戦国・安土桃山(あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。
[脇田 修]
織田氏は近江(おうみ)津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波(しば)氏に仕え、越前(えちぜん)(福井県)織田荘(おだのしょう)を根拠とし織田劔神社(つるぎじんじゃ)を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る。のち上・下尾張に織田氏も分かれるが、信長の家は下四郡守護代家の家老であった。信長の父信秀(のぶひで)が勢力を伸ばし、勝幡(しょばた)・那古野(なごや)を中心に尾張南部などを支配する。信長は信秀の三男。幼名は吉法師(きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃(みの)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死とともに家督を嗣(つ)いだ。初め藤原氏を称したが、室町幕府が源氏であるため、源平交替思想から、のち平氏を称す。上総守(かずさのかみ)、上総介(かずさのすけ)と署名するが、入洛(にゅうらく)を前に弾正忠(だんじょうのちゅう)と中央官職に変える。若いころの行状は奔放で異様な風体を好み「うつけ」と評された。老臣平手政秀(ひらてまさひで)が諫死(かんし)する事件もあり、信長は、政秀寺(せいしゅうじ)を建立して菩提(ぼだい)を弔っている。舅(しゅうと)道三との対面に正式の服装をして人々を驚かせる。家紋は(か)(木瓜(もっこう))、将軍足利義昭(あしかがよしあき)より桐(きり)の紋を許される。旗差物(はたさしもの)は永楽通宝(えいらくつうほう)。馬印(うまじるし)は南蛮笠(なんばんがさ)。朱印は「天下布武(てんかふぶ)」などを用いる。
[脇田 修]
信長の生涯は戦闘に明け暮れたが、まず、1555年(弘治1)清洲城(きよすじょう)織田信友を討ってここを居城とし、1557年弟信行らの反乱を抑え、1559年(永禄2)岩倉城主織田信賢(のぶかた)を追放して尾張を統一した。翌1560年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を倒して武名をあげ、ついで徳川家康と同盟した。のち、小牧山を居城として美濃(岐阜県)攻めに力を入れ、1567年稲葉山井ノ口城攻略、斎藤龍興(さいとうたつおき)を追放、これを岐阜と改め居城とする。尾張、美濃をあわせた信長は、1568年9月足利義昭を奉じて上洛の途につき、これを阻もうとする近江(おうみ)六角義賢(ろっかくよしかた)を追い、入洛、畿内(きない)を鎮定。義昭は将軍となり、信長は天下の実権を握るが、戦国群雄、本願寺との戦いが激化する。翌年、信長は北伊勢(きたいせ)北畠(きたばたけ)氏を屈伏させ、二男信雄(のぶかつ)を養子に入れ、1570年(元亀1)北近江浅井、越前(えちぜん)朝倉と姉川(あねがわ)に戦い、摂津で三好三人衆(みよしさんにんしゅう)を迎え撃ち、石山本願寺との合戦も起こる。1571年比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼討ち。このころ、先に不和となっていた将軍義昭との対立が激しくなり、1573年義昭を追放、室町幕府を滅亡させた。ついで朝倉・浅井両氏をも滅ぼした。1575年(天正3)甲斐(かい)武田勝頼(たけだかつより)と長篠合戦(ながしのかっせん)があり鉄炮隊(てっぽうたい)の威力で撃破。畿内では松永久秀、荒木村重の離反を押さえ、もっとも頑強であった石山本願寺との対決は、伊勢長島、越前、雑賀(さいか)と一揆(いっき)の拠点をつぶしたのち、1580年本願寺と和睦(わぼく)、石山から退城させた。これにより畿内は平定され、信長は、摂河泉和(兵庫県、大阪府、奈良県一帯)で城破りを行う。