ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 文学
  6. >
  7. 古典文学
  8. >
  9. 日記
  10. >
  11. 御堂関白記

御堂関白記

ジャパンナレッジで閲覧できる『御堂関白記』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

御堂関白記
みどうかんぱくき
藤原道長の日記。名称は、はじめは「入道殿御暦」「入道殿御日記」「御堂御日記」「御堂御暦」「御堂御暦記」「御暦日記」「法成寺入道左大臣記」「入道大臣記」などと呼ばれたが、「御堂御記」という固定化した名称が用いられるようになり、江戸時代の諸写本においては、「御堂御記」のほかに「道長公記」「御堂摂政記」「法成寺摂政記」と並んで「御堂関白記」の名称がみられるようになり、広くこの名称が流布することとなった。長徳四年(九九八)から寛仁五年(治安元年、一〇二一)に至る道長三十三歳より五十六歳までの記事を収める。自筆本は、当初具注暦に記した半年分一巻のものが三十六巻あったと推定されている。その後道長の孫師実(師実の猶子忠実とする説もある)の時に、一年分一巻(内二巻は記事が少ないため数年分で一巻)からなる古写本十六巻が写され、その後自筆本二十一巻が失われ、また自筆本一巻・古写本四巻が転写の過程で失われ、現在では、自筆本十四巻・古写本十二巻(ともに国宝)が陽明文庫に所蔵されているほか、転写本は宮内庁書陵部・京都大学附属図書館などに所蔵されている。また、本記より抄出した「御堂御記抄」も陽明文庫などに所蔵されている。日記の記述は、長徳年間は比較的簡略であるが、長保二年(一〇〇〇)長女彰子の入内・立后の記載をはじめとして、記述が詳しくなるが、道長が外戚としての地位を固めた寛弘五年(一〇〇八)の敦成親王(後一条天皇)の誕生・産養などの儀や、長和元年(一〇一二)次女妍子と寛仁二年の三女威子の入内・立后の儀などは詳細な記述が残されている。日記の記載からは、全盛期にある彼の自在奔放な性格や人生観、考え方が随所に窺われるとする指摘もある。昭和十一年(一九三六)立命館大学により行われた自筆本十四巻の複製があり、近年、陽明文庫所蔵の自筆本・古写本・「御堂御記抄」が『陽明叢書』記録文書篇一としても複製され、また、翻刻は『大日本古記録』『日本古典全集』に収められている。→藤原道長(ふじわらのみちなが)
[参考文献]
『御堂関白記』下解題(『大日本古記録』)、『御堂関白記』五解説(『陽明叢書』記録文書篇一)、星野恒「歴世記録考」(『史学叢説』一所収)、田山信郎「記録―特に平安朝の日記について―」(『(岩波講座)日本歴史』所収)、山中裕「藤原道長」(『平安人物志』所収)、阿部秋生「藤原道長の日記の諸本について」(『日本学士院紀要』八ノ二・三)
(加藤 友康)


日本大百科全書(ニッポニカ)

御堂関白記
みどうかんぱくき

藤原道長の日記。『法成寺摂政記 (ほうじょうじせっしょうき)』『御堂日記』『入道殿御日記』などともいう。道長が晩年、法成寺を建立し、御堂殿、御堂関白殿とよばれたことによる呼称である。しかし道長は、内覧、摂政 (せっしょう)、太政 (だいじょう)大臣にはなったが関白にはなっていないので、『御堂関白記』の名称は、正確にいえば誤りであるが、江戸時代の諸本に用いて以来通称となっている。平安末期には36巻が存したというが、現存の道長自筆本は、14巻(1年2巻)である。日記は具注暦 (ぐちゅうれき)に書かれ、おおらかな彼の性格が筆跡に明瞭 (めいりょう)に表れており、当て字、脱字、誤字をはじめ、重ねて字を書くところ、塗抹 (とまつ)、傍書、省略、転倒なども多い。

