柳田国男編『分類祭祀習俗語彙』、宮地直一『神道史』(『宮地直一論集』五―八)、村岡典嗣『神道史』、大場磐雄『祭祀遺蹟』、平井直房「神信仰における持続と変化」(『神道宗教』一一二)
国史大辞典
世界大百科事典
日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。日本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労などの生活に対応してさまざまであり,地域的にも多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多くの神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。その後日本人は,儒教や仏教を受容したが,神々をまつる信仰は複雑な展開を経て現代まで存続している。
神道という語は,《易経》の観の卦の彖(たん)伝に,〈天の神道を観るに,四時忒(たが)はず。聖人神道を以て教を設けて,而うして天下服す〉とあるのが初見とされ,人間の知恵では測り知ることのできない,天地の働きをさす語であった。そしてその後,神道の語は,道家や仏教の影響下で宗教的な意味を持つようになり,呪術・仙術と同じような意味でも用いられた。漢字・漢語の受容によって表記が可能になった日本では,《日本書紀》の編述に際して,用明天皇即位前紀に〈天皇,仏法を信(う)けたまひ,神道を尊びたまふ〉とあり,孝徳天皇即位前紀に〈(天皇)仏法を尊び,神道を軽(あなず)りたまふ。生国魂社の樹を(き)りたまふ類,是なり。人と為(な)り,柔仁(めぐみ)ましまして儒を好みたまふ〉と見えるように,神道という語が,仏教,儒教に対して土着の信仰をさすことばとして用いられている。しかし,明確な教義を持たず,農耕などの儀礼を中心とした生活習慣そのものであった神々の祭祀を,仏教や儒教と同列に考えることは種々の無理があったことはいうまでもなく,上記の例も中国を意識した文章上の配慮から神道の語を用いたものと思われる。《古事記》や《日本書紀》では,本教,神習,神教,徳教,大道,古道などの語もカミと読ませているところからもうかがえるように,カミということばの表記も一定しておらず,神道という語もそれらの一つでしかなかった。日本の土着の信仰を,神道と呼ぶことは,中世に入っても一般化してはおらず,神道の語をカミそのもの,あるいはカミの働きをさすことばとして用いている例は少なくない。他方,神仏習合が進み,僧侶が土着の信仰を指すことばを求め,神官が神々への信仰を主張しはじめると,神道という語が土着の信仰とその教説をあらわすものとして用いられるようになった。中世の末に大きな力を持つようになった吉田神道は,その例であるが,日本の民族宗教の代表的なものとして吉田神道の教説に接したキリシタンの宣教師が,日本人の信仰をXinto(中世の神道家の中には濁音を嫌う人々が多く,神道の二字をシンドウではなくシントウと読むことが主張されていた)ということばでとらえたことに端を発して,神道の語は外国に知られることになった。しかし,明治時代に神道が国教化されると,国家の祭祀として宗教を超えたものと主張された神道は,大教,本教,古道,惟神道(かんながらのみち)などと呼ばれ,仏教やキリスト教と同列とされた教派神道諸派が神道の語で呼ばれたこともあって,日本固有の民族宗教をあらわすことばは多様なままに推移し,研究者の間でも神祇,神祇信仰ということばが用いられることが多かった。他方,西欧諸国の日本研究・紹介者の間では,Shinto,Shintoismの語が一般化したため,昭和に入り日本人の間でも,神道ということばが一般に用いられるようになり,日本固有の信仰の多様な性格を,古神道,神社神道,教派神道,民俗神道をはじめさまざまに分けて考えることも一般化した。
