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  11. 増上寺

増上寺

ジャパンナレッジで閲覧できる『増上寺』の日本歴史地名大系のサンプルページ

増上寺
ぞうじようじ

[現]港区芝公園四丁目

愛宕あたご山の南方にある浄土宗寺院。三縁山広度こうど院と号し、本尊は阿弥陀如来。江戸時代には現芝公園一―四丁目一帯を境内としていた。明徳四年(一三九三)に鎮西派白旗流の流れをくむ了誉聖冏の弟子酉誉聖聡が、もと豊島郡貝塚かいづか(現千代田区)にあった真言宗寺院の光明こうみよう寺を改宗して増上寺と改め創建した。聖聡は千葉氏胤の次男と伝えられ、聖冏の門下となって「浄土二蔵綱維義」などを著して後継者の地位を築いた。関東の浄土宗はすでに鎌倉時代の終りから然阿良忠によって鎮西派の足掛りがつくられ、鎌倉光明寺を拠点とする教団の組織化が進められていた。文永一〇年(一二七三)には矢向やこう(現神奈川県川崎市鶴見区)良忠りようちゆう(然阿良忠開山)が創建され、応長―正和(一三一一―一七)の頃に神奈川にあった真言道場の観福かんぷく(寂恵良暁再興)を改宗した。応安元年(一三六八)には現港区域にも教線が及び、本芝ほんしばに田中山相福そうふく西応さいおう(照誉明賢)が創建され(蓮門精舎旧詞)、増上寺の開創がこれに続いた。

増上寺が創建されると、聖冏は五重伝法といった法脈を制度化したのち、聖聡を後継者に定めて自らは小石川の聖冏しようげい(伝通院)に退いた。当寺を本拠とした聖聡は五重伝法の活用を図り、傘下の寺院を組織するとともに弟子の育成に努め、当寺の地位を確立したとされる。寺号は応永一八年(一四一一)に藤原兼実追善の名号を法然が書いたことを聖聡が証した添状(同年三月一〇日「酉誉聖聡法然上人真筆名号添状」増上寺文書)にみえるのが早い。当寺は室町時代に入ると千葉氏の外護を背景に、同じ浄土宗の勢力である鎌倉光明寺と拮抗しつつ、江戸周辺から浅草・石浜いしはま(現台東区・荒川区)地域へ教線を広げていくことによって地位を確立した。後土御門天皇の代の文明二年(一四七〇)には祈願所となっている(「親長卿記」同年九月四日条)。その後増上寺は何回か寺地を移転し、戦国時代に芝の地に法音ほうおん(行誉宗山開山)源光げんこう(典誉説応開山)宗光そうこう(深誉開山)下高輪しもたかなわに相福寺(芳誉天香開山)、四谷に西迎さいごう(仁誉存公開山)などの系列の浄土宗寺院が相次いで創建され(蓮門精舎旧詞)、この地域にしっかりと根を張っていった。芝に移る以前は日比谷にあったといわれ(武江年表)、天正一八年(一五九〇)には「豊島郡江戸増上寺」に禁制が出されている(同年四月日「豊臣秀吉禁制」増上寺文書)。なお「求涼雑記」によれば、慶長五年(一六〇〇)ウィリアム・アダムスが安針あんじん(現中央区)を拝領する以前には同地に増上寺があったという。

〔徳川家菩提寺としての地位〕

徳川家は三河の浄土宗大樹だいじゆ(現愛知県岡崎市)を菩提寺としていたが、天正一八年の家康関東入部と同時に師檀関係ができ、同宗である当寺を菩提寺とした(「開運録」「落穂集」など)。慶長三年芝に寺基を移し、同四年九月六日紫衣綸旨を与えられ、同七年一八檀林が制定されるとその首座となる。同一三年勅願所に任ぜられ同時に常紫衣綸旨を与えられた。さらに僧録所として宗学宗制の統轄も行っている。当寺は他の寺院とは異なる奉勅由緒寺院で、関東浄土宗総本山として隆盛した。また家康の命により高麗本六千四六七巻・元本五千三九七巻・宋本五千七一四巻の三大蔵経を寄進され、同一七年武蔵国橘樹たちばな池辺いこのべ(現神奈川県横浜市緑区)師岡もろおか(現同市港北区)巣鴨すがも(現豊島区)中里なかざと(現北区)に合計一千石の寺領を安堵された(「御当慶長家令条」増上寺史)。当時の住持一二世源誉存応は当寺中興として知られ、同一五年に普光観智国師号を与えられている(「三縁山志」「増上寺史」など)

