平安中期の随筆。清少納言(せいしょうなごん)の作。跋文(ばつぶん)によると、清少納言が仕える一条(いちじょう)天皇の中宮定子(ていし)に、正暦(しょうりゃく)5年、長徳(ちょうとく)元年(994、995)のころに、中宮の兄藤原伊周(これちか)が紙を献上したことがあり、中宮から「これに何を書かまし」と尋ねられたので、「枕にこそは侍(はべ)らめ」と答えたところ、「さば、得てよ」とその紙を下賜されたので書いたという。「枕」は寝具の枕ではなく、「歌枕」(歌語辞典)、「枕頭(ちんとう)書」(座右の備忘録)、「枕中書」(宮仕え必携)などの書物を意味するようだが定説はない。
ほぼ300段(日本古典文学大系本は319段)からなるが、内容によって、「山は」「木の花は」「鳥は」や「すさまじきもの」「にくきもの」「うつくしきもの」のように、「――は」や「――もの」で始まる類聚(るいじゅう)章段、「春は曙(あけぼの)」「生(お)ひさきなく」「野分(のわき)のまたの日こそ」のように、自然や人事に対して独自の観察や感懐を記す随想章段、「大進生昌(なりまさ)の家に」「上にさぶらふ御猫は」「清涼殿の丑寅(うしとら)のすみの」のように、宮仕え中の見聞を回想する日記章段に分類される。堺(さかい)本・前田家本のように、類聚・随想・日記の章段がそれぞれ一まとまりになっている類纂(るいさん)本もあるが、ジャンルを超えて思い付くままに執筆した雑纂本の形をとる能因(のういん)本・三巻本が本来の形に近いと考えられている。北村季吟(きぎん)の注釈書『枕草子春曙(しゅんしょ)抄』により、近世初頭以来、能因本が流布したが、昭和に入って三巻本の優秀さが主張され流布している。しかし、今日なお能因本の優秀さを主張する研究者も少なくない。
中宮に執筆を命じられた「枕」は、中宮にかわって書く性質のものであったが、実際に執筆したのは、中宮の父藤原道隆(みちたか)が没して政権が弟の道長(みちなが)に移り、中宮の兄弟伊周・隆家(たかいえ)が大宰権帥(だざいのごんのそち)・出雲権守(いずもごんのかみ)に左遷され、清少納言が道長方に内通しているといった噂(うわさ)をたてられて私邸に籠居(ろうきょ)した996年(長徳2)4月以後のことである。政争に巻き込まれて苦しむ作者が執筆したものは、政治と一線を画し、次元を異にする私的な好尚の記録となったであろうが、こうした初稿本が、作者の私邸に出入りしていた源経房(つねふさ)によって中宮のもとに届けられて賞賛を博し、まもなく再出仕した作者は人々の慫慂(しょうよう)を受けて改稿に着手。改稿本は998年10月23日より1001年(長保3)8月25日の間にいちおうの完成をみ、跋文が添えられるが、その後の加除訂正もあったと考えてよかろう。『枕草子』は、書き続けるうちにしだいに独自の文学を形成した作品であり、作品の完成度は章段ごとに異なるが、読者を強く意識して読者の驚嘆や哄笑(こうしょう)を求める章段や、詩人の眼(め)や心を借り、あるいは逆に、自己の世界に沈潜して自己の観察を記し、新たな美を提示しようとする章段はその到達点を示している。日記章段には改稿時の作も多く、自賛談のようにみえる章段も、草稿本で獲得したものを発展させて、中宮と中宮を取り巻く人々が失意の時代にあっても、天皇の恩寵(おんちょう)を受けて政治とは無縁に美と好尚の世界に生きたことを主張している。『源氏物語』とともに、王朝女流文学を代表する傑作である。
[上野 理]
平安中期,996年(長徳2)ころから1008年(寛弘5)ころの間に成立した日本最初の随筆文学。作者は清少納言。一条天皇の中宮定子(藤原定子)に仕えていた清少納言は,996年秋,中宮の一家と対立し容赦ない圧迫の手を加える左大臣藤原道長方に内通しているとのうわさにいたたまれず,中宮のそばを離れて長期の宿下がりに閉じこもった。そして,たまたま中宮から賜った料紙に,木草鳥虫の名や歌枕などを思いつくままに書き続けることによって気を紛らせた。これが原初狭本類纂型の《枕草子》である。偶然,と記されているが,半ばは意識的に右近中将源経房の手を経てこれが世人の目にとまり,意外な好評を受けて,次々と書き続けていった。ところが,1000年(長保2)12月16日定子が亡くなるに及んで,その3人の遺児修子,敦康,媄子は道長の手に引き取られて中宮彰子(上東門院)の庇護の下に育てられることとなった。定子生前につらく当たった道長方の人々の,3人の遺児に対する手厚い待遇を願って,亡き定子のすばらしい人柄を筆を尽くして書き上げたのが,完結広本雑纂型の《枕草子》である。《枕草子》の文章は,〈回想〉〈随想〉,物名類聚的な〈類想〉の三つの様式に大別することができるが,類想に始まって随想・回想に移るもの,随想の中に回想を交じえるもの,年代の先後を問わず自由に回想するものなど,きわめて自由な連想のおもむくままに書き続けられたものが多い。各章段の間にも,微妙な連想の糸筋が貫いているので,やはり雑纂形式のものを,作者が最終的に世に問うた作品とみなければならない。
今日に伝わる《枕草子》の証本は,雑纂型の3巻本と伝能因所持本,類纂型の前田本と堺本の四つに分けられるが,上述のような作者清少納言の自由な連想の糸筋と緻密な文章構成が見られるのは,3巻本ことにその第1類の証本においてである。伝能因所持本,前田本,堺本などは,後世の者の手によって改編され,増補や除去,改訂の加えられた不純な本文でしかない。3巻本《枕草子》によってみる限り,作者清少納言は,自然と人生とに対して実に鋭い観察と深い理解,限りない愛着と容赦ない批判とを表明したまれにみる天才であったといえよう。内大臣藤原伊周(これちか)が一条天皇と中宮定子とに美麗な料紙を献上したとき,天皇方ではそれに《史記》を書写したが,何を書けばよかろうかとの中宮の質問に対し,〈枕にこそは侍らめ〉と答えてその料紙を賜ったと,《枕草子》成立の由来を清少納言自身が跋文に書き残しているが,それは跋文にありがちな虚構にすぎない。ただそこに,経房の手を通じてはからずも世上に流布したとあることだけが真実であって,清少納言が,経房を通して左大臣道長の目にこの作品が触れることを願い,中宮方から道長方へ転身することを期待していたとしたら,やはり世間のうわさにはなにがしかの根拠があったといわねばならない。しかし道長は清少納言を召そうとはせず,したがって結果的にこの作品は現在の3巻本にみる完結広本雑纂型《枕草子》にまで成長発展しえたのである。
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