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  11. 源範頼

源範頼

ジャパンナレッジで閲覧できる『源範頼』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

源範頼
みなもとののりより
生没年不詳
平安・鎌倉時代前期の武将。父は源義朝。母は遠江国池田宿の遊女。源頼朝の異母弟。通称蒲冠者。史料上の初見は『吾妻鏡』養和元年(一一八一)閏二月二十三日条でこの時頼朝の命により志田義広追討のため下野国に出陣している。これ以前の経歴は不詳だが治承四年(一一八〇)八月の頼朝の挙兵直後にはその軍門に参じたと推測される。寿永二年(一一八三)末頼朝代官として弟源義経とともに京都占領中の木曾義仲追討のため出陣。翌元暦元年(一一八四)正月二十日近江国勢多(大津市瀬田)で義仲勢を討ちそのまま鎌倉勢としてはじめて上洛に成功。二十九日には当時播磨・摂津両国境一ノ谷にあって京都奪還の機会を窺う平氏追討のため大手大将軍として出京、摂津国生田の森に進軍して搦手義経軍とともにこれを敗走させた。その後帰洛、間もなく京中治安維持のため義経を京都に残して鎌倉に帰還。六月頼朝の推挙により三河守に任官。八月八日平氏追討のため再度出陣。二十九日入洛、朝廷から追討使の官符を賜わり、九月一日山陽道を経由して九州に渡り平家軍を背後から攻撃することを目指して出陣した。しかし平氏軍の反撃により出陣は長期化、ようやく文治元年(一一八五)二月になり義経が出陣、翌月長門壇ノ浦で平氏を壊滅させることに成功。範頼は九州に渡海、ここに残留して戦後処理と九州における鎌倉幕府支配の確立に努めた。同年四月、三河守辞任。十月鎌倉帰還。その後の動勢については不詳だが建久四年(一一九三)五月二十八日に起きた曾我兄弟の仇討事件の際、頼朝暗殺の浮説が流れたが、この時鎌倉留守居役であった範頼が頼朝の妻北条政子に「自分が健在であり、源氏の代は無事である」と、進言。頼朝帰還後、これが謀反として問題となり(『保暦間記』)、八月十七日伊豆配流に処せられた。その後の記録は存在しないが配流直後誅殺されたと推測されている。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ四 建久四年八月十七日条、安田元久『源義経』、同編『源頼朝』、岡部周三『吾妻鏡の人びと』
(並木 優記)


日本大百科全書(ニッポニカ)

源範頼
みなもとののりより
[?―1193]

鎌倉初期の武将。源義朝 (よしとも)の六男。三河 (みかわ)国(愛知県)蒲御厨 (かばのみくりや)に生まれたので「蒲冠者 (かばのかんじゃ)」とよばれた。幼時、藤原範季 (のりすえ)の養子となる。兄頼朝 (よりとも)が平氏追討の兵をあげたとき、頼朝に属してその部将となる。1183年(寿永2)弟義経 (よしつね)とともに源義仲 (よしなか)を京都に討ってこれを倒した。続いて一ノ谷に平氏を破り、戦後、三河守 (かみ)となった。やがてふたたび平氏追討のため中国から九州に遠征して、85年(文治1)平氏滅亡後、九州の経営にあたった。範頼は、頼朝・義経の衝突、義経の運命をみて、頼朝に対して努めて従順な態度をとった。しかし頼朝は範頼を疑い、建久 (けんきゅう)4年8月、これを捕らえて伊豆修禅寺 (しゅぜんじ)に幽し、ついにこれを殺した。範頼の子孫は吉見 (よしみ)氏を称し、南北朝ごろには能登 (のと)(石川県)の守護となっている。

[多賀宗隼]



世界大百科事典

源範頼
みなもとののりより
?-1193(建久4)