〔伽藍の造立と寺領の拡大〕

芝への移転後、慶長一〇年幕府により増上寺諸堂、本堂・三門・経蔵・表門・方丈・学寮などの造営が行われ、数年の月日を費やし大伽藍が完成(「三縁山志」など)。諸堂配置に関しては源誉存応を中心に協議され、本堂を境内の中央に建立し、三門を九谷の半ばに開き、輪蔵・祖堂・神廟・鐘閣を左右に並列し、子院・祭社を南北に連続する。この伽藍配置は外国・他宗にもよらず、純然たる浄土宗教義による諸堂配置の第一号寺院であるという(三縁山志・増上寺史)。寛永元年(一六二四)に改造、元禄九年(一六九六)に修復が行われ、以後も度々修復・造設などが行われている(「三縁山志」など)。境内は二〇万坪余、別当寺院一一ヵ寺・子院三一ヵ寺、学寮は時代により増減はあるものの一〇〇軒前後が建ち、山内には三千余名の僧侶が常住したという。寛永一八年には東照宮が創建されている(「増上寺史」など)。明暦三年(一六五七)の大火以後、寛文元年(一六六一)より麻布狸穴まみあなに置かれていた戒法かいほう寺・本願ほんがん寺・最上さいじよう寺・光取こうしゆ寺・清岸せいがん寺・正福しようふく寺・善長ぜんちよう寺・了福りようふく寺の子院群が芝白金しろかね上大崎かみおおさき(現品川区)に移転している。この子院群は増上寺下屋敷と唱え、構内には火葬場や斃牛馬焼捨場などがあった(「風土記稿」、「布令留」史料集明治初期被差別部落)。このほか寛文二年には麻布宮村あざぶみやむら町に増上寺隠居屋敷と隠居領として二〇〇石を与えられている(芝区誌・三縁山史)。享和二年(一八〇二)の幕府決定により、文化元年(一八〇四)蝦夷地ウス(現北海道伊達市)に末寺善光ぜんこう寺を建立、住僧を派遣した。いわゆる蝦夷三官寺の一である。

寛文五年の増上寺領目録(寛文朱印留)によると池辺村三〇〇石・師岡村二〇〇石・巣鴨村一三〇石のほか、荏田えだ村七〇四石・東方ひがしがた村一四八石・川和かわわ村三七六石余・石川いしかわ村五〇〇石(以上現緑区)、新師岡村一二七石余・茅崎ちがさき村一五六石(以上現港北区)王禅寺おうぜんじ村一九二石(現横浜市麻生区)馬込まごめ村三八八石・堤方つつみかた村三五一石余・蓮沼はすぬま村一二九石余(以上現大田区)、中目黒村一八一石・下目黒村一八七石・碑文谷ひもんや村一三石・ふすま村三〇四石(以上現目黒区)中延なかのぶ(現品川区)一〇二石余、等々力とどろき(現世田谷区)一七五石など合計五千石と、慶安三年(一六五〇)寄付された久ヶ原くがはら(現大田区)一三一石など合計二〇〇石の隠居領があった。幕末期における方丈領は一千五〇〇石、隠居料二〇〇石、霊舎料は九千四五石を給されていた(寺格帳)青龍せいりゆう寺の東、増上寺境内の切通しに時の鐘がある(嘉永三年尾張屋版切絵図など)。元和五年(一六一九)長谷川豊前が西久保八幡山に建立したが寛文一〇年中絶、延宝二年(一六七四)御霊屋御用のために当寺が再建した。文政(一八一八―三〇)頃は芝富山しばとみやま町家主藤右衛門請負(文政町方書上)