その間にも明智光秀(あけちみつひで)の丹波(たんば)・丹後(たんご)(兵庫県、京都府一帯)平定、柴田勝家(しばたかついえ)による加賀平定、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))の中国毛利(もうり)攻めが進み、ついに1582年には宿敵武田氏を滅ぼす。信長の晩年には、東は甲斐(山梨県)、信濃(しなの)(長野県)、北は越中(えっちゅう)(富山県)、能登(のと)(石川県)、西は伯耆(ほうき)(鳥取県)、備中(びっちゅう)(岡山県)と、ほぼ本州の中央部を征服し、中国毛利氏との決戦を前に天正(てんしょう)10年6月2日未明、家臣明智光秀の謀反により京都本能寺(四条西洞院(にしのとういん))で倒れた(長男信忠(のぶただ)も、このとき二条御所にあって自刃)。紫野(むらさきの)大徳寺(北区)総見院に葬る。法号総見院泰巌安公。信長父子の骨灰を集めて葬ったという墓が阿弥陀寺(あみだじ)(上京(かみぎょう)区)にもあり、本能寺(中京(なかぎょう)区、変後移転)には信長本廟(ほんびょう)がある。
[脇田 修]
信長の直属分国は尾張、美濃、近江(滋賀県)で、家督を信忠に譲ったとき、尾張、美濃も渡している。中央権力としては、入洛直後は室町幕府が再建され、畿内では幕府関係者が守護となったように、信長の正規の権限はあまりなく、実力支配体制をとった。義昭と不和になり、数年の暗闘ののち、幕府を滅亡させた。その後、信長は将軍権力を継承し、名実ともに天下を握り、京都所司代(しょしだい)に村井貞勝(むらいさだかつ)を任命、守護などの地域支配権を掌握し、摂津に荒木、山城(やましろ)・大和(やまと)に原田直政(はらだなおまさ)らを任命した。ついで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(たきがわかずます)らの武将が各地に封じられ、それが織田家の支配圏をゆだねられるとともに、軍団を率いた。家臣団組織は、おとな・宿老に先の有力武将がなり、奉行(ぶぎょう)が安土などの都市と、軍事・行政単位に置かれた。軍事力は親衛隊として馬廻(うままわり)の士、弓・槍(やり)・鉄炮の組が存在した。とくに鉄炮隊は優れていた。軍事動員は相対(あいたい)契約で決めた人数を率いて家臣が参陣した。また、当面の司令官たる武将の直属軍事力に、与力(よりき)として他の武将の軍事力を組み合わせて軍団を構成した。
[脇田 修]
信長は初め朝廷の官職を辞退したが、1575年(天正3)従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)兼右近衛大将(うこんえだいしょう)となり、家督を信忠に譲り、その後、天下人として行動、安土城にいる。内大臣次いで1577年に従二位右大臣となるが、やがて辞官、最後まで辞退した。これは、天下平定ののち顕職につくとの理由であり、朝廷との関係では正親町天皇(おおぎまちてんのう)の東宮誠仁親王(さねひとしんのう)を猶子(ゆうし)(相続を目的としない養子)とし馬揃(うまぞろ)えを天皇にみせ、安土城(1576年着工、1579年完成)に行幸の間をつくるなどした。公家(くげ)・寺社とは、反抗した延暦寺などを焼討ちはしたものの、一般には、有力な寺社・公家が現に知行(ちぎょう)している土地や座の権益は安堵(あんど)し、徳政を行って知行の回復を図り、新地を進めるなど、一定の保護を行った。
[脇田 修]
土地政策では指出(さしだし)・検地(けんち)を行い土地把握に努めた。伊勢、尾張、美濃は貫高制、畿内近国は「石(こく)」高(だか)制であり、統一されていなかった。しかし、一国単位で土地の高表示を一元化し、その年貢収量を把握して、知行の基礎を固め、年貢負担責任者としての百姓を確定したことは注目しうる。これを秀吉の太閤検地(たいこうけんち)に比べると、「石」高も稗(ひえ)などを含んでいて米に統一されていないこと、高は年貢高を表示し、生産高を前提にしていないこと、検地帳に給人知行(きゅうにんちぎょう)が記されるものがあり、兵農分離が不徹底であること、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)の中間搾取は否定されず、「内徳小物成(ないとくこものなり)」を認められていること、などの違いがあった。