江戸幕府初代将軍。1542年12月26日,三河国岡崎城内で生まれる。幼名は竹千代。父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。
6歳のとき,人質として駿府の義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られた。1549年(天文18)広忠の死後,今川・織田間の捕虜交換協定によってあらためて駿府に赴いた。55年(弘治1)義元の館で元服し義元の一字を与えられて元信と名のり,今川氏の一族関口刑部少輔の娘(築山殿(つきやまどの))と結婚した。58年(永禄1)ごろ元康と改名。60年大兵を率いて上洛を図った義元の先鋒として三河に入り,織田勢力の包囲に孤立していた大高城の兵糧入れに成功して初陣をかざった。
翌々日5月20日桶狭間の戦での義元の敗死を機に岡崎に入城して今川氏から自立し,61年織田信長と和睦(1563年1月尾張清須で信長と会見),63年7月名を家康と改めた。直後に譜代の家臣団をも巻きこんだ三河一向一揆が起きたが,翌年の春ごろにはこれを鎮定,結果として三河一国は家康によって統一されることになった。66年徳川と改姓。68年今川氏の領国を大井川で折半しようという武田信玄との約束にもとづき義元の子氏真を掛川城に攻め,翌年,氏真の退城によって遠江一国を所領に加えた。
70年(元亀1)上洛し,信長の越前攻めに参加。帰国して築城中の引馬(引間)に移ってこれを浜松と改称し,岡崎城は嫡子信康に譲った。同年6月姉川の戦で信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破。同年10月信玄と絶って上杉謙信と同盟した。これに対して信玄は北条氏政と結んで再三にわたり家康の所領を攻撃し,72年12月三方原の戦で家康は信玄に大敗した。73年(天正1)信玄の跡を継いだ武田勝頼もしきりに三河・遠江を侵したが,75年長篠の戦では家康・信長連合軍が勝頼の軍に大勝した。79年,武田氏に内通しているとの疑いで信長に強制されて家康は築山殿を殺し,嫡子信康を自殺させた。82年,信長が武田氏を滅ぼして甲斐・信濃を,家康は駿河を手に入れたのち,信長の招きでわずかの供連れで上洛し,和泉の堺に行ったときに本能寺の変が起きた。道中の危険をおかして急いで帰国した家康は,態勢を整え明智光秀攻撃のため西上しようとしたところに羽柴(豊臣)秀吉から山崎の戦の報が届いた。
この報を受けて家康は一度は帰城したが,甲斐・信濃の帰属をめぐって北条氏直と対立し,8月甲斐国巨摩郡若神子(わかみこ)で対陣,やがて甲・信2国の領有を認めさせる和睦に成功,駿・遠・三・甲・信の5ヵ国を領有する大大名となった。84年,信長の子信雄(のぶかつ)を助けて小牧・長久手の戦で秀吉に大勝したが,信雄が秀吉に屈服したので家康も秀吉と和睦,第2子の於義丸(おぎまる)(のちの結城秀康)が秀吉の養子となる条件で上洛した。秀吉は妹朝日姫を家康に嫁がせ,さらに母を浜松に行かせた。2人の実質上の人質を受け取った家康は上洛して秀吉に面謁し,権大納言に任じられた。以後秀吉の死まで家康は秀吉指揮下の有力大名という地位にあった。同年末,駿府城に移る。90年,秀吉の小田原征伐に従軍,後北条氏滅亡後その旧領に移封されて江戸城に入った(相模,伊豆,武蔵,下総,上野などで約250万石)。92年(文禄1)の文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋に赴いたが,97年(慶長2)の慶長の役でもみずから朝鮮に渡ることはまぬかれた。1596年内大臣。このころから98年8月の秀吉の死の直前の間に設置されたと考えられる五大老の筆頭となり,秀吉の死後はその喪を秘したまま,朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮した。翌年閏3月五大老の一人前田利家の死後,秀吉の築いた伏見城本丸に入り,〈天下殿になられ候〉(《多聞院日記》)と評されるにいたった。この地位は1600年の関ヶ原の戦の後はますます強化されたが,なお〈世間後見〉という実力上のものにすぎず,名実ともに日本の統一的支配者となるには03年の天皇による将軍宣下が必要であった。
1605年には将軍職を秀忠に譲り,将軍が徳川氏に世襲されるべきものであることを天下に示すとともに,官位の束縛を受けない大御所として公家・寺社勢力を含めた全国支配の実権を握りつづけた。12年ごろから全国の公家,寺社,大名に朱印状を発給すべく準備を始めたが,実現しないうちに14年大坂の陣の開始によって中断。翌年(元和1)夏の陣で豊臣氏を滅ぼし,続いて武家諸法度,禁中並公家諸法度を発布して徳川の天下を安泰とした。16年4月17日駿府城で没。久能山に葬り,翌年日光山に改葬,後水尾天皇から東照大権現の神号を受け,正一位を追贈された。
家康の逸話は,馬術,剣術,水泳,鉄砲など武芸の達人であったこと,学問を好み和漢の古典を収集したこと,医方に通じていたことなどをめぐって数多く残されている。それらの大部分は史実にもとづくものであるが,1640年(寛永17)ごろから〈東照神君〉〈権現様〉といわれるようになった--それまでは死の直前に任じられた太政大臣の別称によって〈相国(しようこく)様〉と呼ばれていた--家康のイメージは,彼が今川氏の人質から信長,秀吉のあとを受けて最終的に天下を安定させたことにより,良くも悪くも〈忍耐〉を中核としているといえよう。偽作(本来の作者は徳川光圀に比定されている)であることが最近明らかになった,〈人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず〉という言葉で始まる〈東照宮遺訓〉が現在でも広く知られていること自体が,このことを物語っている。反面,家康が妻の築山殿,嫡子の信康,孫娘の婿豊臣秀頼を殺したことから,彼の〈忍耐〉は〈冷酷・狡猾〉の印象を生むことになった。このイメージが早くから庶民の間にあったことは,歌舞伎《八陣守護城(はちじんしゆごのほんじよう)》(1807初演)が,秀頼に比定される人物を攻め滅ぼす人物をさして〈たぬきおやじ〉と言っていることからも知られる。1837年(天保8)には絵師歌川芳虎が,紋所から信長と明智光秀と判明する鎧武者が搗(つ)き,秀吉がのした餅を,家康が食べている絵を版行して処罰されている。こうしたイメージも〈立川文庫〉を経て現在まで持ち越されているが,さらに明治維新後は皇室を抑圧した江戸幕府の創設者というイメージが家康には加わった。しかし第2次大戦後は,とくに高度成長期に経営学がもてはやされるなかで,すぐれた組織者としての家康像に関心がもたれるようになった。
日本人名大辞典
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