〔江戸名所としての増上寺〕

当寺は東叡山寛永寺と並ぶ江戸の巨刹で、将軍や武家のみならず庶民の信仰も集め、催される行事は参詣の人々で大いに賑わったという。とくに一月二五日、一山惣出仕で行われる御忌法会、七月一八日の開山忌、一〇月六日から一五日にかけて行われるお十夜などは盛大に行われ、老若男女貴賤を問わず群集したという(東都歳事記・絵本江戸風俗往来)。山内の美観は江戸名所として賞せられ、貞享三年(一六八六)竹林昌堂が境内の佳勝に万杉林・霜楓磴・翠柳すいりゆう井・台霊廟・白蓮池・極楽ごくらく橋・涅槃ねはん巌・垂桜樹・円山月・北渓雪を選んで十景とし、さらに宝暦(一七五一―六四)に至り十二景が選ばれ、天明(一七八一―八九)には二十景、後には二十四景が定められた(新撰東京名所図会)。ほかにも増上寺内茅野かやの天神は梅の名所として知られていた(江戸名所花暦)

〔近代以降の変貌〕

明治五年(一八七二)寺中一円が三縁さんえん町一―五丁目とされ、翌年公園地に編入されて芝公園地と改称。公園となったのはもとの境内地の分より海軍省用地七千七六坪余・開拓使用地八千六九〇坪余・徳川家墓地二万七千八〇坪余、増上寺子院寮舎五〇余宇地、公園地内地代上納場所のうち一字新道通東側、大門内外左右、元御成門・涅槃門外などを除いた一六万八千五五九坪余である(増上寺史・新撰東京名所図会)。明治八年には大本山となった。同六年一二月一三日火災により大殿と鐘楼堂などが焼失。同一二年より再建が行われたが、同四二年四月一日再び火災に遭い、再建の大殿・護国殿・飛雲閣などが焼失した。昭和二〇年(一九四五)三月九日・一〇日と五月二四日・二五日の大空襲により三解脱門・大経蔵・黒門・御成門などを残して多くの堂舎が灰燼に帰している(「増上寺史」「港区の文化財」など)

〔開拓使仮学校〕

明治二年九月三日、北海道静内しずない郡の地が当寺に割渡された(開拓使事業報告)。同四年八月二七日東京開拓使出張所が小網こあみ稲荷いなり(現中央区)から本坊に移転(開拓使公文鈔録)、同五年三月一四日寺内に開拓使仮学校(四月一五日開校)を置いた(北海道大学創基八十年史)。同年六月二三日には仮学校内にアイヌの教育ならびに農業技術修得のための教育所設置の伺書が太政官に提出され、承認された(「開拓使公文録原稿」北海道立公文書館蔵簿書)。同年九月一九日仮学校内に女学校が置かれている(前掲八十年史)。同八年七月二九日仮学校は札幌さつぽろ(現北海道札幌市)に移されて札幌学校(札幌農学校の前身)と改称、八月二四日女学校も札幌に移された(開拓使布令録)

〔現況〕

現在の増上寺は芝公園四丁目と飛地合せて境内二万七千坪余。昭和二七年から順次再建が行われ、同四九年には鉄筋コンクリート製の近代的な大殿が再建された。三解脱門は国の重要文化財、経蔵は都の文化財に指定される。寺蔵の紙本著色法然上人伝・大蔵経(宋版・元版・高麗版)・花園天皇宸翰宸記日記は国指定重要文化財、木造広目天立像・同多聞天立像、同四天王立像、同釈迦如来および両脇侍像、同阿弥陀如来坐像、同阿弥陀如来立像、同十六羅漢像は都指定文化財。このほか多数の典籍・文書類を含む文化財を所蔵する。当寺に設置された徳川家の霊廟・墓所は一三基に上る。将軍は台徳院(二代秀忠)・文昭院(六代家宣)・有章院(七代家継)・惇信院(九代家重)・慎徳院(一二代家慶)・昭徳院(一四代家茂)の六基。ほかに崇源院(秀忠夫人)・桂昌院(五代将軍綱吉生母)・清揚院(家宣父)・天英院(家宣夫人)・月光院(家継生母)・広大院(一一代将軍家斉夫人)・静寛院(家茂夫人・和宮)のものがあったが、現在は境外になった(墓は境内に改葬)。旧台徳院霊廟惣門、有章院霊廟二天門は国指定重要文化財。

