文覚御覧じて、「それは五逆罪の人なれば、涙をかけぬ御事なり。それ、こなたへ」と仰せあって、またもとのごとくに取り納め、「いかに頼朝、聞し召せ。文覚が有らん程は、御心やすく思し召せ。平家調伏すべし」とて、十二か条の巻物を、書きこそしるし給ひけれ。(中略)頼朝なのめに思し召し、三度いただき、守りに掛け、「万事は頼み奉る。さらばお暇申す」とて、また御舟に召され、奈古屋の御所へぞ帰られける。是ぞ此の源氏繁盛のはじめとぞ聞えけれ。
平安末期~鎌倉初期の武将。武家政治の創始者。鎌倉幕府初代将軍。源義朝の三男で,母は熱田大宮司藤原季範(すえのり)の女。1158年(保元3)皇后宮権少進に任官,翌年には上西門院蔵人・内蔵人に補せられた。59年(平治1)の末,藤原信頼,源義朝らのクーデタが一時成功した際に従五位下右兵衛佐に叙任。しかし信頼,義朝らは平清盛に敗れ(平治の乱),東国に敗走する父義朝に従ったが,途中,美濃で捕らえられて京都に送られた。斬罪に処せられるところを,清盛の義母池禅尼の口添えによって60年(永暦1)解官のうえ伊豆に配流され,伊東祐親,北条時政らの監護下に置かれた。配流生活は20年余に及び,その間,読経三昧の生活を送ったと伝えられるが,実際には側近の家人安達盛長や佐々木定綱らに奉仕され,また天野遠景,土肥実平ら伊豆,相模の在地武士たちとも連絡をもち,さらに頼朝の乳母の妹の子である三善康信から京都の情報を手に入れるなど,政治情勢の変化に注意していたらしい。またこの間に北条時政の女政子と結婚している。
80年(治承4)5月,以仁(もちひと)王,源頼政の挙兵があり,以仁王の令旨をうけた頼朝は8月に伊豆国の目代山木兼隆を急襲してこれを倒し,反平氏の旗幟を鮮明にした。伊豆から相模に向かおうとしたが石橋山合戦で大庭景親らの平氏軍に敗れ,いったん海を渡って安房に逃れた。彼に従った三浦一族の勢力下にあった安房の在地武士をはじめ,上総,下総の有力武士たる上総介広常,千葉介常胤らを糾合することに成功し,しだいに勢力を増して武蔵に入り,江戸重長,河越重頼,畠山重忠らの参加を得て,10月には相模の鎌倉に入り,そこを本拠とした。次いで平維盛以下の頼朝追討軍と富士川に対陣,戦わずしてこれを敗走させ,一転して鎌倉に帰ると,直ちに源氏一族で自立の動きを見せていた常陸の佐竹氏を討滅し,この時期までにほぼ南関東一帯を制圧し,その傘下に集まった武士たちを家人として統制するために侍所を設けて和田義盛を侍所別当に任じた。81年(養和1)閏2月に平清盛が病死したのち,頼朝は後白河法皇に密奏して,法皇への忠誠を誓うとともに源平の和平共存のことを申し入れたが,平氏側に拒否された。この年から翌年にわたり大凶作のため,軍勢を大きく動かすことが不可能であったが,その間頼朝は家人の統制に意を用い,東国一帯の武力的支配をすすめ,その奪的政権の基礎をかためることに努めた。とくに御家人統制をみだす存在については厳しい態度をとり,83年(寿永2)の暮れには独立性の強い態度を持していた上総介広常を誅滅している。一方,この年の7月には源義仲が入京して平氏を西走させたが,義仲がやがて後白河法皇と対立すると,頼朝はこの機をつかんで再び奏上して,法皇以下公家政権の人々の歓心を買うことに成功し,ついに勅勘をとかれて本位に復するとともに,彼が事実上の支配を実現していた東国諸国に対して,公的にその沙汰権を認める宣旨をえた。この〈寿永2年の宣旨〉は,頼朝による独自の東国政権が樹立されたことを意味する。
