ラテン文学史10 / 183
文庫クセジュ407 ピエール・グリマル著 / 藤井 昇訳 / 松原 秀一訳
語学・文学
第一章 最初の詩
ラテン文学は、詩をもってはじまった。叙事詩と演劇が同時にラテン文学を世に登場せしめたのである。これにはかずかずの理由が重なっているのであって、理由のあるものは当時のギリシア文学のありかたのうちに、すなわちホメーロスの伝統と、ヘレニズム文化における演劇の上演とが、同時に果たしていた役割のうちに求められる。けれどもまた、ローマ固有の条件につながる他の理由もあった。書かれた文学以前にローマには口承 文学が存在していた。いわゆる《酒宴の歌》であって、若者たちが偉大な先人たちを讃えて吟誦したものである。エトルーリア文明の影響が当時すでにギリシア神話の知識を普及せしめていたが、それが土俗的な語りものに混ざりあっていった。この文学以前の文学のレパートリーは、初期エトルーリアの地下墓所 の絵画に、その反映を見ることができる。そこに描かれているのは勇ましい戦争の場面 ―― マクスタルナ(エトルーリアのカェレス・ウィベンナ麾下の将軍でふつうマスタルナという。ローマのカェリウス丘の名は、ここから起こったとされる)の敢闘の図で、おそらくローマ史のエピソードのような ―― や、叙事詩の伝説 ―― たとえば、パトロクロス(『イーリアス』に見えるギリシアの武将で、アキルレゥスの身代わりに戦って討死した。パトロクレースともいう)の墓にトロイア人の捕虜をいけにえに捧げる図など ―― である。このように、ローマのもっとも古い時代が、かなり早くから《文学的》素材であったと想像してまずまちがいはあるまい。すなわち、氏族 たちgentesの先祖、諸王、中でもローマの都の設立者ロームルス ―― これらはみな、いまだ生硬さを脱しきれない右の詩の中に、その武勲とともに姿を現わさずにはいなかったに違いない。これらの詩の韻律はおそらく《サートゥルニウス詩形》 ―― ラティウム(ローマがそこから起こったとされる近隣の地名)の伝説上の最初の王であるサートゥルヌス神をその創始者とした説話からこの名がある ―― であって、私たちがいま知りうるのは、その比較的後期の、したがって《文学的》な形でしかないが、長さがひとしくない二つの部分からできていたもののようである。すなわち、前半は一般に三語(はじめの二語が二音節語、第三の語が三音節)、後半は三音節の語二つから成っている。(以上はリーウィウス・アンドロニークスの『オディッスィーア』の第一行Vi-rum,mi-hi, Ca-me-na/in-se-ce uer-su-tum〔(ハイフン訳者)大意『語れや、われに、楽女神 よ、知恵長 けし男子 を』〕の型に依ったものであるが、それと考えられる他の結合のしかたも存在している。たとえばナェウィウスの詩Fa-to Me-tel-li Ro-mae/fi-unt con-su-les〔(ハイフン同上)大意『メテルルスの氏 族、運命によってローマの執政官 となり』〕にあっては、二音節語と三音節語の配分が異なっている)。詩の朗読には琴 が伴い、拍子を取った。このような《酒宴の歌》がラテン文学に及ぼした影響を把握するのは難しい。かつては、これらが最初の形の歴史となったもので、かつ伝承というものを精緻な形にしてゆくのを授けたと推定され、近代の評家が、ローマ後代の史家(特にティトゥス・リーウィウス)の所伝中、好んで影響を指摘したことは記憶に新しい。こんにちの一致した考えとしては、この歌の重要さは小さく見つもられ、これが歴史に取って代わったのではなく、歴史の周辺で発達したと見られている。けれども、これらの詩は、ギリシアのものであった二つのジャンルのローマ版の誕生に道をひらいたことはたしかである。その二つとは、ローマの叙事詩と、《プラェテクスタ悲劇》(ローマの高官が着る紅紫色の緑のついたトガ〔外衣〕をプラェテクスタと言い、これを着た人物が登場する劇を、ファーブラ・プラェテクスタと称した)であった。
|<最初のページへ移動 | ←前 | 10 / 183 | 次→ | >>10ページ後へ移動 | >|最後のページへ移動 |
©Hakusuisha Publishing Co., Ltd.