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  11. 畠山重忠

畠山重忠

ジャパンナレッジで閲覧できる『畠山重忠』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

畠山重忠
はたけやましげただ
[1164―1205]

鎌倉初期の武将。重能 (しげよし)の子。母は三浦義明 (よしあき)の女 (むすめ)。系図によれば桓武 (かんむ)平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵 (むさし)国畠山庄 (しょう)(埼玉県深谷 (ふかや)市川本地区付近)の庄司 (しょうじ)であった重能からである。1180年(治承4)石橋山 (いしばしやま)の戦いでは初め頼朝 (よりとも)に敵対したが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲 (きそよしなか)や平氏の追討、さらに1189年(文治5)の奥州征伐などに戦功をたてた。その間、伊勢沼田御厨 (いせぬまたのみくりや)(三重県松阪市)で起こった地頭代 (じとうだい)の押妨 (おうぼう)事件に関連して地頭であった重忠が捕らえられ、梶原景時 (かじわらかげとき)の讒言 (ざんげん)で逆心を疑われた際、頼朝に逆心を抱いていないこと、武士に二言はないから起請 (きしょう)文など書く必要はないことを主張し、頼朝に信用された話は有名である。1190年、1195年(建久1、6)頼朝再度の上洛 (じょうらく)に先陣を勤めるなど頼朝に仕えたが、1205年(元久2)子重保 (しげやす)(母は足立遠元 (あだちとおもと)の女)が北条時政 (ときまさ)の後妻牧 (まき)氏の女婿平賀朝雅 (ひらがともまさ)と争って時政に殺されたあと、6月22日重忠も北条軍と武蔵二俣川 (むさしふたまたがわ)(横浜市保土ケ谷 (ほどがや)区)で戦って討ち死にした。彼の死後、妻(北条時政の女)は足利義純 (よしずみ)と再婚し、その子泰国 (やすくに)が畠山の家名を継いだ。重忠は大力をもって聞こえたが、また音楽的才能にも恵まれ、その性質は重厚であったと伝えられている。

[新田英治]



世界大百科事典

畠山重忠
はたけやましげただ
1164-1205(長寛2-元久2)

鎌倉初期の武士。武蔵国の大族秩父氏の一族で,畠山荘を領して畠山氏の祖となった重能の子。源頼朝の挙兵にあたり,はじめ平家方について三浦氏を攻めたが,のち帰順して平家追撃軍に加わり各地に転戦した。典型的な坂東武者としての評価が高く逸話も多いが,1187年(文治3)梶原景時の讒言(ざんげん)によって謀反の罪を着せられそうになった際,〈謀反を企てているとの風聞が立つのは武士の眉目〉と語って嫌疑を一蹴したという話は有名である。しかし1205年平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の陰謀にまきこまれ,まず子の重保が鎌倉由比ヶ浜に誘殺され,ついで本領をたって鎌倉に向かう途にあった重忠にも大軍がさし向けられた。このとき重忠は,本領に帰っての決戦を勧める郎党の言を制し寡勢でこの大軍を迎え撃ち,一族郎党とともに討死したという。
[外岡 慎一郎]

作品化

重忠は浄瑠璃,歌舞伎で,いわゆる捌役(さばきやく)の役どころとして形象化された。したがって歌舞伎では生締(なまじめ)(鬘(かつら)の髷の名称)が多く用いられる。浄瑠璃《壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)》(1732初演)では平景清の恋人阿古屋(あこや)を堀川御所の白洲で裁く名判官秩父庄司重忠として登場,智勇兼備でしかも情ある武将として描かれる。近松作の《出世景清》にも〈重忠は四相(しそう)を悟る〉の詞章がある。前記《兜軍記》の登場人物である岩永左衛門が赤っ面の敵役であるところから,重忠は岩永と対照的にものわかりのよい人物としてとらえられている。歌舞伎では〈曾我〉の世界に登場する。
[小池 章太郎]

