『御堂関白記』下解題(『大日本古記録』)、『御堂関白記』五解説(『陽明叢書』記録文書篇一)、星野恒「歴世記録考」(『史学叢説』一所収)、田山信郎「記録―特に平安朝の日記について―」(『(岩波講座)日本歴史』所収)、山中裕「藤原道長」(『平安人物志』所収)、阿部秋生「藤原道長の日記の諸本について」(『日本学士院紀要』八ノ二・三)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
藤原道長の日記。『法成寺摂政記 (ほうじょうじせっしょうき)』『御堂日記』『入道殿御日記』などともいう。道長が晩年、法成寺を建立し、御堂殿、御堂関白殿とよばれたことによる呼称である。しかし道長は、内覧、摂政 (せっしょう)、太政 (だいじょう)大臣にはなったが関白にはなっていないので、『御堂関白記』の名称は、正確にいえば誤りであるが、江戸時代の諸本に用いて以来通称となっている。平安末期には36巻が存したというが、現存の道長自筆本は、14巻(1年2巻)である。日記は具注暦 (ぐちゅうれき)に書かれ、おおらかな彼の性格が筆跡に明瞭 (めいりょう)に表れており、当て字、脱字、誤字をはじめ、重ねて字を書くところ、塗抹 (とまつ)、傍書、省略、転倒なども多い。
998年(長徳4)から1021年(寛仁5)までの日記であるが、1019年出家後は記事もきわめて少ない。そのほか、本書を抄出した『御堂御記抄』と称する7種の断簡があり、そのなかに、『長徳 (ちょうとく)元年記』の抄出も存することから、日記は現存より3年前の995年、道長の30歳より始まっていることが明らかであり、56歳で出家するまでの政治家としての生活を主に記した日記である(出家の当年、翌年、翌々年は、多少の記述がある)。一条 (いちじょう)、三条 (さんじょう)、後一条 (ごいちじょう)の3天皇の時代にわたり、左大臣、内覧としての生活状態を事細かに書いており、1016年(長和5)外孫の後一条天皇が9歳で即位し、摂政となったときの儀式の次第、1018年、三女威子 (いし)立后(後一条中宮)の儀の記述などはとくに詳しく、後者の儀に「余読和歌」とあるのが、「この世をばわが世とぞおもふ望月 (もちづき)の……」の歌にあたる(その和歌は『御堂関白記』には書かれず『小右記 (しょうゆうき)』にみえる)。また長女彰子 (しょうし)(一条中宮)、次女妍子 (けんし)(三条中宮)の立后の儀式、彰子所生の敦成 (あつひら)親王(後一条天皇)の誕生の記述も詳細である。なお、道長を代表とする摂関政治は政所 (まんどころ)政治ではないということが、『御堂関白記』を通読することからも明らかになる。
現存の自筆本14巻は、京都陽明文庫に存し、同じく古写本12巻(1年1巻。記事の少ない2巻は数年分を1巻とする)も同蔵、ともに国宝に指定されている。古写本の筆者は道長の長男頼通 (よりみち)とされていたが、根拠は少なく、頼通の子師実 (もろざね)か師実の猶子 (ゆうし)忠実 (ただざね)かであろうといわれている。江戸時代の諸本も多い(陽明文庫、宮内庁書陵部、京都大学蔵など)。『大日本古記録』『日本古典全集』(活字本)、『陽明叢書 (そうしょ)』(影印本)に収録。2013年(平成25)、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産(現、世界の記憶)に登録された。
世界大百科事典
摂政太政大臣藤原道長の日記。《入道殿御暦》《法成寺入道左大臣記》など多くの名称があるが,江戸時代に近衛家煕の新写本に用いられた《御堂関白記》の称が最も広く流布した。ただし道長は関白にはならなかったので,必ずしも正確な書名とはいいがたい。998年(長徳4)より1021年(治安1)の間の記事を伝えるが,中間を一部欠く。記載内容は比較的簡単であるが,特異な文体を用いて自由奔放に書きつけたという感が強く,誤字,当て字なども多いため,きわめて難解である。元は半年分を1巻として具注暦(ぐちゆうれき)に記した暦記が36巻あったと考えられるが,現在は陽明文庫に自筆本14巻,平安時代の古写本12巻が伝わり,また本記より抄出した《御堂御記抄》がある。特に自筆本14巻は,現存する日本最古の自筆日記として貴重である。昭和初年に自筆本の複製と釈文が刊行されたが,近年,古写本,御記抄も含めた複製本が《陽明叢書》として刊行されている。活字本は《日本古典全集》《大日本古記録》にある。
」*御堂関白記‐寛弘七年〔1010〕六月三〇日「神祇官奏
」*御堂関白記‐長和五年〔1016〕七月一〇日「源中納言行
食
出居上達部
供
糸車
、縫殿別所」*御堂関白記‐寛弘二年〔1005〕五月五日「節会。糸所者薬玉持来」
」*御堂関白記‐寛弘八年〔1011〕一一月一六日「戌四点御葬、同時御倚廬」*浜松中納言物語〔11C中〕四「かかるいろの程は
」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕四月二八日「右衛門志懸犬養為政等也。即遣
直昇」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕正月一四日「時々雨雪降、式・弾以
除書
」*御堂関白記‐寛弘元年〔1004〕三月二八日「右近中将公信朝臣来云、仰事、可
左近の馬場。*御堂関白記‐長和五年〔1016〕三月七日「右近馬場馬留使官両三侍、々等罷間、令
」*御堂関白記‐寛弘八年〔1011〕二月一〇日「春日使朝臣依
之」*御堂関白記‐長和元年〔1012〕閏一〇月一四日「是氏長者仲遠愁云々、仲遠去年会
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