文学者、軍医。本名林太郎。文久(ぶんきゅう)2年1月19日、石見(いわみ)国(島根県)津和野横堀に生まれる。
[磯貝英夫]
森家は、津和野藩代々の御典医の家柄で、父は静男(静泰(せいたい))、母は峰子。鴎外は長男で、2弟、1妹があった。7歳より藩校養老館で漢学を学び、また、父についてオランダ文典をも学んだ。1872年(明治5)、10歳で、旧藩主亀井氏に従って父とともに上京、親戚(しんせき)西周(にしあまね)邸に寄寓(きぐう)して、本郷(ほんごう)の進文学舎に通い、ドイツ語を学んだ。1874年、東京医学校予科に入学、1877年に東京大学医学部本科生となり、1881年7月に卒業した。しばらく、当時千住(せんじゅ)で開業していた父の医療を手伝い、12月に陸軍省に入って、軍医となった。
1884年、多年の念願がかなって、ドイツ留学を命じられ、以後約4年間、ライプツィヒ大学のホフマン教授、ミュンヘン大学のペッテンコーファー教授、ベルリン大学のコッホ教授らについて衛生学を学んだ。その一方、多くの文学書に親しみ、また、日本の評価をめぐって、新聞紙上で地質学者ナウマンと論争するなどの活躍をしている。1888年9月に帰国、陸軍軍医学舎(のち学校)教官に任じられたが、その職務のかたわら、翌1889年から、医事、文学の両面にわたって旺盛(おうせい)なジャーナリズム活動を開始した。まず、医事面においては、1889年1月に『東京医事新誌』主筆に就任、そのかたわら3月に啓蒙(けいもう)誌『衛生新誌』を創刊、11月にゆえあって『東京医事新誌』を追われるや、翌12月に『医事新論』を創刊、1890年9月に両誌を統合させて『衛生療病志』と命名、これを94年10月の日清(にっしん)戦争出征まで続けた。
文学面では、1889年当初より、評論、翻訳等を諸新聞・雑誌に寄稿、同年10月には『文学評論しがらみ草紙』を創刊、これを1894年8月まで続けた。一時は3誌を併行編集していたわけで、その活動のすさまじさがよくわかる。しかも、彼のジャーナリズム活動はきわめて闘争的で、1893、1894年の、医学界中枢と対峙(たいじ)した「傍観機関」論争、1891、1892年の、坪内逍遙(しょうよう)と渡り合った没理想論争が、とりわけ注目されるものである。創作は、1890、1891年に『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』の雅文三部作を発表して、新風を巻き起こした。私生活面では、鴎外の後を追って来朝した『舞姫』のモデルを説得、帰国させた約5か月後の1889年3月に、赤松則良(のりよし)男爵の長女登志子と結婚したが、約1年半で離別した。
日清戦争終結ののち、1896年に『めさまし草』を、1897年に『公衆医事』を創刊するが、執筆活動は、以前と比べればかなり沈静したものとなった。1899年、そのジャーナリズム活動も一要因となって、第一二師団軍医部長として小倉(こくら)に左遷された。鴎外は、隠忍して命に従い、その間は、ドイツ美学の翻訳や、アンデルセンの『即興詩人』の翻訳を続ける程度で、心的エネルギーを蓄え、また、1902年(明治35)には、若くて美貌(びぼう)の荒木志げを妻として得、同年3月、第一師団軍医部長に任じられて帰京した。帰京後、『めさまし草』にかえて『万年艸(まんねんぐさ)』を創刊、この時期には新歌舞伎(かぶき)や長詩の試作が注目されるが、1904年の日露戦争に第二軍軍医部長として出征、軍陣の余暇に詩歌の創作に努め、これらは、のちに『うた日記』としてまとめられた。凱旋(がいせん)後は、その延長線で、1906年に、山県有朋(やまがたありとも)を囲む歌会常磐会(ときわかい)を、また、1907年には、短歌諸派の交流を企図して、自宅で観潮楼歌会を始めた。
1907年11月、45歳で陸軍省医務局長に就任、これをきっかけとして文学活動を全面的に再開させる。1908年にはまず翻訳活動を、ついで1909年から創作活動を全開にして、自然主義興隆後の文壇の盛況に伍(ご)した。『半日』『青年』『妄想(もうぞう)』『雁(がん)』などの長短の現代小説を相次いで発表、1912年(明治45)の明治天皇崩御、それに続く乃木(のぎ)将軍夫妻の殉死をきっかけとして、『興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書』を書き、以後、歴史小説に転換した。さらに、1916年(54歳)の陸軍省退官と前後して、『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』をはじめとする史伝に移行した。