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増上寺の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1354
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検索コンテンツ
1. 増上寺
日本大百科全書
東京都港区芝公園にある浄土宗の大本山。山号は三縁山広度院(さんえんざんこうどいん)。もと千代田区紀尾井(きおい)町の貝塚に宗叡(しゅうえい)が創建し、光明院とい ...
2. 増上寺
世界大百科事典
浄土宗六大本山の一つ。三縁山広度院増上寺,略して縁山という。1393年(明徳4)浄土宗第8祖聖聡が,武蔵国豊島郡貝塚台局沢(現,千代田区平河町付近)にあった真言 ...
3. ぞうじょう‐じ【増上寺】地図
デジタル大辞泉
東京都港区芝公園にある浄土宗関東大本山。山号は三縁山。もと貝塚村(千代田区)にあった真言宗の光明寺を、元中2=至徳2年(1385)聖聡が改宗して現名称に改め、の ...
4. ぞうじょう‐じ[ゾウジャウ‥]【増上寺】
日本国語大辞典
井町一帯)に創設し真言宗をとなえた。明徳四年(一三九三)聖聰(しょうそう)が浄土宗に改宗し、増上寺と改名。徳川家康の入府後徳川家の菩提寺となり、慶長三年(一五九 ...
5. ぞうじょうじ【増上寺】
国史大辞典
たが、まだ数百点に及ぶ古文書と日鑑が現存し、史的解明に役立っている。 [参考文献]増上寺史料編纂所編『増上寺史料集』、摂門編『三縁山志』(『浄土宗全書』一九)、 ...
6. 増上寺(ぞうじょうじ)【篇】
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 389ページ ...
7. 増上寺(ぞうじょうじ)
デジタル大辞泉プラス
東京都港区にある寺院。1393年創建。浄土宗大本山。本尊は阿弥陀仏。三解脱門は国の重要文化財に指定。 2015年05月 ...
8. ぞうじようじ【増上寺】東京都:港区/旧芝区地区/芝公園地地図
日本歴史地名大系
も教線が及び、本芝に田中山相福院西応寺(照誉明賢)が創建され(蓮門精舎旧詞)、増上寺の開創がこれに続いた。増上寺が創建されると、聖冏は五重伝法といった法脈を制度 ...
9. 増上寺住職選擧 (見出し語:増上寺【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 842ページ ...
10. 増上寺大藏經刊行 (見出し語:増上寺【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 307ページ ...
11. 増上寺學寮 (見出し語:増上寺【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第3巻 142ページ ...
12. 増上寺鐘 (見出し語:増上寺【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 1108ページ ...
13. 増上寺靈廟 (見出し語:増上寺【篇】)
古事類苑
禮式部 洋巻 第2巻 1207ページ ...
14. 増上寺大殿[百科マルチメディア]
日本大百科全書
徳川家康により1590年(天正18)に徳川家の菩提寺(ぼだいじ)とされ、以来、寺運隆盛を極めた。東京を代表する寺院の一つである。東京都港区  ...
15. ぞうじょうじ‐びゃくし[ゾウジャウジ‥]【増上寺白〓
日本国語大辞典
*日本植物名彙〔1884〕〈松村任三〉「ハナウド ザウジャウジビャクシ」増上寺に多く生え、その形、臭気などが白 ...
16. ぞうじようじしもやしき【増上寺下屋敷】東京都:品川区/上大崎村地図
日本歴史地名大系
に、芝増上寺の下屋敷とそれを取囲む形に子院群が配置されていた。浄土宗大本山増上寺は江戸時代、徳川将軍家の菩提寺として大きな勢力をもっていた。当地の子院群は江戸時 ...
17. 増上寺三大藏經 (見出し語:大藏經)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 394ページ ...
18. 増上寺德川將軍廟 (見出し語:德川將軍【篇】)
古事類苑
宗教部 洋巻 第4巻 396ページ ...
19. 歌川広重『東都名所 芝増上寺山内ノ図』[百科マルチメディア]
日本大百科全書
1832年(天保3) 〓古典版画東洲斎/画像提供 ...