平安末~鎌倉初期の武将。源義朝の六男,頼朝の弟。母は遠江池田宿の遊女。同国蒲御厨(かばのみくりや)に生まれたところから蒲冠者(かばのかじや)と呼ばれた。兄頼朝の挙兵後その部将となり,1184年(元暦1)弟義経とともに源義仲を破り,ついで一ノ谷に平氏を討って三河守に任ぜられる。その後,平氏追討のため中国から九州に遠征,平氏滅亡後も九州の経営に当たった。93年8月頼朝により伊豆修禅寺で殺された。子孫に吉見氏がある。
[飯田 悠紀子]

[索引語]
蒲冠者
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検索コンテンツ
1. 源範頼
日本大百科全書
鎌倉初期の武将。源義朝よしともの六男。三河みかわ国(愛知県)蒲御厨かばのみくりやに生まれたので「蒲冠者かばのかんじゃ」とよばれた。幼時、藤原範季のりすえの養子と
2. 源範頼
世界大百科事典
?-1193(建久4) 平安末~鎌倉初期の武将。源義朝の六男,頼朝の弟。母は遠江池田宿の遊女。同国蒲御厨(かばのみくりや)に生まれたところから蒲冠者(かばのかじ
3. みなもと‐の‐のりより【源範頼】
日本国語大辞典
平安末期から鎌倉初期の武将。義朝の六男。母は遠江国池田宿の遊女。蒲冠者(かばのかんじゃ)と呼ばれた。頼朝挙兵に参じ、弟義経とともに西上して、義仲や平氏追討の一方
4. みなもとののりより【源範頼】画像
国史大辞典
生没年不詳 平安・鎌倉時代前期の武将。父は源義朝。母は遠江国池田宿の遊女。源頼朝の異母弟。通称蒲冠者。史料上の初見は『吾妻鏡』養和元年(一一八一)閏二月二十三
5. 源範頼
日本史年表
1183年〈寿永2 癸卯〉 この冬 頼朝,義仲追討のため, 源範頼 ・ 同義経 を京に派遣(玉葉)。 1184年〈元暦元(4・16)(寿永3) 甲辰〉 1・20
6. みなもとの-のりより【源範頼】
日本人名大辞典
?−? 平安後期-鎌倉時代の武将。源義朝の6男。母は遠江(とおとうみ)(静岡県)池田宿の遊女。兄源頼朝にしたがい,弟義経とともに源義仲を追討。さらに一ノ谷で平氏
7. 源範頼[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:3件 『南中山村庄境付近に於ける源範頼に関する調査報告書』安達実積『蒲冠者範頼』永峰光寿『源範頼と鶴見郷古殿』後藤武夫『源範頼の文書について』吉
8. 源範頼花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. みなもとののりよりのはか【源範頼墓】愛媛県:伊予市/吾川村
日本歴史地名大系
臨光山称名寺にほど近い丘の上に範頼を祀った鎌倉神社があり、その裏に蒲冠者範頼公墓と記された墓地がある。古くから源範頼終焉の地といい伝えられ、祠を作り信仰され今日
10. 源範頼に遣す文(著作ID:4380384)
新日本古典籍データベース
みなもとのりよりにつかわすふみ 源 頼朝(みなもと よりとも) 
11. でんみなもとののりよりやかたあと【伝源範頼館跡】埼玉県:比企郡/吉見町/御所村地図
日本歴史地名大系
り、西方背後には吉見観音安楽寺がある吉見丘陵が迫る。吉見岩殿山略縁起(安楽寺文書)によると、源範頼は平治の乱後、吉見観音の稚児僧として当地に潜居、この範頼の館跡
12. あきまつむら【秋松村】福岡県:筑後市
日本歴史地名大系
広川庄鎮守神役支配状案」同文書/鎌倉遺文九)。薩摩街道と福島(現八女市)に至る街道追分東方に源範頼軍に討たれた平家残党を葬ったという平家塚があり、血で水が紅に染
