山梨・静岡両県にまたがる、玄武岩を主とする成層・円錐(えんすい)火山。かつての富士火山帯の主峰であるが、全国最高の標高(3776メートル)と美しい容姿のために、古来、日本の象徴として仰がれ、親しまれ、海外にもよく知られる活火山。その傾斜は山頂部で32~35度、裾野(すその)は2~3度で、美しい対数曲線を描き、基底の直径は東西約35キロメートル、南北約38キロメートル。
昔は「不尽」「不二」「富慈」などと書かれ、アイヌ語の「フチ」(火)に由来するとの説もある。富士箱根伊豆国立公園(1936年指定)の主人公で、長崎県の雲仙(うんぜん)岳とともに特別名勝の指定を受けている。裾を広く四方に広げているが、北麓(ほくろく)には、御坂(みさか)山地などの周囲の山々との間に、富士山の溶岩流でせき止められて生じた富士五湖(山中、河口(かわぐち)、西(さい)、精進(しょうじ)、本栖(もとす))があり、観光開発が進み、四季を通じて来遊者がとくに多い。日本三名山の一つ(他は立山(たてやま)と白山(はくさん))。
[諏訪 彰] [中田節也]
富士山は日本の最高峰であるが、実はその下に数十万年前までにできた先小御岳(せんこみたけ)、小御岳の古い火山が存在する。富士山自身は古富士と新富士の二つの火山からできており、新富士火山は約1万年前から活動を開始した。噴出物の厚さは最大1500メートル足らずである。つまり、私たちが仰ぎ見る富士山は、何重にも火山が重なった結果できた成層火山である。また、富士山は比較的若い火山で、過去約300年も噴火しなかったとはいえ、将来かならず再噴火すると考えられ、油断は禁物である。
富士山は、フィリピン海プレートが日本列島に衝突している伊豆半島の付け根の背後という特異な場所に位置している。約2500万~2000万年前(中新世)の海底火山噴出物からなる地層(御坂統(みさかとう))が小御岳や同時代の愛鷹(あしたか)火山の基盤である。小御岳火山の一部は、河口湖からの登山自動車道「富士スバルライン」の終点、小御岳(五合目)付近に露頭している。古富士火山はいまから約8万年前に活動を始め、激しい爆発型噴火を繰り返し、南関東にも盛んに玄武岩質の火山灰を降らせ、京浜地域の台地面をつくっている「関東ローム」(詳しくは立川(たちかわ)ローム、武蔵野(むさしの)ローム)を堆積(たいせき)させた。その火山灰は、東京付近では、肉眼では個々の粒を識別しかねるほど細かく、層厚も数メートルであるが、それを富士山方向にたどっていくと、しだいに粒が粗くなり、層厚も増していく。東麓の御殿場(ごてんば)、須走(すばしり)などでは、褐色で粗粒の火山礫(れき)の地層が重なって数十メートルの厚い層をなしている。
また、富士山麓では、数万年前におきた山体崩壊の堆積物(岩屑(がんせつ)なだれ堆積物)がみいだされる。これは「古富士泥流」とよばれ、古富士火山の表層をなしている。この古富士火山は、いまから約1万年前、つまり更新世から現世に移るころ、噴火活動の様相が急変した。以後、約1000年にわたり、おもに多量の溶岩を四方へ流出させる噴火活動が盛んに繰り返され、現在見られる富士山の原形がほぼできあがった。中央火口から30~40キロメートルの遠方まで流下した猿橋(さるはし)溶岩、岩淵(いわぶち)溶岩、三島(みしま)溶岩などがそれである。古富士山の一部が、1707年(宝永4)の大噴火で生じた火口に「赤岩(あかいわ)」(標高約2700メートル)としてわずかに露出している。
いまから約1万年前から新富士火山が活動を開始した。新富士火山は、近くは前記の宝永(ほうえい)大噴火まで、しばしば噴火を繰り返し、爆発による火山砕屑(さいせつ)物や流出した溶岩で古富士火山を覆い隠しながら成長してきたが、約2500年前に東斜面で山体崩壊がおき「御殿場泥流」を堆積した。富士山は頂部から山腹には寄生火山・寄生火口が60以上あり、多くが山頂を通る北北西―南南東方向(富士火山帯の走向)に分布する。また、山麓に分布する風穴(ふうけつ)・氷穴(ひょうけつ)は玄武岩溶岩が流れる際にできた溶岩トンネルの一部である。富士五湖は、玄武岩質溶岩が河川をせき止めてできたものである。その湖底からは富士山の地下水も湧(わ)き出しているが、山中湖以外は自然の排水口がなく、水位はかなり激しく変動する。なお、皇室系譜で第7代の孝霊(こうれい)天皇5年に、一夜のうちに大陥没により琵琶(びわ)湖ができ、同時に、大隆起で富士山が誕生したなどという、富士山の出現時期についての諸伝説があるが、科学的には不合理で、事実に反する。
