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  11. 墾田永年私財法

墾田永年私財法

ジャパンナレッジで閲覧できる『墾田永年私財法』の国史大辞典・世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

国史大辞典
墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう
古代の法令。墾田永世私財法・永世私財法・永世私有令などとも呼ばれる。天平十五年(七四三)五月二十七日に「勅」として出された。この勅は、(一)墾田を私財として永年収公しないことを宣言した部分、(二)品位階により墾田地の面積に制限を付し、郡司については特例を設けた部分、(三)国司在任中の墾田について規定した部分、(四)開墾の手続とその有効期間を規定した部分、の四つからなっていたと推定される。しかしこの勅が『弘仁格』に収録される際に、(二)の部分はすでに無効になっていたので削除された。日本の班田制は、墾田を開墾者の既受田のなかに自動的に包摂できるような仕組みになっていなかったので、墾田の田主権はきわめて不安定な状態にあった。養老七年(七二三)の三世一身の法は、墾田の田主権を「三世一身」という期限付きで公認したが、それは同時に墾田の収公方法を明確にしたともみられる。墾田永年私財法は、三世一身の法で定められた収公期限を廃止し、墾田は「私財」として「永年」収公しないことに改めたが、同時に三世一身の法では制限されていなかった墾田地の面積に、品位階による制限を付し、郡司には特例を設けた。すなわち、一品・一位には五百町、二品・二位には四百町、三品・四品・三位には三百町、四位には二百町、五位には百町、六位―八位には五十町、初位―庶人には十町、郡司の大領・少領には三十町、主政・主帳には十町である。この制限額は、位田・口分田・郡司職田の面積の格差にほぼ対応し、田令の終身用益田の階層的秩序を、墾田においても維持しようとする意図がうかがわれる。この制限額は、一見すると広大なように思われるが、位田・口分田などの面積が熟田の班給額であったのに対して、未墾地の占定許容額であった。すなわち墾田地を占定するには、まず国司に申請して判許を得なければならなかったが、地を受けてから三年経っても開墾しない場合には、開墾地の占定は無効となり、国司は他人の開墾申請を認めることになっていた。しかし現実には占定地の一部分だけが開墾されていることが多く、それを「不開」(三年不耕之地)と認定するかどうかをめぐって、紛争がしばしば起った。のちに寛平八年(八九六)四月太政官符は、百姓の開墾田を保護するために、開田率二割に達すれば改判しないことに定めた。墾田地の占定には、百姓に妨げのない地という条件が付されていたが、現実には王臣家の墾田地占定によって民要地が囲い込まれたり、百姓の小規模開墾田が「三年不耕之地」という名目で侵奪されることが多かったと想定される。国司による開墾も大規模に行われたらしいが、永年私財法では、国司の在任中の墾田は「前格」によるとだけ規定されている。この前格が、養老七年格(三世一身の法)を指すか、天平元年十一月官奏を指すかは、説が分かれているが、そのいずれにせよ、国司が任期中に開墾した田は、任期終了とともに収公する規定であったと推定される。天平十五年の永年私財法は、天平神護元年(七六五)三月に廃止され、寺がすでに占定している開墾予定地と、当土の百姓が開墾する一~二町を除いて加墾が禁止されたが、宝亀三年(七七二)十月には再び開墾が許されることになった。この宝亀三年格は、天平十五年格に完全に復帰したものではなく、天平十五年格のなかの墾田地面積の制限規定は、宝亀三年格によって廃止された可能性が強い。もしそうでないとしても、『弘仁格』編纂時までに無効になっていたことは間違いない。墾田永年私財法は、熟田を一定基準で収授する班田制の枠組みからはみ出た墾田を、収授の対象から外してそのまま「墾田」として把握し、その田主権を保証しようとする画期的な政策であった。永年私財法は日本の班田制に質的な転換をもたらしたのである。その上、永年私財法がもっていた限田制的規定も短期間で廃止され、『弘仁格』に編み入れた「天平十五年格」は、開墾田の田主権を保証する法的根拠として永く利用された。墾田永年私財法によって、売買・相伝・寄進が可能な「墾田」という地目が設定されたことは、荘園制が展開する歴史的前提となった。→墾田禁止令(こんでんきんしれい),→三世一身の法(さんぜいっしんのほう)
[参考文献]
中田薫『法制史論集』二、竹内理三『律令制と貴族政権』、弥永貞三「律令制的土地所有」(『日本古代社会経済史研究』所収)、虎尾俊哉「律令時代の墾田法に関する二-三の問題」(『日本古代土地法史論』所収)、吉田孝「墾田永年私財法の基礎的研究」(『律令国家と古代の社会』所収)、時野谷滋「田令と墾田法」(『歴史教育』四ノ五・六)
(吉田 孝)