13. あさいなしまめぐりのき【朝夷巡島記】
国史大辞典
かけて刊行。未完。七・八編を松亭金水が嗣作し、八編四十巻となる。木曾義仲の落胤朝夷三郎義秀が源範頼の遺子吉見冠者義邦、樋口兼光の遺子多田光仲と信義に結ばれて、と
14. あさぐん【厚狭郡】山口県
日本歴史地名大系
面積:一六五・七七平方キロ 楠町・山陽町 県の南西部、南は周防灘に面し、東から南にかけて宇部市・小野田市、北は美祢および美祢郡秋芳町、西は下関市と接する。郡の北
15. あさばらむら【浅原村】岡山県:倉敷市/旧都窪郡地区
日本歴史地名大系
この賞として今も素麺販売の特権をもっているとする。安養寺東隣の素盞嗚神社(牛頭天王)は鎌倉より勧請、源範頼の祈願所、源頼朝の建立と伝える。延宝三年(一六七五)疫
16. 朝夷巡島記(あさひなしまめぐりのき)
日本大百科全書
は安房あわ朝夷で乳母うば栞手しおりでに養育され、文武の道を励み、朝夷三郎義秀と名のる。義秀は源範頼のりよりの遺児吉見冠者義邦よしみかんじゃよしくにと親友となり、
17. あしかがよしかね【足利義兼】
国史大辞典
られた関係から八条院蔵人と称した。治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵にあたりこれに帰属、ついで源範頼に従って平氏を討伐。文治五年(一一八九)頼朝の奥州征伐に従い、
18. あしやむら【芦屋村】福岡県:遠賀郡/芦屋町
日本歴史地名大系
由来するという(「続風土記」「地理全誌」など)。大城古城は麻生氏の砦跡とも(続風土記附録)、源範頼の陣所跡ともいう(筑前芦屋案内記)。
19. あつみぐん【渥美郡】愛知県
日本歴史地名大系
わずか一五〇年ほどで絶滅した。〔中世〕鎌倉期には東国幕府の勢力下にあった。元暦元年(一一八四)源範頼が三河国守に任ぜられていることが「吾妻鏡」にみられる。南北朝
20. あとべっぷ【阿刀別符】島根県:江津市
日本歴史地名大系
山間盆地に成立した所領で、現江津市跡市町を中心とする地域。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)に藤原兼栄・兼高父子の所領としてみえる。建
21. あぼごう・あぼしやかた【安保郷・安保氏館】埼玉県:児玉郡/神川町/元安保村地図
日本歴史地名大系
と、新里丹三大夫恒房の子実光が安保刑部丞を称している。寿永三年(一一八四)二月摂津国に至った源範頼・義経の軍勢のなかに安保次郎実光が入っているように(「吾妻鏡」
22. 天野氏
世界大百科事典
称したのに始まるという。景光の子天野遠景は1180年(治承4)の挙兵以来源頼朝に従ってその側近となり,さらに源範頼軍に属して平家追討のため西国に下向,85年(文
23. 天野遠景
世界大百科事典
藤原景光の子。伊豆国天野に住み天野藤内と称す。1180年(治承4)源頼朝の挙兵に参加,さらに源範頼に属し平家追討に功をたてた。85年(文治1)鎮西奉行として九州
24. あまのとおかげ【天野遠景】
国史大辞典
元暦元年(一一八四)六月頼朝の命によって、当時威勢を振るっていた一条忠頼を酒席で暗殺した。同年八月源範頼に従って平家追討に参加し、文治元年(一一八五)周防国から
25. あまの-とおかげ【天野遠景】
日本人名大辞典
平安後期-鎌倉時代の武将。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝が挙兵したときからの側近のひとり。源範頼(のりより)に属して平家追討に功をたて,文治元年鎮西(ち
