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神道

ジャパンナレッジで閲覧できる『神道』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

神道
しんとう
神道とは、日本民族の神観念にもとづいてわが国に発生し、主として日本人の間に展開した伝統的な宗教的実践と、これを支えている生活態度および理念をいう。神道は、二、三の教派を別にすれば、教祖を持たない自然発生的宗教であり、主として日本人の間で行われている民族宗教である。その神観念は基本的に多神教的であって、神々に対する祈り・祭・修行・社会活動などを伴っている。神道には歴史を貫く特質・強調点や時代ごとの教説はあるが、確立されたドグマというものはない。それは整備された神学や哲学というより、基本的な価値体系や思惟形式・行動様式の形で、日本人の生活に深く関わっている。「神道」の語の初出は『日本書紀』だが、当時はまだ固有の神事・神々・神社などを意味しており、教えを含む神々の道とされるのは、十二世紀末以後のことであった。神道には厳密な意味での教典はないが、神話や生活に関する一群の古文献を神道古典と呼び、尊重している。中でも『古事記』は高天原(たかまのはら)の神々の出現と活動を述べ、天孫降臨の由来を伝えて、日本国家の基礎と天皇の徳による統治を説いている。『日本書紀』は同じ神話の別伝を詳述しつつ、神々による国家の建設と皇統の確立を説き、大化改新以後の国家の展開が、神意の継承と敬神崇祖によることを示そうとする。かような政治哲学や宗教倫理は、中・近世の神道思想の大きな拠り所となった。八世紀前期の風土記は諸地方の神話や古伝承を採録し、同後期の『万葉集』には奈良時代以前からの各階層の信仰や習俗が窺われる。平安時代初期の『旧事本紀』は国造関係の記述や物部氏系の信仰を伝え、『古語拾遺』は斎部氏の立場から祭祀伝承の欠を補った。『養老令』には国家儀礼の大綱と、神祇官の職員・職掌などがみられる。令の施行細則である『延喜式』は、後述する神祇制度の完成された姿を示す。『続日本紀』の宣命(せんみょう)は文武天皇元年(六九七)から延暦八年(七八九)までの詔勅で、神道の倫理観や時間論に関する重要な史料を含んでいる。
 いわゆる古神道とは、儒教・仏教など外来宗教の影響がまだ顕著でない八世紀前期ごろまでの神道をいう。古神道の実態は、考古学などの業績もさることながら、八世紀の神道古典の出現により、はじめてある程度まとまった把握が可能となる。古代国語のカミとは、畏敬または畏怖される神秘で超自然的な存在であり、身近な民間信仰的な神もあったが、皇室や大氏族の祭る神々も含まれていた。村岡典嗣や宮地直一によれば、古神道の神々は(一)自然神(自然物・自然現象に宿り、それを支配する神)、(二)人間神(英雄・偉人・長上などの神格化)、(三)観念神(生成・思考・生産力など抽象的な力や観念を司る神)の三種に分けられるという。だが別の視点からみれば、最も重要な神は、当時の社会生活の単位である氏族の守り神(氏神)であった。氏神は必ずしも祖先神ではなかったが、時代の下降に伴い氏神を祖神とみなす傾向も生じている。神道にはもと常設の社殿がなく、祭のたびに聖地に常緑樹(ひもろぎ)または自然石(いわくら)を立てて神の座とした。やがて祭壇や参列者を風雨から守る臨時の仮小屋を、祭の後まで残すようになって社殿が成立した。神社建築の祖型は伊勢神宮の神明造りと出雲大社の大社造りで、前者は穀倉から、後者は古代住居からの展開といわれる。古神道の祭祀は農耕儀礼が主体で、春の祈年祭と秋の新嘗祭が特に重視された。集団の平和を祈る公的祭祀のほか、個人的、家庭的な祈願もあった。神意判断の方法には、種々の卜占・請(うけい)・神懸りなどがあり、盟神探湯(くかたち)は一種の神聖な裁判とされた。古神道には二種の世界観が共存した。一つは垂直的に高天原(天上の神の世界)・中津国(現世)・黄泉(よみ、地下の死者の国)が存在するとする満蒙・東北シベリア型であり、他の一つは水平的に現世の彼方に常世(とこよ、海上遙かな遠い国)があるという東南アジア型である。後者は日本神話に顕著ではないが、現在も盆の祖霊来訪の信仰などに面影をとどめている。古神道はやがて種々の展開を始めた。その第一は道徳意識の発達である。古くから重視された「まごころ」はさらに強調され、神話における神々の行為に行動の規範を求める動きも出た。不可抗力的な病気や災害まで罪・穢れとした古代人が、より合理的な道徳意識に傾く背景には、儒教倫理の触発もあったろう。第二は神話の統合である。統一国家の出現に伴い、諸氏族の神話が皇室を中心に再編成され、体系的な日本神話が構成された。第三は神祇制度である。皇室や有力氏族の氏神は、本来の機能を保ちつつ国民や国家全体の守り神となり、国は毎年捧げ物をして祭った。このことの制度化は大化改新ごろからとされ、神祇制度とよばれる。中央政府では神祇官の役人が、地方では国司が国家儀礼の担当者だった。天皇の践祚大嘗祭をはじめ、災害・戦争・国家的慶事における祈願や感謝の祭もあった。神祇制度は平安時代前期に完成し、十世紀初めには全国で三千近い神社が国家祭祀の対象となっていたが、平安時代後期の律令制弛緩とともに衰えた。しかし、中世の二十二社など、近畿あたりの大社に対する奉幣は後世まで続いた。