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大姫

ジャパンナレッジで閲覧できる『大姫』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

大姫
おおひめ
 - 一一九七
源頼朝の長女、母は北条政子。治承二年(一一七八、一説には同三年)生まる。頼朝伊豆配流中の誕生。五、六歳のころ木曾義仲の長男志水義高十一歳の許嫁となり、義仲敗死の後義高が斬られたため、大姫は愁嘆のあまり病身となり一生を鬱病で過ごした。両親の望む一条高能との縁組も死をもって拒んだ。建久六年(一一九五)頼朝・政子の上洛に同行し、後鳥羽天皇の後宮に入れる話があったが成立せず、九条兼実失脚の一因となった。同八年七月十四日没。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ五 建久八年七月十四日条、渡辺保『北条政子』(『人物叢書』五九)
(渡辺 保)


世界大百科事典

大姫
おおひめ
1178か79-97(治承2か3-建久8)

源頼朝の長女。母は北条政子。1183年(寿永2)木曾義仲の長男志水冠者義高と婚約したが,のち義仲が敗死すると,鎌倉にあった義高も頼朝に殺された。大姫の嘆きは深く,以後うつ病に苦しんだが,建久初年以来頼朝夫妻はこの娘の入内工作に着手し,95年(建久6)には同道上洛。しかし源通親,丹後局に乗ぜられ失敗,九条兼実ら親幕派公卿の失脚を招いた(建久7年の政変)。97年7月14日没。
[杉橋 隆夫]

