マーストリヒト条約により設立された、ヨーロッパ地域統合体。略称EU。当初は、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)、ヨーロッパ経済共同体(EEC、1993年からヨーロッパ共同体。略称EC)、およびヨーロッパ原子力共同体(EURATOM(ユーラトム))を基盤とした。
[岡村 堯]
1950年5月9日、時のフランス外相ロベール・シューマンは、外務省での記者会見において、フランスおよび旧西ドイツにおける石炭と鉄鋼の生産を最高機関とよばれる共通機関にゆだねること、かつほかのヨーロッパ諸国の参加を歓迎する旨の提案を行った。これがいわゆるシューマン・プランとよばれるものである。彼は、この共同生産をヨーロッパ連邦の最初の段階としてとらえていた。シューマンの提案に対し、直接の相手方である西ドイツをはじめとして、そのほかにイタリア、ベルギー、オランダおよびルクセンブルクが参加することになり、1951年4月18日、パリにおいて、ECSC創設条約が調印され、1952年7月25日に発効した。この条約をパリ条約ともいう。このECSCは、主要な機関として最高機関、理事会、総会および裁判所を有していた。
1955年5月に開かれたECSC総会の討議のなかで、石炭、鉄鋼以外の分野にも共同体的アプローチをとることの必要性が論じられ、会期の終わりに同総会は全会一致でヨーロッパ統合の次の段階を目ざすため、6加盟国の外相会議を開催することを決議した。これを受けて、同年6月、イタリアのメッシーナで外相会議が開かれた。そこではヨーロッパ建設の新たな前進を検討する政府間委員会が設けられ、その委員長にベルギーのスパーク外相が指名された。1956年4月、スパーク報告が各加盟国の首脳の下に提出されたが、その中心は新しい経済的結合の創設にあった。この報告に対し、各国の首脳はすばやい反応を示した。彼らは同年5月ベネチアに会合し、公式会議の討議資料として同報告を採択することを決め、スパーク委員会に対し引き続いて報告を具体化するための条約草案の作成を委嘱したのである。
1956年6月から1957年3月にかけて条約草案が練られ、その3月25日にECSC加盟国は、新しい二つの共同体条約に調印した。すなわち、EEC創設条約とEURATOM創設条約である。これらの条約は1958年1月1日に発効した。これらをローマ条約ともいう。
EECは、石炭、鉄鋼および原子力を除くほかの経済分野を包含する共同体である。それの目的は、共同市場の創設、共同体全体の経済活動の調和的発展、生活水準の向上および加盟国間の関係の緊密化ということにある。そしてEECは、これらの目的実現のために、域内における関税および数量制限の廃止、域外に対する共通関税の設定など、いわゆる関税同盟を基礎に、人、財貨および資本の自由移動の障害を除去し、また、通商、農林水産業、社会、運輸などの各分野における共通政策を実施した。
EURATOMが別に設けられたのは、原子力が危険性を伴う特殊な分野に属しており、したがって特別な取扱いを必要としたこと、また原子力産業の発展にはきわめて高度な科学的知識と巨額の費用が必要とされるが、これらは一国家の能力を超えるので、各国が共同して研究および開発にあたる必要があったからである。と同時に、国際原子力機関と有機的に結び付くことも考慮されたといえる。
なお、2002年にECSC創設条約が失効しECSCは消滅した。
[岡村 堯]
EECおよびEURATOMの発足に際して、それぞれが理事会と委員会を有することになったが、総会と裁判所はECSCのそれらと共通の機関となった。しかしECSC、EEC、EURATOMの共同体がそれぞれ別個の立法機関と行政機関を有したことによって、それらの活動に重複がみられ、また政策の調整が必要とされるようになった。この問題を解決するために、1965年4月8日、ヨーロッパ共同体の単一理事会および単一委員会設立条約が調印され、1967年7月1日に発効した。これによって三つの共同体は、1958年以来の総会および裁判所に加えて、理事会ならびに委員会を共通機関として有することになった。なお、これによってECSCの最高機関は委員会に統一される形になった。
[岡村 堯]
1958年の経済共同体の成立以来、1968年には、もっとも難関とされた農業に関して、共通政策が成立したことからもわかるように、ヨーロッパ統合が、それまでは比較的順調に進んできたことを示していた。しかしながら、1970年初めの第一次オイル・ショックはヨーロッパをも襲い、また、1980年初頭の第二次オイル・ショックも重なって、ヨーロッパはその10年間いわゆる冬の時代を迎え、経済的にも逼塞(ひっそく)状態になった。したがって、統合は足踏みを余儀なくされた。
このことに危機感を抱いたヨーロッパ議会のスピネリ(Altiero Spinelli)議員を中心とする統合推進グループは、さらなる統合を目ざすヨーロッパ連合条約案を明らかにしたが、そのことは、停滞ぎみだった統合の動きに大きな刺激を与えることになった。まず、委員会が1992年末の単一市場の完成を目ざして、物理的、財政的および技術的障壁の撤廃を求める域内市場完成白書(1985年6月)をヨーロッパ理事会(加盟国首脳会議)に送付した。