政治の場で神を敬い神事を優先させる精神は、『御成敗式目』や戦国武将の家法にも流れ、江戸時代を経て明治の社格制度に引き継がれた。これとは別に、六世紀中期に公式伝来した仏教は、奈良時代には神道に劣らず国家性を帯び、一般民衆にも滲透を始めたので、神道との間に種々の接触混合が生じた。神仏習合には三段階がみられる。その第一は神道の神々は仏法を守るとの信仰で、奈良時代中期から寺院に鎮守の神が祭られた。第二は同じころ、仏僧たちは神を六道の最上位たる天Devaとみなし、神は輪廻の苦悩から解脱を望むとして、神前で読経し、神社に寺を建てるなどした。第三期は八世紀末以後で、神を菩薩の化身とし、のちには仏が神の本体、神は仏の仮の現れと信じて、仏像や僧形の神像を祭る神社も出た。本地垂迹説はこうした解釈の理論化で、鎌倉時代に完成し、天台神道と真言神道がその代表だった。全国神社の過半数は、幕末まで仏教の影響下にあった。これに対し、神道の主体性回復の動きは、仏教的神道と相互に影響しつつ、鎌倉時代の伊勢(度会(わたらい))神道から始まり、十五世紀後半には京都に吉田神道も出現した。ことに吉田神道は神職養成にも力を注いで、江戸時代には僧侶の支配を受けない神社神職の大半を掌握した。近世に入ると儒家神道がめざましく興隆して神儒一致を唱え、伊勢神道以来の真心と祈りを強調するとともに、尊王主義を鼓吹した。復古神道の大成者本居宣長は、儒仏思想と結合した在来の神道説を批判し、古神道の精神に復帰しようとした。多神教的な神観念はあるがままに認められ、神の恵みとしての産霊(むすひ)が神学的に重視された。その弟子平田篤胤は現世を仮の世とし、独自の造化神観など唱えたが、現在はあまり受容されていない。しかし、神葬祭の根拠となった幽世(かくりよ)論や家庭祭祀の奨励は、後世に貢献した。ひるがえって一般庶民の神道をみると、教説はさほど滲透せず、現実の信仰はむしろ種々の祭・年中行事・清め・参詣・禁忌などを通じ保たれてきた。古代の氏族や一門の氏神は、平安時代後期以降荘園・郷村といった地域社会の守り神となり、鎌倉時代初期ごろからは講組のような任意参加の集団が加わった。中でも伊勢講は神仏を通じ、近世最大の講組織となった。近世に入ると社会秩序の回復に伴い、伊勢の式年遷宮、践祚大嘗祭、賀茂祭など多くの国家儀礼が再興または恒例化した。民衆の間でも祭礼が盛大となり、相撲・的射や多くの神事芸能が行われて、住民の連帯感・共属感が深められた。明治維新を迎え、政府は神社の内部から仏教的要素を除去するため神仏分離を命じた。朱印領・黒印領は上知され、古い神祇制度にもとづく社格制度が設けられた。これとは別に、国家機構の精神的基盤となった復古神道を国民に啓蒙するため、大教宣布運動が行われた。この運動が結局失敗に終ると、政府は神社神道を一般宗教から区別し、国家儀礼または国民道徳として温存育成した。関連して明治十五年(一八八二)から第二次世界大戦終戦まで、官社の神職は説教活動と神葬祭の奉仕を禁じられた。第二次世界大戦後、占領軍はいわゆる「神道指令」を発して、神道と国家との長く密接なつながりを切断した。戦後の日本国憲法をはじめ諸法令は、いずれもこの指令の精神に副い、今も有効である。しかし、国や地方公共団体からの公的援助は消滅したが、祭を通じ住民の連帯感を育成する機能は、多くの土地にまだ生きているように思われる。
 現代神道はこれを横断的にみれば、たがいに絡み合う三つの型、すなわち神社神道・教派神道(戦後の神道系新宗教を含む)・民俗神道の三者に分類される。神社神道は古代から現在まで歴史的、社会的に神道の主流をなし、国家や地域社会の統合・団結に深く関わってきた。それは教祖を持たないが、神社を精神的結合の中心とし、日本神話や神道の伝統に根ざす教説と、祭その他の宗教的実践と、氏子などの信仰者組織を持っている。教派(宗派)神道は、日本在来の宗教伝統を基盤に、十九世紀ごろ日本に形成された十三派の神道教団を中心とする神道の運動で、(一)山岳信仰系(実行教・扶桑教・御岳教)、(二)純教祖系(黒住教・金光教・天理教)、(三)禊系(禊教・神習教)、(四)儒教系(神道修成派・神道大成教)、(五)復古神道系(出雲大社教・神理教・神道大教)の五系統に分けられる。これらの発生原因には、幕末から明治の激動期における人心の動揺、江戸幕府という保護者を失った仏教の無力化、復古神道の刺激、大教宣布運動の失敗による民間レベルでの自主的布教の必要性などがあろう。教派神道の特色は、復古神道または個人の宗教体験をもとに展開され、教祖あるいは組織者を持ち、庶民階層を中心にそれぞれ一個の教団を形成した点にある。第二次世界大戦後は各教団とも所属教会にかなりの分派独立がみられ、また神道系新宗教の活動も加わって、様相は複雑になった。民俗神道は民間信仰の中で特に神道と関係深いものをいう。すなわち田の神・山の神・屋敷神のような生産と生活の守り神の信仰、清め・籠り・参詣の習俗などがそれで、国家神道の盛衰とは別に、多少の変容を伴いながら今も根強く存在し、神社神道や教派神道の下部構造をなしている。
[参考文献]
柳田国男編『分類祭祀習俗語彙』、宮地直一『神道史』(『宮地直一論集』五―八)、村岡典嗣『神道史』、大場磐雄『祭祀遺蹟』、平井直房「神信仰における持続と変化」(『神道宗教』一一二)
(平井 直房)