[索引語]
建久7年の政変
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検索コンテンツ
1. オオヒメ
日本大百科全書
硬骨魚綱スズキ目フエダイ科に属する海水魚。神奈川県三崎みさき以南、南西諸島、台湾、南シナ海、ハワイ諸島など太平洋、インド洋に広く分布する。体は楕円だえん形で、側
2. 大姫
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3. おお‐ひめ[おほ‥]【大姫】
日本国語大辞典
〔名〕貴人の長女。貴人の家に二人以上の娘がいる時の、長姉の姫。オーヒメ〓[オ] [0]
4. おおひめ【大姫】
国史大辞典
頼朝伊豆配流中の誕生。五、六歳のころ木曾義仲の長男志水義高十一歳の許嫁となり、義仲敗死の後義高が斬られたため、大姫は愁嘆のあまり病身となり一生を鬱病で過ごした。
5. 大姫[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『頼朝の女大姫』坪内逍遙
6. おおひめ【大姫(1)】
日本人名大辞典
1178/79−1197 平安後期-鎌倉時代,源頼朝(よりとも)の娘。治承(じしょう)2/3年生まれ。母は北条政子。源義仲の長男義高の許嫁(いいなずけ)であった
7. おおひめ【大姫(2)】
日本人名大辞典
1627−1656 江戸時代前期,前田光高の妻。寛永4年5月23日生まれ。徳川頼房(よりふさ)の娘。寛永8年将軍徳川家光の養女となる。10年加賀金沢藩主前田光高
8. おお‐ひめぎみ[おほ‥]【大姫君】
日本国語大辞典
弟姫君(おとひめぎみ)。*多武峰少将物語〔10C中〕「愛宮の御許に、桃園の大姫君のたてまつれ給ひける」*源氏物語〔1001~14頃〕匂宮「大ひめ君は東宮に参り給
9. オオヒメグモ画像
日本大百科全書
節足動物門クモ形綱真正クモ目ヒメグモ科に属するクモ。ヒメグモとはもともと小さいクモの意味であるが、そのなかでは大きいのでこの名がある。体長8ミリメートルで球状の
10. おお‐ひめぐも[おほ‥]【大姫蜘蛛】
日本国語大辞典
〔名〕ヒメグモ科のクモ。体長は雌で八ミリメートル以下。腹部は球形で、黄白色の地に褐色や黒色の斑紋がある。家の中、人家付近や崖のくぼみ、洞穴にすむ。網の糸は望遠鏡
11. おお‐ひめごぜん[おほ‥]【大姫御前】
日本国語大辞典
〔名〕(「御前」は尊敬の接尾語)「おおひめぎみ(大姫君)」に同じ。*古本説話集〔1130頃か〕二〇「『おほひめ御前の、くれなゐはたてまつりたる』とかたりければ」
12. おほ-ひめぎみ【大姫君】
全文全訳古語辞典
〔名詞〕《「おほいぎみ」「おほひめ」とも》貴族の長女の敬称。
13. あげまき‐の‐おおいぎみ[‥おほいぎみ]【総角大姫君】
日本国語大辞典
「源氏物語」宇治十帖に出てくる女性。光源氏の異母弟で宇治に住む八宮の姫君。薫の求愛をこばみ、代わりにすすめた妹中君は匂宮と結ばれてしまう。結婚への不信から失望し
14. 殿の大姫君に奉る詞(著作ID:4366189)
新日本古典籍データベース
とののおおひめぎみにたてまつることば 賀茂 真淵(かも まぶち) 
15. みなもとの-おおひめ【源大姫】
日本人名大辞典
大姫(おおひめ)(1)
16. いがみむら【井上村】福井県:遠敷郡/名田庄村
日本歴史地名大系
るが、集落としては一体をなす。中世には名田庄上庄に属したが、建保三年(一二一五)一二月一六日付大姫御前譲状案(大徳寺文書)に「わかさの名田の庄上下、少将さねたゝ
17. いそのぜんじ【磯の禅師】
国史大辞典
伴って出頭して安達新三郎宅に逗留した。四月八日に静の舞を源頼朝夫妻が賞翫したが、五月二十七日には頼朝の長女大姫の病を慰めるためにも南御堂で舞った。出産間近の静で
18. 逸文(風土記) 549ページ
日本古典文学全集
裏)  旧聞異事に当る事項を、地名起源説話の一説として挙げたもの。『延喜式』神名帳に「辛国息長大姫大目命神社」(田川郡)がある。この祭神は韓(辛)国の神、息長帯
19. いわしみずはちまんぐう【石清水八幡宮】京都府:八幡市
日本歴史地名大系
建造。さらに同年の初参詣以来、翌年一回、再入京する同六年には三月の臨時祭に参じ、四月には政子・大姫を伴ってと、頼家を伴っての二度参詣している。こうして当宮は、鎌
20. 宇治拾遺物語 119ページ
日本古典文学全集
紅の一重がさね着たるを見るより、「この人を妻にせばや」といりもみ思ひければ、その家の上童を語らひて問ひ聞けば、「大姫御前の、紅は奉りたる」と語りければ、それに語
21. 宇治拾遺物語 121ページ
日本古典文学全集
さ広さかな」と語られけるとぞ。この伊勢の大輔の子孫は、めでたきさいはひ人多く出で来給ひたるに、大姫君のかく田舎人になられたりける、哀れに心憂くこそ。十 同人仏事
22. 栄花物語 63ページ
日本古典文学全集
ひて、いと華やかなる上達部にぞおはする。女君たちあまたおはす。大姫君内に参らせたまはんとて、急がせたまふといふことあり。二月にとぞ思し心ざしける。これを聞しめし
23. 栄花物語 98ページ
日本古典文学全集
のごとし。〔一七〕頼忠、遵子の入内を志す かくて年もかはりぬ。左大臣の御さまいといとめでたし。大姫君をいかで内に参らせたてまつらんと思す。〔一八〕頼忠の任太政大
24. 栄花物語 153ページ
日本古典文学全集
いみじう聖にて、ただ今の仏かなと見え聞えておこなひけり。〔二五〕道隆の子女 大殿の大納言殿の、大姫君、小姫君、いみじくかしづきたてて、内、東宮にと思しこころざし
25. 栄花物語 168ページ
日本古典文学全集
宮々いとうつくしき小男どもにておはします。〔四五〕定子、入内し、女御となる 二月には内大臣殿の大姫君内へ参らせたまふ有様、いみじうののしらせたまへり。殿の有様、
26. 栄花物語 449ページ
日本古典文学全集
。ゆめゆめまろがなからん世の面伏、まろを人に言ひ笑はせたまふなよ」など、泣く泣く申したまへば、大姫君、小姫君、涙を流したまふもおろかなり、ただあきれておはす。北
27. 栄花物語 450ページ
