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  11. 北条時政

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世界大百科事典・日本大百科全書

世界大百科事典

北条時政
ほうじょうときまさ
1138-1215(保延4-建保3)

鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現静岡県伊豆の国市,旧韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助け,まず伊豆の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討った。しかし相模の石橋山の戦には敗れて安房に逃れた。ついで頼朝の命を受けて甲斐に赴き,同国の武田信義らを味方につけ,甲斐,信濃の源氏を伴って頼朝の本隊に合流し,駿河の富士川の戦で平維盛の東征軍を敗走させた。平氏討伐のための西国遠征には加わらず,鎌倉にとどまっていた。平氏滅亡後,頼朝・義経兄弟の対立が激化すると,85年(文治1)義経を追って上洛,守護・地頭設置の勅許を出させ,京都守護として京都の警備,朝廷との折衝に当たったが,翌86年京都守護を後任の一条能保(よしやす)に託し,鎌倉に帰った。99年(正治1)頼朝が没して子の頼家があとを継ぐと,頼家の外戚である比企能員が勢力をもつようになった。時政らはこれに対抗し,頼家がみずから訴訟を裁断するのを停め,時政・義時父子,能員ら13名の有力御家人の合議によることとし,頼家の独裁を抑えた。1203年(建仁3)頼家が病むと,その遺跡の処分を独断で行って能員を挑発し,能員をはじめ比企一族を滅ぼし,頼家の子一幡を殺し,頼家を廃してその弟実朝を将軍に立て,大江広元とともに政所別当(執権)として幕府の実権を握った。時政は後妻牧の方を愛したが,先妻が生んだ政子と義時は,継母と不和であった。05年(元久2)時政,牧の方の女婿平賀朝雅が畠山重忠と対立すると,時政は重忠を討った。さらに時政は牧の方と謀って将軍実朝を廃し,朝雅を将軍にしようとしたため,政子,義時は時政を出家させて(法名明盛)伊豆に幽閉し(牧氏の変),義時が執権に就任した。時政は不遇のうちに10年後に没した。
[上横手 雅敬]

[索引語]
執権 比企能員 源頼家 牧の方 源実朝 牧氏の変


日本大百科全書(ニッポニカ)

北条時政
ほうじょうときまさ
[1138―1215]

鎌倉幕府初代執権。時方 (ときかた)の子。母は伊豆掾 (いずのじょう)伴為房 (とものためふさ)の女 (むすめ)。伊豆国府 (こくふ)の役人として北条に住し、北条四郎と称した。法名明盛 (めいせい)。流人源頼朝 (よりとも)を監視する役目であった時政は、ひそかに頼朝と通じ、女政子 (まさこ)を彼に配し、1180年(治承4)伊豆目代 (もくだい)山木兼隆 (やまきかねたか)を急襲して、頼朝の源家再興の旗揚げを助けた。以後頼朝に従って富士川などの諸戦に活躍し、信頼を得た。85年(文治1)頼朝の代官として、義経 (よしつね)追討のため大軍を率いて上京、守護 (しゅご)・地頭 (じとう)の設置を朝廷に認めさせた。1200年(正治2)従 (じゅ)五位下遠江守 (とおとうみのかみ)に任ぜられる。頼朝の没後、比企 (ひき)氏を後ろ盾に独裁化をねらう2代将軍頼家 (よりいえ)に対して、重臣合議制でこれを抑制した。03年(建仁3)比企一族を滅ぼし、実朝 (さねとも)を擁立、大江広元 (おおえのひろもと)とともに政所別当 (まんどころべっとう)となり、幕府の実権を握った。05年(元久2)平賀朝雅 (ひらがともまさ)の讒言 (ざんげん)により畠山重忠 (はたけやましげただ)を殺害、さらに後妻牧方 (まきのかた)と謀って将軍廃立を企てたが発覚、政子らによって幕府から追放された。出家し、伊豆に送られ、10年後の建保 (けんぽう)3年正月6日北条で没した。

[田辺久子]