世界大百科事典

神道
しんとう

日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。日本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労などの生活に対応してさまざまであり,地域的にも多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多くの神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。その後日本人は,儒教や仏教を受容したが,神々をまつる信仰は複雑な展開を経て現代まで存続している。

神道ということば

神道という語は,《易経》の観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時忒(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うして天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵では測り知ることのできない,天地の働きをさす語であった。そしてその後,神道の語は,道家や仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢字・漢語の受容によって表記が可能になった日本では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を〓(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰をさすことばとして用いられている。しかし,明確な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒教と同列に考えることは種々の無理があったことはいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,徳教,大道,古道などの語もカミと読ませているところからもうかがえるように,カミということばの表記も一定しておらず,神道という語もそれらの一つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰をXinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。しかし,明治時代に神道が国教化されると,国家の祭祀として宗教を超えたものと主張された神道は,大教,本教,古道,惟神道(かんながらのみち)などと呼ばれ,仏教やキリスト教と同列とされた教派神道諸派が神道の語で呼ばれたこともあって,日本固有の民族宗教をあらわすことばは多様なままに推移し,研究者の間でも神祇,神祇信仰ということばが用いられることが多かった。他方,西欧諸国の日本研究・紹介者の間では,Shinto,Shintoismの語が一般化したため,昭和に入り日本人の間でも,神道ということばが一般に用いられるようになり,日本固有の信仰の多様な性格を,古神道,神社神道,教派神道,民俗神道をはじめさまざまに分けて考えることも一般化した。

神と祭り

古代の日本人は,人間の力を超えたものに対し,おそれ,かしこむ心を抱き,そうした心情をおこさせるものをカミと呼んだ。山,川,海などに畏怖を感じ,根源的で神聖・清浄なものを見た人々は,生い茂った樹木や巨大な岩なども神聖視した。さまざまな自然現象が神とされたことはいうまでもないが,日神の崇拝はあっても,天体の運行をつかさどるものへの関心は薄く,雨や風,芽生えや実りなどがそれぞれ神と考えられていた。狼や鳥,蛇などさまざまな動物も神聖視された。またあらゆるものは,人間と同様に意志や感情を持つものと考えられ,そうした魂の働きも神とされた。このような原始的な自然崇拝,アニミズム的なものは,神道の底流に存続して現代に至っている。神は人間の目には見えず,あらゆるものに宿っていると考えられたが,人間の住む場所から離れた山の上や,海のかなたに神々の世界があると考えられ,人間が死ぬと,肉体を離れた霊魂もそこへ行くと信じられていた。死者の霊魂は年月を重ねるうちに,生前の個性を失って祖霊と融合し,神々の中に加わる。したがって,神々の世界と人間の世とは,隔絶・絶縁されてはおらず,神々は定期的に,あるいは臨時に人間の住む場所を訪れ,ある期間ともに住むものと信じられていた。