日本古典文学全集
たまはん方もなく、ただよよと泣きたまふ。松君の少将などを、「とりわきいみじきものに言ひ思ひしかど、位もかばかりなるを見置きて死ぬること。われに後れていかがせむと
28. 栄花物語 451ページ
日本古典文学全集
馬車の音も繁く、殿ばらの内裏に参りたまふなども聞ゆれば、あはれにいみじ。〔八〇〕伊周家の人々 大姫君はただ今十七八ばかりにて、御髪細かにいみじううつくしげにて、
29. 栄花物語 452ページ
日本古典文学全集
色の御衣のなよよかにみな重なりたる、ついたちの御装束どもの萎えたるほどと見えたり。いみじうあはれにうつくしげなる御かたちどもに、母北の方ささやかに、おほどかなる
30. 栄花物語 459ページ
日本古典文学全集
載せるほか、母の記載のない子もある。ほかの女性との密会。大姫君のところに仕えている女房たち。大姫君も、頼宗の手厚い扱いに気がひけるくらいであった。大姫君の母北の
31. 栄花物語 479ページ
日本古典文学全集
夫として女性の所へ通うこと。後に小一条院(敦明親王)女御となり、院の上と呼ばれる女性。「(頼宗の)大姫君は小一条院に、高松殿の女御うせさせたまひにしかば、婿どり
32. 栄花物語 146ページ
日本古典文学全集
」の異文がある。→巻八〔八八〕。伊周家の子孫は皆、道長の恵みの露を受ける身となった、の意。伊周大姫君は頼宗と結婚した。→巻八〔八七〕。「露」と「少しも」の意を掛
33. 栄花物語 151ページ
日本古典文学全集
〔一一〕行成大姫君のこと この大姫君、男君達などの御母、この今の北の方の姉にものしたまひしを、女君二人、男君は民部大輔実経、尾張権守良経の君なん。中の君は今は近
34. 栄花物語 152ページ
日本古典文学全集
日にて、御覧ずるもいとあはれなり。 〔一二〕  泰清女が続いて行成の室となり、姉が実経、良経、大姫君、中の君を、妹が長家室を生んだと解しておく。→一四九ページ注
35. 栄花物語 157ページ
日本古典文学全集
時なりて殿渡らせたまへり。大姫君を見たてまつらせたまへば、御髪背中なかばかりにて、いみじくけだかくうつくしくおはします。小姫君は御髪振分にて、御顔つきらうたげに
36. 栄花物語 230ページ
日本古典文学全集
書きたまへるさま、尽きもせず思さる。さらぬだに今はと思ふはいみじきに、まいてこれはことわりにいみじや。この大姫君は、かくいともの騒がしき紛れにともかくもおはせざ
37. 栄花物語 460ページ
日本古典文学全集
兼官したのは治安元年(一〇二一)八月二十九日(以上『補任』による)。「この左衛門督の君達、男女あまたおはすなり。大姫君は、三条院の三の皇子、敦平の中務宮に(を)
38. 栄花物語 34ページ
日本古典文学全集
が、の意を補って読む。このあたりの事情は巻十四〔一一〕参照。源泰清女が続いて行成室となり、姉が大姫君、中の君、実経、良経を、後添いとなった妹が故長家室を生んだ、
39. 栄花物語 192ページ
日本古典文学全集
口惜しく思しめす。〔四〕教通、女生子の入内を控える 内の大殿には、女三所、男四人ものせさせたまふを、大姫君御匣殿と聞ゆるを、いと参らせたてまつらまほしう思して奏
40. 栄花物語 193ページ
日本古典文学全集
鷹司殿の上、言に出でて諫めきこえさせたまふ。〔五〕頼宗の大姫君、中姫君の有様 東宮大夫もいとあまた持ちたまひて、思しかけざりしかども、大姫君は小一条院に、高松殿
41. 大鏡 110ページ
日本古典文学全集
〔六七〕円融院女御遵子の仏道供養と恵心僧都 故中務卿代明親王御女の腹に、御女二人・男子一人おはしまして、大姫君は、円融院の御時の女御にて、天元五年三月十一日に后
42. 大鏡 182ページ
日本古典文学全集
高松腹の権中納言殿の北の方にておはせし、うせたまひにきかし。また、今の丹波守経頼の君の北の方にておはす。また、大姫君おはしますとか。この侍従大納言殿こそ、備後介
43. 大鏡 231ページ
日本古典文学全集
ただ今の右衛門督実成卿にぞおはする。この殿の御子、播磨守陳政の女の腹に、女二所・男一人おはします。大姫君は、今の中宮権大夫殿の北の方。いま一所は、源大納言俊賢卿
44. 大鏡 256ページ
日本古典文学全集
三所・女君四所おはしましき。大姫君は、一条院の十一にて御元服せしめたまひしに、十五にてやまゐらせたまひけむ。やがてその年六月一日、后に居させたまふ。中宮と申しき
45. 大鏡 268ページ
日本古典文学全集
なき世なりとも、かならず恨み聞こえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言したまけるかし。その君達、大姫君は、高松殿の春宮大夫殿の北の方にて、 〔一四九〕 「
46. 大鏡 288ページ
日本古典文学全集
この御弟の次郎君、今の左衛門督兼隆卿は、大蔵卿の女の腹なり。この左衛門督の君達、男女あまたおはすなり。大姫君は、三条院の三の皇子、敦平の中務宮に、この二月かとよ
47. おおたにむら【大谷村】島根県:益田市
日本歴史地名大系
益田川中流域に大谷本溢川が合流する地に位置し、東は下久々茂村、南は栃山村、北は乙子村。地名は大谷大姫命が鎮座した故事に由来するという(石見八重葎)。永和二年(一
48. おおひるめ‐の‐むち[おほひるめ‥]【大日〓貴】
日本国語大辞典
〕。(3)オホ(大)は尊称。ヒルメはヒルミ(昼霊)の転〔大言海〕。(4)オホヒルメはオホヒメ(大姫)の義で、ヒメの間へ諧音のラ行音を挿んだもの〔日本語原考=与謝
49. おと‐ひめぎみ【弟姫君】
日本国語大辞典
〔名〕妹の姫。長女に対して次女以下の姫。〓大姫君。*浜松中納言物語〔11C中〕三「をと姫君を、にはかにひきこいて宮々に壻とり」*栄花物語〔1
50. おもい‐うしろ・みる[おもひ‥]【思後見】
日本国語大辞典
おしはからるる」*夜の寝覚〔1045~68頃〕一「君だちの御かたはなれず、おもひうしろみきこゆるなかにも、大姫君は、やむごとなき御めのともそひ奉りて」
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