 998年(長徳4)から1021年(寛仁5)までの日記であるが、1019年出家後は記事もきわめて少ない。そのほか、本書を抄出した『御堂御記抄』と称する7種の断簡があり、そのなかに、『長徳 (ちょうとく)元年記』の抄出も存することから、日記は現存より3年前の995年、道長の30歳より始まっていることが明らかであり、56歳で出家するまでの政治家としての生活を主に記した日記である(出家の当年、翌年、翌々年は、多少の記述がある)。一条 (いちじょう)、三条 (さんじょう)、後一条 (ごいちじょう)の3天皇の時代にわたり、左大臣、内覧としての生活状態を事細かに書いており、1016年(長和5)外孫の後一条天皇が9歳で即位し、摂政となったときの儀式の次第、1018年、三女威子 (いし)立后(後一条中宮)の儀の記述などはとくに詳しく、後者の儀に「余読和歌」とあるのが、「この世をばわが世とぞおもふ望月 (もちづき)の……」の歌にあたる(その和歌は『御堂関白記』には書かれず『小右記 (しょうゆうき)』にみえる)。また長女彰子 (しょうし)(一条中宮)、次女妍子 (けんし)(三条中宮)の立后の儀式、彰子所生の敦成 (あつひら)親王(後一条天皇)の誕生の記述も詳細である。なお、道長を代表とする摂関政治は政所 (まんどころ)政治ではないということが、『御堂関白記』を通読することからも明らかになる。

 現存の自筆本14巻は、京都陽明文庫に存し、同じく古写本12巻(1年1巻。記事の少ない2巻は数年分を1巻とする)も同蔵、ともに国宝に指定されている。古写本の筆者は道長の長男頼通 (よりみち)とされていたが、根拠は少なく、頼通の子師実 (もろざね)か師実の猶子 (ゆうし)忠実 (ただざね)かであろうといわれている。江戸時代の諸本も多い(陽明文庫、宮内庁書陵部、京都大学蔵など)。『大日本古記録』『日本古典全集』(活字本)、『陽明叢書 (そうしょ)』(影印本)に収録。2013年(平成25)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。

[山中 裕]



世界大百科事典

御堂関白記
みどうかんぱくき

摂政太政大臣藤原道長の日記。《入道殿御暦》《法成寺入道左大臣記》など多くの名称があるが,江戸時代に近衛家煕の新写本に用いられた《御堂関白記》の称が最も広く流布した。ただし道長は関白にはならなかったので,必ずしも正確な書名とはいいがたい。998年(長徳4)より1021年(治安1)の間の記事を伝えるが,中間を一部欠く。記載内容は比較的簡単であるが,特異な文体を用いて自由奔放に書きつけたという感が強く,誤字,当て字なども多いため,きわめて難解である。元は半年分を1巻として具注暦(ぐちゆうれき)に記した暦記が36巻あったと考えられるが,現在は陽明文庫に自筆本14巻,平安時代の古写本12巻が伝わり,また本記より抄出した《御堂御記抄》がある。特に自筆本14巻は,現存する日本最古の自筆日記として貴重である。昭和初年に自筆本の複製と釈文が刊行されたが,近年,古写本,御記抄も含めた複製本が《陽明叢書》として刊行されている。活字本は《日本古典全集》《大日本古記録》にある。
[吉岡 真之]

[索引語]
藤原道長 入道殿御暦 法成寺入道左大臣記 御堂御記抄
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