 神に対する観念を具体的にあらわしているのが祭りである。神々をおそれかしこむ人々は,生活の節目ごとに神々を迎えて供応し,神威に対する畏敬の念をあらわし,神々の加護に感謝した。祭りは,神々を迎えるための清浄な場所を整え,神々をまつる人々が身心を浄めることからはじまる。準備が整うと,聖なる時間である深夜に,あらかじめ用意された依代(よりしろ)・尸童(よりまし)に神を降して,神前に御饌(みけ)・神酒(みき)が供され,歌や舞が神をもてなすために行われる。人々は神に対する願いを祝詞(のりと)や歌などで伝え,神は託宣やさまざまな卜占によって神意を示す。その後,神々と人々とがともに酒を飲み,御饌を食べる直会(なおらい)によって,神と人とのつながりをたしかめて,神々が祭りの場を去ると,禁忌が解かれて祭りは終わる。祭りの多くは農耕儀礼と結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭りが最も主要なものであった。《神祇令》《延喜式》の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神祇官が行う祭りの詳細が記されている。人々は祭りによって生活にくぎりをつけたが,6月と12月の晦に,半年間の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で新しい生活を開始した。仏教が伝えられて,7月の行事は仏教的な形をとって盆の行事になった。日本人の間には,1年を1月と7月の行事でくぎる習慣と,4月と10月の祭りで分ける習慣があり,二つが複雑に重なり合っている。

 共同体の祭り以外に,人々は生活の中で竈(かまど)の神や井戸の神をはじめさまざまな神をまつったが,一般に水稲耕作は定住性と結束の強い共同体を生み出し,そこでまつられる神々は,共同体の祖先神であり,土地の守り神と考えられることが多かった。集団の信仰である神道は,個人の信仰としての性格が希薄であったから,個人の救済が求められるようになると,仏教との習合が進むことになった。

神社と神官

祭りのたびに神々を迎える信仰のもとでは,神々が来臨する磐座(いわくら)・磐境(いわさか),祭りが行われる森や山などが神社であり,神殿は作られない場合が多かった。しかし,建築の発達につれて,神体,御霊代(みたましろ),神宝などを安置する秀倉(ほくら)や,神をまつる人々がこもって潔斎をするための建物が建てられるようになると,前者は本殿へ,後者は幣殿・拝殿へと発展し,それを囲む垣,神域を表示しその入口を示す鳥居,神饌を調理する御饌殿(みけでん),参拝者が身を浄める御手洗(みたらし)をはじめ種々の施設が加わって,神社の形が整った。神殿の建築は,穀物倉を原型とする伊勢神宮と,住宅に由来する出雲大社の神殿が代表的なもので,後に寺院や宮殿の形式をとり入れながら,数々の日本独特の様式が生み出された。

 祭りをつかさどる者は,政治的な支配者でもあったから,政治的な統一が進むにつれて,祭祀権の統合も行われ,各地に大規模な神社が建てられるようになると,そこには神官の集団が生まれた。出雲国造家,熱田大宮司家などは,古い国造(くにのみやつこ)の系統が神社と結びついて後世まで残った例である。神職の名は神社によってさまざまであるが,祭主(さいしゆ),宮司(ぐうじ),神主(かんぬし),禰宜(ねぎ),祝(はふり),預(あずかり),神人(じにん)などはその例であり,八幡宮や祇園社などには,社僧(しやそう),供僧,神僧,宮僧などと呼ばれる僧形の神職があった。他方,小さな神社では,氏子の座や講などの組織から,一年神主,当屋神主などが選ばれて,祭りを行うのが一般であった。

 《延喜式》の神名の巻には,平安時代中期の国家が神威を認めていた2861の神社の名が記され,後世それらの神社を由緒正しい神社として〈式内社(しきないしや)〉と呼んだ。また式内社以外で六国史にその名を記されている391の神社を,〈国史現在社〉と呼んで,式内社につぐものとした。式内社に対しては,神祇官から奉幣することが定められていたが,平安時代のはじめに,遠隔地の神社には国司が代わって奉幣を行うようになったので,国司奉幣の神社は,神祇官奉幣の神社を官幣社と呼ぶのに対して,国幣社というようになった。

 国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に参詣し,その後政務を執るように定められているが,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみや),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神社の序列をあらわすことになった。さらに平安時代の末になると,国内の数々の神社を一社に統合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆうにしや)の名が固定した。神社の祭祀を政治の中で重視することは,鎌倉幕府以後の武家政権にも受け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷した。

神典

神道の教典としては,まず《日本書紀》,中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典としていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわしているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教典として読誦されるようなことはなかった。《古語拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけで,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけではない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜられ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教典といえよう。

 中世に入って神道説の形成が進むと,空海などに仮託した教典が続々と生み出されたが,その中で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それらの中には絵解きや説経などの芸能と結びついたり,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く知られるようになったものも少なくない。さらに,和歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが数多く見いだされる。

神像と神体

山・川,雨・風,芽生え・実りなど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえることはできないものとされ,その姿を神像としてあらわすことは考えられなかった。神々が来臨する祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。やがて神社が建てられるようになると,仏教の寺院に対して考えても,神殿に安置するものが必要になり,平安時代に入って神体・正体ということばが用いられるようになった。神体は,神々の性格に応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなものが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすことがはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神像は,密教美術の影響を受けたものが多かったが,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてまつることも一般化し,七福神などの雑多な神像が広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに描かれるようになった。それらの中には,神仏習合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域や神殿の景観を図示してその意味づけを試みたものなどは,神道の神観念や世界観をあらわしたものとして注目すべきものがある。