20. 三縁山増上寺[図版]
国史大辞典
江戸名所図会 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
21. しばこうえんいつちようめぞうじようじしいんぐん【芝公園一丁目増上寺子院群】東京都:港区/旧芝区地区/芝公園地地図
日本歴史地名大系
状況は認められないという。江戸時代の当該地は増上寺子院の光学院・貞松院・源興院にあたる。芝公園一丁目五番が光学院・貞松院、八番が源興院である。増上寺が現在地に移 ...
22. あい‐たん【哀嘆】
日本国語大辞典
由を伝聞て、哀歎して、行て中将殿を見奉るに」*東京新繁昌記〔1874〜76〕〈服部誠一〉三・増上寺「自由を得て反って耶須〈僧妻有るを耶須と曰ふ〉に別るるの哀歎有 ...
23. あおやまただなり【青山忠成】
国史大辞典
同十一年に失脚、のち許され、数回の加増を経て二万八千石を領した。慶長十八年二月二十日没。六十三歳。江戸芝増上寺に葬る。 [参考文献]『大日本史料』一二ノ一〇 慶 ...
24. あかばねえんみよういんもんぜん【赤羽円明院門前】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
延享二年(一七四五)町奉行支配になって年季を切換えてきたが、天明六年(一七八六)類焼して稲荷境内とも増上寺山内防火明地になり、翌年町奉行掛で新堀河岸通に増坪して ...
25. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 46ページ
東洋文庫
赤松大三郎印 東海道(=)釜屋 此頃は東海道を関西の方 面へ旅立つ場合には、多くは芝赤 羽根橋の西角(増上寺の裏門に向 ひ合った)瓦屋といふ待合茶屋 (店内は ...
26. あかん‐どう[アクヮンダウ]【阿観堂】
日本国語大辞典
〔名〕阿彌陀如来と観世音菩薩とを安置した堂。東京都港区の増上寺などにあった。 ...
27. 秋山記行・夜職草 228ページ
東洋文庫
本所四丁目の宿菱屋に旅装を解いた。江戸では浅草、上野、不忍池、東叡山、蝶螺堂、亀井戸天神、三囲稲荷、愛宕、芝増上寺、泉岳寺、深川八幡、山王祭、吉原などを見物し、 ...
28. あくつむら【明津村】神奈川県:川崎市/高津区地図
日本歴史地名大系
寛永一〇年(一六三三)旗本駒井領、元禄一〇年(一六九七)幕府直轄領、正徳三年(一七一三)以降江戸芝増上寺領。延享四年(一七四七)の稲毛川崎用水通田反別堰々諸色人 ...
29. あさくさこうえんち【浅草公園地】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
成立。同年一月公園設立に関する太政官布告が出され、同年三月二五日、東京府は浅草寺・寛永寺・芝増上寺・深川富岡八幡、飛鳥山(現北区)の五ヵ所を公園として整備するこ ...
30. あざぶいつぽんまつちよう【麻布一本松町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
代不明)で、同社の除地のうちとなり町入用は同町から出している。同所続きの拝領町屋敷一ヵ所は芝増上寺掃除者吉井藤左衛門(他所に住居)が拝領主で、表田舎間七間余・裏 ...
31. あざぶがぜんぼうちよう【麻布我善坊町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
ついで龕前房谷の文字がみえる(貞享四年「江戸鹿子」など)。寛永三年(一六二六)の徳川秀忠夫人お江の増上寺から六本木の火葬地に至る葬儀経路にあたり(文政町方書上な ...
32. あざぶたじまちよう【麻布田島町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
元禄一三年(一七〇〇)武家一〇人が拝領して町屋になった。以後、同年白金御殿番八人、宝永三年(一七〇六)芝増上寺御霊屋掃除頭二人、同五年中に武家一八人・一六人・一 ...
33. あざぶていきやしき【麻布貞喜屋敷】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
[現]港区元麻布三丁目 麻布宮村町の西にある拝領町屋。西は同永坂町・同宮村町、南は増上寺隠居屋敷・永坂町、北は麻布宗英屋敷。西丸表坊主頭早野貞喜が拝領し、貞弥が ...
34. あざぶながさかちよう【麻布永坂町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
