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  11. 三浦義澄

三浦義澄

ジャパンナレッジで閲覧できる『三浦義澄』の日本大百科全書・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

三浦義澄
みうらよしずみ
[1127―1200]

鎌倉初期の武将。義明 (よしあき)の子。幼名荒次郎。三浦介 (すけ)。相模 (さがみ)国守護。1180年(治承4)畠山重忠 (はたけやましげただ)・河越重頼 (かわごえしげより)・江戸重長らに攻められて本拠地三浦の衣笠 (きぬがさ)城(神奈川県横須賀市)が落城した後、父の命で安房 (あわ)に渡り源頼朝 (よりとも)をたすけた。84年(元暦1)源範頼 (のりより)に従って平氏を追討し、壇 (だん)ノ浦 (うら)の戦いや奥州征伐などにも従軍して戦功をたてたのをはじめ、頼朝が征夷 (せいい)大将軍となった92年(建久3)にはその除書 (じしょ)(任命書)を鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう)社頭で受ける大任を果たした。頼朝が三浦氏を厚く処遇したことが知れる。99年(正治1)訴訟の裁決に将軍頼家の直裁をとどめ合議制となったとき、宿老としてその一員に選ばれた。同年末には諸将とともに梶原景時 (かじわらかげとき)を鎌倉から追放した。翌正治 (しょうじ)2年1月23日没。

[三浦勝男]



