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  11. 織田信長
日本大百科全書(ニッポニカ)

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織田信長
おだのぶなが
[1534―1582]

戦国・安土桃山(あづちももやま)時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。
[脇田 修]

家系

織田氏は近江(おうみ)津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波(しば)氏に仕え、越前(えちぜん)(福井県)織田荘(おだのしょう)を根拠とし織田劔神社(つるぎじんじゃ)を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る。のち上・下尾張に織田氏も分かれるが、信長の家は下四郡守護代家の家老であった。信長の父信秀(のぶひで)が勢力を伸ばし、勝幡(しょばた)・那古野(なごや)を中心に尾張南部などを支配する。信長は信秀の三男。幼名は吉法師(きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃(みの)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死とともに家督を嗣(つ)いだ。初め藤原氏を称したが、室町幕府が源氏であるため、源平交替思想から、のち平氏を称す。上総守(かずさのかみ)、上総介(かずさのすけ)と署名するが、入洛(にゅうらく)を前に弾正忠(だんじょうのちゅう)と中央官職に変える。若いころの行状は奔放で異様な風体を好み「うつけ」と評された。老臣平手政秀(ひらてまさひで)が諫死(かんし)する事件もあり、信長は、政秀寺(せいしゅうじ)を建立して菩提(ぼだい)を弔っている。舅(しゅうと)道三との対面に正式の服装をして人々を驚かせる。家紋は©(か)(木瓜(もっこう))、将軍足利義昭(あしかがよしあき)より桐(きり)の紋を許される。旗差物(はたさしもの)は永楽通宝(えいらくつうほう)。馬印(うまじるし)は南蛮笠(なんばんがさ)。朱印は「天下布武(てんかふぶ)」などを用いる。
[脇田 修]

戦闘

信長の生涯は戦闘に明け暮れたが、まず、1555年(弘治1)清洲城(きよすじょう)織田信友を討ってここを居城とし、1557年弟信行らの反乱を抑え、1559年(永禄2)岩倉城主織田信賢(のぶかた)を追放して尾張を統一した。翌1560年桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を倒して武名をあげ、ついで徳川家康と同盟した。のち、小牧山を居城として美濃(岐阜県)攻めに力を入れ、1567年稲葉山井ノ口城攻略、斎藤龍興(さいとうたつおき)を追放、これを岐阜と改め居城とする。尾張、美濃をあわせた信長は、1568年9月足利義昭を奉じて上洛の途につき、これを阻もうとする近江(おうみ)六角義賢(ろっかくよしかた)を追い、入洛、畿内(きない)を鎮定。義昭は将軍となり、信長は天下の実権を握るが、戦国群雄、本願寺との戦いが激化する。翌年、信長は北伊勢(きたいせ)北畠(きたばたけ)氏を屈伏させ、二男信雄(のぶかつ)を養子に入れ、1570年(元亀1)北近江浅井、越前(えちぜん)朝倉と姉川(あねがわ)に戦い、摂津で三好三人衆(みよしさんにんしゅう)を迎え撃ち、石山本願寺との合戦も起こる。1571年比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼討ち。このころ、先に不和となっていた将軍義昭との対立が激しくなり、1573年義昭を追放、室町幕府を滅亡させた。ついで朝倉・浅井両氏をも滅ぼした。1575年(天正3)甲斐(かい)武田勝頼(たけだかつより)と長篠合戦(ながしのかっせん)があり鉄炮隊(てっぽうたい)の威力で撃破。畿内では松永久秀、荒木村重の離反を押さえ、もっとも頑強であった石山本願寺との対決は、伊勢長島、越前、雑賀(さいか)と一揆(いっき)の拠点をつぶしたのち、1580年本願寺と和睦(わぼく)、石山から退城させた。これにより畿内は平定され、信長は、摂河泉和(兵庫県、大阪府、奈良県一帯)で城破りを行う。その間にも明智光秀(あけちみつひで)の丹波(たんば)・丹後(たんご)(兵庫県、京都府一帯)平定、柴田勝家(しばたかついえ)による加賀平定、羽柴秀吉(はしばひでよし)(豊臣秀吉(とよとみひでよし))の中国毛利(もうり)攻めが進み、ついに1582年には宿敵武田氏を滅ぼす。信長の晩年には、東は甲斐(山梨県)、信濃(しなの)(長野県)、北は越中(えっちゅう)(富山県)、能登(のと)(石川県)、西は伯耆(ほうき)(鳥取県)、備中(びっちゅう)(岡山県)と、ほぼ本州の中央部を征服し、中国毛利氏との決戦を前に天正(てんしょう)10年6月2日未明、家臣明智光秀の謀反により京都本能寺(四条西洞院(にしのとういん))で倒れた(長男信忠(のぶただ)も、このとき二条御所にあって自刃)。紫野(むらさきの)大徳寺(北区)総見院に葬る。法号総見院泰巌安公。信長父子の骨灰を集めて葬ったという墓が阿弥陀寺(あみだじ)(上京(かみぎょう)区)にもあり、本能寺(中京(なかぎょう)区、変後移転)には信長本廟(ほんびょう)がある。
[脇田 修]

