群の中間的形態をもった化石がみつかれば、両者の系統関係はより直接的に示されることになる。現生生物でも同様な例がある。たとえば、軟体動物に属するネオピリナNeopilinaには体節構造が残っており、軟体動物と環形動物の類縁の近さを示す証拠と考えられている。しかし、このような直接的証拠が得られる例は、むしろ少ないのが実状である。
なお、共通の祖先に由来する生物に相同器官がみられるのは、その器官を生じさせる遺伝子の一そろいが、すこしずつ変化しながらではあるが、そっくり受け継がれているためと考えられる。同様のことは、さまざまな形質を支配する遺伝子についてもいえるわけで、遺伝子組成の類似度から系統を構成する試みも行われている。
生物の示す時間的変化には2通りある。一つはいままでみてきたような、種の進化的変化であり、系統発生とよばれる。これに対して卵から成体になる過程を個体発生という。進化で新しい種が生じる場合には、個体発生が変化するわけであるから、個体発生と系統発生の間には密接な関係がある。哺乳類の個体発生の途中に鰓裂がみいだされるように、幼生形に祖先動物の形態が残っていると思われる例が少なくない。また、いろいろな動物の個体発生の過程を比較してみると、成体における著しい相違にもかかわらず、その幼生が非常に似ている場合があって驚かされる(図A・図B)。このような事実からE・H・ヘッケルは、1866年に「個体発生は系統発生の短縮された急速の反復である」という生物発生原則あるいは反復説とよばれる仮説を提唱した。そして、この仮説に基づいて、現生生物の祖先型を類推することも行っている。
しかし、この原則が成立するためには、つねに新たな変化が個体発生の先へ先へと付け加わっていく形で進化がおこる必要がある。しかし、発生の途中で成熟して成体になり、その先の過程が失われるという形の進化を考えねばならない場合もあり、個体発生と系統発生の関係は、ヘッケルがいうほど単純ではない。なお、後者のような変化をネオテニーneotenyといい、昆虫類は多足類の、脊索動物は棘皮 (きょくひ)動物のネオテニー形より進化したとの説も有力である。ヒトがサルや類人猿の胎児型として生じたという胎児化説も、ネオテニー的変化を想定したものである(図C)。
新しい種はほかの種に由来するという考え方を推し進めていくと、究極的には、全生物の共通の由来という問題に至る。では、それを示す証拠はあるのだろうか。いろいろ知られているが、もっとも重要なものは遺伝コードの共通性であろう。生物の遺伝情報は、核酸分子中の塩基の配列という形で伝達されるが、それを意味あるものとして読み取るための暗号規則、すなわち遺伝コードは、これまで研究された全生物に基本的に共通しているが、ミトコンドリアDNA(デオキシリボ核酸)ではすこし違うことがわかっている。したがって、たとえば人間のホルモンであるインスリンの遺伝子を大腸菌の遺伝子の中に組み込んで、インスリンを大量生産するなどといった遺伝子工学の手法が成立しうるのである。さらに重要なことは、遺伝コードの決定における偶然性という点である。たとえば、リボ核酸(RNA)においてウラシルという塩基が三つ並んだものは、フェニルアラニンというアミノ酸を意味するコードであるが、それがフェニルアラニンを意味する必然性はいまのところどうしてもみいだせないのである。いいかえれば、それがほかのアミノ酸を意味するコードであってもすこしの不思議もないのである。したがって、遺伝コードはまったく偶然に決定されたとしか考えられず、そのような偶然の一致がすべての生物で生じる可能性は皆無であろう。結局、現生生物のすべては、そのような対応関係を偶然につくりあげた単一の生物を共通の祖先とし、そこから派生してきたものだと考えざるをえないのである。