26. あまべぐん【海部郡】大分県:豊後国
日本歴史地名大系
八十二艘の兵船を献ず。(中略)これにより参州解纜し豊後国に渡る」(原漢文、「吾妻鏡」同年正月二六日条)と、源範頼(参州)を助け平氏滅亡へのきっかけを切り開いてい
27. あんざい-かげます【安西景益】
日本人名大辞典
治承(じしょう)4年(1180)源頼朝がのがれてくると房総の武士をあつめた。元暦(げんりゃく)元年源範頼(のりより)の平家追討軍に参加。建久6年頼朝の京都行きに
28. あんじょうし【安城市】愛知県
日本歴史地名大系
まもなく平氏の勢力下に入るが、源氏の再興によってまた源氏の勢力下に移り、元暦元年(一一八四)には、源範頼が三河守となる。鎌倉幕府成立後は、鎌倉政権下にあり、鎌倉
29. あんらくじ【安楽寺】埼玉県:比企郡/吉見町/御所村地図
日本歴史地名大系
寺伝によれば開基は坂上田村麻呂。この開基伝承は別として、当寺僧観秀が著した吉見岩殿山略縁起(寺蔵)によれば、源範頼は平治の乱の後、当地に潜在したという。「尊卑分
30. いいだごう【飯田郷】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/上飯田村
日本歴史地名大系
二斗余、定役二九貫七四一文。同注文写では最大の年貢高であり、また地内の龍泉寺は蒲冠者を称した源範頼の屋敷跡と伝承されていることから、蒲御厨の中心的郷であったとい
31. いいだごう【飯田郷】島根県:益田市
日本歴史地名大系
現益田市の飯田町・内田町・虫追町地域に所在した長野庄を構成する内部の所領単位。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案、同二年六月日の源義経下文案、建仁三
32. 生田の森画像
日本大百科全書
また平氏の根拠地であった一ノ谷いちのたに城の東の木戸口にあたっていた。1184年(元暦1)の一ノ谷の戦いでは源範頼のりよりが攻撃した古戦場であり、また1336年
33. 池田(静岡県)
日本大百科全書
文にしばしば登場する。また、松尾まつのお神社領遠江とおとうみ国池田荘しょうの中心地でもある。源範頼のりよりの母は池田宿長者の娘。平宗盛むねもりと長者の娘熊野ゆや
34. いしとしゅくむら【石戸宿村】埼玉県:北本市地図
日本歴史地名大系
。境内に貞永二年(一二三三)の板碑(県指定文化財)をはじめ二二基ほどの板碑がある。また蒲冠者源範頼が植えたという蒲桜もあり、「遊歴雑記」「甲子夜話」などにも記さ
35. いしとじょうあと【石戸城跡】埼玉県:北本市/石戸宿村地図
日本歴史地名大系
で攻防が繰返された。なお、石戸城の東五〇〇メートルの字堀之内の舌状台地には土塁・堀跡が残り、源範頼あるいは石戸左衛門尉の館という伝承がある(風土記稿)。
36. いしやくしじ【石薬師寺】三重県:鈴鹿市/旧鈴鹿郡地区/石薬師村
日本歴史地名大系
東海道中の旅人や広重の絵などによって広く世に知られることになった。山門の東一〇〇メートルに、蒲冠者源範頼を祀るという御曹子社がある。実はその子継白の墓で(平野町
37. 伊豆[市]
世界大百科事典
三湯と呼ばれた。弘法大師の発見と伝えられる独鈷(とつこ)の湯,曹洞宗の古刹(こさつ)修禅寺,源範頼・頼家の史跡などがある。富士箱根伊豆国立公園に属し,西部の達磨
38. いずさんじんじゃ【伊豆山神社】静岡県:熱海市/伊豆山村
日本歴史地名大系
白河法皇の病気平癒の百部大般若経転読を命じた(吾妻鏡)。同四年一月二〇日、頼朝は鎌倉を立ち、源範頼・足利義兼以下三〇〇騎を従え、二所(伊豆山・箱根山)に三嶋社(