大田原家上屋敷。南西方に飛地(現元麻布三丁目)があり、東と北は麻布宮村町、西は安全寺、南は芝増上寺下屋敷など。飯倉町通から南へ下る永坂両側の所々に町屋を形成した ...
35. あざぶみなみひがくぼちよう【麻布南日下窪町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
南は二ノ丸留守居小人川治平吉邸、北は麻布北日下窪町・同正信寺門前。西部分は東と西が同永坂町、南が増上寺下屋敷、北が麻布宮村町。南北の町とも文政町方書上・「御府内 ...
36. あざぶみやむらだいちまち【麻布宮村代地町】東京都:渋谷区地図
日本歴史地名大系
、南は下豊沢村のうち医師岡本玄冶抱屋敷。元地の麻布宮村町(現港区)は寛文二年(一六六二)に芝増上寺住職の隠居屋敷ができて各地に代地を受け、同八年新地奉行が初めて ...
37. あざぶみやむらちよう【麻布宮村町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
敷および同抱屋敷)、西は増上寺隠居屋敷の間で樹木が茂っているためか。東側分は町内持、西側は増上寺持。狐坂は新道西方の南の通りで(前掲書上)、狐が女に化けたという ...
38. あざぶむら【麻布村】東京都:港区/旧麻布区地区
日本歴史地名大系
江戸に送って徳川家康の首実検に供したうえ、浅布の原に首塚を築かせ、増上寺源誉と玉蔵院忠義に焼香を命じたという。麻布一本松町付近あるいは同宮村町増上寺屋敷跡ともい ...
39. あざぶりゆうどちよう【麻布竜土町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
[現]港区六本木七丁目 麻布台地頂部からやや北西にある年貢町屋。東方芝増上寺に通じる往還(現外苑東通)に面する片側町で、おもな区画は三角形だが、背後の南西に小さ ...
40. あざぶろつぽんぎちよう【麻布六本木町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
寛永三年(一六二六)二代将軍徳川秀忠夫人お江(お江与・逵子、崇源院、徳川家光生母)が没し、芝増上寺から西方の当地で火葬された。三回忌後の同六年菩提のため火葬地に ...
41. 足尾鉱山
世界大百科事典
47年(正保4)以降は,幕府直営の〈公儀御台所御用山〉として再開発され,江戸城や東照宮,芝の増上寺の銅瓦などを製造した。62年(寛文2)から6年間は毎年300t ...
42. あたごしたちようよんちようめ【愛宕下町四丁目】東京都:港区/旧芝区地区地図
日本歴史地名大系
[現]港区新橋五―六丁目 明治五年(一八七二)に成立した町で、愛宕下町三丁目の南にあたる。増上寺の南、愛宕下大名小路の東側に位置し、幕末には陸奥仙台藩伊達家中屋 ...
43. あねがこうじのつぼね【姉小路局】
国史大辞典
和宮降嫁を上洛して斡旋。のち本所の進家に養われる。明治十三年(一八八〇)八月九日没。八十六歳。増上寺山内松蓮社に葬る。 (進士 慶幹)  ...
44. あみだじ【阿弥陀寺】北海道:空知支庁/岩見沢市/岩見沢村
日本歴史地名大系
岩見沢では最も古い寺で、明治二〇年に寺号公称を認められた(阿弥陀寺寺史・寺院沿革誌)。本尊は同二七年に芝増上寺から下付されたもの、脇士の観音・勢至二体は檀徒から ...
45. あみだじ【阿弥陀寺】神奈川県:足柄下郡/箱根町/塔之沢地図
日本歴史地名大系
圭頭碑を造立した。その後、江戸芝の浄土宗増上寺派となり、元禄一六年(一七〇三)増上寺三四世証誉の定(同文書)に「勧行を専らとする無縁の捨世寺として増上寺の許容を ...
46. アメリカ彦蔵自伝 2 209ページ
東洋文庫
間に郵便協定が結ばれた。 岩倉具視の遭難 一八七四年一月。芝の増上寺の壮麗な伽藍が焼失した。 一月十四日には第二国務長官の岩倉〔右 ...
47. あんこくじ【安国寺】埼玉県:越谷市/大泊村地図
日本歴史地名大系
開山などの由来については諸説があり、延文六年(一三六一)称阿が開山した(元禄八年「浄土宗寺院由緒書」東京都増上寺文書)とも、寛正二年(一四六一)誠誉専故が開山し ...
48. nbsp;あんじんちよう【安針町】東京都:中央区/旧日本橋区地区地図
日本歴史地名大系
三浦按針)が家康から当地に屋敷地を与えられたことから名付けられた。アダムズが拝領する以前には増上寺があったという(求涼雑記)。安永三年小間附町鑑によれば京間四二 ...
49. あんま‐し【按摩師】
日本国語大辞典