では、最初の生物はどのようにして出現したのか。いわゆる生命の起源の問題であるが、これについてはさまざまな仮説が乱立しているというのが現状である。原始生命は地球外から飛来したとの説もあるが、それは直接の解答にはならない。地球上における生命の起源を最初に本格的に考察したのはオパーリンである。原始地球上において、もっとも簡単な炭素化合物から、アミノ酸、核酸塩基、炭水化物などがまず生成され、ついでこれらの物質から、生命現象にもっとも基本的であるタンパク質や核酸が生成される。そして多くのタンパク質や核酸が寄り集まって、外部から相対的に独立し、自己複製能力をもった原始生命が誕生したというものである。このような大筋は多くの研究者によって認められ、実験室内で原始地球の大気成分に似た状態からアミノ酸や尿素などが合成されたりもしている。単純な化学物質から複雑な分子が形成され、やがて生命の出現に至る過程は、とくに化学進化とよばれている。地球はおよそ45億年前に誕生したと考えられているが、最初の生物化石は約30億年以前の地層にみいだされている。地球上においても約15億年にわたる化学進化の時代があったということになる。
進化の様相には分岐(クラドゲネシスcladogenesis)と向上(アナゲネシスanagenesis)の二つの側面がある。分岐というのは、種が二つ以上の新しい種に分かれることであり、そのもっとも顕著な例は適応放散とよばれている。向上というのは、たとえば、脊椎動物の系統において、体制や機能の面で、より遅く出現した群に内温性がみられるというように、段階を画する(グレード)新たな傾向がみられることをいう。
脊椎動物における脳の大きさについても、その体重に対する相対的重量の指数でみる限り、一般に増大する傾向を認めることができる。爬虫類、鳥類、哺乳類と配列したときその傾向は認められるし、哺乳類においても草食獣と肉食獣のそれぞれで、新生代第三紀から現世にかけてその平均相対値も増加する。しかも、どの時期でも肉食獣の脳が大きい。このような向上がどのようにして生じたのかはむずかしい問題であるが、ウマの進化系列においてよくいわれてきた体の増大傾向(コープの規則あるいは一般に定向進化といわれる現象)についてなら、ある種の説明はいくらか可能である。ある個体群に大きさの遺伝的変異があり、その平均値より大きい個体に有利な選択が恒常的に働けば、体の増大化は定着するからである。この場合もいくつかの可能性が考えられる。ただし、より大きな体が生存と繁殖につねに有利だという条件とは、いったいどのようなものかは自明ではない。脳の相対的増大化傾向については、つい知能との関係を想定しそうになるが、肉食獣が狩猟技術の面でより発達した神経系を必要としたという程度の説明なら可能である。ゾウの系統における、下顎骨 (かがくこつ)や牙 (きば)、さらには鼻や歯にみられる変化の並行的諸傾向の例を図Dに示したが、この説明はむずかしい。
このような変化を記述するのに、トンプソンW. D.Arcy Thompson(1860―1948)は、1917年に相対成長図(図C)を使って瞠目 (どうもく)すべき変形理論を提出したが、相対成長として記述される体のある部分と、ほかの部分の相関的なゆがみの進行が何を意味するかは依然として説明できない。それは何かある部分の変化のみが適応的に意味があり、それを「動機」としてほかの部分は単にメカニカルに、力学的安定化を支えるために変化しているのかもしれない。また、ネオテニーの現象と同じく、個体発生上の調節プログラムの別の展開ルートが開けて、その帰結として体のある方向への展開が生じたのかもしれない。それが結果としては生存と繁殖のより成功した方法として採用されたはず、ということになる。
