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  11. 三浦義村

三浦義村

ジャパンナレッジで閲覧できる『三浦義村』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

三浦義村
みうらよしむら
[?―1239]

鎌倉前期の武将。義澄 (よしずみ)の子。母は伊東祐親 (いとうすけちか)の女 (むすめ)という。駿河守 (するがのかみ)。評定 (ひょうじょう)衆。1199年(正治1)梶原景時 (かじわらかげとき)排斥を策謀したのをはじめ、1213年(建保1)和田の乱では和田義盛 (よしもり)に協力を約束しながら北条義時 (よしとき)に通じて同族を葬り、将軍実朝 (さねとも)暗殺事件では公暁 (くぎょう)を誅 (ちゅう)し、1221年(承久3)の承久 (じょうきゅう)の乱では弟胤義 (たねよし)による朝廷側荷担の誘いを断り、北条泰時 (やすとき)軍に従って戦功をあげた。24年(元仁1)義時の後室伊賀 (いが)氏らが将軍および泰時を除こうと謀った際にも、終始北条氏に忠誠を示して信任され、翌年評定衆に選ばれた。「御成敗式目 (ごせいばいしきもく)」の制定にも参与。三浦一族の最盛期を築いた人物である。延応 (えんおう)元年12月5日没。

[三浦勝男]



世界大百科事典

三浦義村
みうらよしむら
?-1239(延応1)

鎌倉前期の武士。義澄の子。幼名平六。相模国の大族三浦氏の嫡流を継ぎ,すぐれた政治的判断力をもって数々の危機を回避し,三浦氏嫡流家の保全を実現した。1213年(建保1)同じ三浦一族の和田義盛が北条氏の挑発にのって軍事行動を起こした際,加勢を約束しておきながらどたん場で寝返ったため,義盛敗死後〈三浦の犬は友を食う〉と非難されたことは有名。承久の乱では弟胤義から京方に誘われ,伊賀氏の陰謀事件に際しても伊賀光宗の誘引をうけるなど,反北条氏勢力の動向に微妙に反応しながらも,最終的には北条氏に荷担して反北条氏勢力を制圧し,相対的に三浦氏嫡流家の政治的地位を向上させた。25年(嘉禄1)北条泰時によって創設された評定衆にも名を連ね,幕府政治に強い影響力を行使した。
[外岡 慎一郎]