古代の日本人は,人間の力を超えたものに対し,おそれ,かしこむ心を抱き,そうした心情をおこさせるものをカミと呼んだ。山,川,海などに畏怖を感じ,根源的で神聖・清浄なものを見た人々は,生い茂った樹木や巨大な岩なども神聖視した。さまざまな自然現象が神とされたことはいうまでもないが,日神の崇拝はあっても,天体の運行をつかさどるものへの関心は薄く,雨や風,芽生えや実りなどがそれぞれ神と考えられていた。狼や鳥,蛇などさまざまな動物も神聖視された。またあらゆるものは,人間と同様に意志や感情を持つものと考えられ,そうした魂の働きも神とされた。このような原始的な自然崇拝,アニミズム的なものは,神道の底流に存続して現代に至っている。神は人間の目には見えず,あらゆるものに宿っていると考えられたが,人間の住む場所から離れた山の上や,海のかなたに神々の世界があると考えられ,人間が死ぬと,肉体を離れた霊魂もそこへ行くと信じられていた。死者の霊魂は年月を重ねるうちに,生前の個性を失って祖霊と融合し,神々の中に加わる。したがって,神々の世界と人間の世とは,隔絶・絶縁されてはおらず,神々は定期的に,あるいは臨時に人間の住む場所を訪れ,ある期間ともに住むものと信じられていた。
神に対する観念を具体的にあらわしているのが祭りである。神々をおそれかしこむ人々は,生活の節目ごとに神々を迎えて供応し,神威に対する畏敬の念をあらわし,神々の加護に感謝した。祭りは,神々を迎えるための清浄な場所を整え,神々をまつる人々が身心を浄めることからはじまる。準備が整うと,聖なる時間である深夜に,あらかじめ用意された依代(よりしろ)・尸童(よりまし)に神を降して,神前に御饌(みけ)・神酒(みき)が供され,歌や舞が神をもてなすために行われる。人々は神に対する願いを祝詞(のりと)や歌などで伝え,神は託宣やさまざまな卜占によって神意を示す。その後,神々と人々とがともに酒を飲み,御饌を食べる直会(なおらい)によって,神と人とのつながりをたしかめて,神々が祭りの場を去ると,禁忌が解かれて祭りは終わる。祭りの多くは農耕儀礼と結びついており,年頭の豊作祈願,春の農耕開始,夏の病害虫駆除,秋の収穫感謝の四つの祭りが最も主要なものであった。《神祇令》《延喜式》の〈四時祭〉〈臨時祭〉の巻には,神祇官が行う祭りの詳細が記されている。人々は祭りによって生活にくぎりをつけたが,6月と12月の晦に,半年間の罪穢を祓い,災厄を除いて清浄を回復し,1月と7月の祖先の霊魂を迎えるさまざまな行事の中で新しい生活を開始した。仏教が伝えられて,7月の行事は仏教的な形をとって盆の行事になった。日本人の間には,1年を1月と7月の行事でくぎる習慣と,4月と10月の祭りで分ける習慣があり,二つが複雑に重なり合っている。
共同体の祭り以外に,人々は生活の中で竈(かまど)の神や井戸の神をはじめさまざまな神をまつったが,一般に水稲耕作は定住性と結束の強い共同体を生み出し,そこでまつられる神々は,共同体の祖先神であり,土地の守り神と考えられることが多かった。集団の信仰である神道は,個人の信仰としての性格が希薄であったから,個人の救済が求められるようになると,仏教との習合が進むことになった。
祭りのたびに神々を迎える信仰のもとでは,神々が来臨する磐座(いわくら)・磐境(いわさか),祭りが行われる森や山などが神社であり,神殿は作られない場合が多かった。しかし,建築の発達につれて,神体,御霊代(みたましろ),神宝などを安置する秀倉(ほくら)や,神をまつる人々がこもって潔斎をするための建物が建てられるようになると,前者は本殿へ,後者は幣殿・拝殿へと発展し,それを囲む垣,神域を表示しその入口を示す鳥居,神饌を調理する御饌殿(みけでん),参拝者が身を浄める御手洗(みたらし)をはじめ種々の施設が加わって,神社の形が整った。神殿の建築は,穀物倉を原型とする伊勢神宮と,住宅に由来する出雲大社の神殿が代表的なもので,後に寺院や宮殿の形式をとり入れながら,数々の日本独特の様式が生み出された。