しかし、これは新しい体制や機能の付加については何も説明していない。機械でいえば、部品の改良や大型化を説明できても、モデルチェンジ、つまり、ある種の不連続がどうしてできたのかが問題なのである。これは、F・ジャコブがいうブリコラージュ、あるいはG・G・シンプソンのいう便宜主義がどのように生じたのかという問題でもある。それは、新しい機能を担える素材がたまたま使える形で身辺に「変異」として存在したということなのであるが、その素材が、体の経済学の観点から、さして維持費用のかからないものであったか、即座の転用であったかでなければならないし、あれば便利であるが、現行の体制では獲得しえない拘束についても考えねばならない。適応がどのように「完成」されたかという問題は、変異と自然選択という「制約」のもとに、とりあえずの初期条件を仮定したうえでの説明ならば、たとえば、進化的に安定な「戦略」としてゲーム理論風の説明も可能であるが、新しい条件設定がどのように生まれてくるかという問題なのである。遺伝子レベルでさして費用のかからない変異がどのように生じており、それと新しい表現型との関連が、具体的にとまではいわないまでも、もうすこし実質的に言及されない限り、この問題は依然として宙づりのままである。
生物の多様性という場合、いわゆる適応放散という現象を抜きには考えられない。この現象は、長い系統の歴史上数多くの例をみいだせる。オーストラリアの有袋類とそれ以外の大陸の有胎盤類の放散との対応関係(図F)はあまりにも有名、また南北アメリカの哺乳類もそうである(図E)。そこには、系統とは関係なく、形態や生活様式の著しく類似した種の対応関係をみいだせる。この類似性は相似といってもよいが、一般に収斂 (しゅうれん)現象とよばれている。ガラパゴス諸島のダーウィンフィンチ類(図G)、ハワイ諸島のショウジョウバエ類も著しい多様化を示している。アフリカのタンガニーカ湖のカワスズメダイ類は、少数の祖先種からせいぜい数百万年のうちに多様な種が形成されてきた際だった例である。さらに、魚類の化石は、古生代シルル紀の甲皮類からデボン紀の魚類、節頸 (せっけい)類、ペルム紀(二畳紀)から中生代三畳紀にかけての軟質類、中生代ジュラ紀から白亜紀の全骨類、そしてその後現世に至る真骨類の繁栄といった適応放散が繰り返し生じたことを示唆しているとみられている。中生代白亜紀から新生代第三紀の爬虫類の絶滅後の哺乳類の多様化についても同様の進化パターンがみられるだろうし、ほとんどの動物の門 (もん)の段階に属するものはこうした適応放散によって出現したとみられている。
では、このような適応放散は、どのようにして生じたのだろうか。これは生物学の超一級の難問である。そうした多様性の記述には、生態的地位(ニッチniche)の概念が有効である。つまり、環境のあらゆる要因とある生物の生活の仕方を、多次元空間における位置で示すことにより、生活様式の多様な分化(分割)の状況を、たとえば、食物源や捕食者、生息場所や運動様式などの生態的・生理的諸要因の関係で差異を明確にして記述するものである。あるものは陸上生活を、またあるものは空中あるいは水中生活をし、さらにあるものは草食に、また肉食になる。そして草食にも、地上、地中、樹上、空中、水中と生活空間は分かれるし、地上生活の草食でも、草食一般から果実食とか若葉食とかに分かれるといったぐあいである。
シンプソンは、適応放散とは、可能性をもつ時と所をたまたま同じくする生物のグループが既存の特徴を再結合し、突然変異させて、可能な生活様式を求めていくことであり、あるグループはある基本的な適応型から出発し、その子孫は分岐する傾向をもち、広くさまざまな習性を身につけるようになる、と述べている。それは、自然選択による秩序づけの原理、すなわちどのように選択圧がかかってきたかをある程度まで推測することができることを意味する。このような生態的地位の分化は、基本的には生態的な競争や協同などの相互作用によってもたらされてきたと考えられている。たとえば形質置換として知られている現象は、そのような相互作用の基本過程とも解釈されている。つまり、近縁な個体群が同所的に分布するとき、その食物のレパートリーや生息場所だけでなく、さまざまな形態的特徴までも変化してしまうことがある。このような形質置換がさまざまに積み重なると、多くの個体群間に表現型のうえでの不連続が生じることになろう。ただし、その適応放散の出発点においては、いわば生態的地位は空白であったわけで、そこにはさまざまな生態的地位に分割される可能性のみが存在していたのである。どう分けるかは気の遠くなるような相互作用の結果として想定されるものである。その結果の一端をわれわれは知っているが、その過程はまだわれわれの想像力の及ばないかなたにある。