改訂新版 世界大百科事典
墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう

743年(天平15)に出された墾田についての法令。日本の律令における班田法は,墾田に対する開墾者の権利をはっきりとは認めていなかったので,その対策として723年(養老7)に三世一身法が出され,期限付きで開墾者の田主権を認めた。しかし収公の期限が近づくと耕作の意欲が衰え,そのために荒廃する田もでてきたので,743年に墾田永年私財法を定め,三世一身法による収公期限を廃止し,墾田は永年(いつまでも)私財として収公しないこととした。ただし,三世一身法では墾田地の占定面積に制限を付していなかったのを改め,一位の500町から,初位・庶人の10町に至るまで,位階によって墾田地の占定面積に制限を付し,郡司にはとくに大領・小領に30町,主政・主帳に10町の占定を認めた。なお国司が在任中に開墾した田は任期終了とともに収公することとした。開墾のために墾田地を占定するには,国司に申請して許可を得ることを必要としたが,占定ののち3年間開墾しなければ,その権利が失われ,他の人が墾田地として改めて申請することができることとした。この743年の墾田永年私財法は,765年(天平神護1)にいったん廃止され,寺院がすでに占定している墾田地と,現地の百姓が開墾する1~2町を除いて,私財とすることを禁止したが,772年(宝亀3)には再び開墾田を私財とすることを認めた。なおこの772年の法令によって,墾田地の占定面積の制限が廃止された可能性が強いが,おそくも《弘仁格》が編纂施行された820年(弘仁11)までには無効となっており,大規模な墾田地の占定が許されることになった。墾田永年私財法によって,律令の班田収授法は大きく修正されることになるが,墾田地の占定には国司の許可を必要とし,開墾された田は田図に登録されて田租が賦課されたのであるから,律令国家の田地に対する支配体制は,これによってむしろ強化された可能性が強い。そしてなによりも永年私財法は,水田の総面積を増大させる重要な契機になったと推測される。
[吉田 孝]

[索引語]
三世一身法


日本大百科全書(ニッポニカ)
墾田永年私財法
こんでんえいねんしざいほう

三世一身法の後を受けて、20年後の743年(天平15)に発布された古代の土地法。三世一身法に存した三世とか一身とかの占有期間の制限を外し、墾田は永久に私有地とすることを認め、ただその面積に位階による制限(一品 (ぽん)および一位の500町から無位の10町まで)を設けた。このように三世一身法と違って律令 (りつりょう)土地法の理念と根本的に反する法が出された背景には、当時左大臣に昇任したばかりの橘諸兄 (たちばなのもろえ)の政策的意図があったとみられる。ただし結果的には、開墾限度額を設定して律令土地法の欠落部分を補完したという一面をももっていた。班田収授法は依然として既墾地で行われ、この法は新規の開墾地でのみ通用するわけであるから、両者は共存しうるものではあったが、水田の永久私有が公然と認められた以上、貴族、地方豪族、社寺の土地私有の動きはにわかに活発となり、荘園 (しょうえん)制成立の大きな原因となるとともに、他方、班田収授法崩壊の原因ともなった。なおこの法の発布によって、これまでの田主権の有無を指標とする律令法本来の公田・私田概念は退行し、かわって永代私有権の有無を指標とする公田・私田概念が生み出され一般化するに至った。道鏡 (どうきょう)政権下の765年(天平神護1)に、寺院の継続的な開墾と現地農民の小規模な開墾を除くほかの、いっさいの開墾を禁止したことがあるが、道鏡失脚後の772年(宝亀3)に旧に復し、以後変わることはなかった。