祭りをつかさどる者は,政治的な支配者でもあったから,政治的な統一が進むにつれて,祭祀権の統合も行われ,各地に大規模な神社が建てられるようになると,そこには神官の集団が生まれた。出雲国造家,熱田大宮司家などは,古い国造(くにのみやつこ)の系統が神社と結びついて後世まで残った例である。神職の名は神社によってさまざまであるが,祭主(さいしゆ),宮司(ぐうじ),神主(かんぬし),禰宜(ねぎ),祝(はふり),預(あずかり),神人(じにん)などはその例であり,八幡宮や祇園社などには,社僧(しやそう),供僧,神僧,宮僧などと呼ばれる僧形の神職があった。他方,小さな神社では,氏子の座や講などの組織から,一年神主,当屋神主などが選ばれて,祭りを行うのが一般であった。
《延喜式》の神名の巻には,平安時代中期の国家が神威を認めていた2861の神社の名が記され,後世それらの神社を由緒正しい神社として〈式内社(しきないしや)〉と呼んだ。また式内社以外で六国史にその名を記されている391の神社を,〈国史現在社〉と呼んで,式内社につぐものとした。式内社に対しては,神祇官から奉幣することが定められていたが,平安時代のはじめに,遠隔地の神社には国司が代わって奉幣を行うようになったので,国司奉幣の神社は,神祇官奉幣の神社を官幣社と呼ぶのに対して,国幣社というようになった。
国司は任国に着くと,まず国内の主要な神社に参詣し,その後政務を執るように定められているが,その参拝の順序が固定して一宮(いちのみや),二宮,三宮の呼称がおこり,それが国内の神社の序列をあらわすことになった。さらに平安時代の末になると,国内の数々の神社を一社に統合して奉幣を簡略にすることもはじまり,そうした神社を総社(そうじや)と呼んだ。同じころ,朝廷でも重要な祈願に際して,畿内を中心に主要な神社を選んで奉幣することがはじまり,二十二社(にじゆうにしや)の名が固定した。神社の祭祀を政治の中で重視することは,鎌倉幕府以後の武家政権にも受け継がれ,神社をめぐる制度はさまざまに変遷した。
神道の教典としては,まず《日本書紀》,中でも巻一,巻二の神代巻があげられるが,多様なひろがりを持つ神道のすべてがそれを教典としていたわけではない。《古事記》や《日本書紀》の神話は,たしかに神道的な諸観念をよくあらわしているが,神々の祭りに際して,記紀の神話が教典として読誦されるようなことはなかった。《古語拾遺》や《風土記》も教典とされ,中世では《先代旧事本紀》も重んぜられた。しかし,それらは古典に対する知識を持つ神官の間で尊重されただけで,庶民が記紀の神話を教典として読んだわけではない。神官の間では,伊勢神宮の儀式を記した《延暦儀式帳》をはじめとする祭りの儀礼の記録や,遷宮・造営の次第を記した文献も重んぜられ,《延喜式》の最初の10巻は,四時祭上下,臨時祭,伊勢大神宮,斎宮,斎院司,践祚大嘗祭,祝詞(のりと),神名上下という構成で,朝廷の祭祀を詳細に記している。中でも〈祝詞〉は,重要な教典といえよう。
中世に入って神道説の形成が進むと,空海などに仮託した教典が続々と生み出されたが,その中で伊勢神道の教典として作られた〈神道五部書〉は,その後の神道説に大きな影響を与えた。また古代末以来,各地の神社でさかんに作られた神社の縁起は,民俗的な神道の教典であり,それらの中には絵解きや説経などの芸能と結びついたり,絵巻や草子などに形を整えられたりして,広く知られるようになったものも少なくない。さらに,和歌の中にも教典的な受取り方をされてきたものが数多く見いだされる。
山・川,雨・風,芽生え・実りなど,神道でまつられる神々は,人間の目でとらえることはできないものとされ,その姿を神像としてあらわすことは考えられなかった。神々が来臨する祭りの場では,依代・尸童が神とされ,岩や巨木,鏡・剣・玉などが礼拝の対象となっていた。やがて神社が建てられるようになると,仏教の寺院に対して考えても,神殿に安置するものが必要になり,平安時代に入って神体・正体ということばが用いられるようになった。神体は,神々の性格に応じて宝器,農具,武具,狩猟具などさまざまなものが選ばれた。他方,平安時代初期から,神仏習合の進展の中で神の姿を造形的にあらわすことがはじまった。