生物の示すさまざまな現象は、何から何まで適応しているというのではない。それは分子レベルでの中立的突然変異にとどまらず、体の経済学上の費用、つまりエネルギー配分の問題がさして障害をもたらさないなら、相対成長においてある部分が他の部分の変化の結果として単に変化したにすぎない場合も含まれよう。しかし、そのことと仮説としての適応プログラムをもつこととは矛盾しない。適応にはもちろんいくつかの解答があるわけであり、それは初期条件の単なる違いによって決まっていることもある。時と場所の違いによって異なった自然選択の帰結に至るということである。たとえば、見るとか、泳ぐとか、あるいは飛ぶという機能についての形態的適応を疑うことはできまい(図H)。
しかし、ルウォンティンR. C. Lewontinが指摘したように、サイの角 (つの)が1本か2本かという問題になると慎重でなければならない。捕食者に対する適応として、アフリカでは2本がよく、インドでは1本がよかった理由はみつけがたい。これは、たまたま両方の可能性があっただけだというわけである。確かにそうであるかもしれないが、ややこしいことに、これには、角が捕食者に対するものではなく、たとえば種内の威嚇や性的魅力のためのものとすれば、多数派のスタイルに応じて、1本が有利になる場合や2本が有利になる場合をともに想定することもできる、というドーキンスR. Dawkinsの反論もある。結局、ある表現型形質をどのような文脈でとらえるのか、これが適応を論じる際に重要な問題となる。つまり、何に対しての適応かということと、後述するように何にとっての適応かという問題がそこにはある。
現生生物の数多くの種が共通の祖先から進化してきたとすれば、祖先種は二つあるいはそれ以上の種に分岐したという過程を頻繁に繰り返してきたはずである。その分岐過程を種形成もしくは種分化という。種はどのようにして生じたのだろうか。これは生物進化の基本過程を理解するうえで避けて通れない問題である。新しい種の形成については図Iに示すような三つの基本様式があると考えられている。図Iの①はもっとも広く受け入れられている様式で、異所的種形成(アロパトリック種形成)といわれている。ある生物集団(個体群)が地理的に連続して分布していた段階から、なんらかの原因で、地理的に分集団に隔離された(遺伝子交流を断たれた)状態になり、それぞれの地域で別の自然選択圧がかかり、ふたたび分布域が接することがあっても雑種形成(交配)が不可能なほどに分岐してしまった場合である。集団を分断する障壁にはさまざまな地理的要因、大陸移動や島嶼 (とうしょ)化や氷河形成や大洋島への移住などが考えられる。
それに対して、図Iの③は同所的種形成(シンパトリック種形成)といわれ、集団の地理的な分断なしに分岐の生じる場合である。これは同一個体群内になんらかの形で生殖隔離がおこらなければならない。生息場所が異なったり、生殖時期が季節的にずれたり、行動的な多型が配偶関係に影響を与えたりすると、このような分岐が生じる。もうすこし一般的にいうと、同じ集団内に二つの型に有利に働く自然選択が十分強くて、相互の交配を妨げるか、あるいは同系的な交配によって生じた子孫の生存率が、異系交配による子孫の生存率より高ければ、このような種形成も十分可能である。
図Iの②は側所的種形成(パラパトリック種形成)といわれ、前二者のいわば中間的な様式である。個体群がほぼ連続的に接して分布している場合がこれにあたり、多くの地理的勾配 (こうばい)のみられるグループの種形成は、これで説明されることが多いと考えられるようになっている。