[虎尾俊哉]

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検索コンテンツ
1. 墾田永年私財法
日本大百科全書
三世一身法の後を受けて、20年後の743年(天平15)に発布された古代の土地法。三世一身法に存した三世とか一身とかの占有期間の制限を外し、墾田は永久に私有地とす
2. 墾田永年私財法
世界大百科事典
しかし収公の期限が近づくと耕作の意欲が衰え,そのために荒廃する田もでてきたので,743年に墾田永年私財法を定め,三世一身法による収公期限を廃止し,墾田は永年(い
3. こんでんえいねんしざいほう【墾田永年私財法】
国史大辞典
「三世一身」という期限付きで公認したが、それは同時に墾田の収公方法を明確にしたともみられる。墾田永年私財法は、三世一身の法で定められた収公期限を廃止し、墾田は「
4. 墾田永年私財法
日本史年表
743年〈天平15 癸未〉 5・27 墾田を私財とし、位階に応じた面積の墾田私有を認める( 墾田永年私財法 )(続紀)。
5. えいせいしざいほう【永世私財法】
国史大辞典
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
6. えい‐たい【永代】
日本国語大辞典
明示する語として用いられた。(2)養老七年(七二三)の三世一身法、天平一五年(七四三)の墾田永年私財法の発布以後、土地私有が公認され、田地の売買も行なわれるよう
7. 開発
世界大百科事典
再び有利・有益・有主の場とするための重要な行為として意義づけされたのである。すでに律令制のもとでも墾田永年私財法によって私的な開墾とその私有権が認められ,また荒
8. きよせし【清瀬市】東京都地図
日本歴史地名大系
〔古代〕律令制下の当市域は多摩郡に含まれていたとみられる。この時期の遺跡は三世一身の法とそれに続く墾田永年私財法が公布され、開墾の奨励とともに土地の私有化が認め
9. 行基
世界大百科事典
めともいう。しかし政府は行基の土木技術や,庶民を動員する力量を利用するため,三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で731年伝道禁圧をゆるめ,743年紫香楽(しが
10. ぎょうき【行基】
日本架空伝承人名事典
めともいう。しかし政府は行基の土木技術や、庶民を動員する力量を利用するため、三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で七三一年伝道禁圧をゆるめ、七四三年紫香楽(しが
11. けいざい【経済】 : 古代
国史大辞典
耕地の占有(少なくとも終身)といった形態にあった。その国家的土地所有(公地制)は、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法以降、墾田を中心とする耕地私有の進行によっ
12. 解
世界大百科事典
て作成されている。土地の売券も初期には解の様式によっていた。これは古代における土地売買が墾田永年私財法発布後といえども,すべて官司の許可が必要だったからである。
13. 公地公民
世界大百科事典
〈官の直属民〉ではなかった。田地についても,律令とは異なり口分田を公田とする公の観念が,墾田永年私財法の施行された8世紀中ごろから生じてくるが,そのような公田の
14. こうち‐こうみん【公地公民】
日本国語大辞典
奈良時代には過重な負担からのがれて浮浪し逃亡する公民が後をたたず、一方、天平一五年(七四三)墾田永年私財法によって土地公有の原則がくずれ、ここに公地公民制の崩壊
15. 公田
世界大百科事典
とも736年(天平8)以降は都に送られて穀倉院の倉庫に集積された。 公田概念は743年の墾田永年私財法の発布を契機として変化し,永年私財田として認められた田が私
16. こうでん【公田】
国史大辞典
寺開田地図であり、口分田が公田と明示される直接の契機となったのは、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法であったと推測される。すなわち永年私財法によって、墾田が班
17. こうでん【公田】 : 公田/(一)
国史大辞典