国史大辞典

三浦義村
みうらよしむら
 - 一二三九
鎌倉時代前期の武将。三浦義澄の嫡男で母は伊東祐親の女。泰村・光村らの父。幼名平六。駿河守・評定衆に任じた。源頼朝の挙兵以来、元暦元年(一一八四)と翌文治元年(一一八五)の平氏追討や文治五年の奥州藤原氏征討に従うなど、父とともに各地に転戦し、建久元年(一一九〇)頼朝が上洛したときは父の功によって右兵衛尉に任じた。のち左衛門尉に転じ、さらに駿河守となり正五位下に叙せられた。正治元年(一一九九)十二月の梶原景時追放事件(梶原景時の乱)では朋友の結城朝光を助けて梶原一族を退けるという政治的手腕をみせ、北条氏につぐ大豪族として幕政での重要な地位を占めるに至った。そして頼朝の意向どおり建仁二年(一二〇二)には女を北条泰時に嫁がせて北条氏との関係を固め、さらに勢威を強めた。元久二年(一二〇五)北条時政の命により北条義時とともに畠山重忠を討滅したが、この事件は牧の方が時政に讒訴したためで、畠山氏に叛意のなかったことが判明すると、義村は事件の関係者である榛谷重朝・重季・秀重らを鎌倉の経師谷(神奈川県鎌倉市材木座)で討った。同年閏七月、将軍源実朝を廃して平賀朝雅を擁立しようとした牧の方の陰謀(平賀朝雅の乱)が発覚したとき、義村は北条政子・義時に協力して実朝の安全を守った。この事件で時政は落飾して伊豆に隠退し、義時が執権となったのである。建保元年(一二一三)五月の和田合戦では、当初、義村は弟胤義らとともに義盛に同心の約束をして起請文まで書いていたが、にわかに義時に通じて北条氏を援け、同族和田一族を葬った。承久元年(一二一九)正月の実朝暗殺事件では、公暁の求めを退けてこれを梟首し、承久三年五月の承久の乱では京都方への味方をことわり、弟胤義の反逆に同心せずに幕府を援け、北条泰時の軍に従って上洛して尾張川・宇治川で戦功をあげた。元仁元年(一二二四)六月、義時が急死すると、義時の妻伊賀氏らにより一条実雅を将軍に、北条政村を執権に立てるという陰謀(伊賀氏の変)に誘われたが、政子の説得で反転、北条執権家に忠誠を示した。そして執権泰時に信任されて翌嘉禄元年(一二二五)十二月、評定衆に任じ、これにより義澄が築いた幕政における三浦一族の地位をより強固なものとし、没するまでの十四年間にわたり幕府の枢機に参画してその権勢を振るった。また、『御成敗式目』の制定にも参与するなど、三浦一族の最盛期を築いた人物である。延応元年(一二三九)十二月五日頓死。法名南向院義天良村禅定門。神奈川県三浦市南下浦町金田の南向院跡に、義村墓と伝えるものがある。
[参考文献]
『大日本史料』五ノ一二 延応元年十二月五日条、北村包直『三浦大介及三浦党』、高橋恭一『三浦党と鎌倉武士道』、三浦大介義明公八百年祭実行委員会編『三浦大介義明とその一族』
(三浦 勝男)
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1. 三浦義村
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鎌倉前期の武将。義澄よしずみの子。母は伊東祐親いとうすけちかの女むすめという。駿河守するがのかみ。評定ひょうじょう衆。1199年(正治1)梶原景時かじわらかげと
2. 三浦義村
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?-1239(延応1) 鎌倉前期の武士。義澄の子。幼名平六。相模国の大族三浦氏の嫡流を継ぎ,すぐれた政治的判断力をもって数々の危機を回避し,三浦氏嫡流家の保全を
3. みうら‐よしむら【三浦義村】
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鎌倉中期の武将。三浦義澄の子。父とともに源頼朝に従い、幕府創業の戦いに参加。和田義盛の北条氏討伐に誘われたが逆に北条氏に荷担、以来公暁の討伐、承久の乱など北条氏
4. みうらよしむら【三浦義村】画像