垂迹(すいじやく)像として作られた神像は,密教美術の影響を受けたものが多かったが,平安時代後期に入ると和様化が進み,優美な公家の姿を借りたものが多くなった。鎌倉時代以降,神仏習合がさらに進むと,仏像を神像としてまつることも一般化し,七福神などの雑多な神像が広く礼拝の対象となった。絵画としては,平安時代末から神像画や垂迹曼荼羅(まんだら)がさかんに描かれるようになった。それらの中には,神仏習合の信仰を具体的にあらわしたものが多く,神域や神殿の景観を図示してその意味づけを試みたものなどは,神道の神観念や世界観をあらわしたものとして注目すべきものがある。
神道の世界観は,高天原(たかまがはら),葦原中国(あしはらのなかつくに),黄泉国(よみのくに)(根の国(ねのくに))の三つの世界を考えるが,この天上,地上,地下の垂直的な世界観のほかに,海上のかなたに妣(はは)の国,常世国(とこよのくに)があるとする水平的な世界観が併存している。またそれらの世界とは別に,山中に他界を想定する信仰も広く存在していた。人間が死ぬと霊魂は肉体から離れて,他界に行くと考えられた。他界に住む霊魂は,祭祀に応じて人々のもとに帰ってくるが,年を経るにつれて個性を失って神々に近づいていく。したがって,いくつもある他界の性格と相互の関係は明確でないところが多い。ただ黄泉国は暗黒の世界と考えられており,罪や穢れに満ちた世界でもあったから,地上の罪や穢れを,すべて黄泉国に祓い去る儀礼が行われた。神道では,神々の加護によって幸を得,神々の力による禍を回避するためには,人間が正直で清浄な心で神々に接しなければならないとされる。正直で清浄な心とは,さまざまな作為を捨てた,生まれたままのような純粋で自然な心のことであり,それは禊(みそぎ)や祓によって達せられると説かれる。また,精神が統一され,一心不乱になった状態が,純粋で清浄な心に近いと考えて,その修行の方法がさまざまにくふうされた。
元来,祭りは共同体の行事として行われるものであったが,平安京の神社では,祭りが華麗な催物としての性格を持つようになり,祭りに参加せずに見物する人々があらわれた。そして,祭りの担い手ではなく傍観者になった人々は,祈願に際して他所の神社にも参詣するようになる。中世になって参詣はさかんになり,徐々に庶民の間にもひろまった。参詣する人は,身心を洗い清めて米銭などを奉った後,神々の加護を願い,誓いを立てる。中世以降各地に多くの参詣者を集める神社があらわれたが,中でも伊勢神宮や熊野大社では,参詣者を集める御師などの専門的な神官があらわれ,遠隔地からの参詣者の団体を組織した。参詣者は祈願成就のために,旅の苦労と道中の禁忌に耐えて参拝するが,目的を果たした後に,門前町のにぎわいの中で精進落しの歓楽に浸る。さらに参詣のしるしとなるみやげを持ち帰って隣人に配るが,こうした遠隔地参詣のさまざまな習慣は,何世紀にもわたって繰り返されるうちに,日本人の旅行のしかたの型となった。
素朴な神々への信仰は,仏教の影響のもとで,徐々に教説を生み出すことになった。寺院を建立するためには,境内地の神々をまつらねばならず,堂塔の用材を伐り出すためには山や森の神々をまつることが必要であるというように,仏教の受容は土着の神々との接触の中ではじまったが,仏教の僧侶は,土着の神々を人間と同列に置き,仏の慈悲によって神々も成仏できるものと説いた。神前で読経を行い,仏事を営んだのはそのあらわれである。やがて,仏教が日本人の間に浸透しはじめると,神はもとはインドの仏・菩薩であり,日本の衆生を救うために姿を変えて神としてあらわれたという本地垂迹(ほんじすいじやく)説がさかんになった。本地垂迹説は大乗仏教の教説で,絶対的な仏と歴史的な釈迦との関係を説明するものであったが,それを応用して仏教を受容した諸民族・諸地域の神々を,仏教に結びつけることが行われていた。日本では,平安時代に入って神仏習合がさかんになり,元来明確な神格を持たなかった神々も,仏・菩薩に対比して神としての性格を論じられるようになり,素朴な儀礼も荘厳なものに発展した。