分子レベルでの遺伝機構の解明が進んだことから、分子レベルでの進化は、DNAの塩基配列の変化や置換として理解されるとともに、進化における有性生殖の意義の重要性はよりいっそう深く認識されるようになったし、中立的な突然変異の事実も理解され、いわゆる適応万能論に対して、木村資生 (もとお)(1924―1994)らによる中立説からの限定が付されることにもなった。この中立突然変異を利用した分子時計が系統分岐の推定に有効なことも認められてきている。ただし、中立説そのものは、表現型の適応そのものを説明するものではなく、遺伝的変異を豊富化する可能性を示すものであろう。
中立説に依拠するとして進化の偶然性のみが強調されることもあるが、それは適応万能論への警告の意義はもつものの、適応の説明とはまた別の問題である。それはともかく、真核生物では遺伝子の重複構造や動く遺伝子(トランスポゾン)の存在も確かめられ、分子遺伝学はいま新たな展開期を迎えつつあり、進化について、豊富な知見をもたらすだろうことは間違いない。
また、系統分類学の方法をめぐって三つの学派の論争が現在も続いている。その一つは、任意に選んだ形質による分類を主観的であるとして排し、数量分類の立場から、可能な限り多くの形質を量的に扱い、類似度を指標にしてグループ分けをする表形 (ひょうけい)分類学(フェネティックス)の学派である。
この立場が推論に基づく系統的類縁関係を認めないと主張するのに対して、ヘニッヒW. Hennig(1913―1976)らが唱えた系統分類は、単系統に基づいた分類を主張する。つまり、相同形質について、その形質状態からもっとも新しく形成されたもの――派生形質(子孫形質)をみいだせれば、それを共有する群を単系統の枝(クレード)として位置づけられる。それを繰り返して、より高次の系統分類が可能になるとする(クラディスティックス)。また、系統群により進化過程での分化の程度に差のあることを重視して分類する立場もあり、進化的分類学といわれる。単純化して図Jに示す。表形分類と系統分類は、場合によっては一致するが(図Jの①)、著しい形態差が比較的短期間に生じた場合には異なってくる可能性がある。著しい分岐が生じたり(図Jの②)、収斂 (しゅうれん)が生じると(図Jの③)、系統群と表形群に差が出てくる。さまざまな異論があるが、表形分類は、近縁なグループにはそれなりに有効であるが、諸形質をどう測定するか、差異の距離をどう計算するかに問題が残るし、系統分類は、派生的形質の見極めがかならずしも簡単ではない、などの批判もある。といって、従来の分類方法の欠陥は明らかであり、さまざまな折衷も試みられている。
大進化をめぐっては、漸進的変化では説明しにくい現象が化石記録によって示され、種の急激な分岐が生じたのちに長い停滞期が存在するという断続平衡説(区切り平衡説)が、古生物学者エルドリッジNiles EldredgeとグールドStephen Jay Gould(1941―2002)によって1972年に提出され大きな論争をよんでいる。ただし、地質学的時間尺度でいう急激な変化は遺伝学的時間尺度ではかなり長期にわたることから、このことが事実としても、当初主張されたほどには進化の漸進的説明を否定するものではないとも反論されている。それよりも長期の停滞がなぜ生じるかが漸進説には難問かもしれない。種形成(分化)のおこり方については、周辺小個体群における新しい変異の定着が仮定されており、マイアE. Mayrの主張した異所的種形成説への地質学的証拠として位置づけられたものであったことも留意しておいてよい。
ところで、種形成機構については、総合説の打ち出された当時、可能性が低いとされていた同所的種形成も、ランダムな交配ではなく、同系的交配が生じるならば、従来考えられていた以上におこる可能性が高いとみなされてきている。種形成の基本過程は、単に外的要因による隔離だけでは説明しえない現象であることも確かであろう。どのようにして種が分化したのか。これは進化過程を理解するうえでは不可避の論点に違いないが、遺伝子の組換え、中立的なものも含めた突然変異、遺伝的浮動、さらには遺伝子重複などさまざまな変異が総体としてはランダムに生じたうえで、自然選択のさまざまな方向性あるいは規定性が関与したものと考えられている。それはおそらく抽象的にではなく、より具体的に解かれねばならない問題でもあるだろう。
