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  11. 足利学校

足利学校

ジャパンナレッジで閲覧できる『足利学校』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

足利学校
あしかががっこう
室町時代初期に、足利氏一門によって、下野国足利荘に設けられた漢学研修のための施設。室町時代後半には、易学を中心とする漢唐古学の研修地として栄え、シャビエルによって坂東における大学として西洋人に紹介され、全国から来て学ぶ者が多く、徳川家康に重用された天海僧正もその中の一人であったと伝えられるが、享禄のころ水火の災を受けたと伝えられ、宝暦四年(一七五四)には落雷で焼失したため、古記を失い、室町時代における学校の所在地さえ明らかでない。学校の創建については、『鎌倉大草紙』に古く小野篁が創設したものとあり、江戸時代にこの説が広く行われたが、確証はなく、これは学校の由来を古くしようとした作為であろうというのが定論で、大正・昭和間の学説では、篠崎維章(東海)の『東海談』に、元禄ごろの『分類年代記』という書を引いてしるした足利義兼(義康の子)創設説が有力であった。というのは、この地に住していた足利氏は代々学を好んだからでもあるが、これまた推測に近く、とにかく、学校の再興者と伝えられる関東管領上杉憲実が鎌倉から快元和尚を招いて庠(しょう)主すなわち学校長として、学校を建設したことは事実で、永享十一年(一四三九)、宋版の経典を学校に寄進した。その子憲忠も寄進し、有名な足利の宋版『五経注疏』がそろったが、近年、筆者が憲実寄進の宋刊本『新唐書』を発見、寄付したことから、上杉氏の古書寄進はかなり多く、金沢文庫から持ち出されたらしいという推定も成立する。その後、室町時代には、学校関係の僧俗の古書寄進は多く、歴代庠主の手写遺愛の書物も多く残された。第二代庠主は天矣、第五代は東井、そして第七代九華のときは、その学識の非凡とともに、小田原北条氏の後援も得て、学校の最盛期を迎え、北条氏政は、金沢文庫から宋明州刊本『文選』を取り寄せて、九華の帰郷を思いとどまらせる後援の一証としたと伝える。第九代三要は徳川家康の信任を得、安国寺恵瓊から没収した朝鮮本の分贈を受け、第十代寒松は江戸城内富士見亭の蔵書目を作り、第十一代睦子は『論語』を重んじた。室町時代後半に来り学んだ禅僧は非常に多かったが、易学が盛んであったのは当時の武士が兵占を重んじた、時流に応じたもので、江戸時代になっても禅僧が学校を管理し、庠主は翌年の将軍の運勢を年末に幕府に申上し、学校維持費の一端とした。したがって、庫裡には家康の位牌を安置し、幕府は庠主の請いに応じて、たびたび修復費を出した。江戸時代の学校の建物は図によって知られるが、寛文七年(一六六七)の大規模のものは、あるいは、計画図かもしれない。しかし、江戸時代には蔵書の寄進は、人見家および中村蘭林をはじめ、公武儒商の広い範囲に及び、学寮もあった。維新の際、足利藩主戸田忠行の管下に入り、藩校求道館の書も合併されたが、足利県廃止によって蔵書は栃木県管下に死蔵、足利町民の切望によって町民に返され、明治十四年(一八八一)足利学校保護委員が置かれ、翌年には長く仏式によって行われていた釈奠が神式で再興、三十年には遺蹟保存会成立、三十六年、学校跡に町立(のち市立)足利学校遺蹟図書館が開かれ、今日に及ぶ。学校跡(足利市昌平町)はわずかに土塁堀の名残りをとどめており、史跡に指定されている。
[参考文献]
須永弘編『足利学校年譜』、川瀬一馬『足利学校の研究』、結城陸郎『金沢文庫と足利学校』(『日本歴史新書』)、長澤規矩也編『足利学校遺蹟図書館古書分類目録』、長澤規矩也「足利学校蔵書の集散について」(『書誌学』新一・三・五・九)
(長澤 規矩也)


日本大百科全書(ニッポニカ)