御堂関白記の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 783
検索コンテンツ
1. 『御堂関白記』
日本史年表
宋僧源清の求めに応じ、経論疏義に返牒を添えて送る(本朝文粋一二・権記七月一三日条)。藤原道長、 『御堂関白記』 を記す(~寛仁5年(治安元年))。
2. 御堂関白記
日本大百科全書
しかし道長は、内覧、摂政せっしょう、太政だいじょう大臣にはなったが関白にはなっていないので、『御堂関白記』の名称は、正確にいえば誤りであるが、江戸時代の諸本に用
3. 御堂関白記
世界大百科事典
《入道殿御暦》《法成寺入道左大臣記》など多くの名称があるが,江戸時代に近衛家煕の新写本に用いられた《御堂関白記》の称が最も広く流布した。ただし道長は関白にはなら
4. みどうかんぱくき[みダウクヮンパクキ]【御堂関白記】
日本国語大辞典
日記。原巻数三六巻。藤原道長著。長徳四年(九九八)から治安元年(一〇二一)まで書かれ、そのほとんどが自筆本または良質の写本の形で現存する。変体漢文による公私生活
5. みどうかんぱくき【御堂関白記】
国史大辞典
集』に収められている。→藤原道長(ふじわらのみちなが) [参考文献]『御堂関白記』下解題(『大日本古記録』)、『御堂関白記』五解説(『陽明叢書』記録文書篇一)、
6. 御堂関白記(著作ID:504983)
新日本古典籍データベース
みどうかんぱくき 道長公記 法成寺摂政記 御堂摂政記 御堂殿御記 藤原道長(ふじわらみちなが) 日記 
7. あいだ[あひだ]【間】
日本国語大辞典
られる。(1)(接続助詞のように用いて)原因、理由を示す。…によって。…が故に。…ので。*御堂関白記‐寛弘八年〔1011〕六月一三日「東宮雑事不
8. あか‐うま【赤馬】
日本国語大辞典
*日本書紀〔720〕雄略九年七月(前田本訓)「赤駿(アカウマ)に騎(の)れる者(ひと)に逢ふ」*御堂関白記‐長和二年〔1013〕八月五日「件奉幣使可
9. 敦成親王・後一条天皇
日本史年表
2・7 後一条天皇 即位(小右記)。 1018年〈寛仁2 戊午④〉 1・3 後一条天皇 元服(御堂関白記)。 1027年〈万寿4 丁卯〉 11・26 天皇 、法
10. あまたぐん【天田郡】京都府
日本歴史地名大系
寛和元年(九八五)であるが(日本紀略)、寛弘八年(一〇一一)にも再び主基にあたっている(「御堂関白記」八月一五日条)。なお大嘗会には殿上の歌人が悠紀・主基両国の
11. あめ‐うし【黄牛・牝牛】
日本国語大辞典
「牛 〈略〉牝(め)牛は諸国ともに、あめうじと呼なり」(1)「御堂関白記」や「吾妻鏡」など記録類に、御所などが移転する時に黄牛を牽いたという記事が多数見られ、「
12. あら‐よ【荒世】
日本国語大辞典
和世〓」*御堂関白記‐寛弘七年〔1010〕六月三〇日「神祇官奏
13. あん‐ない【案内】
日本国語大辞典
語〔1001~14頃〕夕顔「かの、惟光があづかりの垣間見は、いとよくあない見とりて申す」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕正月二七日「入
14. あん‐もん【案文】
日本国語大辞典
寺料〓」*御堂関白記‐長和五年〔1016〕七月一〇日「源中納言行
15. い‐か【医家】
日本国語大辞典
〔名〕医療を業とする家。また、その人。医師。医者。いけ。*御堂関白記‐寛仁三年〔1019〕二月六日「陰陽師、医家申可〓
16. いさがわじんじゃ【率川神社】奈良県:奈良市/奈良町/本子守町
日本歴史地名大系
行事御障子文」に「四月、三枝祭事」とみえ、「延喜式」四時祭にも四月の祭にあげられている。「御堂関白記」「年中行事秘抄」などによると、三枝祭は四月二九日に行われて
17. 和泉式部画像
日本大百科全書
生年は円融えんゆう朝(970年代)とする説が有力。「雅致女式部」(拾遺集)、「江ごう式部」(御堂関白記みどうかんぱくき)という女房名があることから、娘時代すでに
18. 和泉式部日記 85ページ
日本古典文学全集
たまはむままにしたがひて、さぶらふ。  長保六年(一〇〇四)。この年の院拝礼の史実は三日(御堂関白記)だが、一日から三日間にわたるらしいので一日(ついたち)と記
19. いだしあこめ【出衵】画像
国史大辞典
狭義の裾短かの仕立ての衵によるものとの二種がある。狭義の出衵は、狩衣の下着としての風流の着装法をさす。『御堂関白記』に長和五年(一〇一六)四月二十四日の賀茂祭の
20. 一帝二后
日本史年表
藤原遵子 を皇太后、 藤原定子 を 皇后 、 藤原彰子 を中宮とする( 一帝二后 の初例)(御堂関白記・権記)。
21. いち‐りょう[‥リャウ]【一両】
日本国語大辞典
」*菅家文草〔900頃〕三・中途送春「風光今日東帰去、一両心情且附陳」*御堂関白記‐寛仁二年〔1018〕五月二一日「去月立間 雨一両降後久不
22. いっ‐ぷく【一幅】
日本国語大辞典
〔名〕書画などの掛け軸の一つ。また、一つの画題、場面。*御堂関白記‐長和元年〔1012〕九月二一日「入唐寂照消息書、并所送天竺観音一幅」*日葡辞書〔1603~0
23. いでい の 上達部(かんだちめ)
日本国語大辞典
「いでい(出居)の座」にいる公卿(くぎょう)。*御堂関白記‐寛弘三年〔1006〕八月一六日「内侍召〓出居上達部
24. いでい の 座(ざ)
日本国語大辞典
(1)「いでい(出居)(2)」に同じ。(2)「いでい(出居)(3)」に同じ。*御堂関白記‐寛弘四年〔1007〕七月一四日「戊寅、於一条院南殿、東殿、被修仁王会、
25. いでい の 次将(じしょう)
日本国語大辞典
「いでい(出居)の少将(しょうしょう)」に同じ。*御堂関白記‐寛弘八年〔1011〕五月二一日「此日公家被〓
26. いと‐ぐるま【糸車】
日本国語大辞典
