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  11. 長崎海軍伝習所の日々

長崎海軍伝習所の日々

ジャパンナレッジで閲覧できる『長崎海軍伝習所の日々』の東洋文庫のサンプルページ

東洋文庫
長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄
ながさきかいぐんでんしゅうじょのひびにほんたいざいきしょう
東洋文庫26
カッテンディーケ 水田信利訳
日本海軍の黎明期を物語る史料。幕末の安政のころ,伝習所教官として来日したオランダ士官の目にうつる若き日の勝海舟,榎本武揚,開明の藩主島津斉彬,鍋島閑叟ら。生き生きと登場する幕末の群像。
1964年09月刊

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長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄 全体

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長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄 拡大

【目次】
表紙
(扉)
はしがき










十一
十二
十三
十四
十五
十六
十七
十八
十九
二十
二十一
二十二
二十三
幕府よりの褒状及び感謝状
解説
重要人物の略歴
裏表紙
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1. 長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄
東洋文庫
日本海軍の黎明期を物語る史料。幕末の安政のころ,伝習所教官として来日したオランダ士官の目にうつる若き日の勝海舟,榎本武揚,開明の藩主島津斉彬,鍋島閑叟ら。生き生
2. 長崎海軍伝習所の日々[文献解題]長崎県
日本歴史地名大系
R・H・V・カッテンディーケ著 解説 安政年間伝習所の教官として来日したオランダ海軍士官の記録。原題は日本滞在日記抄。 活字本 平凡社東洋文庫
3. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 285ページ
東洋文庫
このカッテンダイクは後年、日本滞在日記を公にした。水田信利氏による全訳が東洋文庫26の『長崎海軍伝習所の日々』である。これは「半生談」と同じ頃の伝習所の回想であ
4. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 287ページ
東洋文庫
感じたからであろうと誤解して、かなり不愉快の印象をえたといっている(『長崎海軍伝習所の日々』東洋文庫本、二〇ニベ!ジ)。 赤松は江戸に帰ると、父雄之進の死という
5. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 308ページ
東洋文庫
ぞれ収録。内容は歴史というよりも基本史料集で、 この「半生談」関係の史料もまとめられている。長崎海軍伝習所の日々 一冊 東洋文庫 昭和三九年九月刊 カッテンディ
6. アラビアン・ナイト 2 5ページ
東洋文庫
全二巻18大河内文書      さねとう・けいしゅう編    〈明治日中文化人の交遊〉26長崎海軍伝習所の日々  疋.可デ魯、秘    〈日本滞在記抄〉37金谷
7. いおうじまむら【伊王島村】長崎県:西彼杵郡/伊王島町
日本歴史地名大系
運び出して露天にさらしたままであり、また炭坑の一つはガスがひどくて廃坑となっていたという(長崎海軍伝習所の日々)。明治七年(一八七四)深堀村士族の峰真興が開坑し
8. いなさむら【稲佐村】長崎県:長崎市
日本歴史地名大系
とき稲佐にイギリスの営所が設けられ、歩兵の練兵場に用いられたという(カッテンディーケ「長崎海軍伝習所の日々」)。同六年稲佐郷の茂助が魯人士官から魯英辞書を一冊も
9. かいぐんでんしゅうしょあと【海軍伝習所跡】長崎県:長崎市/長崎町/外浦町
日本歴史地名大系
幕末外国関係文書など)、カッテンディーケは蒸気工場用地の選択をはじめ蒸気船による航海の様子などを「長崎海軍伝習所の日々」としてまとめた。伝習生の一人赤松則良によ
10. カッテンダイケ(Willem Johan Cornelis Kattendijke)
世界大百科事典
にも尽力した。《日本滞在日記抄》(《長崎海軍伝習所の日々》)がある。片桐 一男 Kattendijke,W.J.C. 日本滞在日記抄 長崎海軍伝習所の日々
11. カッテンダイケ【Willem Johan Cornelis,Ridder Huijssen van Kattendijke】
国史大辞典
Japan,in 1857,1858 en 1859:'sGravenhage,1860.(『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利訳、『東洋文庫』二六))がある。→
12. カッテンダイケ
日本人名大辞典
研修の斡旋(あっせん)につとめた。1866年2月6日死去。50歳。カッテンディーケとも。著作に「長崎海軍伝習所の日々」。
13. カッテンデイク(カッテンディーケ)(Kattendijke, Willem Johan Cornelis, Ridder Huijssen van)
世界人名大辞典
周等を派遣し[62:文久2],また開陽丸を注文した際にも海相として斡旋した.〖主著〗 長崎海軍伝習所の日々:Uittreksel uit het dagboek
14. きたかばしまむら【北樺島村】長崎県:福江市
日本歴史地名大系
六〇)長崎の海軍伝習所の蒸気船が五島に航海、樺島西岸の湊に投錨した(カッテンディーケ「長崎海軍伝習所の日々」)。富江五島家八代盛明のときの富江領家数并人数書では
15. 義経記 1 5ページ
東洋文庫