信仰と参詣

神道の世界観は,高天原(たかまがはら),葦原中国(あしはらのなかつくに),黄泉国(よみのくに)(根の国(ねのくに))の三つの世界を考えるが,この天上,地上,地下の垂直的な世界観のほかに,海上のかなたに妣(はは)の国,常世国(とこよのくに)があるとする水平的な世界観が併存している。またそれらの世界とは別に,山中に他界を想定する信仰も広く存在していた。人間が死ぬと霊魂は肉体から離れて,他界に行くと考えられた。他界に住む霊魂は,祭祀に応じて人々のもとに帰ってくるが,年を経るにつれて個性を失って神々に近づいていく。したがって,いくつもある他界の性格と相互の関係は明確でないところが多い。ただ黄泉国は暗黒の世界と考えられており,罪や穢れに満ちた世界でもあったから,地上の罪や穢れを,すべて黄泉国に祓い去る儀礼が行われた。神道では,神々の加護によって幸を得,神々の力による禍を回避するためには,人間が正直で清浄な心で神々に接しなければならないとされる。正直で清浄な心とは,さまざまな作為を捨てた,生まれたままのような純粋で自然な心のことであり,それは禊(みそぎ)や祓によって達せられると説かれる。また,精神が統一され,一心不乱になった状態が,純粋で清浄な心に近いと考えて,その修行の方法がさまざまにくふうされた。

 元来,祭りは共同体の行事として行われるものであったが,平安京の神社では,祭りが華麗な催物としての性格を持つようになり,祭りに参加せずに見物する人々があらわれた。そして,祭りの担い手ではなく傍観者になった人々は,祈願に際して他所の神社にも参詣するようになる。中世になって参詣はさかんになり,徐々に庶民の間にもひろまった。参詣する人は,身心を洗い清めて米銭などを奉った後,神々の加護を願い,誓いを立てる。中世以降各地に多くの参詣者を集める神社があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社では,参詣者を集める御師などの専門的な神官があらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織した。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰って隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざまな習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうちに,日本人の旅行のしかたの型となった。

神道の教説

素朴な神々への信仰は,仏教の影響のもとで,徐々に教説を生み出すことになった。寺院を建立するためには,境内地の神々をまつらねばならず,堂塔の用材を伐り出すためには山や森の神々をまつることが必要であるというように,仏教の受容は土着の神々との接触の中ではじまったが,仏教の僧侶は,土着の神々を人間と同列に置き,仏の慈悲によって神々も成仏できるものと説いた。神前で読経を行い,仏事を営んだのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの仏・菩薩であり,日本の衆生を救うために姿を変えて神としてあらわれたという本地垂迹(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な釈迦との関係を説明するものであったが,それを応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々を,仏教に結びつけることが行われていた。日本では,平安時代に入って神仏習合がさかんになり,元来明確な神格を持たなかった神々も,仏・菩薩に対比して神としての性格を論じられるようになり,素朴な儀礼も荘厳なものに発展した。中でも密教の教説による習合がさかんになり,両部神道(りようぶしんとう)と呼ばれる神道説の流れが形成され,真言系の両部神道に対抗して,天台系の山王神道が唱えられたりした。律令制度のもとで手厚い保護を受けていた古来の神社は,中世に入るころから神領を侵され,仏教が庶民の間に浸透しはじめると,強い危機感を持つようになった。神官の中には,神威と神の加護を宣伝し,神社への寄進を勧めようとする者があらわれたが,その際,神社の固有の主張を説こうとすれば,仏教に対抗する教説が必要になる。伊勢外宮の神官を世襲してきた度会(わたらい)氏の人々は,易や陰陽五行説,老荘思想などを援用して,仏教に対抗する伊勢神道の教説を立てようとした。伊勢神道は,神仏習合から一歩踏み出した点で,後の時代の神道説に大きな影響を与えた。中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんどが吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわしんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。また真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道としてしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立場(復古神道)に近いものであった。
→本地垂迹

近代の神道

明治政府は,強力な統一国家を建設していくために,宗教的な支えが必要であると考えたが,旧時代の象徴のように思われた仏教に依拠するわけにはいかず,神道が注目されることになった。排仏運動が進められ,神仏分離が推し進められる中で,国家の祭祀と結びついた神道が浮かび上がってきた。他方,西欧諸国との交渉が深まる中で,キリスト教の解禁と,信教の自由への配慮が必要となり,大日本帝国憲法の第28条で,限定付きではあるが,信教の自由が認められることになった。そこで,国家の祭祀,皇室の儀礼と結びついた神道は宗教を超えるものとされ,官幣社,国幣社,別格官幣社に列せられる神社は国家の機関となり,神官は官吏となった。国家直属の神社を頂点として,府県社,町村社,郷社などの社格が定められ,祭神も《日本書紀》以下の正統的な神典に記載されている神々に改められた。他方,国家と結びついた神道(国家神道)と別に,信教の自由の次元での諸宗教は,神道,仏教,キリスト教に大別され,宗教としての神道は教派として活動を許可された。したがって神道ということばは,教派神道をさすものとして用いられ,国家と結びついた神道は,大教,本教,惟神道などのことばで示された。