39. いずぶちむら【出淵村】愛媛県:伊予郡/中山町
日本歴史地名大系
江戸時代その子孫仙波氏が庄屋役を務め、文久年間(一八六一―六四)に大森氏に代わった。なお村内の蒲山城跡は源範頼にちなむ伝説があり、東大内蔵太夫の居城で長宗我部氏
40. いちぎ【市木】島根県:邑智郡/瑞穂町
日本歴史地名大系
中世から近世にかけて石見国と安芸国を結ぶ陸上交通の要衝であった。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文(益田家文書)によると、石見国在庁官人藤原(御神本)
41. いちのたにのたたかい【一谷の戦】
国史大辞典
元暦元年(一一八四)摂津国一谷(神戸市須磨区一谷)で起った源平の合戦。源頼朝の軍隊は、源範頼・義経の指揮のもとに元暦元年正月に木曾義仲を討って入京した。平氏は
42. いとぐん【怡土郡】福岡県:筑前国
日本歴史地名大系
平氏の有力家人で怡土庄や原田庄の開発にかかわったと考えられる大蔵氏流原田種直は文治元年(一一八五)源範頼に敗れ、両庄には鎌倉幕府によって地頭が設置された。建久二
43. いなせがわ【稲瀬川】神奈川県:鎌倉市/長谷村
日本歴史地名大系
処刑するため片瀬川に向かう途中、遠藤武者を稲瀬川川辺に遣わしたこと、元暦元年(一一八四)八月八日条には源範頼が平家追討のため鎌倉を進発した際、頼朝は稲瀬川川辺に
44. いなみつひさとみ【稲光久富】島根県:那賀郡
日本歴史地名大系
明。元暦元年(一一八四)一一月二五日の源範頼下文案(益田家文書)に久富名とあり、治承―寿永(一一七七―八四)の内乱期、当時山陽道で平家方と戦っていた源範頼によっ
45. いのまたむら【猪俣村】埼玉県:児玉郡/美里町地図
日本歴史地名大系
猪俣城跡が所在し、本郭・二の郭・三の郭と空堀跡が確認できる。寿永三年(一一八四)平家を追って源範頼・義経に従い、摂津国に至った武将のなかに猪俣平六則綱(範綱)の
46. いまい‐かねひら【今井兼平】
日本国語大辞典
平安後期の武将。木曾義仲の乳母の子で、木曾四天王の一人。通称四郎。義仲に従って入京後、源範頼・義経の軍に敗れ、義仲の死後、あとをおい自害。謡曲にその名を借りた「
47. いよし【伊予市】愛媛県
日本歴史地名大系
加平氏陣〓、上吾川の称名寺の池の傍らに源範頼の墓と伝える五輪塔がある。この伝承について「愛媛面影」は「範頼は頼朝将軍の為に罪を得て伊豆国修
48. いわたぐん【磐田郡】
国史大辞典
天竜川の池田渡は、江戸時代を通じ渡船で東西の交通が行われていたが、鎌倉時代からその存在が知られ、源範頼の母はここの白拍子であったから、彼は蒲冠者といわれた。治承
49. うえじはちまんぐう【上地八幡宮】愛知県:岡崎市/上地村
日本歴史地名大系
[現]岡崎市上地町 宮脇 上地の西部にある。社伝では源範頼が平家追討の途中、土呂郷上地邑の豪士大見藤六の所に休息し、庭内の祭神八幡宮に武運長久並びに戦勝を祈願。
50. うえじむら【上地村】愛知県:岡崎市
日本歴史地名大系
住していたらしく、神社明細帳の上地八幡宮の項に、寿永三年(一一八四)当地の豪族大見藤六の館に源範頼が休息したと伝える。また「三河国二葉松」には、長享年間(一四八
「源範頼」の情報だけではなく、「源範頼」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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