翌1917年末には、ふたたび官途について、宮内省帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)となり、終生その職にあった。1919年にはさらに帝国美術院初代院長に就任、1921年には図書寮の仕事として『帝諡考(ていしこう)』を完成出版。1922年(大正11)7月9日、萎縮腎(いしゅくじん)と肺結核の症状で死去。享年60歳。墓は現在、東京・三鷹(みたか)市の禅林寺にある。なお、生家は津和野町で保存され、1892年以降の住居、文京区千駄木(せんだぎ)の観潮楼跡には鴎外記念本郷図書館が建っている。
[磯貝英夫]
鴎外の仕事は、はなはだ多岐にわたっている。第一は、陸軍省医務局長まで務めた軍医としての業績、第二は、医事、文学等について啓蒙、批評、報道に努めた大ジャーナリストとしての仕事、第三は、ドイツ美学の訳述と、美術審査の仕事、第四は、おびただしいヨーロッパ文学翻訳の業績、第五は、国家に責任をもつ立場からの、思想上、政治上の諸発言、第六は、晩年の歴史研究。小説、詩、短歌にまたがる作家としての仕事のほかに、以上のような諸業績が数えられるわけで、まさしく驚くべき多力の人であった。鴎外全集も、その過半を創作以外の文章が占めている。鴎外の今日の名声は、むろん、その文学上の業績によっているが、この多面性は、日本の近代文学者中まったく類例をみない。
[磯貝英夫]
鴎外には、虚構の大道を行く本格的長編は少ない。現代小説では『青年』『雁』『灰燼(かいじん)』が長編だが、小説的によくまとまっているのは『雁』1編で、『青年』は熟成せず、『灰燼』は中断してしまっている。『渋江抽斎』『伊沢蘭軒(いざわらんけん)』『北条霞亭(かてい)』の史伝3作は、長編ではあるが、鴎外自身、小説とは考えていなかった史的述作である。しかし、とりわけ『渋江抽斎』は、鴎外がかけた情熱に比例して、深い感銘を読者に与え、結果として優れた文学になっている。鴎外の最高作品であり、小説に新領域を開いたものということもできる。これは、想像的であるよりは知的である鴎外が、その資質をよく生かしえた未曽有(みぞう)の世界である。短編は数多いが、傑作はやはり歴史小説に集中しており、『阿部一族』『山椒大夫(さんしょうだゆう)』『最後の一句』『高瀬舟』『寒山拾得(かんざんじっとく)』などは、多くの人々に親しまれている名作である。
生涯衰えることのなかった、鴎外の文学への渇望は、終生その身を俗界に置いていた彼の自己救済の願いに深くかかわっていた。『舞姫』等の初期三部作や、『即興詩人』などの初期諸翻訳では、それが、美的、浪漫(ろうまん)的方向性をとって現れ、明治浪漫主義――唯美主義の流れと結び付くことになった。第二の活躍期では、高踏的な姿勢をとって、作品のなかで、俗界の権威主義を厳しく突くと同時に、対極の虚無思潮をも打つという両面批判を展開しつつ、しだいに安心立命の境域を歴史のなかに模索していった。そして、その俗界との緊張感は、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と書いた遺言にまで持ち越された趣(おもむき)がある。自然主義系の文学とは肌があわず、相互に疎んじ合った。鴎外は生涯、文学上の弟子といった者はもたなかったが、雑誌『スバル』系の人々とは親しんだ。鴎外を尊崇し、鴎外系流ともいいうる作家としては、永井荷風(かふう)、木下杢太郎(もくたろう)、佐藤春夫、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)、石川淳(じゅん)、三島由紀夫(ゆきお)らが数えられる。
[磯貝英夫]
明治・大正の小説家,評論家,翻訳家,陸軍軍医。本名林太郎。別号観潮楼主人など。石見国津和野(現,島根県)生れ。父森静泰(せいたい)(のち静男)は津和野藩主亀井家の典医だったが,維新後は禄を離れて上京し千住で診療所を開いた。鷗外は母峰子の薫陶下に,没落した生家再興の期待を託されて育ち,1872年(明治5)に上京,81年に最年少で東大医学部を卒業し,軍医に任官した。84年衛生学研究の目的でドイツに留学,西欧の思想と文化に触れて清新な感動を受けた。88年帰国。落合直文や井上通泰,妹の小金井喜美子らと新声社(S.S.S.)を結成し,西欧の抒情詩を中心とする訳詩集《於母影(おもかげ)》(1889)を発表した。