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検索コンテンツ
1. 北条時政
日本大百科全書
鎌倉幕府初代執権。時方ときかたの子。母は伊豆掾いずのじょう伴為房とものためふさの女むすめ。伊豆国府こくふの役人として北条に住し、北条四郎と称した。法名明盛めいせ
2. 北条時政
世界大百科事典
1138-1215(保延4-建保3) 鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現静岡県伊豆の国市,旧韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条
3. ほうじょう‐ときまさ【北条時政】
日本国語大辞典
鎌倉幕府初代執権。時方の子。源頼朝に娘政子をとつがせ頼朝の挙兵をたすけて幕府創設に貢献した。頼朝死後、頼家と比企能員を圧迫、謀殺して実朝を将軍に擁立、執権として
4. ほうじょうときまさ【北条時政】画像
国史大辞典
喜寿記念論文集刊行会編『荘園制と中世社会』所収)、柏美恵子「比企氏の乱と北条時政」(『法政史論』七)、菊池紳一「北条時政発給文書について―その立場と権限―」(『
5. 北条時政
日本史年表
1186年〈文治2 丙午⑦〉 3・1 北条時政 ,後白河法皇から拝領した7ヵ国の地頭職を辞退(吾)。 1203年〈建仁3 癸亥〉 9・2 北条時政 ・ 政子
6. 北條時政(ほうじょうときまさ)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 679ページ
7. ほうじょう-ときまさ【北条時政】
日本人名大辞典
1138−1215 平安後期-鎌倉時代の武将。保延(ほうえん)4年生まれ。北条政子の父。鎌倉幕府初代執権。政子と結婚した源頼朝の挙兵をたすけて幕府創設に寄与。文
8. 北条時政[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:2件 【逐次刊行物】:1件 『歴史と人物』三浦周行『北条時政の批判』大森金五郎『武蔵武士と北条時政』稲村坦元
9. ほうじょうときまさいらいこうけんしだい【北条時政以来後見次第】
国史大辞典
鎌倉幕府の執権・連署の一覧。一巻。編者・成立年代未詳。内題『御後見』。執権・連署を区別せず、就任の順を追って北条時政から北条茂時までを収め、出自・略歴を記す。経
10. 北条時政花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. 北条時政之日記(著作ID:4385495)
新日本古典籍データベース
ほうじょうときまさのにっき 
12. 朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)
日本大百科全書
なつ、修羅五郎経任しゅらごろうつねとうの奸計かんけいに苦しめられるが、これを討ち、また義秀は北条時政ときまさ父子の陰謀を面責して義邦の窮地を助ける。この後の構想
13. 足利氏画像
日本大百科全書
し、その室は源頼朝よりともの母の妹にあたる。義康の子義兼よしかねは頼朝の鎌倉幕府創業に参画、北条時政ほうじょうときまさの女むすめを室とし、続く義氏よしうじ、泰氏
14. あしかがし【足利氏】画像
国史大辞典
った。義康は保元の乱に嫡家義朝と行動をともにし、その子義兼は頼朝の鎌倉開府に参じて親任され、北条時政の女を妻せられ、平家追討戦の功により上総介に任ぜられた。また
15. あしかがし【足利氏】 : 足利氏/(一)
国史大辞典
った。義康は保元の乱に嫡家義朝と行動をともにし、その子義兼は頼朝の鎌倉開府に参じて親任され、北条時政の女を妻せられ、平家追討戦の功により上総介に任ぜられた。また
16. 足利義氏
日本大百科全書
鎌倉中期の武将。義兼の子で母は北条時政ときまさの娘。武蔵守むさしのかみ、陸奥むつ守、左馬頭さまのかみなどを歴任し正四位下に至る。1213年(建保1)和田義盛よし
17. 足利義氏
世界大百科事典
1189-1254(文治5-建長6) 鎌倉前期の武将。義兼の三男で正嫡。母は北条時政女。室は北条泰時女。1213年(建保1)和田氏の乱で武名をあげ,承久の乱では
18. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
一一八九―一二五四 鎌倉時代前期の武将。義兼の三男で三郎と称したが、正嫡となって家をついだ。母は北条時政の女。室は北条泰時の女。検非違使・蔵人・治部少輔・武蔵守
19. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(一)
国史大辞典
一一八九―一二五四 鎌倉時代前期の武将。義兼の三男で三郎と称したが、正嫡となって家をついだ。母は北条時政の女。室は北条泰時の女。検非違使・蔵人・治部少輔・武蔵守
20. 足利義兼
日本大百科全書
赴いて平氏を討って功をあげ、ついで奥州の藤原氏討伐にも活躍して頼朝の信頼を厚くした。その縁で北条時政ときまさの娘で政子の妹を妻にしている。上総介かずさのすけ、遠
21. 足利義兼
世界大百科事典
1154-99(久寿1-正治1) 鎌倉前期の武将。父は義康,母は藤原季範長男範忠の女,室は北条時政の女。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に参じ,以後平家追討,奥
22. あしかがよしかね【足利義兼】
国史大辞典
平定。この間、文治元年八月十六日頼朝の知行国である上総介に任ぜられた。また養和元年(一一八一)北条時政の女を妻とし、幕府での地位を安泰にした。一方、平家方である
23. あしかが-よしかね【足利義兼】
日本人名大辞典
180)源頼朝の挙兵にくわわり,平氏追討に功をたて,奥州藤原氏征討にも活躍。頼朝に信頼され,北条時政の娘(政子の妹)を妻とした。のち出家し,下野(しもつけ)(栃
24. あそじんじゃ【阿蘇神社】熊本県:阿蘇郡/一の宮町/宮地村
日本歴史地名大系
天台系修験の衆徒・行者が住坊を営み、健磐龍命の本地を十一面観音とする信仰を形成していた。建久六年七月二八日の北条時政のものとみられる平某下文(阿蘇家文書)は阿蘇
25. あそのしょう【阿蘇庄】熊本県:阿蘇郡
日本歴史地名大系
〔北条氏の進出〕地頭は北条得宗家と推定されるが、別に預所も兼任していた。建仁三年(一二〇三)三月二九日の北条時政下文(阿蘇家文書)は、南郷山西の岩坂郷預所代に惟
26. 阿野全成
世界大百科事典
と号した。1180年(治承4)頼朝の挙兵にあたり京都から下向して参加し,駿河国阿野に住した。北条時政の女阿波局(源実朝の乳母)を妻としていたが,1203年謀反の
27. あのぜんじょう【阿野全成】
国史大辞典
同十一月には武蔵国長尾寺に住し、やがて駿河国阿野(静岡県沼津市の西方か)に住したようである。北条時政の女を娶り、その間に時元をもうけた。建仁三年(一二〇三)五月
28. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
?―一二一九 鎌倉時代前期の武士。父は阿野全成、母は北条時政の娘。源義朝の孫にあたる。承久元年(一二一九)駿河国から鎌倉へ飛脚が走って、同国阿野(静岡県沼津市
29. 天野遠景
日本大百科全書
その後、頼朝の死(1199)を機会に出家して蓮景れんけいと号した。1203年(建仁3)9月、北条時政ときまさの命で比企能員ひきよしかずを斬きった。新田英治
30. 天野遠景
世界大百科事典
法名〓景。1203年(建仁3)北条時政に従い比企能員を謀殺。晩年は不遇だったらしい。→天野氏青山 幹哉 天野藤内
31. あまのとおかげ【天野遠景】
国史大辞典
機会に出家し蓮景と号した。正治元年(一一九九)梶原景時誅伐にも参加し、建仁三年(一二〇三)九月北条時政の命を受けて、比企能員を誘殺した。死期も近い承元元年(一二
32. あまの-とおかげ【天野遠景】
日本人名大辞典
家追討に功をたて,文治元年鎮西(ちんぜい)奉行となる。のち鎌倉にかえり,建仁(けんにん)3年北条時政の命をうけて比企能員(ひき-よしかず)を殺害した。伊豆(いず
33. あら‐ぬ
日本国語大辞典
あやしきだに、身の程知らず、あらぬ思ひをつくるものとかや」*古事談〔1212~15頃〕三・忠快加持北条時政女事「無〓止之人依
34. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
れた源頼朝は海路安房に逃れ、二九日平北郡猟島(現鋸南町竜島)に上陸するが、すでに渡海していた北条時政や三浦氏一族らと合流し、陣容を立直している。翌九月一日幼児の
35. 阿波局
世界大百科事典
?-1227(安貞1) 鎌倉前期の女性。北条時政の女で,源頼朝の妻政子の妹。将軍源頼家の御所女房であるとともに,千幡(のちの将軍実朝)の乳母であった。北条氏の一
36. あわのつぼね【阿波局】
日本人名大辞典