同理事会は、これを基に、三共同体諸条約の改正を定めた単一ヨーロッパ議定書(The Single European Act 略称SEA)を採択した(1987年7月発効)。そのおもな内容は、(1)1992年12月31日までに単一市場を完成させること、(2)共同体へ意思決定を強化するために特定多数決制度の適用を広げること、(3)研究、開発および環境諸政策についてEEC条約に挿入すること、(4)第一審裁判所を設けること、などであった。
市場統合の完成を見越した共同体加盟国の首脳たちは、通貨統合を目ざしていっそうの統合を進める準備に入った。そして、1992年2月、オランダのマーストリヒトにおいて、ヨーロッパ連合条約(マーストリヒト条約)が調印され、1993年11月に発効した。
EUは、法構造的には依然として、三つの共同体によって構成され、そのなかのヨーロッパ経済共同体(EEC)がヨーロッパ共同体(EC)と改称された。EU法は、三共同体条約を基礎とする法体系を意味するが、とりわけEC条約を頂点とするEC法秩序がその中心を占めることは疑いない。マーストリヒト条約について特筆すべきは、法的基礎を示す三共同体条約のほかに、共通外交、安全保障および司法、内政に関する協力について、政策として規定していることである。
マーストリヒト条約のおもな目的は、(1)経済通貨統合の推進(1999年1月より単一通貨の発行)、(2)連合市民権の導入、(3)共同体法の集積の維持、(4)補完の原則の導入、(5)先に述べた二つの政策(共通外交・安全保障政策および司法・内政協力政策)の遂行にある。
マーストリヒト条約は、それ自身の見直し規定を設けていたので、1996年3月から見直しのための政府間会議(IGC)が始まり、そこで合意のみられた原案をたたき台として、1997年6月16日および17日の2日間、アムステルダムで開催されたヨーロッパ理事会で審議した結果、マーストリヒト条約を改正するアムステルダム条約を採択。同条約は、1999年5月1日に発効した。
同条約は、20章にわたって構成されているが、そのおもな内容は次のとおりである。(1)発効後5年以内に移動の自由を確保するための措置をとる。(2)高水準の雇用の確保。(3)共通安保・外交政策の遂行には全会一致を必要とするが、棄権はそれに影響を与えない(建設的棄権制の採用)。(4)EUが法人格を有すること。(5)ヨーロッパ委員会の委員はEUが拡大する時点で各国から1人とし、閣僚理事会での特定多数決制度における各国の票数を見直し、加盟国が20を超す場合には、その1年以上前にヨーロッパ委員会の構成、機能、特定多数決の票数などについて再検討する。(6)過半数の加盟国が先行して多段階に統合を進めることができる。
アムステルダム理事会でのもっとも重要な決定は、新条約の採択はもとより、マーストリヒト条約に規定されていた通貨統合を予定どおり1999年より実施することを確認したことである。そのために財政安定協定を結び、参加基準の認定を1998年6月ごろに行い、準備のできた加盟国から通貨統合を進めることに合意し、2002年1月1日から単一法定通貨として、ユーロが流通を開始した。
[岡村 堯]
イギリスは、1963年と1967年に加盟申請を行ったが、いずれもフランスの反対にあって失敗に終わった。1970年に三度目の加盟申請を行った結果、加盟が認められることになり、同国と並んで加盟申請を行っていたアイルランド、デンマークおよびノルウェー4か国と原加盟国との間に加盟に関するブリュッセル条約が締結され、1973年1月1日に発効することになった。しかしノルウェーは国民投票の結果、反対が過半数を超えたため加盟に至らなかった。その後、1975年にギリシアが加盟申請を行い、1981年1月1日に加盟国となった。1977年にはスペインおよびポルトガルが加盟を申請し、1986年1月1日に加盟した。また、1989年にオーストリア、1991年にスウェーデン、1992年にスイス、フィンランドおよびノルウェーが加盟を申請したが、これらのうち、オーストリア、スウェーデンおよびフィンランドの3か国が1995年1月1日に加盟した。また、2004年5月1日には、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ポーランド、チェコ、スロバキア、スロベニア、ハンガリー、マルタ、キプロスの10か国、2007年1月1日にはブルガリア、ルーマニア、2013年7月1日にはクロアチアが加盟しており、2013年時点で、EU加盟国は28か国である。
[岡村 堯]