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?―一二三九 鎌倉時代前期の武将。三浦義澄の嫡男で母は伊東祐親の女。泰村・光村らの父。幼名平六。駿河守・評定衆に任じた。源頼朝の挙兵以来、元暦元年(一一八四)
5. 三浦義村
日本史年表
1219年〈承久元(4・12) 己卯②〉 1・27 源実朝 ,公暁に殺される. 三浦義村 ,公暁を討つ(吾)。 1239年〈延応元(2・7) 己亥〉 12・5
6. みうら-よしむら【三浦義村】
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?−1239 鎌倉時代の武将。三浦義澄の子。相模(さがみ)(神奈川県)の御家人。梶原景時(かじわら-かげとき)追放に活躍,幕政で北条氏につぐ地位をしめた。和田氏
7. 三浦義村[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『三浦義村人物論』角田久賢
8. 三浦義村花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. あけのむら【明野村】山梨県:北巨摩郡
日本歴史地名大系
甲斐源氏の拠点の一つとされる。一三世紀前半までは牧として存在しており、建暦元年(一二一一)に三浦義村の代官と当牧牧士が争い、義村が奉行を解任された。建長五年(一
10. あつかしやま【厚樫山】福島県:伊達郡/国見町
日本歴史地名大系
突破口から攻め入り、国衡軍の金剛別当季綱はこれを迎え討ったが敗れ、大木戸に退いた。九日夜には三浦義村・葛西清重・工藤行光ら七騎が夜襲をかけ国衡軍の勇士を討取った
11. いいのはちまんぐう【飯野八幡宮】福島県:いわき市/旧平市地区/北目村
日本歴史地名大系
御浜出(塩垢離)、これより先承元二年好島庄三ヶ郷のうち西一郷の預所を大須賀胤村とし、三年後に三浦義村に代わる。宝治元年(一二四七)宝治合戦により三浦資村が討たれ
12. 伊賀氏の変
世界大百科事典
にぎろうとし,義時の長子泰時を執権にしようとする北条政子と対立した。伊賀氏らは幕府最大の豪族三浦義村を味方にして野心を実現しようとしたが,6月末機先を制して政子
13. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
一条能保の子で娘婿にあたる実雅を将軍に立て、実子の北条政村を執権として幕政を握ろうとし、幕府内最大の豪族三浦義村をだきこんでその実現をはかった。一方、これに対し
14. いわきぐん【磐城郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
岡」に勧請され、好島庄が設定された。この庄の預所は同五年から千葉介常胤―大須賀胤信(四男)―三浦義村―伊賀光宗と続き、以後世襲となる。同庄の本家は山城石清水八幡
15. いわきし【いわき市】福島県
日本歴史地名大系
同庄の預所職は千葉介常胤に与えられ、のちその四男大須賀胤信から好島庄は東西に分れ、西庄はその子息らを経て三浦義村、宝治合戦で義村が滅びると、伊賀光宗(法名光西)
16. いわぬまし【岩沼市】宮城県
日本歴史地名大系
〔中世・近世〕奥州合戦ののち、当市域を含む名取郡は鎌倉幕府の支配下に入り、建暦三年(一二一三)の和田合戦後三浦義村に与えられ、同氏滅亡後は北条得宗領となった。南
17. うまやぶぎょう【〓奉行】
国史大辞典
鎌倉幕府では、文治五年(一一八九)十二月に梶原景時が新造の御厩の別当に任ぜられており、その後には三浦義村などの名がみえる。このほか将軍上洛の際などには御厩の事を
18. えのしまじんじゃ【江島神社】神奈川県:藤沢市/片瀬村地図
日本歴史地名大系
一)六月一日将軍頼家が参詣、建保四年(一二一六)正月一五日の当社託宣には鎌倉の僧俗が群参し、三浦義村が使者に立てられ、その様子を検分し、同三月一六日には将軍実朝
19. おおばのみくりや【大庭御厨】神奈川県:藤沢市