国史大辞典

三浦義澄
みうらよしずみ
一一二七 - 一二〇〇
鎌倉時代前期の武将。三浦義明の次男で幼名荒次郎。三浦介・相模国守護。大治二年(一一二七)生まれる。相模国三浦郡矢部郷(神奈川県横須賀市大矢部)に住した。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝が石橋山で敗れた直後、畠山重忠・河越重頼・江戸重長らに攻められて本拠三浦の衣笠城が落城したとき、父の命で一族とともに安房に渡り頼朝をたすけた。九月、安房国の長狭常伴が頼朝の居所を襲撃しようとしたが、義澄は事前に察知してこれを敗走させ、頼朝とともに上総・下総・武蔵を経て鎌倉に入っている。十月の富士川の戦の帰途、義澄は相模国府で頼朝から本領安堵のうえ、新恩の所領を与えられ、三浦介の称を許されて幕府宿老の一人に数えられるなど、初期幕政の重要な役割を担った。元暦元年(一一八四)八月、源範頼に従って平氏追討に加わり、中国を西進して周防に達して、翌文治元年(一一八五)、範頼が豊後に渡海するに際し、周防の警備のため留守を命ぜられて不満であったが、源義経軍が壇ノ浦をめざして周防まで進出すると、義澄は平氏追討の先鋒を命じられ、その討滅に従って功をたてた。文治五年の奥州征伐にも戦功をたて、翌建久元年(一一九〇)の頼朝上洛では随兵役をつとめ、在京中にはこれまでの勲功の賞として頼朝から右兵衛尉に推挙されたが、嗣子義村に譲った。建久三年頼朝が征夷大将軍に任じられると、義澄は頼朝の使者として比企能員以下を従えて鶴岡八幡宮でその除書(任命書)を受け取る大役を果たした。頼朝は、父祖の功により三浦氏を厚く処遇したのである。正治元年(一一九九)の頼朝の没後、訴訟の裁決に将軍源頼家の直裁をとどめ宿老十三名による合議制となったとき、義澄はその一員に加わった。彼は幕政における重臣の地位を占め、以後の三浦一族が活躍する基盤を築いたのである。また、正治元年十二月には諸将とともに梶原景時を鎌倉から追放する事件(梶原景時の乱)に加担し、翌二年正月二十三日に没した。七十四歳。墓は三浦郡矢部郷の薬王寺(現清雲寺、横須賀市大矢部)にある。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ六 正治二年正月二十三日条、北村包直『三浦大介及三浦党』、高橋恭一『三浦党と鎌倉武士道』、三浦大介義明公八百年祭実行委員会編『三浦大介義明とその一族』、阿部正道「相模国三浦氏と周防国」(『神奈川県立博物館研究報告』一〇)
(三浦 勝男)
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検索コンテンツ
1. 三浦義澄
日本大百科全書
鎌倉初期の武将。義明よしあきの子。幼名荒次郎。三浦介すけ。相模さがみ国守護。1180年(治承4)畠山重忠はたけやましげただ・河越重頼かわごえしげより・江戸重長ら
2. みうら‐よしずみ【三浦義澄】
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鎌倉初期の武将。相模守護。三浦義明の第二子。源頼朝挙兵に参加、父の遺志を継いで平氏追討に活躍、鎌倉幕府の成立に尽力した。大治二~正治二年(一一二七~一二〇〇)
3. みうらよしずみ【三浦義澄】
国史大辞典
一一二七―一二〇〇 鎌倉時代前期の武将。三浦義明の次男で幼名荒次郎。三浦介・相模国守護。大治二年(一一二七)生まれる。相模国三浦郡矢部郷(神奈川県横須賀市大矢
4. みうら-よしずみ【三浦義澄】
日本人名大辞典
1127−1200 平安後期-鎌倉時代の武将。大治(だいじ)2年生まれ。三浦義明の次男。相模(さがみ)(神奈川県)三浦郡の住人。三浦介の称をつぐ。源頼朝の挙兵に
5. あぶずり【鐙摺】神奈川県:逗子市/桜山村地図
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「源平盛衰記」巻二一(小坪坂合戦)によれば、治承四年(一一八〇)畠山重忠と戦った三浦勢は押され、和田義盛は伯父三浦義澄に「其れには東地に懸りてあぶすりに垣楯かき
6. あわのくに【安房国】千葉県地図
日本歴史地名大系
捕らえて進めることを命じ、三日には上総権介広常の居所に赴くため平北郡を出発した。その夜安房の事情に詳しい三浦義澄が、頼朝を長狭常伴が襲おうとしていることを探知し
7. 生捕り
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いさぎよしとせず,生捕り後に自害する場合も少なくなかった。源氏の軍門に下った伊東祐親が女婿の三浦義澄の助命嘆願で頼朝の許容するところとなったにもかかわらず,あえ
8. 和泉国
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境,大鳥居,信太,平松,井口と縦貫する熊野街道が栄えた。吉田 晶 中世 鎌倉幕府は初代の守護に三浦義澄の弟佐原義連を任じたが,1203年(建仁3)5月に義連が没
9. 伊東祐親
日本大百科全書