EUの注目すべき点は、それ独自の法秩序を有していることである。EU法は、(1)三共同体創設条約、諸機関の統一に関する条約、加盟条約および予算条約など、(2)共同体立法、(3)EU裁判所の判例、(4)加盟国に共通な法の一般原則、によって構成される。三共同体創設条約は、EUの憲法的性格を有する。第二の法源としての共同体立法は、理事会あるいは委員会の定める諸法規によって構成され、EU運営上重要な役割を演ずる。種類としては、規則Regulation、命令Directive、決定Decision、勧告Recommendationおよび意見Opinionの五つがある。規則は全加盟国において拘束力を有し、直接に適用される。命令は、達成されるべき結果についてはそれが宛(あ)てられた加盟国を拘束するが、履行の形式と方法の選択は当該加盟国にゆだねられる。決定は、すべての点において、それが宛てられた者を拘束する。勧告および意見は拘束力を有しない。(1)および(2)が文字どおりの立法とすれば、(3)はすこし異なる。つまり、EU裁判所の判例は制定法そのものではないが、解釈を通してEU諸条約あるいは共同体立法の間隙(かんげき)を埋めることによって判例法として間接的な法創造の機能を果たしているからである。次に(4)についてであるが、EU裁判所は、EU法における法の一般原則として、加盟国に共通な法の一般原則を援用しており、加盟国のかかる原則を第四の法源として認めることができるであろう。
EU法の特徴は、加盟国において直接に適用されること、個人(企業)に広範囲の提訴権が与えられていること、国内法と抵触したときにはそれに優位すること、以上の3点に要約できる。この場合の直接適用ということは国内法に変型する必要がないということだけでなく、EU法に規定される個人の権利が侵害された場合に、当該個人がその救済を求めて、国内裁判所あるいはEU裁判所に訴えを提起することができるという積極的意味をもっている。国際司法裁判所においては、個人の提訴権が認められていないことと比べれば、EUが個人あるいは企業に法の主体としていかに大きなウェイトを置いているかがうかがい知れる。
EU法が国内法と抵触した場合にどちらが優位して適用されるのかということも、重要な問題の一つである。この点についてEU裁判所は、EU創設の基本目的からしてEU法が優位すべきことをいくつかの事件のなかで判示している。EU加盟国の国民が、EU法に関する争いについてEU裁判所のみならず国内裁判所にも提訴できることは先述のとおりであるが、したがって同一のEU法について種々の解釈が示され、混乱が生ずる可能性が予想される。このような混乱を避け、EU法の統一された解釈と適用を確保するために、EU機能条約は、国内裁判所がEU法の解釈について、必要と思う場合にはEU裁判所に判断を求めることができるし、また最終審の場合にはそれを求めなければならない旨を規定している(同条約267条)。
[岡村 堯]
1958年以降、三共同体共通機関の一つになった総会は、1962年に自らをヨーロッパ議会(European Parliament)とよぶことを決議した。もっとも、議会と称しても本格的立法権が与えられたわけではない。1979年に、同議会最初の直接選挙が行われた。選挙は各加盟国を一つの選挙区として、政党(グループ)に投票する形をとっている。議員は国別ではなくグループ別に着席する。2009年、EUの基本条約を改正するためのリスボン条約の発効に伴い、議員定数は754名、任期は5年となっている。議会は共同体全体の活動について検討し、委員会あるいは理事会に対して質問を行ったり、または意見を表明する。同議会はマーストリヒト条約によって、EU法の立法作業により、積極的に参加するようになった(共同決定手続)。EUは、1971年1月1日に発効した予算条約によって、独自の財源が認められるようになった。財源となるのは、共通関税、農業課徴金および付加価値税の一部である。
1987年7月に発効した単一ヨーロッパ議定書によって、ヨーロッパ理事会(European Council)の定期的開催が合意された。この会議は、EUの内部問題とヨーロッパが直面する対外問題に全体的に対処することを目的としており、加盟国の首脳が外相を伴って1年に2回会合するものである。内部的には、加盟国の分担金問題あるいはEU農業制度など、対外的にはヨーロッパとアラブの対話、アフガニスタン問題、あるいは対日貿易問題などを取り上げた。その後、単一ヨーロッパ議定書(1987年)、マーストリヒト条約(1993年)、アムステルダム条約(1999年)の採択によって、単一市場の完成、通貨統合の推進などヨーロッパ統合を大きく前進させた。また、2003年に発効したニース条約にはEU東方拡大に伴う機構改革が盛り込まれた。
マーストリヒト条約がEUの基本原則を定めるのに対し、三共同体条約はEUの具体的活動に関するルールを定めていた。1999年にアムステルダム条約が発効した後も、三共同体はそのまま存続したが、2002年にECSCが消滅し、さらに2009年のリスボン条約においてはこれら共同体の名称が消え、EUの機能をつかさどるものとしてEU機能条約(TFEU)が制定された。
リスボン条約により、EUは大きな進化を遂げた。2004年に制定されたヨーロッパ憲法条約が目ざしつつも実現できなかった「ヨーロッパ合衆国(連邦)」構想を踏襲しているからである。
主な内容は次のとおりである。
(1)TFEUの制定
(2)共通外交安全保障政策の確立
(3)ヨーロッパ理事会の常任議長制(EU大統領)の制定(任期2年6か月、再選可)
(4)連合外交安全保障政策上級代表(EU外相)の設置
(5)競争、環境、市民に対する政策の強化
[岡村 堯]
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