[諏訪 彰] [中田節也]
新富士火山の噴火活動は、平安時代(およそ8世紀末~12世紀末)まではとくに活発に繰り返された。最古の噴火記録は、万葉歌人の高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)の作と伝えられる長歌「不尽(ふじ)山を詠む歌」のなかの「燃ゆる火を雪もて消(け)ち 降る雪を火もて消ちつつ」と書かれた部分で、養老(ようろう)年間(717~724)の西暦720年前後の噴火であろうと推察されている。歴史書に残された噴火は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記された781年(天応1)を皮切りに、800年(延暦19)、864年(貞観6)、1707年(宝永4)の三大噴火など、計10回ほどである。
1083年(永保3)までは、平均して約30年ごとに噴火を繰り返したが、それから1707年の大噴火までの6世紀余の間にはわずか3回しか噴火せず、ことに1083年の噴火の後は約300年間も噴火がみられなかった。さらに、1707年の大噴火の後も、すでに約300年が流れ去った。しかも、1083年までの諸噴火は概して勢いが盛んで、しばしば溶岩流も発生したが、その後は火山灰を放出する噴火に限られ、また、噴火規模の点でも、1707年を除けば、さしたる噴火はなかった。また、『本朝文粋(ほんちょうもんずい)』中の都良香(みやこのよしか)の「富士山記」、作者不明の『竹取物語』など、多くの文献からみて、富士山は有史時代に入ってからも永く煙を吐き続けていたと考えられる。その噴煙活動が画期的に衰え始めたのは、前記の1083年の噴火の後である。それでも、以後約1世紀間は連続的に多少とも噴煙していたことが、西行(さいぎょう)法師の『山家集(さんかしゅう)』などからうかがえるが、阿仏尼(あぶつに)の『十六夜(いざよい)日記』などからみて、平安・鎌倉両時代の交(こう)に噴煙はまったくとだえてしまったらしい。
『日本後紀』『日本紀略』などによれば、800年の大噴火では、山頂や山腹で爆発活動と溶岩流出活動が盛んに展開され、広く東海道および南関東地方の交通文化のうえにも一大変化をもたらした。東海道の足柄路(あしがらじ)が多量の降灰砂でふさがれたため、802年に箱根路が新しく開かれた。足柄路も803年に再開されたが、東名高速道路ができるまで、箱根路にお株を奪われてきた。また、北東麓にあった宇津湖はこの大噴火の溶岩流鷹丸尾(たかまるび)によって分断され、一方の山中湖は残っているが、忍野(おしの)地域の湖では湖水が桂(かつら)川となって流出し、「忍野八海(はっかい)」(国指定天然記念物)を残して干上がった。864~866年の山腹噴火のようすは『三代実録』などに記されているが、地質調査からもその活動の激しさが推察され、富士山の有史以来最大の噴火で、青木ヶ原、剣(けん)丸尾などの大溶岩流が発生し、前者は北麓の海(せのうみ)を西(さい)湖と精進(しょうじ)湖に二分した。ボーリング調査によると、このときの噴出物量は宝永噴火のそれを上回っていたようである。
1707年の大噴火は、山腹での激しい爆発活動に終始し、まず、富士山としては約2500年ぶりのデイサイト質の火山灰・軽石や黒曜石が噴出し、引き続いて玄武岩質の火山灰・火山砕屑物が噴出した。総噴出物量は約17億立方メートル(マグマに換算すると6億8000万立方メートル)で、東方約90キロメートルの川崎でも約5センチメートルの厚さの火山灰が積もった。当時の状況は、新井白石(あらいはくせき)の『折たく柴(しば)の記』などに記されている。江戸でも噴火の強い地震、鳴動、爆発音、空振がしきりに感じられ、黒雲が天を覆い、噴火開始の数時間後から灰白色の灰に引き続いて、灰黒色の灰が降り、昼間も灯火を用いたという。江戸では降灰が10日以上続き、降ってくる火山灰と堆積(たいせき)した火山灰が風で巻き上げられたため、関東一円に呼吸器疾患が大流行したという。宝永噴火の49日前にはマグニチュード8.7の地震(宝永東海地震)がおきていた。
[諏訪 彰] [中田節也]