寺開田地図であり、口分田が公田と明示される直接の契機となったのは、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法であったと推測される。すなわち永年私財法によって、墾田が班
18. 校田
世界大百科事典
そのほか必要に応じて随時行い,また巡察使の職掌の一部として行うこともあった。743年(天平15)の墾田永年私財法の発布後は,班田収授に際してこの校田の結果を確定
19. こうでん【校田】
国史大辞典
随時必要に応じて行い、また巡察使の職掌の一部として行われることもあった。天平十五年(七四三)の墾田永年私財法発布以後は、この校田が一層重要性を増したが、同時にそ
20. 国免荘
日本大百科全書
が免除された荘園をいう。もともと未墾地の開発の認可は、三世一身法さんぜいいっしんのほう、墾田永年私財法以来、国司(国衙こくが)の権限に属しており、しかも墾田は元
21. こ‐けん【沽券】
日本国語大辞典
(1)養老七年(七二三)の三世一身の法、天平一五年(七四三)の墾田永年私財法の発布以後、土地の私有が公認されるようになり、田地の売買も認められるようになった。し
22. こだい【古代】画像
国史大辞典
初年を中心とする前後の時期は、一方では養老七年の三世一身の法からさらに進んで天平十五年の墾田永年私財法が出された時期であり、また同時に一方では公出挙(くすいこ)
23. こだい【古代】 : 古代/(三)
国史大辞典
国司の在任中の開墾―営種権法以外の墾田法については、令規定の存否と展開に論議があるが、天平十五年(七四三)墾田永年私財法により、その永代私有権が認められた。以後
24. 古代社会
世界大百科事典
律令法によって農民に支給された口分田や,8世紀の後半からみとめられるようになった(743年,墾田永年私財法による)私有の墾田の経営も,この倉庫を中心とする循環を
25. 古代社会(歴史)
日本大百科全書
許さぬ公地主義の修正であるが、それでは墾田開発の意欲をそそるに足らなかった。そこで743年(天平15)に墾田永年私財法を発布した。これは、開墾には国司の許可のも
26. こだいたいかのかいしんいご【古代―大化改新以後―】 : 法
国史大辞典
格による律令の改廃は、この『養老律令』施行以前からみられ、養老七年の三世一身の法、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法などはその典型的な事例である。わが国では、
27. 墾田
日本大百科全書
開墾が本格的に行われるようになったのは、723年の三世一身法以後、ことに743年(天平15)の墾田永年私財法以降のことである。この後、墾田は増加の一途をたどり、
28. 墾田
世界大百科事典
郡司が在地首長と協力して大規模な条里制開発を行うが,同時に開墾奨励策として,三世一身法や墾田永年私財法が施行された。国家的な開墾事業は,律令国家の衰退とともにし
29. こんでん【墾田】
国史大辞典
は、墾田の田主権を公認するのと同時に、その収公の時期を明示したが、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法では、墾田を私財として永年収公しないことにした。ここに「墾
30. こんでんきんしれい【墾田禁止令】
国史大辞典
宝亀三年(七七二)十月に廃止され、墾田永年私財法が復活した(ただし墾田永年私財法のうち、墾田地の面積に制限を付した規定は、このとき廃止された可能性が強い)。→墾
31. こんでんちけいしょうえん【墾田地系荘園】
国史大辞典
独立した概念として定着するに至った。養老七年(七二三)の三世一身の法、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法の発布を契機として、墾田開発は体制的に承認され、ことに
32. さんぜいっしんのほう【三世一身の法】
国史大辞典
減退して開墾田が荒廃することもあったので、天平十五年(七四三)には開墾田を永年私財とする墾田永年私財法が出された。三世一身の法から永年私財法の施行までは、わずか
33. 三世一身法
世界大百科事典
もあったので,743年(天平15)には,三世一身の収公期限を廃止して墾田を永年私財とする墾田永年私財法が出された。吉田 孝 墾田
34. 散田
世界大百科事典