 1945年,敗戦の年に,GHQは国家と結びついた神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令を発した。この文書は〈神道指令〉(国教分離指令)と呼ばれ,戦後の宗教行政の中で大きな役割を果たした。神社は宗教法人となり,現在その多くは連合して神社本庁という組織を作っている。他方,神道系とされる天理教,金光教,大本教などの新宗教も,伝統的な神々の信仰を受けついで活発な宗教活動を展開している。神社は,明治以来数十年の特殊な時代が終わった後,伝統的な信仰の中心として人々の参詣を集め,結婚,受験,交通安全などの祈願を行う場となっているが,教派神道の系譜を引く神道系諸教団に比して,教説や教団の組織を持たないものが多く,祭りを支えていた地域社会の秩序が,近代化の中で解体していく中で,新たな対応を迫られている。他方,神道的な儀礼が,宗教行為に属するか,民俗的な習俗であるかをめぐっては,国民の間からつぎつぎに問題が提起され,裁判で係争中のものも少なくないが,神道をいかなるものと考えるかについて,広く国民の支持を得るには,なお多くの曲折が予想される。
→神 →神道美術 →神仏習合 →民間信仰
[大隅 和雄]

[索引語]
吉田神道 大教 本教 古道 惟神道 神祇 神祇信仰 Shintoism 祭り 祖霊 直会 盆(行事) 神社 神官 神体 神職 延喜式 式内社 国史現在社 国幣社 一宮(社格) 総社 二十二社 神典 日本書紀 古事記 古語拾遺 風土記 先代旧事本紀 延暦儀式帳 祝詞 神道五部書 神像 神体 正体(神道) 神仏習合 高天原 葦原中国 黄泉国 他界 参詣 旅 本地垂迹 両部神道 山王神道 伊勢神道 吉川神道 垂加神道 雲伝神道 復古神道 神仏分離 国家神道 教派神道 神道指令
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検索コンテンツ
1. しん-たう【神道】
全文全訳古語辞典
重んずる、祖先崇拝を中心とした日本民族国有の信仰・教義。かんながらのみち。 「神道に仕へて三宝を信ぜず」〈今昔・7・3〉神道に仕えて、仏教の三宝を信じなかった。
2. 神道
日本大百科全書
便宜区分して、神社神道、教派神道、国家神道、宮廷神道、学派神道などと区分してよばれる。このうち、神社神道と教派神道とは、祭祀さいし中心と教法中心とによる分類であ
3. 神道
世界大百科事典
延暦儀式帳 祝詞 神道五部書 神像 神体 正体(神道) 神仏習合 高天原 葦原中国 黄泉国 他界 参詣 旅 本地垂迹 両部神道 山王神道 伊勢神道 吉川神道 垂
4. しん‐とう[‥タウ]【神道】
日本国語大辞典
と、殷湯の正朔を改めたまふこと、聖人の智慧にて神道なり」*易経‐観卦「聖人以〓神道
5. しんとう【神道】
国史大辞典
うに思われる。  現代神道はこれを横断的にみれば、たがいに絡み合う三つの型、すなわち神社神道・教派神道(戦後の神道系新宗教を含む)・民俗神道の三者に分類される。
6. 神道(しんとう)【篇】
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1317ページ
7. 神道[宗教]画像
情報・知識 imidas
行う「宗教としての神道」とされて教派神道が生まれ、国家神道体制が形成されていった。戦後、GHQ(連合国軍)によって国家と結びついた国家神道の廃止と信教の自由を命
8. しん‐とう【神道】
仏教語大辞典
七 「仏法之威力、神道之冥感、誠以掲焉」 3 神。天の神。地の神。神祇。 叡山大師伝 「四恩之外、厚救神道」 4 墓穴へはいる道。墓所へ行く道。墓道。墓門。 塵
9. しんとうみんぞくしんこうなど【神道・民俗信仰など】 : 中世
国史大辞典
そうした動きの中で、両部神道・山王神道など仏教に依拠した神道教説が生まれ、さらに仏教に対抗しようとした伊勢神道が形成された。室町時代には、仏教と儒教や道教に対し
10. じん‐どう【神道】
仏教語大辞典
1 鬼神を信ずる宗教。 今昔 七・三 「神道に仕へて三宝を不信ず」 2 鬼神の世界。 塩尻 一〇 「神道〈大力鬼、飛行夜叉、地行羅刹〉」 3 神々の世界。善悪
11. 【神道】しんどう(だう)
新選漢和辞典Web版
【一】しんどう(だう) ①墓場への道。 ②人間の考えられない、不思議な道理。 【二】しんとう(たう) ①神の意志のままに従い、人為を加えない、日本固有の伝統的