選択(淘汰 (とうた))の単位、つまり何にとっての適応かという問題は、ダーウィン以来、漠然と個体にとっての適応が問題にされてきたし、ある意味では、それは当然に思える。しかし、利他的行動(社会的行動)の進化について、1962年にウィン・エドワーズV. C. Wynne-Edwardsがそれを群淘汰(集団選択)によって説明して以来、大論争がおこった。操作上は集団についての平均的適応度を想定することも簡単にできるし、それは限られた状況において意味論的には意義をもつし、理論上も個体選択とかならずしも矛盾するものではないが、大勢としては不要な仮説として退けられることが多い。しかし、では個体が選択の単位としてまったく問題がないかというと、かならずしもそうではない。
ハミルトンW. D. Hamiltonは1964年、利他的行動の進化を説明するものとして、群淘汰説にかえて包括適応度の概念を唱え、いわば同祖遺伝子の適応度をぎりぎりのところで個体の適応度として救い出した。そして、ドーキンスR. Dawkinsは1976年、適応は遺伝子にとっての利益として考えるのが論理的である、つまり、選択されるのは遺伝子すなわち自己複製子であるとの説を唱えた。個体や個体群選択(集団選択)は、ドーキンスによると遺伝子のビィークル(媒体・乗り物)の選択であり、それは遺伝子の選択とは区別されねばならない。適応について語るのであれば、個体ではなく遺伝子にとっての利益として明示的に論じるべきである。包括適応度の概念は、実はそういうことを意味していたのである、という。
生物学的な個体は独特の遺伝子型と表現型をもっている。遺伝子型というのは、その個体の属している個体群の遺伝子プールの構成部分である。そして、表現型が、繁殖成功をめぐってほかの表現型と競争、相互作用する。この成功度すなわち適応度は、さまざまなほかの表現型効果との作用の結果、相対的に決まるものである。つまり条件しだいで、ある表現型が有利になることもあれば、不利になることもある。自然選択は、まさしく外からの秩序づけの原理であり、そうした表現型効果の差異を規定しているが、なんらかの遺伝的差異そのものに働くことになる。そうして減数分裂・生殖を経て、有効な遺伝子の組合せの適合性が高まり、表現型の「進化」がさまざまに進行する。
本来は生物についての概念で,現生の複雑で多様な生物が長い歴史的な変化の結果(として生じたもの)であるという考えの上に立った,その歴史的変化過程そのものを意味する。したがって生物進化というほうが正確である。
しかし,進化の観念は,思想史的には,18世紀に形成された社会進歩観を背景として成立したものであって,したがってその初めから生物だけでなく社会をも対象としていた。正確にいえば,社会進歩観を背景に,一方では社会進化論や発展的歴史観が生じ,一方では生物進化論が生じたのである。一般に考えられているようにC.ダーウィンの進化論の影響によって社会進化論が生じたのではない。
一方,20世紀に入ってから進化の概念は物理的世界へも拡張された。すでに18世紀にカントやラプラスの星雲説としてあったものが精密化されて,地球の歴史(進化),太陽系の進化,恒星の進化,宇宙の進化などとして論じられるようになってきたのである。この意味では,進化は,生物だけを対象とする概念ではなく,全宇宙,全物質を歴史的な変化の中において見る広大な概念である。