都市商業政策では、分国における関所を撤廃して流通を円滑にし、金銀貨をも含む広い視野から撰銭令(えりぜにれい)を出して通貨整備を行おうとした。また城下町安土では楽市(らくいち)・楽座(らくざ)、公事免許(くじめんきょ)などの優遇策を実施して繁栄に努めた。都市については上京(かみぎょう)、尼崎(あまがさき)を焼き、堺(さかい)などの武装を解除したが、都市自治権は全面的には否定せず、寺内町(じないまち)の特権は認めたりしている。全般的にいえば関所撤廃、城下町政策など戦国大名のなかでも、もっとも進んだ政策を実施した。また領国尾濃では伊藤宗十郎(いとうそうじゅうろう)を商人司として商人統制を行い、城下町以外では座組織を認め、流通仲間など積極的に利用した。ここでも京七口(きょうななくち)の皇室領率分関(りつぶんぜき)を残し、座を認め、寺内町の建設すら認めたのは、公家・寺社との関係を尊重したためであった。都市の経済力に注目し、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)ら堺の豪商と結び付いたことも知られる。
[脇田 修]
信長は禅宗であるが、無神論者といわれるようなところがあり、なによりも政治権力を宗教勢力の上に置いた。浄土宗、日蓮宗(にちれんしゅう)の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことはそれを示している。比叡山延暦寺や槇尾寺(まきのおでら)焼討ち、高野聖(こうやひじり)斬殺(ざんさつ)、一向一揆(いっこういっき)の徹底的弾圧など、抵抗する者には容赦しなかった。キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺(なんばんじ)の建設を認めている。また相撲を好み、芸能では幸若舞(こうわかまい)をたしなみ、桶狭間合戦に赴く朝、かねて好む『敦盛(あつもり)』の一節「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり……」と舞ったのは有名。小歌も口ずさみ、「死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の歌詞を愛誦(あいしょう)したという。茶の湯では千利休(せんのりきゅう)、津田宗及、今井宗久らを茶道(さどう)として召し抱え、名物をも集めたが、茶の湯を政治に利用し、功績のある家臣に茶の湯を許す栄誉を与え、茶道具を与えたりした。
[脇田 修]
中世から近世への変革期に現れ、戦国動乱を平定する直前で信長は倒れた。その意味で、彼が近世統一権力の先頭走者であったことは確かである。しかし、織田政権の評価については意見が分かれている。従来は、織豊政権(しょくほうせいけん)と一括されるように、織田政権を近世権力と考え、豊臣政権と連続してとらえる説が有力であった。最近の研究では、織田政権を戦国大名段階の中央権力と規定し、室町幕府よりもはるかに新しいが、豊臣政権のような近世権力とは異なると考えられている。
[脇田 修]
安土桃山時代の武将。尾張守護代織田大和守家の奉行の家に生まれた。織田氏は越前丹生郡織田荘が本貫で藤原氏を称したが,本姓は忌部氏といわれる。信長も初めは藤原氏を称した。のち平氏になったのは源平迭立(てつりつ)の思想によるという。曾祖父は信良,祖父は信貞といったらしいが,父の信秀は傑出した武将で尾張勝幡(しよばた)城に拠り,津島の経済力や天王社の信仰を背景に一族間に優越し,美濃・三河を攻略,信長を那古野城に置き,斎藤利政(道三)の女をめとらせた。しかし一族との対立,今川氏との対決という課題を残して1551年(天文20)急逝したので信長は孤立し,家臣団は動揺した。だが親族衆と連携しつつ敵対する一族を各個に撃破した信長は,55年(弘治1)清須城を奪い,57年老臣に擁立された弟信行を殺し,59年(永禄2)岩倉城の織田信賢を追って尾張を統一し,60年5月西上する今川義元を桶狭間の戦でたおし,62年岡崎の徳川家康と同盟して態勢を安定させた。