[索引語]
秩父庄司重忠 岩永左衛門


国史大辞典

畠山重忠
はたけやましげただ
一一六四 - 一二〇五
平安・鎌倉時代初期の武士。武蔵国男衾郡畠山荘(埼玉県大里郡川本町畠山)を本拠とする畠山庄司重能の嫡子。母は三浦大介義明の女。畠山庄司次郎と称す。治承四年(一一八〇)八月、源頼朝が挙兵した際、父重能が大番役で在京中であったため、弱冠十七歳でその追討に出陣。頼朝軍との合流を果たせず、本拠地に引き返す途中の三浦一族の軍と遭遇して鎌倉由比ヶ浜で激戦を交えた。この合戦は勝敗がつかず、重忠はいったん退き、あらためて河越太郎重頼らとともに三浦一族を相模国衣笠城に攻めて、これを陥れ、三浦義明を自害させた。しかし、同年十月、房総を平定した頼朝が武蔵に入ると、これに服属し、相模入国に際しては先陣をつとめた。その後、木曾義仲の追討、平家の追討に従軍し、宇治川の合戦や一谷の戦で活躍。文治元年(一一八五)河越重頼が源義経に縁座して誅せられたことによって、彼の帯していた武蔵国留守所惣検校職を継承したものと思われる。同三年、重忠が地頭職を与えられていた伊勢国沼田御厨で重忠の遣した代官が乱妨をはたらいたことを訴えられたため、囚人として従兄弟の千葉胤正に預けられ、所領四ヵ所を没収されたが、胤正のとりなしで赦免された。同五年、奥州藤原氏征伐の際、大手の先陣をつとめ、阿津賀志山の戦で、藤原国衡の首級を獲るなどの活躍をみせ、恩賞として陸奥国葛岡郡地頭職を与えられている。翌建久元年(一一九〇)、頼朝上洛の際、先陣をつとめ、院参にも随従した。同六年、再び頼朝が上洛したときも先陣に候している。重忠ははじめ武蔵国の御家人足立遠元の女を娶り、小次郎重秀を儲けたが、のちに北条時政の女とも婚し、六郎重保が生まれた。元久二年(一二〇五)この重保と北条時政の後妻牧の方の女婿である平賀朝雅との対立を背景に、武蔵国への進出を企図する北条氏の策略によって、武蔵国二俣川でわずか百数十騎をもって幕府の大軍と激戦ののち、愛甲季隆の射た矢にあたって討ちとられた。四十二歳。重忠は剛勇、廉直の鎌倉武士の典型として美談・佳話が『吾妻鏡』にも数多く伝えられており、また、文治二年四月、静御前が鶴岡八幡宮の廻廊で舞をみせた際に銅拍子をうつなど、歌舞音曲の才にもめぐまれていたことが知られ、さらに建久三年九月、鎌倉永福寺庭池の大石を一人で持ち運んで据えつけるなど、大力であったといわれる。なお、鎌倉における重忠の屋敷は幕府の南門の前辺にあった。墓は埼玉県大里郡川本町畠山にある。→平賀朝雅の乱(ひらがともまさのらん)
[参考文献]
『大日本史料』四ノ八 元久二年六月二十二日条、八代国治・渡辺世祐『武蔵武士』、貫達人『畠山重忠』(『人物叢書』九二)、安田元久『武蔵の武士団』(『有隣新書』二八)、岡田清一「武蔵国留守所惣検校職に就いて」(『学習院史学』一一)
(野口 実)
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1. 畠山重忠
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鎌倉初期の武将。重能しげよしの子。母は三浦義明よしあきの女むすめ。系図によれば桓武かんむ平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵むさし国畠山庄しょう(埼玉県深谷ふかや
2. 畠山重忠
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3. はたけやま‐しげただ【畠山重忠】
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鎌倉初期の武将。武蔵国畠山郷(埼玉県川本町畠山)の人。荘司次郎と称した。源頼朝に服属、木曾義仲追討、奥州藤原氏征伐など戦功を挙げ信を得たが、後、北条氏に謀反の疑
4. はたけやましげただ【畠山重忠】
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[参考文献]『大日本史料』四ノ八 元久二年六月二十二日条、八代国治・渡辺世祐『武蔵武士』、貫達人『畠山重忠』(『人物叢書』九二)、安田元久『武蔵の武士団』(『有