富士山の頂には直径約800メートル、周囲約3.5キロメートル、深さ200余メートルの火口があり、「内院」とよばれている。その火口縁は「お鉢」とよばれ、南西側に全国最高点・標高3776メートルの剣ヶ峰(けんがみね)、北側には標高3756メートルの白山(はくさん)岳があり、剣ヶ峰から東回りに三島岳、駒(こま)ヶ岳、成就(じょうじゅ)岳、大日(だいにち)岳、久須志(くすし)(薬師)岳、白山岳と、数珠(じゅず)つなぎに火口を取り囲んでいる。「お鉢巡り」は約4キロメートルで、1時間半近くかかる。
剣ヶ峰には、1936年(昭和11)創設の富士山測候所があり、日本の気象観測の重要拠点で、最大探知距離800キロメートルのレーダーがあった。衛星による観測が充実したため、富士山測候所の常駐観測は2004年(平成16)10月より廃止された。気温は年平均零下6.5℃、従来の最低は零下38.0℃、最高は17.8℃で、夏でも雪が降ることがある。従来の最大風速は秒速72.5メートルであり、冬には連日秒速20メートル以上の強風下で吹雪(ふぶき)が続くことが多い。酸素量や気圧は平地の約3分の2で、水は88~87℃ほどで沸騰する。富士山全体への降水量は年間約20億立方メートル(約2割は積雪による)と見積もられるが、山腹には湧水がごく乏しい。新富士火山を構成する溶岩流や火山砕屑物の層が多孔質で、水が地下深く浸透してしまうためである。この伏流水は、古富士火山の表層をなす不透水性の泥流堆積物の上面に沿って流下し、山麓の白糸ノ滝、富士五湖底、忍野八海などに湧出するほか、御殿場、三島、富士宮(ふじのみや)各市などでの豊富な湧水は地域産業の発展に役だっている。山腹での地下水の取得は、富士山の本格的開発への鍵(かぎ)である。もっとも、山麓をはじめ、中腹(北側の五合目、南側の新五合目など)まで自動車道路網が整備され、観光開発が飛躍的に進展し、むしろ、自然保護や防災との兼ね合いが深刻な難問になってきた。また、裾野には自衛隊やアメリカ軍の演習地がある。
富士火山は、全国民の関心の的であるだけに、第二次世界大戦後も、噴煙の発生や地温の上昇、噴気の活発化などの異常現象の発現がしばしば報じられたが、実は、強風やつむじ風で砂塵(さじん)が吹き上げられて噴煙に見間違えられたり、積雪が強風や雪崩(なだれ)で吹き飛ばされて局所的に地肌が露出したのを、地温の上昇や噴気の活発化のためと早合点されたものばかりであった。山頂の成就岳の荒牧(あらまき)、山腹の宝永火口や須走口三合目などに散在する噴気・地熱部の温度も、近年はかなり低下しており、火山性地震はときどき観測されている。
2002年(平成14)秋ごろから山頂北東部の地下約15キロメートルの深さを震源とする低周波地震が群発し、防災対策がとられ始めた。国や地方自治体も富士山のハザードマップを作成し、防災訓練を実施するようになった。2011年3月11日のマグニチュード9.0の東北地方太平洋沖地震の直後、3月15日に富士山の直下約10キロメートルの深さを震源とするマグニチュード6.4の地震が発生した。その後1年間は、地震活動が弱まりながら継続したが、地震活動以外に噴火の前兆となる現象は観測されなかった。富士山では、防災科学技術研究所、国土地理院、気象庁、東京大学、山梨県などが地震計やGPS(全地球測位システム)などによる観測を続けている。また、この付近には、東海大地震に備えての関係諸機関の各種の観測網も張り巡らされている。さらに、産業技術総合研究所、東京大学、日本大学などでは、富士山の過去の噴火履歴を解読するための研究を精力的に進めている。
[諏訪 彰] [中田節也]
富士山のもっとも深刻な問題は、風化・侵食による斜面崩壊である。標高2450メートル以上は露岩地帯で、風化作用が進み、また山腹には、西側の「大沢」、北東側の「吉田大沢」など、多数の沢(放射谷)が発達している。とくに前者の「大沢崩れ」は長さ約10キロメートル、幅最大500メートル、深さ約150メートルの巨大な谷で、裾野から剣ヶ峰に達する。斜面崩壊は続いている。吉田大沢では、1980年(昭和55)夏、吉田口登山道「砂走り」を下山中の数百人の集団が落石群に襲われ、死者12人、負傷者31人を出した。斜面崩壊は東側山腹でも急速に広がっている。この問題に対して、防災工事も行われているが、抜本的対策はなく、まさに不治(富士)の病である。