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10. いとうすけちか【伊東祐親】
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11. おおいそじゅく【大磯宿】神奈川県:中郡/大磯町地図
日本歴史地名大系
一一日条によれば、奥州平泉の藤原泰衡から朝廷へ進納する馬・黄金・絹糸などが「大礒駅」に着き、三浦義澄はこの貢納物を抑留すべきか源頼朝の指示を仰いだところ、頼朝は
12. おおばかげちか【大庭景親】
国史大辞典
寄せる者などがあったため、ついに頼朝を取り逃した。ついで景親は数千騎を率いて三浦氏の衣笠城に進撃したが、三浦義澄らはすでに安房に逃れたあとであった。石橋山の戦の
13. おおばのみくりや【大庭御厨】神奈川県:藤沢市
日本歴史地名大系
られている。だが建久四年に彼は失脚し、懐島に隠居するので、この時に懐島以外の御厨は没収され、三浦義澄がこれに代わったかと思われる。「吾妻鏡」安貞二年(一二二八)
14. 伽婢子 2 303ページ
東洋文庫
三浦大介 の孫で幼名小太郎。父は義宗、母は遊女玉。治承 四年(一一八○)源頼朝挙兵の時、叔父三浦義澄 (荒次郎)と共にその磨下に入る。元暦・文治の 間、義経に属
15. 甲子夜話 6 307ページ
東洋文庫
ほろぼし候と奉レ存候。勝頼も左京大夫杯に任じ、主将之徳を守り候は穿可レ然と奉レ存候。右大将頼朝卿将軍之宣旨は、三浦義澄甲冑を着し受取申候由。武を専に仕候共、右様
16. 甲子夜話続篇 7 273ページ
東洋文庫
矢指くはせて判官に向ふ。子息景季、景高、景持、続て進む。判官腹をたて、、太刀を取て向ふ処に、三浦義澄、判官を抱き止む。畠山重忠、梶原を抱て動かさず。土肥実平は源
17. かねちかみょう【包近名】大阪府:岸和田市/包近村
日本歴史地名大系
ったことが記されている。この遠江前司盛連は相模の三浦氏の一族佐原盛連で、その父佐原十郎義連(三浦義澄の弟)は建久年間(一一九〇―九九)頃から建仁三年(一二〇三)
18. かみやまぐちむら【上山口村】神奈川県:三浦郡/葉山町地図
日本歴史地名大系
北は山を隔てて桜山村(現逗子市)。中央を下山川が流れる山間の村。浦賀道が東西に貫く。鎌倉時代初期の三浦義澄の子に山口次郎有綱(継)がおり(中興系図)、この地名を
19. かもがわし【鴨川市】千葉県地図
日本歴史地名大系
上総権介広常のもとへ行こうとする頼朝の宿所を襲おうとした当地の住人長狭六郎常伴は、これを察知した三浦義澄の防戦により敗退した。襲撃されたと伝える場所は今でも一戦
20. かわごえしげより【河越重頼】
国史大辞典
借りたのである。三浦一族も陣を張って迎え撃ったが、力疲れ矢尽きて城を捨てて逃れることになった。三浦義澄の父義明は八十歳を過ぎた老齢であり源家累代の家人として命を
21. 黄表紙 142ページ
日本古典文学全集
弾きながら首を古や五郎。〔一三〕 [木賀の体]小四郎義時「しやんと小づまを」おつ  頼朝の家臣三浦氏。三浦義澄の子、義村かともされる。三浦半島は漁場である。曾我
22. 源威集 175ページ
東洋文庫
八月七日.夕.アヅカシ山ヲ前二当テ陣ヲ取、丑剋計二勇士十三騎、密二先陣畠山ノ陣ヲ過・、結城朝光・三浦義澄・工藤小次郎行光・狩野五郎政光が子親光・武藤小次郎資頼・
23. 源威集 183ページ
東洋文庫
の合戦で知盛・知章とともに落ちようとして源氏の軍勢と戦い討死した。頼方の弟であ  る資頼は、三浦義澄に囚人として預けられる(『吾妻鏡』文治五年正月一九日条)。(
24. 源威集 184ページ
東洋文庫
資頼は公家有職に通じて  いたのであろうか。(12) 全力をあげて営むこと。頼方に連座して、三浦義澄の預け人となっている資頼を、頼  家の正月の祝儀に用いるのは
25. 源威集 192ページ
東洋文庫
近日新造入御、九日紀初参二院内鹸動、直衣・細代車姓八葉、駕随兵五人、小山朝政・稲毛重成・千葉常胤・三浦義澄・下川辺行平、烈同前、任二大納言一勲功賞、十一日酔始六
26. 源威集 193ページ
東洋文庫
次雑色七人、次笠・雨皮持、次侍七人布衣、三浦義澄・千葉成胤・工藤祐経・足立遠光・後藤基清・橘公長・葛西清重、随兵五人、北糸義時・結城朝光・佐貫成綱・畠山重忠・下
27. 源威集 194ページ
東洋文庫
(5) のりもの、かご、または馬がひく車。(6) 『吾妻鏡』では先頭に三騎(小山朝政・稲毛重成・三浦義澄)、後陣に七騎で、下河辺行  平は後陣。千葉常胤の名はな
28. 源威集 200ページ
東洋文庫
正・葛西清重・小山朝政・北  条時連の六騎、後陣下河辺行平・佐々木定綱・結城朝光・梶原景季・三浦義澄・和田義  盛の六騎で、計「+二騎」.また『源威集』の景季の
29. 源威集 326ページ
東洋文庫
ヲ前二当テ陣ヲ取(る)、丑ノ剋計(り)二勇士十三騎、密(か)二先陣畠山ノ陣ヲ過グ、結城朝光・三浦義澄・工藤小次郎行光・狩野五郎政光が子親光・武藤小次郎資頼・藤沢
30. 源威集 330ページ
東洋文庫
抜群ノ輩[先陣畠山重忠・和田義盛・三浦義澄・三浦義連・小山朝政・長沼宗政・結城朝光・下川辺行平・榛貝重朝・梶原景時・源太景季・佐々木盛綱・稲毛重成]、コノ外徴(
