日本古典の最高傑作――光源氏の波瀾万丈の生涯を描いた大長編
主人公・光源氏の恋と栄華と苦悩の生涯と、その一族たちのさまざまの人生を、70年余にわたって構成。王朝文化と宮廷貴族の内実を優美に描き尽くした、まさに文学史上の奇跡といえる。藤原為時の女(むすめ)で歌人の紫式部が描いた長編で、「桐壺(きりつぼ)」から「夢浮橋(ゆめのうきはし)」までの54巻からなる。
[中古][物語]
校注・訳:阿部秋生 秋山 虔 今井源衛 鈴木日出男
〔一〕風雨やまず、京より紫の上の使者来る
〔一〕 依然として雨風がやまず、雷のおさまらぬままに幾日にもなった。源氏の君は、いよいよやりきれないことが数限りなく起ってきて、来し方行く末悲しい御身の上なので、もうとても強気でいることもおできにならず、「どうしたものだろう、こうしたことがあったからとて、都に帰ろうものなら、それもまだ世間に許されぬ身であってみれば、なおさらもの笑いになるばかりだろう。やはりここよりももっと深い山の中に分け入って姿を消してしまおうかしら」とお思いになるが、それにつけても、「波風の騒ぎにあの始末だなどと、人の口の端(は)に噂(うわさ)を立てられようし、後の世までまったくあさはかな浮名(うきな)を残すことになるのだろう」とあれこれお迷いになる。御夢の中にも、先夜とそっくり同じ姿をした異形の者ばかりがしきりに現れてはつきまとい申しているのを、ごらんになる。雲の晴れ間もなく明け暮れる有様で日数が重なってゆくにつれて、京の様子もいっそう気にかかって、このまま身を滅ぼしてしまうことになるのだろうかと心細くお思いになるが、頭をさし出すこともならぬ荒れ模様なので、わざわざお見舞に参上する人もない。 ただ二条院からは、使者が無理を押しきって、どうしたことかといった格好でずぶ濡(ぬ)れのままでやってまいった。道ですれ違

〔二〕暴風雨つのり、高潮襲来、廊屋に落雷
かくしつつ世は尽きぬべきにやと思さるるに、そのまたの日の暁より風いみじう吹き、潮高う満ちて、浪の音荒きこと、巌も山も残るまじきけしきなり。雷の鳴りひらめくさまさらに言はむ方なくて、…
〔三〕風雨静まる、父桐壺院源氏の夢に見える
やうやう風なほり、雨の脚しめり、星の光も見ゆるに、この御座所のいとめづらかなるも、いとかたじけなくて、寝殿に返し移したてまつらむとするに、従者「焼け残りたる方も疎ましげに、そこらの…
〔四〕入道に迎えられ、明石の浦に移る
渚に小さやかなる舟寄せて、人二三人ばかり、この旅の御宿をさして来。何人ならむと問へば、舟人「明石の浦より、前の守新発意の、御舟よそひて参れるなり。源少納言さぶらひたまはば、対面して…
〔五〕入道の住いの風情、都に劣らず
浜のさま、げにいと心ことなり。人しげう見ゆるのみなむ、御願ひに背きける。入道の領じめたる所どころ、海のつらにも山隠れにも、時々につけて、興をさかすべき渚の苫屋、行ひをして後の世のこ…
〔六〕紫の上へ消息を送る 源氏の心なごむ
すこし御心静まりては、京の御文ども聞こえたまふ。参れりし使は、今は、使「いみじき道に出で立ちて悲しきめをみる」と泣き沈みて、あの須磨にとまりたるを召して、身にあまれる物ども多く賜ひ…
〔七〕明石の入道の人柄とその人の思惑
明石の入道、行ひ勤めたるさまいみじう思ひすましたるを、ただこのむすめ一人をもてわづらひたるけしき、いとかたはらいたきまで、時々もらし愁へ聞こゆ。御心地にもをかしと聞きおきたまひし人…
〔八〕初夏の月夜、源氏琴を弾き、入道と語る
四月になりぬ。更衣の御装束、御帳の帷子などよしあるさまにしいづ。よろづに仕うまつり営むを、いとほしうすずろなりと思せど、人ざまのあくまで思ひあがりたるさまのあてなるに、思しゆるして…