武家権力

信長の直属分国は尾張、美濃、近江(滋賀県)で、家督を信忠に譲ったとき、尾張、美濃も渡している。中央権力としては、入洛直後は室町幕府が再建され、畿内では幕府関係者が守護となったように、信長の正規の権限はあまりなく、実力支配体制をとった。義昭と不和になり、数年の暗闘ののち、幕府を滅亡させた。その後、信長は将軍権力を継承し、名実ともに天下を握り、京都所司代(しょしだい)に村井貞勝(むらいさだかつ)を任命、守護などの地域支配権を掌握し、摂津に荒木、山城(やましろ)・大和(やまと)に原田直政(はらだなおまさ)らを任命した。ついで柴田勝家、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益(たきがわかずます)らの武将が各地に封じられ、それが織田家の支配圏をゆだねられるとともに、軍団を率いた。家臣団組織は、おとな・宿老に先の有力武将がなり、奉行(ぶぎょう)が安土などの都市と、軍事・行政単位に置かれた。軍事力は親衛隊として馬廻(うままわり)の士、弓・槍(やり)・鉄炮の組が存在した。とくに鉄炮隊は優れていた。軍事動員は相対(あいたい)契約で決めた人数を率いて家臣が参陣した。また、当面の司令官たる武将の直属軍事力に、与力(よりき)として他の武将の軍事力を組み合わせて軍団を構成した。
[脇田 修]

朝廷・寺社との関係

信長は初め朝廷の官職を辞退したが、1575年(天正3)従三位(じゅさんみ)権大納言(ごんだいなごん)兼右近衛大将(うこんえだいしょう)となり、家督を信忠に譲り、その後、天下人として行動、安土城にいる。内大臣次いで1577年に従二位右大臣となるが、やがて辞官、最後まで辞退した。これは、天下平定ののち顕職につくとの理由であり、朝廷との関係では正親町天皇(おおぎまちてんのう)の東宮誠仁親王(さねひとしんのう)を猶子(ゆうし)(相続を目的としない養子)とし馬揃(うまぞろ)えを天皇にみせ、安土城(1576年着工、1579年完成)に行幸の間をつくるなどした。公家(くげ)・寺社とは、反抗した延暦寺などを焼討ちはしたものの、一般には、有力な寺社・公家が現に知行(ちぎょう)している土地や座の権益は安堵(あんど)し、徳政を行って知行の回復を図り、新地を進めるなど、一定の保護を行った。
[脇田 修]

経済政策

土地政策では指出(さしだし)・検地(けんち)を行い土地把握に努めた。伊勢、尾張、美濃は貫高制、畿内近国は「石(こく)」高(だか)制であり、統一されていなかった。しかし、一国単位で土地の高表示を一元化し、その年貢収量を把握して、知行の基礎を固め、年貢負担責任者としての百姓を確定したことは注目しうる。これを秀吉の太閤検地(たいこうけんち)に比べると、「石」高も稗(ひえ)などを含んでいて米に統一されていないこと、高は年貢高を表示し、生産高を前提にしていないこと、検地帳に給人知行(きゅうにんちぎょう)が記されるものがあり、兵農分離が不徹底であること、名主百姓(みょうしゅびゃくしょう)の中間搾取は否定されず、「内徳小物成(ないとくこものなり)」を認められていること、などの違いがあった。都市商業政策では、分国における関所を撤廃して流通を円滑にし、金銀貨をも含む広い視野から撰銭令(えりぜにれい)を出して通貨整備を行おうとした。また城下町安土では楽市(らくいち)・楽座(らくざ)、公事免許(くじめんきょ)などの優遇策を実施して繁栄に努めた。都市については上京(かみぎょう)、尼崎(あまがさき)を焼き、堺(さかい)などの武装を解除したが、都市自治権は全面的には否定せず、寺内町(じないまち)の特権は認めたりしている。全般的にいえば関所撤廃、城下町政策など戦国大名のなかでも、もっとも進んだ政策を実施した。また領国尾濃では伊藤宗十郎(いとうそうじゅうろう)を商人司として商人統制を行い、城下町以外では座組織を認め、流通仲間など積極的に利用した。ここでも京七口(きょうななくち)の皇室領率分関(りつぶんぜき)を残し、座を認め、寺内町の建設すら認めたのは、公家・寺社との関係を尊重したためであった。都市の経済力に注目し、今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)ら堺の豪商と結び付いたことも知られる。
[脇田 修]

文化政策

信長は禅宗であるが、無神論者といわれるようなところがあり、なによりも政治権力を宗教勢力の上に置いた。浄土宗、日蓮宗(にちれんしゅう)の宗論を安土城で行わせ、日蓮宗を非としたことはそれを示している。比叡山延暦寺や槇尾寺(まきのおでら)焼討ち、高野聖(こうやひじり)斬殺(ざんさつ)、一向一揆(いっこういっき)の徹底的弾圧など、抵抗する者には容赦しなかった。キリスト教については、ヨーロッパ文化への興味と一向一揆との対抗のために保護を加え、安土にセミナリオ、京都に南蛮寺(なんばんじ)の建設を認めている。また相撲を好み、芸能では幸若舞(こうわかまい)をたしなみ、桶狭間合戦に赴く朝、かねて好む『敦盛(あつもり)』の一節「人間五十年、下天(げてん)の内をくらぶれば夢幻(ゆめまぼろし)の如(ごと)くなり……」と舞ったのは有名。小歌も口ずさみ、「死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」の歌詞を愛誦(あいしょう)したという。茶の湯では千利休(せんのりきゅう)、津田宗及、今井宗久らを茶道(さどう)として召し抱え、名物をも集めたが、茶の湯を政治に利用し、功績のある家臣に茶の湯を許す栄誉を与え、茶道具を与えたりした。
[脇田 修]

歴史的位置

中世から近世への変革期に現れ、戦国動乱を平定する直前で信長は倒れた。その意味で、彼が近世統一権力の先頭走者であったことは確かである。しかし、織田政権の評価については意見が分かれている。従来は、織豊政権(しょくほうせいけん)と一括されるように、織田政権を近世権力と考え、豊臣政権と連続してとらえる説が有力であった。最近の研究では、織田政権を戦国大名段階の中央権力と規定し、室町幕府よりもはるかに新しいが、豊臣政権のような近世権力とは異なると考えられている。
[脇田 修] 

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