中でも密教の教説による習合がさかんになり,両部神道(りようぶしんとう)と呼ばれる神道説の流れが形成され,真言系の両部神道に対抗して,天台系の山王神道が唱えられたりした。律令制度のもとで手厚い保護を受けていた古来の神社は,中世に入るころから神領を侵され,仏教が庶民の間に浸透しはじめると,強い危機感を持つようになった。神官の中には,神威と神の加護を宣伝し,神社への寄進を勧めようとする者があらわれたが,その際,神社の固有の主張を説こうとすれば,仏教に対抗する教説が必要になる。伊勢外宮の神官を世襲してきた度会(わたらい)氏の人々は,易や陰陽五行説,老荘思想などを援用して,仏教に対抗する伊勢神道の教説を立てようとした。伊勢神道は,神仏習合から一歩踏み出した点で,後の時代の神道説に大きな影響を与えた。中世の後期に入って,神道説の仏教からの離脱は進み,儒・仏・道など諸思想を習合して神を中心と説く吉田神道が成立した。近世に入って全国の神職のほとんどが吉田神道の支配下に置かれたが,吉川惟足は儒学を摂取した神道説を唱え,吉川神道(よしかわしんとう)を学んだ山崎闇斎は,儒学の立場をさらに深めた垂加神道(すいかしんとう)を主張した。また真言僧慈雲は,記紀などの神典を密教で解釈する雲伝神道を立てたが,その主張は仏教や儒教などの思想を習合した神道を,すべて俗神道としてしりぞけ古典の精神に帰ろうとする国学の立場(復古神道)に近いものであった。
→本地垂迹
明治政府は,強力な統一国家を建設していくために,宗教的な支えが必要であると考えたが,旧時代の象徴のように思われた仏教に依拠するわけにはいかず,神道が注目されることになった。排仏運動が進められ,神仏分離が推し進められる中で,国家の祭祀と結びついた神道が浮かび上がってきた。他方,西欧諸国との交渉が深まる中で,キリスト教の解禁と,信教の自由への配慮が必要となり,大日本帝国憲法の第28条で,限定付きではあるが,信教の自由が認められることになった。そこで,国家の祭祀,皇室の儀礼と結びついた神道は宗教を超えるものとされ,官幣社,国幣社,別格官幣社に列せられる神社は国家の機関となり,神官は官吏となった。国家直属の神社を頂点として,府県社,町村社,郷社などの社格が定められ,祭神も《日本書紀》以下の正統的な神典に記載されている神々に改められた。他方,国家と結びついた神道(国家神道)と別に,信教の自由の次元での諸宗教は,神道,仏教,キリスト教に大別され,宗教としての神道は教派として活動を許可された。したがって神道ということばは,教派神道をさすものとして用いられ,国家と結びついた神道は,大教,本教,惟神道などのことばで示された。
1945年,敗戦の年に,GHQは国家と結びついた神道の廃止と信教の自由の実現を命ずる指令を発した。この文書は〈神道指令〉(国教分離指令)と呼ばれ,戦後の宗教行政の中で大きな役割を果たした。神社は宗教法人となり,現在その多くは連合して神社本庁という組織を作っている。他方,神道系とされる天理教,金光教,大本教などの新宗教も,伝統的な神々の信仰を受けついで活発な宗教活動を展開している。神社は,明治以来数十年の特殊な時代が終わった後,伝統的な信仰の中心として人々の参詣を集め,結婚,受験,交通安全などの祈願を行う場となっているが,教派神道の系譜を引く神道系諸教団に比して,教説や教団の組織を持たないものが多く,祭りを支えていた地域社会の秩序が,近代化の中で解体していく中で,新たな対応を迫られている。他方,神道的な儀礼が,宗教行為に属するか,民俗的な習俗であるかをめぐっては,国民の間からつぎつぎに問題が提起され,裁判で係争中のものも少なくないが,神道をいかなるものと考えるかについて,広く国民の支持を得るには,なお多くの曲折が予想される。
→神 →神道美術 →神仏習合 →民間信仰
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