進化という概念は,社会進歩観から生じて19世紀の資本主義発展期に普及していったために,時とともに進歩発展する変化という意味を含むものとふつうには考えられている。evolutionという言葉自体が,前進的発展つまり単純なものから複雑なものへの順序だった展開という意味を含んでいるし,進化という日本語も〈進〉という字を含んでいる。このような言葉が進化概念を表すために採用されたこと自体,進化と進歩が同一視されていたことを示している。しかし,進化の過程が明らかにされてくるにつれて,進化と進歩とを同義にとるのは誤りであることがわかってきた(これと同じ意味で,生物における高等,下等を一般的にいうこともできない)。まだ一般社会では混同されているが,今日では進化は必然的に進歩であるとは考えられていない。進歩を何を尺度として測るかは問題だが,実際には進歩的進化もあるし進歩的でない進化もある。例えば生物ではさまざまな器官を退化させて寄生虫になってきた進化があった。
この世界とその構成員については,古代から不変観と変化観の対立があり,後者には輪廻観と進化観がこれも古代からあった。しかし,科学的根拠に基づいて生物進化が論じられるようになったのは18世紀後半からである。そして1860年代にC.ダーウィンの進化論が受容されると,その論理的帰結としての二つの大問題が直ちに認められた。すなわち,非生物からの生物の起源と,生物からの人間の起源である。
ここではそれらについては〈生命〉および〈人類〉の項目に譲って,生物についてのもう一つの問題を記すことにしよう。それは,非生物から誕生した生物がどのような進化史をたどって現在に至ったか,である。
生物がどのようにして誕生したかはともかく,現在最古の生物とされる化石は,約35億~30億年前の岩石から発見されている。それは原核生物であると考えられているが,今日の進化史の起点は一応ここに置かれる。この生物はおそらく無機物からの有機物合成能力を欠いていたであろう。
そこで最初の大きな変化は光合成性原核生物(ラン藻類)の出現である。これはおそらく約30億年前ごろであったと思われるが,その時期について正確なところはまだわからない。しかし20数億年前になると糸状をした明らかなラン藻の化石が発見されるから,そのころまでに光合成生物が出現していたことは確かである。その光合成活動によって還元的であった地球大気は徐々に酸化的に変わっていった。その経過はまだ不明だが,おそくとも約10億年前までには酸素呼吸生物の生存が可能な程度に大気中の酸素は増えていたと思われる。
2番目の大きな変化は真核生物の出現である。その時期は約15億~10億年前であったらしい。それ以前に真核生物が存在したという確実な証拠は今のところない。したがってそれまで約25億年の生物の世界は原核生物のみの単調なものであったことになる。この変化は生物に二つのことを可能にした。それは有糸核分裂と有性生殖である。そして,その結果,生物の進化速度は原核生物よりもかなり大きくなったと推定される。
約7億年前から約6億年前にかけての地層(地質年代区分でいえばカンブリア紀に入る直前)から,最初の多細胞動物の化石および彼らのはい跡や泥中にもぐった穴と推定されるものの化石が発見される。それに先立つ時代の地層からは,最近のかなりの探索にもかかわらず,多細胞動物が存在した証拠は得られていないので,彼らはほぼこの時代に誕生したものと考えられる。そこには,体制が単純であってふつう原始的とされている腔腸動物と海綿動物ばかりでなく,かなり体制の複雑な環形動物の化石も見いだされる。
そして,約5.5億年前(カンブリア紀前期の終り)までに,腕足動物,軟体動物,節足動物,棘皮(きよくひ)動物(おそらく脊索動物も)といった複雑な体制の持主が化石として姿を現す。カンブリア紀に入ると化石の量がにわかに多くなることはすでに19世紀から知られていた事実で,この時期に多細胞動物が繁栄するようになったことは明らかであるが,ここで真に問題なのはそこにはすでに上記のようなさまざまな分類群の動物が出現していたということである。
このような動物たちは,互いにその基本体制が大きく異なっており,それゆえに分類学上はそれぞれ〈門〉という最高の階級に位置づけられている。そして彼らの間の類縁関係はふつう樹木状の系統樹によって表されてきた。系統樹の形からふつう推測されてきたのは,彼らが時代的に順を追って次々に〈進化〉したのだろうということであった。