足利学校
あしかががっこう

下野 (しもつけ)国足利荘 (しょう)(栃木県足利市)に設けられた学校施設。その創設については、平安初期の小野篁 (おののたかむら)の創立説、鎌倉初期に鑁阿寺 (ばんなじ)を建立した足利義兼 (よしかね)の創建説、あるいは室町初期に上杉憲実 (のりざね)によって開かれたという説など、諸説あって定説をみないが、現存する資料からは、永享 (えいきょう)(1429~1441)以前における明確な存在を知ることはむずかしい。漢学研修のための施設が、名実ともに学校としての形態を整えたのは、永享年間の初期、関東管領 (かんれい)上杉憲実が易 (えき)学の大家快元和尚 (かいげんおしょう)を鎌倉円覚寺 (えんがくじ)から招いて庠主 (しょうしゅ)(校長)とし、1439年(永享11)には、当時の貴重書であった宋 (そう)版の経典を学校に寄進したときであろう。のち、憲忠 (のりただ)も父に倣い宋刊本の寄進を行い、ここに有名な足利の宋版『五経註疏 (ごきょうちゅうしょ)』がそろった。すなわち『周易註疏 (しゅうえきちゅうしょ)』『尚書正義 (しょうしょせいぎ)』『毛詩註疏 (もうしちゅうしょ)』『礼記正義 (らいきせいぎ)』『春秋左伝註疏 (しゅんじゅうさでんちゅうしょ)』である。近年、憲実寄進の宋版『唐書 (とうじょ)』が発見、寄付されたが、これらはすべて「金沢文庫本」と推定され、いずれも国宝あるいは国の重要文化財として指定されている。

 学校では易学を中心に漢籍類、兵法書などが講ぜられ、第7代庠主九華 (きゅうか)(1500―1578)のときには、北条氏政 (うじまさ)による金沢文庫本の宋版『文選 (もんぜん)』(国宝)の寄進と援助により学校は最盛期を迎えた。その後、徳川氏の保護を得て継続されたが、1872年(明治5)校務を廃し、学校は蔵書とともに栃木県に引き継がれた。1876年足利町に返却、1903年(明治36)足利学校遺蹟 (いせき)図書館が開かれ現在に至っている。国指定史跡。

[前田元重]



世界大百科事典

足利学校
あしかががっこう

室町初期に下野国足利庄に設立された漢学研修の施設。創建については諸説がある。中興した関東管領上杉憲実が永享年間(1429-41)に鎌倉から招いた快元を初代庠主(しようしゆ)(校長)とする。以下2世天矣,3世南計(南斗とも),4世九天,5世東井子好,6世文伯,7世玉崗瑞璵(号九華),8世古月宗銀,9世閑室元佶(号三要),10世竜派禅珠(号寒松)と続く。7世九華のときが学校の最盛期で小田原後北条氏の厚い保護を受けた。9世三要は後北条氏の滅亡後豊臣秀次に従って学校の典籍類とともに京に移った。秀次の自害後徳川家康の斡旋で典籍類は学校に返され,三要は家康の開いた伏見円光寺内の学校に校長としてとどまる。足利学校は寒松が跡をついだ。ほかに小早川隆景が備後三原の名島(なじま)に隠居後,学問所を建てて後進を指導したことが知られている。2校とも永く続かなかったが,その後の諸大名の儒学研究の気運を生み,薩摩の桂庵玄樹,土佐の南村梅軒(みなみむらばいけん)の学統とともに,やがて近世の儒学隆盛の源流となるものである。足利学校は禅宗寺院にならって禅僧が管理し,来学者も僧侶に限られ,在俗者も在校中は剃髪するしきたりであった。学風は周易,占筮(せんぜい)術の講義を中心に併せて儒学一般の教授がなされた。修学者は学校を出ると各地の武将のために占筮し,兵書を講じた。当時武将の戦闘は日時方角等の吉凶を占って行動するのを常としたから,学校はその軍事顧問を養成する機関として期待されたのである。その周易の訓点が菅家の講点,他の諸経は清家点を基にする古注中心であったが新注も採り入れる折衷学であった。公家の家学と異なる開放性を持ち,禅宗寺院の古典研究が四六文作成の手段であったのとも異なり,儒典研究を目的とする独自の学風を生んだ。1897年足利学校遺跡保存会が成立。1903年学校跡に足利学校遺跡図書館が開設された。《足利学校遺跡図書館古書分類目録》がある。
[今泉 淑夫]