ついで《しからみ草紙》を創刊し評論を中心に,レッシングにみずからを擬した戦闘的な文学啓蒙活動を展開,とくに坪内逍遥の説く写実主義に対して,イデー(理想)を重視する浪漫主義の立場から批判を加え,没理想論争を応酬した。また,《舞姫》や《うたかたの記》(ともに1890)など,ドイツ留学記念の三部作を書いて戯作性を脱却した近代小説の確立に貢献した。他方,医学面では《衛生療病志》などの個人誌を創刊,医学界の封建性の払拭(ふつしよく)をめざした論戦をいどみ,その批判が軍医部内の上部に及ぶことも辞さなかった。ハルトマンの美学を祖述した《審美論》(1892-93)などの業績もある。日清戦争の従軍で文学活動は中断したが,凱旋(がいせん)後,96年に《めさまし草》を創刊し,合評形式による実作の批評を試み,とくに樋口一葉を推賞して世に出したことは有名。しかし,99年小倉の第12師団に左遷され,《鷗外漁史とは誰ぞ》(1900)を書いて以後,文壇への発言を停止した。その間,クラウゼウィツの《戦争論》の翻訳を試み(《大戦学理》1903),また,アンデルセンの翻訳《即興詩人》(1892-1901)を完成した。1902年東京の第1師団に復帰,日露戦争に従軍,戦場での詩歌・俳句をまとめた異色のアンソロジー《うた日記》(1907)を編んでいる。
1907年陸軍軍医総監に進級して,陸軍省医務局長に補せられ,軍医としての最高位についた。そして09年,家庭内のトラブルを描いた小説《半日》から創作活動を再開し,第2の活動期を迎える。《スバル》《三田文学》など,耽美主義の拠点となった雑誌の精神的支柱として自然主義と対立したが,自身の作風はロマンティシズムの枠をこえて,はるかに多彩だった。自己の性欲史を冷徹に点検,叙述した《ヰタ・セクスアリス》(1909)は発禁処分を受けて話題になったが,身辺の事実に題材を求めた短編も多い。かつての戦闘的な啓蒙性は影をひそめ,作風は総じて玲瓏(れいろう)かつ端正で,口語体に統一された文体も格調が高い。《予が立場》(1909)でresignation(諦念)の心境について語っているが,公務にも芸術にもけっしてのめりこむことのない独自の哲学を語った《あそび》(1910),巨富を蕩尽(とうじん)したあげく非情な傍観者と化した豪商を描く《百物語》(1911)などに,高級官僚として日本の近代を生きる複雑な心情を彷彿(ほうふつ)する。《妄想》(1911)も同系列の作品で,半生を回想してなお尽きぬ〈見果てぬ夢〉の思いを述べる。《普請中》(1910)は留学時代の愛人と再会して無感動な高級官吏を描いた短編だが,西洋を模して及ばぬ日本の近代に対する諦念が根底にひそむ。しかし,現実の時代状況への対応も敏感で,華族の嫡男を主人公とする《かのやうに》(1912)以下一連の秀麿(ひでまろ)物や《沈黙の塔》(1910)では,大逆事件に象徴される政府の社会主義弾圧政策に対して,強い危惧を表明している。文部省の国語政策に干渉して,歴史的仮名遣いの改定を阻止した《仮名遣意見》(1908)もあった。やや長編の作では,知識青年の個性形成史を追った《青年》(1910-11),薄幸な女性のひそかな覚醒と失意のドラマを描いた《雁》(1911-13)などがあり,後者は青春の追憶をこめたロマンティックな抒情がただよう。
大正期の鷗外は乃木希典の殉死に触発されて,歴史小説に新しい領域を開くことになった。《興津弥五右衛門の遺書》(初稿1912)は殉死者の遺書に擬して乃木への賛歌を語り,《阿部一族》(1913)は殉死の掟と人間性の相克を描いて,武士道を貫いた死者への感動を隠さない。《大塩平八郎》(1914)では大塩の挙兵を〈未だ醒覚せざる社会主義〉の乱と呼んで批判的である。これらの歴史小説はいずれも史料に忠実な〈歴史其儘(そのまま)〉の手法が特色だが,その後,史料の束縛を脱して主観を自由に生かす〈歴史離れ〉の方向にむかい,《山椒大夫》(1915)や《高瀬舟》《寒山拾得》(ともに1916)などの佳作が書かれた。女性の献身,求道者の安心立命などを主題とする。庶民の反抗を描いた《最後の一句》(1915)も異色作である。さらに《渋江抽斎(しぶえちゆうさい)》(1916)では医にして儒者を兼ねた抽斎の伝を,伝記の考証過程とあわせ描いて,史伝の新しい領域を開いた。文体もまた,高雅に完成され,《北条霞亭》(1917-21)などが書きつがれたが,1922年萎縮腎で没した。夏目漱石と併称されることが多く,相並んで明治の精神と倫理を体現した作家である。
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