しかし,化石の記録からすると彼らは数千万年の間にいっせいに誕生したのである。いっせいにというのは,6億年余りの多細胞動物の歴史のうちの最初の10分の1という短い期間で,という意味である。身体が柔らかくて化石になりにくい動物門についての証拠はほとんどないが,おそらく彼らもこの最初の数千万年の間に誕生したのであろう。
最近では,初期に絶滅した門もいくつかあったと考える研究者が多くなっているが,そうであるにしてもそれ以後に新しい動物門が誕生したことはないらしい。現生の動物門はすべて多細胞動物の歴史の初頭に誕生したのである。ここではその理由についての推測には触れず,事実だけを記すことにする。
その後の各動物門の進化はそれぞれに異なっているが,化石記録の多い門について見ると,どの門でもその歴史のごく初期にそれぞれの体制の枠内でいくつかの大グループを生じている。例えば,節足動物はカンブリア紀前期にすでに三葉虫類と甲殻類と鋏角(きようかく)類とに分かれているし,軟体動物も単板類と腹足類と斧足(ふそく)類に分かれ,すぐ続いて頭足類が出現する。棘皮動物では最初にいくつかの小さな絶滅グループを生じた後に,ウミツボミ類(絶滅),ウミユリ類,ヒトデ類,ウニ類,ナマコ類という大グループに分かれている。この様式の進化はおそらくほとんどの門で起こったものと思われる。脊椎動物では,このような初期にではないが,約4億年前に無顎類からいきなり板皮類(絶滅),棘魚類(絶滅),全頭類,板鰓(ばんさい)類,条鰭(じようき)類,肺魚類,総鰭類の7グループ(これら7グループを顎口類と総称する)に分かれた。ここではまず無顎類が生まれてから1億年以上の後にこの進化が起こったのだが,棘皮動物の進化はこのタイプとの中間と見ることもできる。
各動物門では,これとは違ったもう一つのタイプの進化の様式が見られる。それは,このようにして生じた初期の大グループ内で,時代を追って次々に新グループを生ずるものである。例えば軟体動物の頭足類ではオウムガイ類→アンモナイト類→イカ・タコ類という順番で,脊椎動物の条鰭類では軟質類→全骨類→真骨類という順番で進化が起こった。このタイプは世間で考えられている〈進化〉の図式に合致するものであり,これらのグループについてだけは,高等,下等といういい方が可能である。
この二つの進化様式は,より下位の分類群においてもより小規模ではあるが各所に見られ,生物進化の基本パターンを表しているものと思われる。ただし,すべての門での進化がこの二つのパターンだけで起こったとはいえないのだが。
以上の話はすべて水中でのことであるが,生物はシルル紀(約4.2億年前)になると陸上でも生活をするようになった。このときには水中から空気中へとまったく新しい環境への進出が起こったので,身体の構造はかなり作り変えられねばならない。それは主として緑色植物と節足動物と脊椎動物において起こった。そしてそれ以後の進化は,水中での進化に見られたパターンに陸上への進化が重なる形で進むことになった。シダ植物→裸子植物→被子植物という変化や両生類→爬虫類→鳥類という変化は,この陸上への進出に伴うものであり,爬虫類内部や植物の各段階内部では水中でと同じような様式の進化も起こっていた。
しかし,その後に起こる爬虫類から哺乳類への変化は,これらと同じような陸上生活への進化ではない。そこでは内温性と胎生の獲得というそれまでとはまったく異なる内容の変化が生じている。それを生物進化の中にどのように位置づけるかは,まだ未解決の問題である。さらに霊長類からヒトへの進化も,これとは別の意味で,哺乳類内部に見られる各グループの進化と同列に位置づけられるものではない。しかし,この問題についても現在まだ未解決である。
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