31. 沙石集 362ページ
日本古典文学全集
一目置かれる。和田義盛。相模国三浦郡和田を本領とした。三浦義明の孫、義宗の子。頼朝の挙兵に叔父の三浦義澄らと加わり、信任を得て侍所別当に任じられる。源頼家の代に
32. しょうにすけより【少弐資頼】画像
国史大辞典
永暦元年(一一六〇)生まれる。武藤頼平の子。武蔵の武士で、平氏の家人として源平合戦に参加し、とらわれて三浦義澄に預けられ、故実の知識によって放免され、源頼朝の家
33. じんがおか【陣ヶ岡】岩手県:紫波郡/紫波町/宮手村
日本歴史地名大系
以下、同書によって滞陣中の概略を記すと、四日頼朝は比爪館を焼き逃走した樋爪俊衡を捕らえるために三浦義澄ら三浦一族を遣わしている。三日に藤原泰衡は家臣の河田次郎に
34. 曾我物語 129ページ
日本古典文学全集
頼朝挙兵時、大番役で、弟小山田有重とともに在京しており、寿永二年七月の都落ちまで平家と行動を共にした。三浦義澄。大介義明の二男。この時、義明は衣笠城(横須賀市衣
35. 曾我物語 132ページ
日本古典文学全集
鯉名の港(南伊豆町手石小稲付近か)に浮べていたところを天野遠景に捕えられ、黄瀬川の頼朝のもとに連行され、三浦義澄に預けられた(治承四年一〇月一九日)。その後義澄
36. 曾我物語 147ページ
日本古典文学全集
通称を十郎とした理由ははっきりしない。『春湊浪話』下には、十郎が元服したとき、祖父伊東祐親は三浦義澄に預けられてまだ生きていたので、祐成を祐親の子として、その末
37. 曾我物語 170ページ
日本古典文学全集
38. 曾我物語 213ページ
日本古典文学全集
→一二九ページ注五。『吾妻鏡』によれば、四月二三日に那須野の狩を終え、二八日に鎌倉に帰っている。伊東祐親の娘。三浦義澄の妻。富士山の南西斜面、現在の静岡県富士宮
39. 曾我物語 215ページ
日本古典文学全集
三浦与一は未詳。仮名本では、名が「義直」。物語によれば、兄弟の父方の伯母、つまり伊東祐親の娘が三浦義澄に嫁ぎ三浦義村をもうける以前に、狩野茂光との間にもうけた子
40. 太平記秘伝理尽鈔 1 107ページ
東洋文庫
『吾妻鏡』建久一〇年(正治元年)四月一日条に、頼家の直断を止め、北条時政・義時・大江広元・三善善信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・
41. 太平記秘伝理尽鈔 2 338ページ
東洋文庫
兵二万騎を率いて参向し、坂東武士団の帰趨を決定づけた。富士川合戦後、頼朝の上洛の企てを千葉常胤、三浦義澄らとともに諫止し、常陸佐竹氏の討伐を主張し、大功をあげた
42. 平広常
世界大百科事典
きに応じて,兵2万騎を率いて参会した。10月富士川の戦に参加し,頼朝の上洛の企てを千葉常胤,三浦義澄らとともに諫止し,常陸佐竹氏の討伐を主張,11月佐竹義政を謀
43. 大諸礼集 2 小笠原流礼法伝書 235ページ
東洋文庫
統一し準拠すべき作法の制定を試みたとされる。『吾妻鏡』に見える頼朝の故実尊重の例に次の様な事柄がある。 三浦義澄亭で境飯をうけたのち弓始を行う(治承四年十月二十
44. 大日本産業事蹟 1 198ページ
東洋文庫
楼にたとへ、西楼と名付けたり。(片洲)東鏡に、波多野中務丞忠綱相州より賜ふ所の馬。(髪不レ捺)同書に、三浦義澄武衛に献ずる名馬。(飛竜)同書に、二品より太神宮に
45. つるがおかはちまんぐう【鶴岡八幡宮】神奈川県:鎌倉市/雪下村地図
日本歴史地名大系
ぜられると、その除書を携えて勅使中原景良・同康定らが鎌倉へ下向したのが二六日、このとき頼朝は三浦義澄に命じ、当宮において除書を勅使から拝受させている。建保六年三
46. でんさはらよしつらのはか【伝佐原義連墓】福島県:耶麻郡/熱塩加納村/半在家村
日本歴史地名大系
は源頼朝に供奉、八月一〇日の阿津賀志山(現国見町)での合戦では畠山重忠・小山朝政・和田義盛・三浦義澄などと並んで奮戦した(「吾妻鏡」同年七月一九日条・同八月一〇
47. とうきょうわん【東京湾】神奈川県:総論地図
日本歴史地名大系
年八月四日条)、頼朝が平氏方の攻撃を受けて海路安房国へ逃れたことや(同書同年八月二七日条)、三浦義澄は房総地方の「国郡案内者」とよばれていること(同書同年九月三
48. 中村氏
世界大百科事典
命ぜられ,さらに86年(文治2)には相模国内有力百姓への人別1斗の白米給与を,三浦義澄とともに挙行している。これらのことは,中村宗平が三浦義澄と同様に相模国の国
49. ながお-さだかげ【長尾定景】
日本人名大辞典
80)石橋山の戦いでは大庭景親(おおば-かげちか)にしたがい平家方につく。源頼朝勝利ののち,三浦義澄にあずけられ,翌年ゆるされる。和田義盛追討の戦いで功をたて,
50. ながさぐん【長狭郡】千葉県:安房国
日本歴史地名大系
ることから、これらにかかわる氏族の存在も想定される。平安末期には源頼朝を襲撃しようとして逆に三浦義澄らに襲われ敗走した安房国住人長狭六郎常伴がいる(「吾妻鏡」治
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