リカ彦蔵自伝12  艸    全二巻18大河内文書    〈明治日中文化人の交遊〉26長崎海軍伝習所の日々  水    〈日本滞在記抄〉37金谷上人行状記   
16. 今昔物語集 2 本朝部 5ページ
東洋文庫
艸    全一一巻旭大河内文書      さねとう    〈明治日中文化人の交遊〉26長崎海軍伝習所の日々  水    〈日本滞在記抄〉37金谷上人行状記   
17. シーボルト先生 2 その生涯及び功業 5ページ
東洋文庫
艸    全二巻18大河内文書      さねとう・    〈明治日中文化人の交遊V26長崎海軍伝習所の日々  水    〈日本滞在記抄〉37金谷上人行状記  
18. 菅江真澄遊覧記 3 5ページ
東洋文庫
全二巻18大河内文書      さねとう・けいしゅう編訳    〈明治日中文化人の交遊〉26長崎海軍伝習所の日々  £.町デ魯、秤 講    〈日本滞在記抄〉3
19. 太平天国 1 李秀成の幕下にありて 5ページ
東洋文庫
 艸    全二巻佃大河内文書      さねとう    く明治日中文化人の交遊V26長崎海軍伝習所の日々  水    〈日本滞在記抄〉37金谷上人行状記   
20. たかしまたんこうあと【高島炭鉱跡】長崎県:西彼杵郡/高島町/高島
日本歴史地名大系
視察、石炭は良質ながら設備が不備で人力を無駄にしていることから改良の余地があるとしている(長崎海軍伝習所の日々)。慶応元年(一八六五)の安保積船仕切高覚帳(端島
21. 東方への私の旅 リフの山々から中国へ 5ページ
東洋文庫
艸    全二巻18大河内文書      さねとう     〈明治日中文化人の交遊〉26長崎海軍伝習所の日々  水     〈日本滞在記抄〉37金谷上人行状記 
22. 長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄 0ページ
東洋文庫
東洋文庫26 平凡社 長崎海軍伝習所の日々 カッテンディーケ 水田信利訳
23. 長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄 232ページ
東洋文庫
抱かずにはおれなかった。 ところが今回、岩生博士は自ら平凡社と交渉せられ、ここに表題を「長崎海軍伝習所の日々」と改めて江湖の清覧に供える機会を与えられたことは、
24. ながさきようてつしょあと【長崎鎔鉄所跡】長崎県:長崎市/飽ノ浦村
日本歴史地名大系
に臨む地であるとして選ばれた(H・O・ヴィッヘル「日本滞在回想録」、カッテンディーケ「長崎海軍伝習所の日々」)。派遣隊長カッテンディーケと機関部士官ハルデスら一
25. はこざきむら【箱崎村】福岡県:福岡市/東区
日本歴史地名大系
て福岡を訪問。箱崎の海浜での歩兵調練を見学した後、御茶屋で斉溥のもてなしを受けている(長崎海軍伝習所の日々)。慶応二年(一八六六)にはグラバーが招待され、斉溥は
26. ふちゅうみなと【府中湊】長崎県:下県郡/厳原町/府中城下
日本歴史地名大系
の海軍伝習所の蒸気船が五島を経て対馬に航海、府中の湊に投錨している(カッテンディーケ「長崎海軍伝習所の日々」)。石見浜田外ノ浦(現島根県浜田市)の清水屋の「諸国
27. ミリンダ王の問い 3 インドとギリシアの対決 5ページ
東洋文庫
全二巻18大河内文書      さねとう    〈明治日中文化人の交遊〉ルイス・フロイス26長崎海軍伝習所の日々    〈日本滞在記抄V37金谷上人行状記   
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大坂の陣(国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典)
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桶狭間古戦場伝説地(日本歴史地名大系)
[現]豊明市栄町 南舘名鉄本線中京競馬場前駅(名古屋市緑区)南方二〇〇メートルの、国道一号を横断した所にある。国指定史跡。この辺りは知多半島に続く丘陵地で谷間が多く、豊明市内には大狭間・小廻間の地名が多い。狭間(廻間)というのは「はさまった間」を意味するといわれ、国史跡指定地は谷あいにある。
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国府・府中・城府・駿府(日本歴史地名大系)
古代に駿河国の国衙が置かれた地。静岡平野の中央、安倍川下流の左岸に位置する。現在の静岡市中心部とされる。古代の駿河国府の比定地については、現在の駿府城跡北方の長谷通の南側あるいは北側、駿府城跡の南東地区(城内中学校・青葉小学校などを含む一帯)、駿府城跡北東の横内・上足洗方面


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沖田総司(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新撰組隊士。白河藩士の子として生まれる。天然理心流近藤周助の試衛館で剣を学び、同門の近藤勇とともに、新撰組に加わった。剣の才能は抜群であったものの、結核を患い、池田屋事件では、近藤らとともにわずか五名で、一番先に斬り込んだが、喀血して昏倒した。
長崎海軍伝習所の日々(東洋文庫)
日本海軍の黎明期を物語る史料。幕末の安政のころ,伝習所教官として来日したオランダ士官の目にうつる若き日の勝海舟,榎本武揚,開明の藩主島津斉彬,鍋島閑叟ら。生き生きと登場する幕末の群像。1964年09月刊
桂太郎(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八四七-一九一三明治時代の軍人、政治家。弘化四年(一八四七)十一月二十八日、萩藩士馬廻役百二十五石の桂与一右衛門信繁と母喜代子の長男として、長州萩平安古(山口県萩市平安古町)に生まれる。はじめ寿熊と称し、のち太郎と改名。海城と号す。藤田与次右衛門
岩倉使節団(日本大百科全書・世界大百科事典)
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