また、富士山頂には、南側の剣ヶ峰と北側の白山岳に三角点があり、前者が日本の最高峰であるが、その標高は、明治維新後の1885年(明治18)に3778メートルと正式に測量されてからも、測量し直すたびに低下してきた。1926年(大正15)の測量で、現在広く知られている3776(みななむ)メートルの根拠である3776.29メートルが得られた。その後、山頂の岩石が崩れて三角点標石が危険になったので、第二次世界大戦後の1962年(昭和37)に標石を下げて埋め直し、標高は3775.63メートルとなった。四捨五入すれば前と同じで、地図帳を直さなくてすんだが、実は、そうなるように細工して、コンクリートで固めたのである。さらに1977年にも同様な作業を行い、標高3776メートルを維持させているという。国土地理院も、実に苦心惨憺(さんたん)しているようである。
[諏訪 彰]
植物相からみると、富士山はこの地域に固有に分化したハコネコメツツジ属、ハコネラン属、アマギカンアオイ、カナウツギ、フジザクラなどの分類群を有しており、中部日本の山岳地域のなかでも特徴的である。したがって、日本の植物区系区分のなかでは箱根、伊豆諸島などとともにフォッサマグナ地域に含められている。また、火山砂礫(されき)地にはイワオウギ、ムラサキモメンヅルなど遺存分布と考えられる要素もみられる。しかし、一方では周辺の高山に分布するハイマツがみられないなど、その植物相の形成については、まだ未解明の部分を多く残している。
植生の面からみると、とくにその南麓(なんろく)は、海岸から3776メートルの山頂まで日本でもっとも大きな高度傾度を有しており、垂直分布帯が発達している。海岸から標高800メートル付近までは暖温帯(高度帯では丘陵帯)の常緑広葉樹林の領域で、400メートル以下にはタブノキ林、スダジイ林などが分布し、その上部はアカガシ林に移行する。しかし、この範囲は人為的破壊によって自然植生は断片的にしかみられず、そのほとんどは、居住地、スギ・ヒノキなどの植林地、自衛隊の演習地や放牧地としてのススキ草原となっている。
800~1600メートルにかけては冷温帯(山地帯)の落葉広葉樹林の領域である。この冷温帯と暖温帯の移行部に相当する800~1000メートルの地域には、丸尾(まるび)とよばれる溶岩流がいくつか分布する。この溶岩流はいずれも1000~1500年前に噴出したもので、現在ではツガ、ヒノキ、アカマツなどの針葉樹が優占した森林が発達している。樹海で知られる青木ヶ原丸尾はそのうちでも最大級で、東西8キロメートル、南北6キロメートルに及ぶツガとヒノキを主とする森林となっている。また、忍野(おしの)の鷹(たか)丸尾はハリモミ林が発達する特異なものである。この両者はそれぞれ「富士山原始林」「忍野八海(はっかい)」として国の天然記念物に指定されている。これ以外の土壌がよく発達した地域ではブナが優占し、一部ウラジロモミを交えた落葉広葉樹林がみられる。
1600メートル以上は亜高山帯(亜寒帯、寒温帯)の常緑針葉樹林である。富士山の場合、亜高山帯の下部はコメツガ、上部はシラビソが優占する(とくに上部ではカラマツ、ダケカンバを多く交え、一部にオオシラビソが混じる)。ほぼ2500メートルが森林限界で、ダケカンバ、ミヤマハンノキ、ミネヤナギなどがしだいに樹高を減じて限界を縁どっている。御庭(おにわ)周辺、宝永(ほうえい)火口などではカラマツが匍匐(ほふく)状になって森林限界の上部に出現する。さらにその上部はイタドリ、オンタデ、フジハタザオなどが散生した高山帯の火山荒原植生となる。
東斜面の御殿場から須走(すばしり)付近は、1707年(宝永4)の火口(宝永火口)の噴火によって植生が破壊されたうえ、その後の基質がスコリア質(岩滓(がんさい)質)で不安定なため、1300メートル以上の地域は遷移の進行が遅く、いまだにイタドリ、オンタデなどが散生した火山荒原植生が広がり、特異な高山帯的景観を呈している。一方、この裸地には、ミヤマハンノキ、ミネヤナギ、ダケカンバなど亜高山帯上部の植生を構成する種が降下してきているため、この裸地から安定な斜面に発達する森林に向かって、遷移の各段階を構成する群落が帯状に配列している。このように富士山には、植生遷移の進行速度の差によって発達段階の異なる植物垂直分布帯や植生のモザイク構造がよく認められる。
[大澤雅彦]