〔九〕入道、娘への期待を源氏に打ち明ける
いたく更けゆくままに、浜風涼しうて、月も入り方になるままに澄みまさり、静かなるほどに、御物語残りなく聞こえて、この浦に住みはじめしほどの心づかひ、後の世を勤むるさまかきくづし聞こえ…
〔一〇〕源氏、入道の娘に文を遣わす 娘の思案
思ふことかつがつかなひぬる心地して、涼しう思ひゐたるに、またの日の昼つ方、岡辺に御文遣はす。心恥づかしきさまなめるも、なかなかかかるものの隈にぞ思ひの外なることも籠るべかめると心づ…
〔一一〕朱雀帝、桐壺院の幻を見て目を病む
その年、朝廷に物のさとししきりて、もの騒がしきこと多かり。三月十三日、雷鳴りひらめき雨風騒がしき夜、帝の御夢に、院の帝、御前の御階の下に立たせたまひて、御気色いとあしうて睨みきこえ…
〔一二〕入道の娘や親たち思案にくれる
明石には、例の、秋は浜風の異なるに、独り寝もまめやかにものわびしうて、入道にもをりをり語らはせたまふ。源氏「とかく紛らはして、こち参らせよ」とのたまひて、渡りたまはむことをばあるま…
〔一三〕八月十二、三日の夜、源氏、入道の娘を訪う
忍びてよろしき日みて、母君のとかく思ひわづらふを聞きいれず、弟子どもなどにだに知らせず、心ひとつに立ちゐ、輝くばかりしつらひて、十二三日の月のはなやかにさし出でたるに、ただ「あたら…
〔一四〕都の紫の上に明石の君のことをほのめかす
二条の君の、風の伝てにも漏り聞きたまはむことは、戯れにても心の隔てありけると思ひ疎まれたてまつらんは、心苦しう恥づかしう思さるるも、あながちなる御心ざしのほどなりかし。かかる方のこ…
〔一五〕源氏、紫の上を思う 明石の君の嘆き
女、思ひしもしるきに、今ぞまことに身も投げつべき心地する。行く末短げなる親ばかりを頼もしきものにて、何時の世に人並々になるべき身とは思はざりしかど、ただそこはかとなくて過ぐしつる年…
〔一六〕赦免の宣旨下る 明石の君懐妊する
年かはりぬ。内裏に御薬のことありて、世の中さまざまにののしる。当帝の御子は、右大臣のむすめ、承香殿女御の御腹に男御子生まれたまへる、二つになりたまへば、いといはけなし。春宮にこそは…
〔一七〕源氏、明石の君と琴を弾き別れを惜しむ
明後日ばかりになりて、例のやうにいたくも更かさで渡りたまへり。さやかにもまだ見たまはぬ容貌など、いとよしよししう気高きさまして、めざましうもありけるかなと見棄てがたく口惜しう思さる…
〔一八〕源氏明石の浦を去る 明石一族の悲しみ
立ちたまふ暁は、夜深く出でたまひて、御迎への人々も騒がしければ、心も空なれど、人間をはからひて、源氏うちすててたつも悲しき浦波のなごりいかにと思ひやるかな御返り、明石年へつる苫屋も…
〔一九〕源氏帰京して、権大納言に昇進する
君は難波の方に渡りて御祓したまひて、住吉にも、たひらかにていろいろの願はたし申すべきよし、御使して申させたまふ。にはかにところせうて、みづからはこの度え詣でたまはず、ことなる御逍遥…
〔二〇〕源氏参内、しめやかに帝と物語をする
召しありて、内裏に参りたまふ。御前にさぶらひたまふに、ねびまさりて、いかでさるものむつかしき住まひに年経たまひつらむと見たてまつる女房などの、院の御時よりさぶらひて、老いしらへるど…
〔二一〕源氏、明石へ文を送る 五節と歌の贈答
まことや、かの明石には、返る波につけて御文遣はす。ひき隠してこまやかに書きたまふめり。源氏「波のよるよるいかに。嘆きつつあかしのうらに朝霧のたつやと人を思ひやるかな」 かの帥のむす…
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