[現]春野町堀之内
劇で惣領安芸守景泰は飯尾氏・松井氏ら有力家臣の反乱に荷担した。その結果惣領職は庶流小四郎藤秀に宛行われ、寄子衆も藤秀に付属することになった(永禄六年閏一二月二四日「今川氏真判物写」尾上文書)。藤秀はその後徳川家康に従った(永禄一二年一月二日「徳川家康判物写」遠江国風土記伝)。元亀三年(一五七二)頃武田信玄の陣営にくみしたため、天正二年(一五七四)四月徳川軍の攻撃を受けた。「三河物語」によれば、徳川方は「
が立けれバ、諸勢は領家・堀の内・和田之谷に陣取」った。しかし大雨が降って気田川が氾濫したため兵粮を失い、水が引いた同六日
城跡は稜線上に曲輪を東西に配置し、西端の最高所に物見曲輪を置き、その東側の細長い平地を主郭とする。それに付随する曲輪が高い所の両側から東に向かって段階状に築かれ、最下段の曲輪には南東隅に木戸口(枡形虎口)を施してある。枡形虎口より土橋を渡って馬出曲輪に続き、ここの北側を半円形の空堀が走るところが大手である。城の構造は武田氏流の手法をもっているので、元亀三年から天正四年頃武田氏が
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