〉」(2)按摩の術を施す人。あんま。*東京新繁昌記〔1874〜76〕〈服部誠一〉三・増上寺「按摩師牛屎を踏んで前に滑倒して光頭地を拝し」 ...
50. いあいぬき【居合抜】
国史大辞典
居合抜を演じ、その後浅草奥山で長井兵助が歯磨売りに居合抜を演じて明治まで五代に及んだ。その他増上寺御成門外などにもいたという。香具師(やし)仲間の統制下に属し、 ...
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興福寺(国史大辞典)
奈良市登大路町にある法相宗大本山。南都七大寺の一つ。寺伝では「こうぶくじ」という。縁起によると、天智天皇八年(六六九)藤原鎌足の死去に際し、妻の鏡女王が鎌足の念持仏の釈迦丈六像などを祀る伽藍をその山階(山科)邸に設けたのに始まり(山階寺)、その子不比等によって藤原京の厩坂に移遷(厩坂寺)
東大寺(国史大辞典)
奈良市雑司町にある華厳宗の総本山。大華厳寺・金光明四天王護国寺・総国分寺などの別称がある。南都七大寺・十三大寺・十五大寺の一つ。東大寺の寺号は平城京の東方にある大寺を意味し、『正倉院文書』の天平二十年(七四八)五月の「東大寺写経所解案」に初見するが
法隆寺(日本大百科全書・世界大百科事典)
奈良県生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳(しょうとく)宗総本山。斑鳩寺(鵤寺、伊可留我寺とも書く)、法隆学問寺などの異称がある。南都七大寺の一つ。草創の由来は、金堂の薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)光背銘によると、用明(ようめい)天皇が病気平癒を念じ
渭伊神社(日本歴史地名大系)
[現]引佐町井伊谷。井伊谷(いいのや)の北西端に鎮座する。社域西側を神宮寺(じんぐうじ)川が半円を描いて流れ、杉・檜・楠の古木が社叢をなす。祭神は品陀和気命・息気長足姫命・玉依姫命。旧郷社。「延喜式」神名帳にみえる引佐郡六座のうちの「渭伊(イイノ)神社」に比定される。
天竜寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町にある臨済宗天竜寺派の大本山。霊亀山天竜資聖禅寺と号する。本尊は釈迦如来。京都五山の第一。1339年(延元4・暦応2)、後醍醐天皇が吉野行宮で崩御するや、足利尊氏・直義の兄弟が夢窓疎石の勧めによって、後醍醐天皇の冥福を祈るために創建した寺であり
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浜松城(国史大辞典・日本大百科全書・日本歴史地名大系)
静岡県浜松市元城町にあった城。平山城。三方原洪積台地の最東南端に徳川家康が築城し、浜松城と称え、この地を引馬から浜松に改称した。引馬旧城主飯尾連竜は今川氏真に謀殺され、その留守を預かる老臣間の内紛を平定した家康が、元亀元年(一五七〇)、遠江経営と武田
鶴岡八幡宮(国史大辞典・日本歴史地名大系)
神奈川県鎌倉市雪ノ下に鎮座。旧国幣中社。源氏の氏神であり、鎌倉の町の中心として存在してきた社で、明治の神仏分離までは鶴岡八幡新宮若宮(いまみやわかみや)・鶴岡八幡宮寺とも称した。大分県の宇佐、京都府の石清水(いわしみず)両宮とともに全国の八幡宮を代表
恭仁京(世界大百科事典・日本大百科全)
奈良時代中ごろの都城。現在の京都府南部の木津川市に営まれた。740年(天平12),九州で藤原広嗣の乱が起こったのを契機に平城京を離れた聖武天皇は,伊勢,美濃,近江をめぐった後,12月15日山背国南端の久仁郷の地に至り恭仁京の造営に着手した。翌年11月
遷宮(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
神社で、一定の年数を定めて、新殿を造営し、旧殿の御神体をここに遷すこと。そしてこの新殿の造営を式年造営といい、また仮殿遷宮と対称して正遷宮とも称せられる。伊勢神宮の例が著明である。伊勢神宮に式年遷宮の制が立てられた年次については
長谷寺(日本大百科全書(ニッポニカ))
奈良県桜井市初瀬にある寺。真言宗豊山派総本山。豊山神楽院長谷寺と号する。初瀬寺とも書かれ、豊山寺、長谷観音とも称する。本尊は十一面観音。西国三十三所第8番札所。686年(朱鳥1)弘福寺(川原寺)の道明上人が天武天皇の病気平癒祈願のため、法華説相図銅板(千仏多宝塔を鋳出)
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