〔名〕(1)「いとげ(糸毛)の車」に同じ。*御堂関白記‐寛弘七年〔1010〕一一月二七日「用〓糸車
27. いとげ の 車(くるま)
日本国語大辞典
*宇津保物語〔970~999頃〕蔵開中「民部卿のみ方になん、あたらしきいとげのくるまつくりてあめるを」*御堂関白記‐寛仁二年〔1018〕三月七日「時剋召吉平朝臣
28. いと‐どころ【糸所】
日本国語大辞典
給料物等〓、縫殿別所」*御堂関白記‐寛弘二年〔1005〕五月五日「節会。糸所者薬玉持来」
29. い‐よう[‥ヤウ]【異様】
日本国語大辞典
ース及びアリスの異様に注目する」(2)(形動)普通と変わって様子の変なこと。異常なさま。*御堂関白記‐寛仁元年〔1017〕四月一一日「所
30. い‐ろ【倚廬】
日本国語大辞典
倚廬〓」*御堂関白記‐寛弘八年〔1011〕一一月一六日「戌四点御葬、同時御倚廬」*浜松中納言物語〔11C中〕四「かかるいろの程は
31. いろ‐がみ【色紙】
日本国語大辞典
違いの紙。畳紙(たとうがみ)として用いるものや、交互に配して装飾用とするものなどがある。*御堂関白記‐寛仁元年〔1017〕六月一三日「白銀御仏六体、御経新書色紙
32. いろ‐ざし【色差】
日本国語大辞典
〔名〕(「いろさし」とも)(1)(「ざし」は様子の意)物の色合い。また、顔などの色つや。*御堂関白記‐寛弘四年〔1007〕一二月一三日「依
33. いん‐どう[‥ダウ]【引導】
日本国語大辞典
」*観智院本三宝絵〔984〕中「ただ願、大徳、後世を引導し給へと云」*御堂関白記‐寛弘二年〔1005〕一〇月一九日「従
34. いん‐ねん[‥エン]【因縁】
日本国語大辞典
人のはらにやどるまじきものなれど、この日のもとの国に契むすべるいんえむあるによりて、その果報豊かなるべし」*御堂関白記‐長和元年〔1012〕二月二五日「家業件女
35. うえもん の 督(かみ)
日本国語大辞典
」*大和物語〔947~957頃〕九六「左の大臣、右衛門のかみにおはしける頃、御文たてまつれたまひけり」*御堂関白記‐寛弘三年〔1006〕九月二二日「有
36. うえもん の 志(さかん)
日本国語大辞典
〓」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕四月二八日「右衛門志懸犬養為政等也。即遣
37. うえもん の 府生(ふしょう)
日本国語大辞典
えもんのふしょう。*古今和歌集〔905~914〕仮名序「右衛門の府生みぶのただみねらに」*御堂関白記‐寛弘七年〔1010〕九月一五日「有
38. う‐き【雨気】
日本国語大辞典
あまもよい。雨意。*凌雲集〔814〕神泉苑雨中眺矚応製一首〈藤原冬嗣〉「雨気三秋冷。涼風四面初」*御堂関白記‐長保元年〔999〕二月二七日「卯時有
39. う‐ぎ【雨儀】
日本国語大辞典
列立〓直昇」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕正月一四日「時々雨雪降、式・弾以
40. うこんえ の 将曹(しょうそう)
日本国語大辞典
右近衛府の第四等官。従七位下相当。定員四人。右近の将曹。右近のそうかん。*御堂関白記‐寛弘三年〔1006〕九月一四日「有〓除書
41. うこん の 中将(ちゅうじょう)
日本国語大辞典
勅答〓」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕三月二八日「右近中将公信朝臣来云、仰事、可
42. うこん の 馬場(ばば)
日本国語大辞典
右近衛の馬場(ばば)。〓左近の馬場。*御堂関白記‐長和五年〔1016〕三月七日「右近馬場馬留使官両三侍、々等罷間、令
43. うさじんぐう【宇佐神宮】大分県:宇佐市/旧宇佐町地区/宇佐村
日本歴史地名大系
て陽明門に押しかけ惟仲の非例を直訴、今度は惟仲が当宮宝殿を封じてしまった(「日本紀略」・「御堂関白記」各同日条など)。ところが「権記」同月二七日条などによると、
44. う‐しょうしょう[‥セウシャウ]【右少将】
日本国語大辞典
勅使〓」*御堂関白記‐寛弘八年〔1011〕二月一〇日「春日使朝臣依
45. うじいん【宇治院】京都府:宇治市/宇治郷
日本歴史地名大系
六条左大臣源重信の後家の手を経て、長徳四年(九九八)一〇月頃藤原道長の手に渡るが(花鳥余情)、「御堂関白記」寛弘元年(一〇〇四)閏九月二一日条に「早行宇治、乗舟
46. うじ の 長者(ちょうじゃ)
日本国語大辞典
〓之」*御堂関白記‐長和元年〔1012〕閏一〇月一四日「是氏長者仲遠愁云々、仲遠去年会
47. うた‐の‐すけ【雅楽助】
日本国語大辞典
といふも受領のこどもの、うたのすけ、とのもりのすけ、兵衛のひだりみぎのぞうなどいふなり」*御堂関白記‐寛弘五年〔1008〕一〇月一七日「雅楽亮源登平」
48. うたひめごえ【歌姫越】奈良県:奈良市/秋篠・富雄地区/歌姫村
日本歴史地名大系
永祚元年(九八九)三月の一条天皇の春日行幸(小右記)、寛弘四年(一〇〇七)二月の藤原道長の春日詣(御堂関白記)、また春日祭使(江家次第)など、いずれもここを通っ
49. う‐だいし【右大史】
日本国語大辞典
右弁官局に属し、正六位上相当の官。定員二人。*令義解〔718〕職員・太政官条「左大史二人。右大史二人」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕九月一四日「不
50. うちのたくみ‐の‐かみ【内匠頭】
日本国語大辞典
たくみのかみ。*万葉集〔8C後〕二〇・四四五二・左注「右一首。内匠頭兼播磨守正四位下安宿王奏之」*御堂関白記‐寛弘四年〔1007〕四月一七日「御禊見物〈略〉前駈
「御堂関白記」の情報だけではなく、「御堂関白記」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