日本歴史地名大系
、三浦義澄がこれに代わったかと思われる。「吾妻鏡」安貞二年(一二二八)四月二二日条にはその子三浦義村の館が御厨の内にあったとみえている。宝治元年(一二四七)の三
20. おがさわらのまき【小笠原牧】山梨県:北巨摩郡/明野村
日本歴史地名大系
逸見牧の名は和歌以外にはみえず、両牧の関係は不明。建暦元年(一二一一)には小笠原御牧の牧士と奉行人三浦義村の代官との争いがあり、義村が解任されるという事件が生じ
21. 伽婢子 2 256ページ
東洋文庫
 承久元年(一二一九)叔父実朝の任右大臣拝賀の 儀直後に彼を刺殺、三浦義村を頼ったが殺された。 一二〇〇一一九。楠・楠正成(七ノ2・八ノ4)楠氏は河内南部水 分
22. 花押 41[別刷図版]画像
国史大辞典
北条俊時 784 北条(赤橋)英時 785 北条時直(一) 786 北条時直(二) 787 三浦義村 788 源 義経 789 源 頼朝(一) 790 源 頼朝
23. かじわらかげすえ【梶原景季】
国史大辞典
文治元年(一一八五)左衛門尉に任ぜられている。正治元年(一一九九)父景時が結城朝光をおとしいれようとして、三浦義村・和田義盛らと対立、ともに鎌倉を追われて相模国
24. かじわらかげすえ【梶原景季】
日本架空伝承人名事典
父とともに木曾義仲追討のおり佐々木高綱と宇治川で先陣を争い、また生田の森で奮戦、のちに親子ともに三浦義村と対立し鎌倉を追われ、駿河国狐崎で戦死した。 謡曲『箙(
25. かじわらかげときのらん【梶原景時の乱】
国史大辞典
その中に加わっている。正治元年結城朝光が将軍源頼家に反意をいだく者として景時の讒言にあい、朝光は大いに驚き、三浦義村・和田義盛らの有力御家人たちの談合を画策した
26. かねちかみょう【包近名】大阪府:岸和田市/包近村
日本歴史地名大系
思われるが、盛連の没後、包近領地頭職はその夫人矢部禅尼に受継がれた。盛連夫人は鎌倉武士の名門三浦義村の女子で、初め北条泰時に嫁して嫡男時氏を産んだが、のち泰時と
27. かみぐん【加美郡】宮城県
日本歴史地名大系
行奉行、寄人兵衛次郎景村被収公所領陸奥国賀美郡栗谷沢村、可賜中」とあり、栗谷沢村(現不明)は三浦義村の孫景村の所領であったが、景村が博奕を行ったことを野田秀遠に
28. かもがわし【鴨川市】千葉県地図
日本歴史地名大系
鎌倉幕府開設後東条七郎秋則が頼朝に従い、長狭郡一円の地頭として支配を認められた。頼朝は寿永元年(一一八二)三浦義村を東条寺(現天津小湊町天津の神明神社か)に派遣
29. 河内国
世界大百科事典
行使したが,国衙機構は国主源光輔が押さえており,武家勢力の浸透は弱かった。承久の乱後は相模の豪族三浦義村が守護に任ぜられ,守護代・守護使を置いて支配に当たった。
30. かわちのくに【河内国】大阪府地図
日本歴史地名大系
を有していた。その関係もあって多くの河内武士が京方に動員されたが、敗北のあと鎌倉の有力御家人三浦義村が河内守護に任じられ、勲功の賞として安達景盛が讃良庄地頭、相
31. かわむら-ひできよ【河村秀清】
日本人名大辞典
鎌倉時代の武士。治承(じしょう)元年生まれ。文治(ぶんじ)5年(1189)源頼朝の奥州攻めにしたがい,三浦義村らと藤原泰衡(やすひら)の異母兄藤原国衡がまもる阿
32. 紀伊国
世界大百科事典
ともなう収益を上皇の熊野詣の費用にあてるという名目で停廃された。承久の乱後,守護は復活され,三浦義村ついで佐原家連が補任されている。しかし47年(宝治1)の宝治
33. きいのくに【紀伊国】和歌山県
日本歴史地名大系
負担したことによって、重要なことがない限り守護を置かないこととなった。しかし承久の乱後は再び設置され、三浦義村・佐原家連が任じられている。その後宝治合戦で三浦氏
34. きょうじがやつ【経師ヶ谷】神奈川県:鎌倉市/大町村地図
日本歴史地名大系
兼藁)。「吾妻鏡」元久二年(一二〇五)六月二三日条に、畠山重忠と一族が討滅された事件に際し、三浦義村が「経師谷口」で榛谷四郎重朝父子を謀殺したとあり、建長五年(
