文久永宝
ぶんきゅうえいほう
文久三年(一八六三)から慶応三年(一八六七)までの間(「旧貨幣表」では文久二年―慶応元年)、江戸深川の銀座と浅草金座で鋳造された銅銭。文久銭ともいう。一枚を以て並銭四枚にあてて通用させるという通用開始の触書は文久三年二月に出されている。直径は八分七厘~八厘、規定の量目は九分。表には「文久永宝」とあり背には波文がつけられている。銭文は松平春岳(慶永)・板倉勝静(老中)・小笠原長行(同)の筆になる。このころ銅産出量の減少と、銅の価格騰貴が著しかったので、それに対応するため、寛永通宝を回収して改鋳したのである。「旧貨幣表」によれば、改鋳された寛永通宝は千四百二十万二千貫文、鋳造された文久銭の総額は八億九千百五十一万五千六百三十一枚で、新貨条例により起算すると、新貨百三十三万七千二百七十三円四十四銭にあたるとされている。十貫文一円の割である。なお文久銭は昭和初年まで一枚一厘五毛の価で実際に用いられていた。
[参考文献]
『徳川禁令考』前集六、『古事類苑』泉貨部、三井高維編著『(新稿)両替年代記関鍵』一
『徳川禁令考』前集六、『古事類苑』泉貨部、三井高維編著『(新稿)両替年代記関鍵』一
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