[索引語]
閑室元佶
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検索コンテンツ
1. 足利学校画像
日本大百科全書
廃し、学校は蔵書とともに栃木県に引き継がれた。1876年足利町に返却、1903年(明治36)足利学校遺蹟いせき図書館が開かれ現在に至っている。国指定史跡。前田元
2. 足利学校
世界大百科事典
,儒典研究を目的とする独自の学風を生んだ。1897年足利学校遺跡保存会が成立。1903年学校跡に足利学校遺跡図書館が開設された。《足利学校遺跡図書館古書分類目録
3. あしかが‐がっこう[‥ガクカウ]【足利学校】
日本国語大辞典
えて僧侶や武士に、易学、漢籍、兵法、医学などを教えた。明治五年(一八七二)廃校。附属の文庫は、同三六年、足利学校遺跡図書館となる。国史跡。アシカ
4. あしかががっこう【足利学校】
国史大辞典
[参考文献]須永弘編『足利学校年譜』、川瀬一馬『足利学校の研究』、結城陸郎『金沢文庫と足利学校』(『日本歴史新書』)、長澤規矩也編『足利学校遺蹟図書館古書分類目
5. 足利学校
日本史年表
版 『文選』 を 足利学校 に寄進。 1668年〈寛文8 戊申〉 4・30 幕府、 足利学校 を再建(実紀)。 1728年〈享保13 戊申〉 4・18 徳川吉宗
6. 足利學校(あしかががっこう)【篇】
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1091ページ
7. 足利学校[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
学校門。奥に杏壇門きょうだんもんと孔子廟こうしびょうが見える。国指定史跡 栃木県足利市©史跡足利学校事務所
8. 【足利学(學)校】あしかががっ(がく)こう(かう)
新選漢和辞典Web版
《国》鎌倉(かまくら)時代初期、足利に創設された、わが国最古の学問所。
9. 足利學校所藏易書 (見出し語:足利學校【篇】)
古事類苑
方技部 洋巻 第1巻 492ページ
10. 足利學校藏書 (見出し語:足利學校【篇】)
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11. 足利學校釋奠 (見出し語:足利學校【篇】)
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12. あしかががっこうあと【足利学校跡】栃木県:足利市/足利町/足利五ヶ村
日本歴史地名大系
[現]足利市昌平町 足利氏館跡(鑁阿寺)の東南に隣接する学問所兼図書館跡で、国指定史跡。現在、跡地内に足利学校遺跡図書館がある。「鎌倉大草紙」によると承和六年(
13. あしかががっこうせいどう【足利学校聖堂】 : 孔子〓
国史大辞典
足利学校聖堂〕 下野国足利学校(栃木県足利市)は慶長七年(一六〇二)に徳川家康によって再建され、寛文八年(一六六八)改築、元禄年間・享保十三年(一七二八)・
14. 足利学校旧蔵書考(著作ID:4397277)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうきゅうぞうしょこう 書目 考証 
15. 足利学校見聞記(著作ID:604728)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうけんぶんき 足利紀行 広瀬 旭荘(ひろせ きょくそう) 紀行 天保一四
16. 足利学校書籍奥書(著作ID:604740)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうしょじゃくおくがき 足利学校書籍奥書以下三種絵図 書誌 
17. 足利学校事蹟考(著作ID:261472)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうじせきこう 田崎 草雲(たざき そううん) 画 川上 広樹(かわかみ ひろき) 著 教育 明治
18. 足利学校蔵書附考(著作ID:604762)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうぞうしょふこう 足利学校蔵書并附考 足利学校書目附考 吉田 篁墩(よしだ こうとん) 編 書目 考証 天明四自跋、文政七大草明序
19. 足利学校蔵書目録(著作ID:604773)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうぞうしょもくろく 足利学校旧蔵書目 足利旧蔵書目 足利学校書目 足利学校書籍目録 足利学蔵書目録 足利学校由来付蔵書目録 新楽 閑叟(にいら か
20. 足利学校由来記抜書(著作ID:2457036)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうゆらいきぬきがき 
21. 足利学校流古筮伝授要説(著作ID:1923326)
新日本古典籍データベース
あしかががっこうりゅうこぜいでんじゅようせつ 占卜 
22. 足利學校【篇】 (見出し語:學校)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1091ページ
23. 足利學校校則 (見出し語:校則)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1107ページ
24. 足利學校聖廟 (見出し語:聖廟)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1095ページ
25. 足利學校藏書 (見出し語:藏書)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1093ページ
26. 時習館(じしゅうかん)[足利學校]