御堂関白記と同じ日記カテゴリの記事
蜻蛉日記(日本大百科全書・世界大百科事典・日本古典文学全集)
平安中期の歌人藤原道綱母の書いた回想録的な日記。道綱母の20歳ごろの954年(天暦8)、時の右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚してから、974年(天延2)に兼家の通うのが絶えるまでの、20年間の記事をもつ。上中下の3巻からなり、上巻末尾に「あるかなきかの心地するかげろふの日記といふ
和泉式部日記(日本古典文学全集・日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
【現代語訳】〔一〕夢よりもはかない人の世、亡き宮様とのことを、嘆きわずらいながら、夜を明かし日を暮しているうちに、四月十日すぎにもなったので、木々の葉陰の闇がしだいに濃くなってゆく。築地の上の草が青々としているのも、他人はことさら目もくれないけれど
成尋阿闍梨母集(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
平安時代中期の家集。二巻。作者の出自・生没などは不明の点が多いが、源俊賢女として永延二年(九八八)ごろ生まれ、藤原実方の男と結婚して男二人を生み、間もなく夫に死別しわが子の成長を唯一の頼みに五十余年の寡婦生活を続けた。八十歳を超えた延久二年(一〇七〇)
讃岐典侍日記(日本古典文学全集・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
〔一〕五月の空も、わたしの心に似て、雲に閉ざされ、雨が降り続いて、田植えに濡れた農夫の着物の裾も、わたしの衣の袖のように、干すことができずに困っているであろうが、それももっともなことと思われ、ただでさえうっとうしい折しも、何かと気を遣うことのない自宅
更級日記(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
仮名日記文学。菅原孝標女の著。一巻。康平二年(一〇五九)ごろ成立。父の任国上総に伴われた作者が、ひそかに胸に抱いた『源氏物語』への憧憬の気持ちを日記の冒頭に記し、まず寛仁四年(一〇二〇)、十三歳の九月、上総介の任果てて上京する孝標一行の東海道旅の記を綴る。三ヵ月の旅は
日記と同じカテゴリの記事をもっと見る