直属地といわれる理由もここにある。こうした散田に対する権利の淵源は743年(天平15)の墾田永年私財法にさかのぼりうる。令制下においては寺田・神田は不輸租田=公
35. 塩山
世界大百科事典
743年(天平15)の墾田永年私財法が出るころから,寺院の資財帳などに塩山(焼塩山,取塩木山,山)40町歩ないし250町などという記載がみられる。その山とともに
36. ししょうず【四証図】
国史大辞典
条里の一条を一巻とした作成方式により、全国的に統一実施された最初の班田図であり、また天平十五年墾田永年私財法発布直前の班田図であったことによる。天平勝宝七歳証図
37. 私田
日本大百科全書
位田、功田、賜田、墾田、口分田くぶんでんなどが私田とされていた。しかし743年(天平15)の墾田永年私財法が発令されると、しだいに私田=墾田という観念が一般化し
38. しでん【私田】
国史大辞典
、寺田や闕官田や乗田などの無主田を公田とする概念と対応した。しかし天平十五年(七四三)の墾田永年私財法の発布によって、永代私有の認められた墾田が出現すると、前述
39. 賜田
日本大百科全書
くがんちなどが多く支給され、また被支給者は親王・内親王が中心となった。この空閑地などには墾田永年私財法が適用されたから、これらの賜田は私財として伝領され、やがて
40. 荘園
日本大百科全書
世紀末の太閤たいこう検地まで、の3期に区分される。永原慶二初期荘園743年(天平15)の墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうを転機として、8世紀後半以降、中
41. 荘園
世界大百科事典
に対する統制を強化すべく,723年(養老7)の三世一身法につづいて,743年(天平15)墾田永年私財法を発した。この法は位階に則した墾田制限額を定めているが,東
42. しょうえん【荘園】画像
国史大辞典
養老七年(七二三)に三世一身の法を実施したが、その効果は挙がらなかった。そこで天平十五年(七四三)墾田永年私財法を施行した。これには、開発地の占定には国司の許可
43. しょきしょうえん【初期荘園】
国史大辞典
土地私有の直接の契機となったのは和銅四年(七一一)の空閑地開発許可の詔、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法の発令で、特に後者の比重は大きなものがあった。天平勝
44. 続日本紀 2 114ページ
東洋文庫
国司が在任中の場合の墾田は、すべて前格 (本書1天平元年十一月七日条参照)〔の規定〕 に従え。(以上を「墾田永年私財法」と呼ぶ) 丙寅(二十八日) 諸国司らが旧
45. 続日本紀 2 128ページ
東洋文庫
 りの規定による開墾地返還の時期が迫ってきた 農家が少なくなかったのであろう。七 墾田永年私財法 この詔は、律令体制の基本 である土地公有の原則に反して土地の私
46. 続日本紀 3 159ページ
東洋文庫
丙申(五日) 〔天皇はつぎのように〕勅した。  今、聞くところによれば、墾田は天平十五年 の格(墾田永年私財法)によって、任意に〔開 墾者の〕私有の財産とし、〔
47. 寺田
日本大百科全書
れる。令りょうの規定では、官人や百姓が寺院に田地を施入・売与することは禁じられていたが、墾田永年私財法発令(743)以後、寺院は開墾・買得などにより積極的に寺田
48. 条里制画像
日本大百科全書
坊(坪)のごとく、郡ごとに数字による条と里の地番法が導入される。この新たな条里地番法は、墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうという土地政策に応じて耕地の位置
49. じりょう【寺領】
国史大辞典
おいても、なお寺封は存続した。一方、大化改新で廃止を免れた寺田も、天平十五年(七四三)の墾田永年私財法と天平勝宝元年(七四九)、東大寺大仏開眼を記念して、東大寺
50. せいりつ【成立】 : 荘園
国史大辞典
養老七年(七二三)に三世一身の法を実施したが、その効果は挙がらなかった。そこで天平十五年(七四三)墾田永年私財法を施行した。これには、開発地の占定には国司の許可
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