12. 神道(著作ID:1296191)
新日本古典籍データベース
しんとう 神道 
13. しんとう【神道】[標準語索引]
日本方言大辞典
しんそーさいしんとう:神道を信ずる家のみ霊屋れーしゃ
14. しんとう【神道】[標準語索引]
日本方言大辞典
しんそーさいしんとう:神道を信ずる家のみ霊屋れーしゃ
15. しんとー【神道】[方言]
日本方言大辞典
神職にある者。神主。 岩手県上閉伊郡097岩手県釜石町方言誌(八重樫真)1932 宮城県玉造郡116玉造郡誌(玉造郡教員会)1929 埼玉県秩父郡251秩父の伝
16. 日吉神道 (見出し語:神道【篇】)
古事類苑
神祇部 洋巻 第4巻 674ページ
17. 神道山(かみじやま)
古事類苑
神祇部 洋巻 第3巻 304ページ
18. かんどうじしんでん【神道寺新田】新潟県:新潟市/旧中蒲原郡地区
日本歴史地名大系
[現]新潟市神道寺・神道寺一―三丁目・鐙西一丁目・紫竹山一丁目・女池東一丁目 米山新田の南、鳥屋野潟の北べりに位置する。元禄一二年(一六九九)の蒲原組新村付帳(
19. 神道【2019】[宗教【2019】]
現代用語の基礎知識
「神社は宗教ではない」とされた政策、敗戦後の神道指令と社会変化とを経て、現在の形になっている。皇室祭祀(皇室神道)、神社神道、近代の教派神道神道系新宗教といっ
20. 神道【2020】[宗教【2020】]
現代用語の基礎知識
「神社は宗教ではない」とされた政策、敗戦後の神道指令と社会変化とを経て、現在の形になっている。皇室祭祀(皇室神道)、神社神道、近代の教派神道神道系新宗教といっ
21. 神道【2021】[宗教【2021】]
現代用語の基礎知識
明治以降の神仏分離と「神社は宗教ではない」とされた政策、敗戦後の神道指令と社会変化とを経て、現在の形になっている。皇室祭祀、神社神道、近代の教派神道神道系新宗
22. 神道【2022】[宗教【2022】]
現代用語の基礎知識
と考えられている。皇室祭祀、神社神道、近代の教派神道神道系新宗教といった形態をとり、民俗宗教・民間信仰の中のカミ信仰や習俗・祭礼レベルにも浸透している。 神社
23. しんとう‐いっしんりゅう[シンタウイッシンリウ]【神道一心流】
日本国語大辞典
櫛淵彌兵衛宣根が天真神道流や微塵流、また直心影流などを学んで創始したもの。近世、寛政(一七八九~一八〇一)頃、江戸小石川に道場を開いた。*武術流祖録〔1843〕
24. しんとう‐か[シンタウ‥]【神道家】
日本国語大辞典
〔名〕「しんとうじゃ(神道者)(1)(2)」に同じ。*西洋道中膝栗毛〔1870~76〕〈仮名垣魯文〉五・下「北さんは神道家(シンタウカ)だから」*風俗画報‐九五
25. しんとう‐かじ[シンタウカヂ]【神道加持】
日本国語大辞典
〔名〕神道にのっとって行なう加持。また、その儀式。*歌舞伎・源平雷伝記〔1698〕二「唯一の神道をもって住吉の社家津守の国平をもって神道加持有りけれども、其かひ
26. 神道加持(しんとうかじ)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1368ページ
27. しんとうかた【神道方】
国史大辞典
与えられて神道方となったことに始まり、その子源十郎従長に継承されて、世襲の職となり、代々吉川源十郎と称した。寺社奉行支配、高百俵。惟足は吉川神道の創始者であるが
28. 神道方(しんとうかた)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1410ページ
29. しんとう‐かんじょう[シンタウクヮンヂャウ]【神道灌頂】
日本国語大辞典
〔名〕両部神道・山王神道など密教系の習合神道において、奥儀として行なわれる灌頂のこと。*神道伝授〔1644~47〕「両部習合の神道に又此義を備て、身を清め心を清
30. しんとうがく【神道学】
国史大辞典
[参考文献]西角井正慶編『神道の研究―方法と業績―』(『神道宗教』四一)、河野省三「神社研究の組織と推進」(同一三)、柴田実「神道史の課題」(同)、谷省吾「戦後
31. しんとう‐がた[シンタウ‥]【神道方】
日本国語大辞典
つ。寺社奉行の管轄下に、神道書を講修し、祭典の故実をつかさどった。寛文七年(一六六七)吉川惟足が任ぜられ、子孫が世襲し、幕末に至る。*明良帯録〔1814〕世職篇
32. しんとう‐きょうどうしょく[シンタウケウダウショク]【神道教導職】