富士山の動物相は、日本の温帯系要素にオコジョ、トガリネズミ、ホシガラスなど若干の寒帯系要素が加わった本州中部山地の典型的なものである。富士山東面の須走付近は東日本有数の鳥類の繁殖地で「探鳥会」発祥の地として知られる。ここの山麓帯ではヤマドリ、ヨタカ、クロツグミ、ウグイス、キバシリ、亜高山帯ではホシガラス、アオバト、マミジロ、ヤマドリ、コマドリなどが繁殖し、樹木限界付近ではカヤクグリ、イワヒバリがみられる。鳥類が豊富なことは、青木ヶ原から精進(しょうじ)口登山道を経て吉田口登山道五合目に達する森林地帯でも同様であるが、この幅の狭い老年期の森林は日本有数の森林生コウモリの宝庫である。ここでは洞窟(どうくつ)生のコキクガシラコウモリ、キクガシラコウモリ、ウサギコウモリなどのほか、樹洞生のフジホオヒゲコウモリ、カグヤコウモリ、クビワコウモリ、コテングコウモリがみられ、尾瀬固有と思われていたオゼホオヒゲコウモリも生息していることが確認された。
この地帯にはほかの動物も種類が豊富で、亜高山帯にはカモシカ、オコジョ、ヒメヒミズ、トガリネズミ、リス、モモンガ、ヤマネ、低山帯上部にはフジミズラモグラ、カゲネズミ、ヒミズ、ヒメネズミ、ジムグリ、シロマダラ、ヒキガエル、フジミドリシジミなどがみられるほか、ムササビ、ツキノワグマも姿をみせる。山麓の草原地帯にはコウベモグラ、ハタネズミ、カヤネズミ、ノウサギ、イノシシ、ノビタキ、セッカ、ヒメシロチョウ、ヤマキチョウなどが多く、水場がある大宮口の森林にはシカがみられる。標高2500メートル以上の地帯は高山地帯に相当するが、ここまで低地ないし低山生のハタネズミ、アカネズミ、ヒメネズミ、ヤマネが進出しており、登山シーズン以外にはイノシシ、カモシカ、ツキノワグマ、キツネ、テンなどが山頂まで姿をみせる。
しかし、本州の高山動物とみられるニイガタヤチネズミ、アズミトガリネズミ、ライチョウ(1960年に7羽放されたが姿を消した)、高山チョウのタカネヒカゲ、タカネキマダラセセリ、コヒオドシ、クモマツマキチョウなどは富士山には生息しない。また、本州日本海側および中部以北に分布するシナノミズラモグラ、トウホクノウサギ、西日本系のスミスネズミ、北日本系のトウホクヤチネズミなどもみられない。愛鷹(あしたか)山には富士山本体にいないサル、暖帯系のキリシマミドリシジミが生息する。富士山には、フジミドリシジミ、フジキオビなど富士の名をもつ動物が多いが、ニホンウサギコウモリ、オオタカの亜種など学名が富士にちなんだものも少なくない。しかし、この山に固有の種は知られていない。
[今泉吉典]
富士山に初めて登ったのは聖徳太子あるいは役小角(えんのおづぬ)とする説もあり、9世紀ごろはすでに盛んに登られていたと考えられるがさだかではない。1149年(久安5)に駿河(するが)国(静岡県)の末代上人(まつだいしょうにん)が山頂に仏閣を建てた記事があり、村山口から登山が行われたという。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎょう)(1541―1646)によって富士講が開かれ、先達(せんだつ)によって引率され、白装束に身を固めた人々が「六根清浄」と唱えながら登山した。山麓(さんろく)の富士吉田は浅間(せんげん)神社の門前町であり、日本第一の信仰登山地として発達し、登山者の集合地となった。登山口は富士宮口を正面とし、吉田口、御殿場(ごてんば)口、須走(すばしり)口が多く用いられ、村山口、須山口はその後廃道化した。女性は不浄とされ、吉田口では二合目の小浅間上の御釜(おかま)まで、村山口では一合目の女人堂までしか登れなかったが、1866年(慶応2)イギリス公使パークス夫人が女性として初めて登山した。
開山期間は7月1日から8月26日の火祭までであったが、近年は8月31日まで開かれ、各登山口の山小屋も開かれている。多いときはこの期間に100万人近くの登山者があるが、1964年(昭和39)河口湖からスバルラインの有料自動車道が吉田口五合目まで開かれ、1970年に御殿場口の五合目まで表富士周遊道路がつくられてからは、山麓から五合目までの登山道はさびれてしまった。山頂の火口を一周するお鉢めぐりや、五合目を一周するお中道回りも行われた。1871年(明治4)イギリスのベイヤード中尉が積雪期に初めて登山し、また1895年には日本における高山気象観測の開拓者である野中至(いたる)が気象観測のため厳冬期に登山した。富士山は独立の高峰であるため、冬期は蒼氷(そうひょう)が発達し、氷雪登山の舞台となり、アルピニストが多く訪れるようになった。しかし、日本第一の高峰であるため、めまい、頭痛など高山病の症状をおこす人も多く、また冬期は突風や雪崩(なだれ)による遭難事故も多発しているので注意を要する。