5. 畠山重忠(はたけやましげただ)
古事類苑
人部 洋巻 第1巻 1216ページ
6. はたけやま-しげただ【畠山重忠】
日本人名大辞典
1164−1205 平安後期-鎌倉時代の武将。長寛2年生まれ。畠山重能(しげよし)の子。母は三浦義明の娘。源頼朝につかえる。源義仲や平家の追討などではたらき,頼
7. はたけやましげただ【畠山重忠】
日本架空伝承人名事典
鎌倉初期の武士。武蔵国の大族秩父氏の一族で、畠山荘を領して畠山氏の祖となった重能の子。源頼朝の挙兵にあたり、はじめ平家方について三浦氏を攻めたが、のち帰順して平
8. 畠山重忠[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:4件 『畠山重忠』栗原勇(著刊)『畠山重忠公』渡辺世祐, 八代国治『畠山重忠』川口彝雄『武士の亀鑑人格の権化畠山重忠公』栗原勇『畠山重忠物語』下
9. 武の神畠山重忠公(著作ID:4388416)
新日本古典籍データベース
ぶのかみはたけやましげただこう 若松若太夫一世(わかまつわかたゆう1せい) 浄瑠璃 説経 昭和八
10. あいかわ‐いちもんじ[あゐかは‥]【藍革一文字】
日本国語大辞典
〔名〕藍色に染めた革の一片。特に畠山重忠の旗標(はたじるし)をさす。*浄瑠璃・石橋山〔1659頃〕六「なんぢが旗、頼朝が旗にひとしければ、是をしるしにおせとて、
11. 愛甲氏
世界大百科事典
年(建久4)の富士野巻狩では,頼家に鹿を射止めさせる功をあげた。さらに1205年(元久2)の畠山重忠の乱では,北条義時の軍に属して重忠を射止め愛甲の名を高めたが
12. 阿古屋
世界大百科事典
る。十蔵は景清の身代りになろうとし,また阿古屋は捕らえられて景清の居所をきかれるが白状せず,畠山重忠は阿古屋に琴・三味線・胡弓をひかせ,その音色から景清の所在を
13. あこや【阿古屋】
日本架空伝承人名事典
る。十蔵は景清の身代りになろうとし、また阿古屋は捕らえられて景清の居所をきかれるが白状せず、畠山重忠は阿古屋に琴・三味線・胡弓をひかせ、その音色から景清の所在を
14. あさひく【旭区】神奈川県:横浜市地図
日本歴史地名大系
神領注文」神宮雑書)、それぞれ地主・荘官に任ぜられたとされる。元久二年(一二〇五)六月には、畠山重忠が鶴ヶ峯で鎌倉幕府軍のために討死し、その一族榛谷氏・稲毛氏も
15. あしげ【葦毛】
国史大辞典
白葦毛という。また白馬で腹の部分に青みを帯びたのを腹葦毛といい、『源平盛衰記』小坪合戦にみえる畠山重忠の馬の泥葦毛は、『古今著聞集』魚虫禽獣に、泥にまみれた白馬
16. あだちし【足立氏】画像
国史大辞典
遠元は頼朝の公文所創設以来その寄人となっており、政務に馴れた有力な御家人であった。その娘二人は畠山重忠・北条時房に嫁した。嘉禎二年(一二三六)まで讃岐国本山荘地
17. あつかしやま【厚樫山】福島県:伊達郡/国見町
日本歴史地名大系
八月七日頼朝が国見駅(宿)に到着、合戦は翌八日早朝から始まった。頼朝軍の小山(結城)朝光らは畠山重忠の工作隊がつくった突破口から攻め入り、国衡軍の金剛別当季綱は
18. あぶずり【鐙摺】神奈川県:逗子市/桜山村地図
日本歴史地名大系
」の図は当時の面影を伝える。「源平盛衰記」巻二一(小坪坂合戦)によれば、治承四年(一一八〇)畠山重忠と戦った三浦勢は押され、和田義盛は伯父三浦義澄に「其れには東
19. あぶずりじょうあと【鐙摺城跡】神奈川県:三浦郡/葉山町/堀内村地図
日本歴史地名大系
果したとみられる。「源平盛衰記」によると、石橋山(現小田原市)の合戦に間に合わず本領に引揚げる三浦一族と、畠山重忠軍とが小坪(現逗子市)で合戦となった際、三浦側
20. 争いの木
世界大百科事典
と言い争うということで〈争いの杉〉と呼ぶと記されている。またこの杉は,源頼朝の奥州征伐の際に畠山重忠が松だといって従臣と争ったともいう。同じ田端の道灌山に同様の
21. いしきりかじわら[いしきりかぢはら]【石切梶原】
日本国語大辞典
づな)」。享保一五年(一七三〇)大坂竹本座初演。頼朝挙兵の際の、三浦大助義明とその一党および畠山重忠、梶原景時などの忠節を描いたもの。特に、梶原が名刀の切れ味を
22. 石切梶原