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1108ページ
27. 大成殿(たいせいでん)[足利學校]
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1108ページ
28. 上杉憲實再興足利學校 (見出し語:上杉憲實)
古事類苑
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29. 小野篁草創足利學校 (見出し語:小野篁)
古事類苑
文學部 洋巻 第2巻 1091ページ
30. 僧徒爲足利學校校主 (見出し語:僧)
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文學部 洋巻 第2巻 1102ページ
31. すいがんせいしゃりゅうし【翠巌精舎劉氏】(Cuìyánjīngshè Liúshì)
世界人名大辞典
中国の出版家.福建建陽(現,建甌)の人.劉氏は,宋代著名な出版家,劉叔剛(一経堂,《附釈音毛詩注疏》(史蹟足利学校蔵,重文)を出版)の子孫.劉君佐(1250?~
32. あいば-ともあつ【相場朋厚】
日本人名大辞典
用人格に登用され,維新の際藩政にたずさわる。廃藩後西洋画を研究し,また田崎草雲に文人画をまなんだ。足利学校の遺跡保存に力をつくした。明治44年6月22日死去。7
33. 足利[市]
世界大百科事典
しており,中心市街地は主として渡良瀬川の北岸,旧国道50号線に沿って商店街が形成されている。足利学校跡,足利氏の居館跡の鑁阿(ばんな)寺,西の丘上に織姫神社があ
34. あしかが【足利】
日本国語大辞典
中世から政治・文化の一中心地として発展。早くから絹織物は知られ、銘仙(めいせん)は特に有名であった。足利学校跡、鑁阿(ばんな)寺、織姫神社などがある。大正一〇年
35. あしかが【足利】
国史大辞典
幕府・鎌倉公方・関東管領上杉氏と管轄を変動した。永享年間(一四二九―四一)上杉憲実が足利学校を再興したことは有名である。足利学校の創建については、諸説あるが、足
36. 足利(市)画像
日本大百科全書
合成樹脂などの機械、化学工業の生産が増加して、繊維の単一工業都市の性格は薄くなってきた。 中世唯一の学校施設の足利学校跡、足利氏の居館跡の鑁阿寺ばんなじ(本堂は
37. あしかがぐん【足利郡】
国史大辞典
足利の名を高からしめたのは、足利学校における文運の隆盛である。足利学校の創建については、国学の遺制、小野篁の創建、足利義兼の創建などの諸説があるが、上杉憲実は足
38. あしかがごかむら【足利五ヶ村】栃木県:足利市/足利町
日本歴史地名大系
宝永二年(一七〇五)足利藩領となり、幕末に至る。慶安郷帳では田高八四六石余・畑高九九八石余、ほかに足利学校領一〇〇石・鑁阿寺領六〇石がある。寛永三年の検地帳(福
39. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
だ。永享の乱後、当地の支配には上杉憲実とその子孫山内上杉氏があたった。憲実によって再興された足利学校は、フランシスコ・ザビエルによって「坂東の大学」としてヨーロ
40. あしかがし【足利氏】画像
国史大辞典
義兼は足利の邸内に持仏堂を営み、堂僧をして講筵を開かしめたが、これがのちの鑁阿(ばんな)寺および足利学校の基となったという。その子義氏のころは子弟多く幕府に出仕
41. あしかがし【足利氏】 : 足利氏/(一)
国史大辞典
義兼は足利の邸内に持仏堂を営み、堂僧をして講筵を開かしめたが、これがのちの鑁阿(ばんな)寺および足利学校の基となったという。その子義氏のころは子弟多く幕府に出仕
42. あしかがはん【足利藩】
国史大辞典
延宝七年(一六七九)七月老中に昇進した。天和元年(一六八一)二月致仕したが、この間に四万石に加増された。足利学校の造営につとめ、渡良瀬川のいわゆる古河堤の修築を
43. あしかがはん【足利藩】 : 足利藩/(一)
国史大辞典
延宝七年(一六七九)七月老中に昇進した。天和元年(一六八一)二月致仕したが、この間に四万石に加増された。足利学校の造営につとめ、渡良瀬川のいわゆる古河堤の修築を
44. あしかがはん【足利藩】 : 足利藩/(二)
国史大辞典
本庄氏の領地でなくなったと思われる。宗資が領主であった関係上、桂昌院は鑁阿(ばんな)寺および足利学校の修理を行なっている。
45. あしかが‐ぶんこ【足利文庫】
日本国語大辞典
足利学校付属の文庫。現在、足利学校遺跡図書館となっている。アシカ〓ブンコ
46. あしかが‐ぼん【足利本】
日本国語大辞典
或は宋板、或は古鈔本、みな奇世の珍巻秘冊なり」(2)足利学校第九代庠主元佶(げんきつ)が徳川家康の命をうけて京都伏見で出版した活字本。足利学校の印行と誤って伝え
47. あしかがまち【足利町】栃木県:足利市
日本歴史地名大系
千三八六人、新田町五二五軒・一千八一八人、本町三四九軒・一千二二五人、横町七四軒・三三〇人、足利学校領九五軒・二八五人、鑁阿寺領二六〇軒・八三一人、五・九の日に
48. 足利義兼
世界大百科事典
り上総介に任官,勢威を誇った。95年(建久6)出家,法名鑁阿(ばんな)。足利市鑁阿寺の開基。足利学校の創設者ともいわれる。青山 幹哉
49. あしかがよしかね【足利義兼】
国史大辞典
利氏は養和元年滅亡したので、その所領も確保して、勢力を増大した。足利鑁阿(ばんな)寺の開基。足利学校の創始者については諸説があるが、義兼説が最有力視されている。
50. あしかが-よしかね【足利義兼】
日本人名大辞典
頼朝に信頼され,北条時政の娘(政子の妹)を妻とした。のち出家し,下野(しもつけ)(栃木県)足利に隠居。足利学校の創設者ともいわれる。建久10年3月8日死去。通称
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