[徳久球雄]
富士山の秀麗な姿は、『万葉集』『竹取物語』をはじめ数々の文芸や紀行文に取り入れられているほか絵画にも描かれている。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には福慈(ふじ)(富士)山と筑波(つくば)山に関する伝説(富士筑波伝説)がみえる。また各地に広く分布する「山の背くらべ伝説」には富士山が多く登場する。たとえば駿河(するが)国(静岡県)の足高(あしたか)山(愛鷹(あしたか)山)は、大昔、唐土(もろこし)(中国)から富士山と背くらべをするためにきたが、足柄(あしがら)山の明神が、生意気だといって足で蹴(け)くずしたので低くなったという。また八ヶ岳(やつがたけ)と富士山とが、大昔、背の高さを競って決着がつかず、双方の頂上へ樋(ひ)を渡して水を流すと、水は富士のほうへ流れて富士が負けた。富士は怒って、その樋で八ヶ岳の頭をなぐって蹴上げたので低くなり、でこぼこの頂上になったという。鎌倉時代以降はとくに紀行・和歌・俳句に多く、絵画では江戸時代の葛飾北斎(かつしかほくさい)の『冨嶽(ふがく)三十六景』が名高い。
富士山を霊視し、また信仰の対象として崇(あが)めることは、原始信仰以来のものと想像されるが、山岳仏教と結び付いて初めて具体的な形を整えてきた。富士山への登拝の始まりは、修験道(しゅげんどう)を開いた役小角(えんのおづぬ)であると伝えられているが、事実かどうか明らかではない。富士の信仰が盛んになったのは中世以後のことであり、登拝することは富士講の開祖である長谷川角行によって広められた。富士講の行者(ぎょうじゃ)は東日本の広い範囲に活躍し、各地に富士浅間(せんげん)神社を分祀(ぶんし)して遙拝(ようはい)所を設けた。講中の者は、旧暦6月1日の山開きから20日間、富士詣(もう)でと称して登拝した。江戸時代には宿坊(しゅくぼう)や石室(いしむろ)も整い、7月27日を山じまいとした。登拝者は夜を徹して登り、御来迎(ごらいごう)(日の出)を拝み、火口を巡る「お鉢巡り」などをする。
富士山の見える地域では、雲のかかりぐあいで天候を予測する。また富士山周辺の火山性洞窟(どうくつ)を富士風穴(ふうけつ)といい、気温が低く一定なことを利用して、氷の保存や蚕の種の孵化(ふか)抑制などを行なっていた。
[井之口章次]
2013年(平成25)には富士山域をはじめ周辺の神社、富士五湖、忍野八海(おしのはっかい)や三保松原(みほのまつばら)等を含めた25の構成資産が、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「富士山─信仰の対象と芸術の源泉」として世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。構成資産は以下のとおりである。
(1)富士山域
〔読み〕ふじさんいき
〔所在市町村〕山梨県・静岡県
(1-1)山頂の信仰遺跡群
〔読み〕さんちょうのしんこういせきぐん
〔所在市町村〕山梨県・静岡県
(1-2)大宮・村山口登山道(現富士宮口登山道)
〔読み〕おおみや・むらやまぐちとざんどう(げんふじのみやぐちとざんどう)
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(1-3)須山口登山道(現御殿場口登山道)
〔読み〕すやまぐちとざんどう(げんごてんばぐちとざんどう)
〔所在市町村〕静岡県御殿場市
(1-4)須走口登山道
〔読み〕すばしりぐちとざんどう
〔所在市町村〕静岡県小山町
(1-5)吉田口登山道
〔読み〕よしだぐちとざんどう
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市・富士河口湖町
(1-6)北口本宮冨士浅間神社
〔読み〕きたぐちほんぐうふじせんげんじんじゃ
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(1-7)西湖