?−1227 鎌倉時代,源実朝(さねとも)の乳母。北条時政の娘。北条政子の妹。正治(しょうじ)元年一族の結城朝光(ゆうき-ともみつ)を梶原景時(かじわら-かげと
37. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
紛争は落着した。こうして執権泰時の治世が開かれるのである。この事件は元久二年(一二〇五)に起った北条時政の後妻牧の方による娘婿の平賀朝雅擁立運動(平賀朝雅の乱)
38. いがらのしょう【伊賀良庄】長野県:下伊那郡
日本歴史地名大系
ことが知られる。平安時代の荘官などは不明であるが、「吾妻鏡」文治四年六月四日条によれば地頭は北条時政であったと推測される節がある。その後、鎌倉時代は北条氏一門の
39. いがらのしょう【伊賀良荘】
国史大辞典
『吾妻鏡』によると文治二年(一一八六)には尊勝寺領とみえ、同四年には八条院領となっている。そして地頭は北条時政であった。その後地頭職は江馬氏が相伝した。『色部文
40. いぐさごう【井草郷】埼玉県:比企郡/川島町
日本歴史地名大系
。なお土袋郷については、「吾妻鏡」元久二年(一二〇五)二月二一日条に「武蔵国土袋郷」とみえ、北条時政は同郷の年貢を鎌倉永福寺の供僧料に充てる旨を命じている。また
41. いさわのみくりや【石禾御厨】
国史大辞典
武田信義の子信光はこの厨を本拠とした。治承四年(一一八〇)九月、源頼朝の使節として甲斐国に派遣された北条時政は、武田信義・一条忠頼らと石禾御厨において駿河国への
42. 伊沢家景
世界大百科事典
平安後期~鎌倉前期の武士。生没年不詳。大納言葉室光頼の侍であったが,北条時政の推挙によって御家人となった。文筆にすぐれ,1190年(建久1)奥州藤原氏の遺臣大河
43. 石橋山の戦
世界大百科事典
家人であり,水軍を通じて近隣沿岸諸国の武士団と広い関係を有する三浦氏と合流しようとし,20日北条時政ら伊豆・相模の武士を率いて伊豆国を進発,途中駿河国東部の兵も
44. いしぶむら【石部村】静岡県:賀茂郡/松崎町
日本歴史地名大系
地のことと思われ、「あまのすみか」が磯近くにあったと記される。建暦元年(一二一一)七月一八日北条時政と考えられる人物が「石火宮」の供菜料に充てるため、松崎下宮(
45. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
北条泰時は奉幣使として参詣した(吾妻鏡)。元久二年(一二〇五)閏七月二六日、京都の藤原定家は北条時政が伊豆山に幽閉されたとの噂を聞いている(明月記)。建永元年(
46. 伊豆の国[市]
世界大百科事典
また,国民温泉の韮山温泉(単純泉,57℃)をはじめ,各地に温泉が湧出する。狩野川沿いの守山には北条時政の墓がある願成就院(がんじようじゆいん),町域中心部に北条
47. 伊豆の国(市)画像
日本大百科全書
源頼朝よりともが配流の生活を送った蛭ヶ小島ひるがこじま、執権北条時頼ときよりの墓がある最明寺さいみょうじ、北条時政ときまさの建立した願成就院がんじょうじゅいんな
48. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
ほか、櫓のような攻撃設備もあったという(「源平盛衰記」巻二〇)。頼朝方の武士として、頼朝の舅北条時政をはじめ工藤茂光・天野遠景・宇佐美助茂・加藤景廉ら伊豆出身の
49. 一条能保
日本大百科全書
、源義経よしつねとともに平宗盛むねもり父子を護送して鎌倉に下向したが、翌年2月に帰洛きらく、北条時政ときまさにかわって京都守護の任についた。91年(建久2)2月
50. いちじょうよしやす【一条能保】
国史大辞典
法名を保蓮と号した。文治元年五月能保は妻とともに鎌倉に下向し、頼朝の歓待をうけた。同年十一月北条時政は源義経謀叛直後上洛して京都守護の任にあったが、頼朝は時政を
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一一八二-一二〇四 鎌倉幕府の第二代将軍。一二〇二―〇三在職。源頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(一一八二)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十万)。能員妻・河越重頼妻(能員の妹)・梶原景時妻らが乳母となる。頼家の安産を祈って源頼朝は
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