35. 公暁
日本大百科全書
て、右大臣拝賀の参拝を終えて退出する実朝を、親の仇かたきとよばわって殺害。乳母うばの夫である三浦義村みうらよしむらを頼ったが、かえって義村の差し向けた討っ手によ
36. 公暁
世界大百科事典
機に実朝を刺殺,みずから将軍たらんとして三浦義村に援助を請うたが逆に義村によって殺された。公暁を扇動したのは北条義時とも三浦義村ともいわれる。青山 幹哉 三浦義
37. くぎょう[クゲウ]【公暁】
日本国語大辞典
。鎌倉鶴岡八幡宮寺別当。幼名善哉。将軍源実朝を父の仇と信じて、八幡宮の社前で刺殺。有力御家人三浦義村を頼って将軍になろうとしたが義村に殺された。正治二~建保七年
38. くぎょう【公暁】
国史大辞典
剣を揮って実朝を殺し、実朝に扈従した源仲章を北条義時と誤認して殺した。ついで御家人中の有力者三浦義村を頼って将軍となろうとしたが、義村が北条氏に通じたために成就
39. 公暁
日本史年表
鶴岡八幡宮別当とする(吾)。 1219年〈承久元(4・12) 己卯②〉 1・27 源実朝 ,公暁に殺される. 三浦義村 ,公暁を討つ(吾)。
40. くぎょう【公暁】
日本人名大辞典
父の仇(かたき)と信じ,建保(けんぽ)7年1月27日八幡宮境内で殺害。ついで将軍職につこうと三浦義村をたよるが,同日夜義村の配下に討たれた。20歳。公暁をそその
41. くじょうのりざね【九条教実】画像
国史大辞典
。同年正月、将軍源実朝が暗殺されると、幕府は後鳥羽上皇の皇子を鎌倉に迎えようとして許されず、三浦義村は教実の東下を提案したが、結局は弟の頼経が鎌倉に下った。順徳
42. 源威集 191ページ
東洋文庫
有していたので、榛谷氏を称したと  いわれる。重朝は平氏追討に軍功をあげたが、畠山氏滅亡のさい、三浦義村に討たれた  (『吾妻鏡』元久二年六月≡二日条)。↓四六
43. げんえん【源延】
国史大辞典
建て、また、駿河国の智満寺の大曼荼羅供に導師に請せられたこともあった。寛喜元年(一二二九)、三浦義村のために迎講を行なったとき、七十四歳であったが、以後の消息は
44. こうちょうき【弘長記】
国史大辞典
著者・成立年代未詳。後世の偽書か。弘長年間(一二六一―六四)の鎌倉幕府の内部の動きを記す。仮名混り文。三浦義村の弟律師良賢の謀叛が青砥藤綱によって未然に摘発され
45. こやべむら【小矢部村】神奈川県:横須賀市地図
日本歴史地名大系
死し、その子が三浦の「屋部」に隠れたが捕らえられたという(承久記)。一方、北条泰時室であった三浦義村娘は三浦矢部の別庄に住んで「矢部禅尼」といわれた(「吾妻鏡」
46. さきやまもんじょ【崎山文書】
国史大辞典
在京人として番役を負担した湯浅一族の全貌をうかがうことのできる文書、あるいは源頼朝、北条泰時・重時、三浦義村の書状など、湯浅氏と鎌倉幕府との浅からぬ因縁を示す文
47. さくまし【佐久間氏】画像
国史大辞典
桓武平氏良文流の三浦氏支族。安房国平群郡佐久間郷(千葉県安房郡鋸南町)より起る。三浦義村の三男太郎家村が佐久間郷を領するにより佐久間氏を称す。家村は和田常盛の
48. さむらいどころ【侍所】画像
国史大辞典
の兼職とされた。同六年、北条泰時が別当に補された際、同時に四人の所司が任ぜられ、二階堂行村・三浦義村は御家人の奉行となり、大江能範は将軍の出行と幕府の雑事を、伊
49. 信生法師日記(中世日記紀行集) 98ページ
日本古典文学全集
女婿藤原実雅を将軍に、息子政村を執権にして、光宗に幕府の実権を握らせようと企てたが、後援者として誘われた三浦義村が伊賀氏の謀反と政村の関係ないことを告げたため、
50. じょうきゅうのらん【承久の乱】画像
国史大辞典
の二点であって、幕府体制そのものの破壊をただちに意味しないし、院方が日本国惣追捕使への任命を餌に三浦義村を誘引せんとしたという『承久記』上の記述を許容する。乱に
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