日本大百科全書
座初演。石橋山の敗戦後、再挙を図る源頼朝よりともを三浦大助が助け、梶原景時かじわらかげとき、畠山重忠はたけやましげただとともに大庭おおば三郎兄弟を滅ぼすという筋
23. 伊勢国画像
日本大百科全書
大内惟義これよしらを任じ、北条時房ときふさ以後は北条氏の一門がその地位を独占した。また地頭には島津忠久、畠山重忠はたけやましげただ、渋谷定心らの名前をみることが
24. いちむらうざえもん【市村羽左衛門】[付録]
歌舞伎事典
平成2・4重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。平成3・12日本芸術院会員。平成8・6歌舞伎座《逆櫓》の畠山重忠、《楊貴妃》の方士で会長賞。平成9・9台湾公演
25. いなげし【稲毛氏】
国史大辞典
端を担い、稲毛三郎と称した。元久二年(一二〇五)に重成は妻の父北条時政とともに策謀して同族の畠山重忠を戦死に至らしめたと咎められて殺され、子息小沢重政・弟榛谷重
26. いなげしげなり【稲毛重成】
国史大辞典
小沢入道と呼ばれた。同九年亡妻追賁のため相模川に橋を架けた。元久二年(一二〇五)六月二十二日に従父兄弟の畠山重忠が謀反の疑いによって滅ぼされ、その直後重忠の謀反
27. いなげ-しげなり【稲毛重成】
日本人名大辞典
にくわわり,源頼朝の京都行きに随行した。建久6年(1195)妻の死をいたみ出家。時政とともに畠山重忠の謀殺にかかわり,元久2年6月23日斬殺(ざんさつ)された。
28. いなげのしょう【稲毛庄】神奈川県:川崎市
日本歴史地名大系
末成・為次も当庄の開発にかかわった豪族の一族との可能性をもつが、武蔵の有力豪族秩父氏の一族で畠山重忠の弟の稲毛三郎重成や、あるいは武蔵七党の西党の稲毛氏とする説
29. いなべぐん【員弁郡】
国史大辞典
が伊勢平氏の勢力下に入っても続き、『吾妻鏡』には、文治三年(一一八七)六月に、治田御厨の地頭畠山重忠の眼代内別当真正に追捕され、神宮の神人の訴訟で十月に放免され
30. いなべぐん【員弁郡】三重県
日本歴史地名大系
九日条には、伊勢国沼田御厨(この名は「神鳳鈔」にはみえない。あるいは治田御厨の誤りか)の地頭畠山重忠の眼代の乱暴を員部大領家綱が訴えており、同年一〇月には勝訴し
31. いまいむら【今井村】神奈川県:川崎市/中原区地図
日本歴史地名大系
々家数改帳(安藤文書)の家数四四、化政期(一八〇四―三〇)の家数四〇(風土記稿)。村の西方に畠山重忠の家臣小宮重康館跡と伝える地があり、山王社(現今井神社)は小
32. いまじゅくむら・いまじゅくしんでんむら・つるがみねしんでん【今宿村・今宿新田村・鶴ヶ峯新田】神奈川県:横浜市/旭区地図
日本歴史地名大系
六月二二日条に畠山重忠が「〓峯之麓」に陣を取って幕府軍と戦い、愛甲三郎季隆の矢に当たって討死したことがみえ、畠山重忠討死の地という(風土記稿)
33. うし-とら【丑寅・艮】
全文全訳古語辞典
か一口へ回るのがよいだろうか、(あるいは)水量の減るのを待つのがよいだろうか」と言われると、畠山重忠は、その頃はまだ年齢二十一歳になっていたが、進み出て申したこ
34. うしのむら【牛野村】宮城県:名取市
日本歴史地名大系
う(安永風土記)。南東部の現境堀の塚原に兵粮塚跡がある。「安永風土記」によれば、奥州合戦の際畠山重忠が塚を築き兵粮を蓄えたと伝え、安永年間(一七七二―八一)には
35. うしろはんざわむら【後榛沢村】埼玉県:大里郡/岡部町地図
日本歴史地名大系
丹党榛沢氏が当地一帯を拠点とした。地内中央部の字伊勢塚にある榛沢六郎成清供養塔は、元久二年(一二〇五)畠山重忠とともに非業の死を遂げた榛沢成清を弔ったものといわ
36. 宇治川
世界大百科事典
木の注意で締め直しているすきに,佐々木が駆け抜けた(〈拾イ〉)。佐々木の先陣の名のりに続いて畠山重忠らも上陸して攻め立てたので,義仲方は伏見へ敗走した(〈拾イ〉
37. うす‐みどり【薄緑】
日本国語大辞典
2)令制で七位の人の袍(ほう)の色。(3)軍記物語に伝える太刀の名称。源氏重代の太刀といい、畠山重忠所用ともいう。*平治物語〔1220頃か〕上・源氏勢汰への事「
38. うすみどりのたち【薄緑太刀】
国史大辞典