日本国語大辞典
三日「自今神道教導職奉教の主義より其主神を鎮祭し其教徒の葬儀を執行する等の為祠宇建設を要する」*夜明け前〔1932~35〕〈島崎藤村〉第二部・下・一〇・二「その
33. しんとう‐きょうは[シンタウケウハ]【神道教派】
日本国語大辞典
〔名〕「しんとうじゅうさんぱ(神道十三派)」に同じ。*宗教団体法(昭和一四年)〔1939〕一条「本法に於て宗教団体とは神道教派、仏教教派及基督教派其の他の宗教の
34. 神道考古学
日本大百科全書
磐雄いわおは論文「神道考古学の提唱と其その組織」を発表し、8年後には著作集『神道考古学論攷ろんこう』を発刊して、学を提唱した。第二次世界大戦後も大場を中心に研究
35. しんとうこうこがく【神道考古学】
国史大辞典
(一)前神道期、(二)原始神道期、(三)歴史神道期の三期に大別される。(一)は旧石器時代―縄文時代にあたり、神道的な信仰形態が未定着な時期で、のちの農耕を中心と
36. 神道講釈
世界大百科事典
再帰の論であり,神道講釈書として名高い。残口は〈神主儒仏従〉の三教一致思想を講釈したが,その立場は,吉田神道を根本にして,それに伊勢神道を加えたものであったとい
37. しんとう‐こじき[シンタウ‥]【神道乞食】
日本国語大辞典
〔名〕「しんとうじゃ(神道者)(3)」に同じ。神道者。*随筆・胆大小心録〔1808〕一〇四「神道乞食が門に立ちて、天神地祇八百万の大神を申しくだす事もったいなし
38. 神道五部書
日本大百科全書
伊勢いせ神宮の外宮げくう(豊受とようけ大神宮)祠官しかんが鼓吹こすいした度会わたらい神道(伊勢神道)の根本教典で、次の5部をいう。(1)『伊勢二所皇太神宮御鎮座
39. 神道五部書
世界大百科事典
鎌倉時代の神道書。鎌倉時代に伊勢の外宮の神官たちの間で生み出された神道の教説を,一般に伊勢神道,度会(わたらい)神道と呼ぶが,数多く作られた教典の中で特に重んぜ
40. しんとう‐ごぶしょ[シンタウ‥]【神道五部書】
日本国語大辞典
以上の五部書はいずれも、二宮祭神の本縁と二宮成立の次第を述べたもの。伊勢神道はこれらの書によって成立し、中世以降の神道諸流に影響を与えた。
41. しんとうごぶしょ【神道五部書】
国史大辞典
不明なところが多い。五部の書は、伊勢神道の根本経典であり、吉田神道・垂加神道などの神道家に尊重された。伊勢の神官の間に伝えられた神祇の伝承を整理し、密教の神道
42. 神道護摩(しんとうごま)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1368ページ
43. しんとうしゃ【神道者】[頭見出し]
故事俗信ことわざ大辞典
神道者(しんとうしゃ)の不直(ふちょく)、仏者(ぶっしゃ)の不如法(ふにょほう)
44. 神道者(しんとうしゃ)
古事類苑
神祇部 洋巻 第2巻 1320ページ
45. 神道者の不直、仏者の不如法
故事俗信ことわざ大辞典
譬喩尽(1786)一「医者の不養生、儒者の不届、神道者(シンタウシャ)の不直(フチョク)、仏者(ブッシャ)の不如法(フニョホフ)」諺語大辞典(1910)「神道
46. 神道集
日本大百科全書
具体的な編者は不明。14世紀後半(文和ぶんな・延文えんぶん年間)の成立か。10巻50条。天台宗および伊勢いせ神道色の濃い本地垂迹ほんじすいじゃくの教義と、有名諸
47. 神道集
世界大百科事典
ころ)の成立か。10巻50条。巻一冒頭と巻五に〈神道由来之事〉〈天神七代事〉と伊勢神道と天台宗の色彩の強い神仏習合の教義をまとめておくなど,神道論書の体裁を整え
48. しんとうしゅう[シンタウシフ]【神道集】
日本国語大辞典
る。安居院(あぐい)末流の東国唱導僧、特に上野国(群馬県)関係の者の編かといわれる。全五〇章で神道論の章と、日本各地の諸社の縁起を語る章などから成る。話柄・文体
49. しんとうしゅう【神道集】
国史大辞典
特に注意しなければならない。影印に横山重編『神道集』(彰考館本)、『神道集』(赤木文庫本他、『貴重古典籍叢刊』一)、翻刻に『神道集―河野本―』(河野省三本)、『
50. 神道集
東洋文庫
神々の本地説話を中心に,庶民の信仰を集めた熊野・二所・北野・諏訪・三島・赤城・葦刈などの神社縁起。安居院唱導教団が採集したもので,本迹思想にもとづく神仏説話が語
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