〔読み〕さいこ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(1-8)精進湖
〔読み〕しょうじこ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(1-9)本栖湖
〔読み〕もとすこ
〔所在市町村〕山梨県身延町・富士河口湖町
(2)富士山本宮浅間大社
〔読み〕ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(3)山宮浅間神社
〔読み〕やまみやせんげんじんじゃ
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(4)村山浅間神社
〔読み〕むらやませんげんじんじゃ
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(5)須山浅間神社
〔読み〕すやませんげんじんじゃ
〔所在市町村〕静岡県裾野市
(6)冨士浅間神社(須走浅間神社)
〔読み〕ふじせんげんじんじゃ(すばしりせんげんじんじゃ)
〔所在市町村〕静岡県小山町
(7)河口浅間神社
〔読み〕かわぐちあさまじんじゃ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(8)冨士御室浅間神社
〔読み〕ふじおむろせんげんじんじゃ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(9)御師住宅(旧外川家住宅)
〔読み〕おしじゅうたく(きゅうとがわけじゅうたく)
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(10)御師住宅(小佐野家住宅)
〔読み〕おしじゅうたく(おさのけじゅうたく)
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(11)山中湖
〔読み〕やまなかこ
〔所在市町村〕山梨県山中湖村
(12)河口湖
〔読み〕かわぐちこ
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(13)忍野八海(出口池)
〔読み〕おしのはっかい(でぐちいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(14)忍野八海(お釜池)
〔読み〕おしのはっかい(おかまいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(15)忍野八海(底抜池)
〔読み〕おしのはっかい(そこぬけいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(16)忍野八海(銚子池)
〔読み〕おしのはっかい(ちょうしいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(17)忍野八海(湧池)
〔読み〕おしのはっかい(わくいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(18)忍野八海(濁池)
〔読み〕おしのはっかい(にごりいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(19)忍野八海(鏡池)
〔読み〕おしのはっかい(かがみいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(20)忍野八海(菖蒲池)
〔読み〕おしのはっかい(しょうぶいけ)
〔所在市町村〕山梨県忍野村
(21)船津胎内樹型
〔読み〕ふなつたいないじゅけい
〔所在市町村〕山梨県富士河口湖町
(22)吉田胎内樹型
〔読み〕よしだたいないじゅけい
〔所在市町村〕山梨県富士吉田市
(23)人穴富士講遺跡
〔読み〕ひとあなふじこういせき
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(24)白糸ノ滝
〔読み〕しらいとのたき
〔所在市町村〕静岡県富士宮市
(25)三保松原
〔読み〕みほのまつばら
〔所在市町村〕静岡県静岡市
[編集部]
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