「御堂関白記」は古典文学に関連のある記事です。
その他の古典文学に関連する記事
夢酔独言他(東洋文庫)
小吉は海舟の父で,幕末の貧乏御家人のひとり。幕府の衰退期を奔放不羈に生きた小吉の生涯は泰平の化政時代が生みだした倦怠と虚無感をもたたえている。『平子龍先生遺事』を併録。1969年05月刊【閲覧画面サンプル】【上記の拡大画像】【目次】表紙(扉)
新花摘(世界大百科事典・日本大百科全書)
俳諧句文集。与謝蕪村著。1797年(寛政9)刊。蕪村は其角の《華摘》にならって亡母追善の夏行(げぎよう)を発起し,1777年(安永6)4月8日より発句1日10句の詠を続けたが,16日間で中絶,その後余白を利用して関東や丹後の修業時代の回想的諸話を
江戸生艶気樺焼(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代の小説、黄表紙。山東京伝画作。三冊。天明五年(一七八五)刊。題名は「江戸前うなぎの蒲焼」のもじり。金満家仇気屋の独り息子艶二郎は醜いくせにうぬぼれが強く、悪友北里(きたり)喜之助・悪井志庵などにそそのかされ、情事の浮名を世間にひろめようと
誹風柳多留(国史大辞典)
川柳風狂句集。百六十七冊。初篇明和二年(一七六五)より二十二篇天明八年(一七八八)まで呉陵軒可有編。二十三篇寛政元年(一七八九)如猩編。二十四篇同三年一口編。二十五篇より二十九篇まで和笛編。三十篇文化元年(一八〇四)一口編。三十一篇より七十篇
日本永代蔵(井原西鶴集)(日本古典文学全集)
初午は乗って来る仕合せ天は、何も言わず国土に深い恩恵を施しているが、人間は、誠実でありつつ、虚偽に及ぶことも多い。それは、人の心が、本来、無の状態にあり、事物に反応するだけのものだからだ。このように、人間が善と悪との中間で揺れ動きつつ生きる
古典文学に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