『平治物語』上、源氏勢汰への事に源義朝の次男朝長の佩用と伝え、『源平盛衰記』二一、小坪合戦の事には畠山重忠が「薄緑と云ふ太刀の三尺五寸なるに虎の皮の尻鞘入れてぞ
39. うらわし【浦和市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
ぞれ間宮や佐々目郷を本領とする武士とされるが、確かなことは不明。武蔵二俣河(現横浜市旭区)で畠山重忠を攻めた鎌倉幕府方の安達景盛の軍のなかに野田与一がおり(「吾
40. 江戸近郊道しるべ 43ページ
東洋文庫
ぢごじの山には人ゆかず、今金毘羅の社ありと同人いふ、是政系図の略、左の通、佐兵衛がみせしを写す  畠山重忠四男   重政   麟田獺郷駝衛門尉    建久元年乙
41. 江戸繁昌記 1 14ページ
東洋文庫
世々絶えず。然れども国家騒乱し、何の暇か之に及ばん。蓋し亦平世の余事のみ。河津祐泰・俣野景久.畠山重忠.和田義秀等が力を較するも、並びに頼朝公治世の日に在り。織
42. 江戸繁昌記 1 16ページ
東洋文庫
一どもふかくをとらぬものなり。其故に院内の御目にか、り日本一ばんの名をえたるすまふ也」とある (九)畠山重忠 鎌倉幕府の御家人。重忠が、頼朝上覧の庭上、東国無双
43. えばらぐん【荏原郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
領していたとみられる目黒弥五郎がいた(吾妻鏡)。執権北条氏の政権掌握の過程で起きた元久二年(一二〇五)の畠山重忠追討には、大井氏・品河氏が加わっていた(同書同年
44. 烏帽子親
世界大百科事典
曾我五郎(時致)は北条第で元服し,時政より一字名を与えられているし(《曾我物語》),武蔵国住人大串重次は畠山重忠の烏帽子子であったという(《平家物語》)。鎌倉期
45. えんしょうじ【円照寺】埼玉県:入間市/野田村地図
日本歴史地名大系
。家季は鎌倉幕府御家人として元久二年(一二〇五)六月二二日安達景盛に従い二俣川合戦に出陣し、畠山重忠と戦い討死した(吾妻鏡)。家季の菩提を弔うために子の家茂と円
46. えんじょういん【円乗院】埼玉県:与野市/与野町地図
日本歴史地名大系
[現]与野市本町西一丁目 高沼排水路、本町通の西側に位置する。安養山西念寺と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王。畠山重忠の草創と伝え、古くは道場村(現浦和市)に
47. おうしゅうせいばつ【奥州征伐】
国史大辞典
総勢二万。阿武隈川の水をせきとめて往来を絶ち、征討軍の北上をここに阻止する構えであった。しかし畠山重忠の指揮する工兵隊は、苦もなくこのにわか陣地を切り崩してしま
48. おうめ【青梅】
国史大辞典
誘致によって、新旧工業の二面的性格をもつ首都圏都市として発展している。塩舟観音寺、御嶽神社(畠山重忠の奉納と伝える国宝赤糸威鎧がある)、金剛寺(絹本着色如意輪観
49. おおえのひろもと【大江広元】画像
国史大辞典
に将軍頼家の修禅寺幽閉事件については広元の謀におうところが大きい。また元久二年(一二〇五)の畠山重忠追討事件ならびに北条時政出家、平賀朝政(朝雅)追討事件にも参
50. おおくしむら【大串村】埼玉県:比企郡/吉見町地図
日本歴史地名大系
室町―戦国期のもの四基が確認されている。「平家物語」巻九には寿永三年(一一八四)宇治川の先陣争いで、烏帽子親の畠山重忠に助けられた大串次郎重親の名がみえる。「吾
「畠山重忠」の情報だけではなく、「畠山重忠」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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大江広元(世界大百科事典・日本大百科全書)
鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源頼朝と親しかった,同じ広季の養子親能の関係から頼朝に招かれ,1184年(元暦1)以来,幕府の公文所ついで政所の別当となり
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