次いで勅命をうけて範頼,義経の2弟を西上させ,84年(元暦1)正月,義仲を近江に討滅し,引き続いて一ノ谷に平氏軍を破った。そして翌85年(文治1)2月から3月にかけて,平氏を屋島から壇ノ浦へと急追し,ついに族滅させた。この間,法皇に時局拾収策を申し入れ,諸国の武士を家人化して,全国的軍事警察権を掌握すべきことを要請する一方,鎌倉には公文所,問注所を設けて家政機関を整えた。そして平家討滅ののち従二位に昇叙。次いで義経謀叛事件がおこると,その機をつかんで,同年11月北条時政以下の軍勢を上京させ,法皇に強要して守護・地頭設置の勅許を得た。また親義経派の公卿の解官を要求するとともに頼朝支持派の九条兼実を内覧に推挙し,議奏公卿を指名することに成功した。この時期に頼朝の政権は東国政権から全国政権へと前進するきっかけを得たが,やがて89年(文治5)には義経をかくまった陸奥の藤原泰衡を攻め滅ぼし,全国的軍事支配の体制を完成させた。挙兵以来10年にして内乱は終息されたのである。90年(建久1)11月,頼朝ははじめて上洛して法皇に対面し,権大納言・右近衛大将に任ぜられたが,その翌月これを辞任して鎌倉に帰った。そして92年7月,法皇が没して4ヵ月のちに征夷大将軍に補任された。ここに,武家政権の首長が征夷大将軍に任ぜられる慣例がひらかれた。95年東大寺再建供養のため再度上洛したが,その翌年には京都で九条兼実が失脚し政情は頼朝に不利に傾いた。そこで女の大姫を後鳥羽天皇に入内させ公武融和をはかろうとしたが大姫の死で実現せず,その後まもなく,98年の暮れ,相模川の橋供養に臨席した帰途に落馬し,それが直接の原因となって翌年正月に死去した。
頼朝は本格的な武家政権である鎌倉幕府を開いた大人物なので,中世・近世の武家社会では偶像視され,模範とされたことはいうまでもないが,史上に名高いうえに,源義経や静御前,木曾義仲,義仲の子の清水義高らとの絡みもあって,しばしば物語,演芸,浮世草子などに登場してきた。古いところでは,室町時代末期の1533年(天文2)1月に,京都で北畠(きたばたけ)の声聞師(しようもじ)が頼朝の1190年11月の〈都入(みやこいり)〉のもようを題材とした舞(《頼朝都入》《みやこいり》《京入》などの題名がある)を演じていたことが知られている(《言継卿記(ときつぐきようき)》)。そのほかでは,慶長(1596-1615)ごろの成立かとみられている御伽草子(おとぎぞうし)《頼朝之最期》(《頼朝最期の記》《頼朝最期物語》ともいう)があり,相模川の橋供養の帰途に落馬したのが頼朝の死因だとする通説とはちがって,畠山六郎なる武士が正体を知らずに賊とまちがえて刺殺したことにしている。
ところで,さきの北畠の声聞師が源頼朝を主人公とする曲をレパートリーに加えていたのは重視される。なぜならば,北畠の声聞師というのは北畠散所(さんじよ)を根拠地として活動した当代の賤民的雑芸者の集団であるが,それとの歴史的連関はさておくとして,江戸時代の身分制で賤民身分の中核にすえられた〈えた〉が,〈えた〉としての権益を主張するための根本的な〈証文〉として受け伝え,保持していた文書(名称は種々あるが,こんにちでは《河原巻物(かわらまきもの)》と総称されている)に,源頼朝から引き立てられて御用をつとめたのが始まりであると由来を説きおこすのが通例だからである。たとえば,江戸浅草の〈穢多頭(えたがしら)〉弾左衛門(だんざえもん)家伝来の《頼朝卿御朱印の写(うつし)》では,1180年9月に〈鎌倉長吏(ちようり)弾左衛門藤原頼兼(ふじわらのよりかね)〉が頼朝の朱印状により,長吏,座頭(ざとう),舞々(まいまい),猿楽(さるがく),陰陽師(おんみようじ)など各種の職業の支配権を得たという。
この種の文書が偽文書であることは,すでに明らかにされているが,なぜ〈源頼朝〉が〈えた〉の由緒意識の中心にあったのかは,解明されつくしたとはいいがたい。もちろん,頼朝が武家社会では一貫して模範とされてきていたこと,ならびに江戸幕府と〈えた〉との密接な関係が強く配慮されたからに違いないが,それだけではなく,おそらくは,さらに奥深い意味が潜んでいて,草創期の武士階級が〈浮屠(ふと)の輩〉〈屠膾(とかい)の輩〉などと,〈殺生を業(なりわい)とする者〉として公家階級から蔑視されていた歴史的事情も大いに働き,武士階級の最高無比のシンボルである頼朝が,生業の根源に深く関連しつつ〈えた〉の由緒意識の構成に役立てられたのではあるまいか。
新版 日本架空伝承人名事典
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