そして65年墨俣(すのまた)に砦を築き美濃への攻撃を強め,67年ついに斎藤竜興を追って美濃を征服し,井之口を岐阜と改称して拠点とし〈天下布武〉の印判使用を開始した。そして68年足利義昭を擁して上洛,三好三人衆を追って幕府を再興,実質的な畿内支配を実現した。そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り,76年近江に安土城を築き,77年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。一方足利義昭の策謀により本願寺顕如・上杉謙信・毛利輝元らが信長を敵として連合し,松永久秀・荒木村重らの部将も背いた。しかし信長は77年紀伊雑賀(さいが)を圧迫し,翌年鉄甲船によって毛利水軍を破り,また上杉謙信も78年病没,荒木一族も翌年鎮圧されたので石山城の顕如は80年ついに屈服し,加賀の一向一揆も柴田勝家により平定された。そこで信長は宿老の佐久間信盛や林秀貞を追放して専制的体制を誇示し,翌年京都で盛大な馬揃を挙行,行幸を仰ぎ,整備された軍容を天下に示した。そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。
織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。しかもこの軍団は長期遠征に耐え,城下集住が可能であったため征服戦が有利に展開し,中央支配を早期に実現できたのである。またこの政権は土地の一職支配に基礎を置く過渡的存在であるといわれるが,一向一揆の鎮圧以後は大和や和泉に指出(さしだし)を徴して複雑な土地所有関係を固定明確化し,播磨では事実上の太閤検地といわれる検地が,柴田氏領内では刀駈(かたながり)が,大和では城破り(しろわり)が実施され,そして楽市・楽座,関所撤廃などの政策がとられた。もっとも最近では楽市・楽座令を都市振興政策の一環として限定的に理解するむきもあるが,これらの政策は豊臣秀吉により近世的統一政権の基礎として実現してゆくものである。また信長は律令制的支配を象徴する朝廷を保護し,内裏の修造,廷臣門跡の窮乏を救済する徳政の実施,皇大神宮・石清水八幡宮の保護など国家的支配に関与し,朝廷でも太政大臣か将軍の地位を贈る意向があった。信長はまた宗教の世俗的権威を否定し,1571年浅井・朝倉軍に荷担した延暦寺を,81年指出を拒否した槙尾寺を焼き,罪人を隠匿した金剛峯寺制裁のため多くの高野聖を斬り,82年甲斐恵林寺の快川紹喜を焚殺した。そして惣村や渡りの商工業者集団を基盤とする一向一揆には鏖殺(おうさつ)(みな殺し)戦術をもって臨み,町衆を信仰受容層とする日宗には79年安土宗論を行わせてこれを弾圧した。しかしキリスト教宣教師は優遇し,69年ルイス・フロイスの在京を許し,79年オルガンティーノに安土教会堂の,81年巡察使バリニャーノに学校の建設を許した。そして宣教師を通じてキリシタン大名を動かし,また仏僧を牽制した。なお宣教師は信長の資質を的確にとらえて報告している。信長は茶の湯の愛好者として知られるが,茶会を通じて堺や博多の豪商と接し,家臣には茶器を与え,茶の湯興行の特権を付与して褒賞するなど,茶道を商業資本家や家臣団の統制に利用している。
織田信長の人間像は,同時代の武将たちとともに,いわゆる〈太閤記の世界〉のなかでは,必ず顔をだすが,徹底して善良な人間像を獲得し,それゆえに活躍の場の多い豊臣秀吉(真柴久吉),あるいは屈折した悪役を割りふられ,独自の個性を作りあげた明智光秀(武智光秀)などに比べると,信長の場合は小(尾)田春永という名の単純な赤面(あかつつら)の暴君以上のものではなく,おもしろみに欠ける印象を否めない。また多くが脇役にとどまり,信長を主人公に扱う作品はみられない。江戸時代にははなはだ人気のない人物であった。しかもその悪役としての性格も,むしろゆたかな光秀像の形成にともなって,光秀を侮辱する役として浮上したふしが濃厚である。現代の日本人が抱くニヒルで悽惨な信長のイメージは,どちらかといえば近代文学のものというべきであろう。
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