安土(あづち)桃山時代の茶人。本姓は田中。千は通称、ただし子孫はこれを本姓とした。初名与四郎。宗易(そうえき)、利休と号す。与兵衛の子として堺(さかい)(大阪府)今市(いまいち)町に生まれたが、茶の湯を好み、初め北向道陳(きたむきどうちん)、ついで武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事した。1568年(永禄11)織田信長が上洛(じょうらく)し、堺に矢銭2万貫を課した際、和平派として信長に近づいた今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうきゅう)と親しく、永禄(えいろく)末年から元亀(げんき)・天正(てんしょう)初年の間に、ともに信長の茶頭(さどう)となった。82年(天正10)6月、本能寺の変で信長横死後は秀吉に仕えたが、当初よりその言動には一介の茶頭の立場を超えるものがあった。子の道安(どうあん)や女婿(じょせい)の万代屋宗安(もずやそうあん)も茶頭となっている。86年4月上坂した豊後(ぶんご)の大友宗麟(そうりん)は、利休の印象を、国元への手紙のなかで「宗易ならでは関白様(秀吉)へ一言も申上ぐる人これ無しと見及び候」と述べている。秀吉が関白になった記念に催した85年10月の禁中茶会では、初めて利休の名で出席し秀吉を後見、以後この居士(こじ)号を用いるようになる。87年10月の北野大茶湯(おおちゃのゆ)には宗及・宗久とともに奉仕したが、中心になってこれを推進した。89年、亡父五十年忌のため大檀那(おおだんな)として大徳寺山門上層を増築し、暮れには完成したが、その際自分の木像を楼上に安置したことが、のちに賜死の一因とされた。90年、秀吉の小田原征伐に従い、勘責されて浪々の身であった、同じ茶頭の山上宗二(やまのうえそうじ)を秀吉に引き合わせたが、またまた勘気を被り、殺されるということがあった。利休自身も、帰洛(きらく)後の言動には不安定な点が看取される。明けて91年正月、よき理解者であった秀長(秀吉の異父弟)の病死がきっかけで利休処罰の動きが表面化し、2月13日堺へ下向、蟄居(ちっきょ)を命ぜられている。旬日を置いてふたたび上洛、28日聚楽(じゅらく)屋敷で自刃した。享年70歳。山門木像の件と、不当な高値で茶器を売買したことが表向きの罪状であるが、側近としての政治的言動が下剋上(げこくじょう)のふるまいとみなされ、これが秀吉部将間の対立のなかで死を招いたものと考えられる。「人生七十(じんせいしちじゅう) 力囲希咄(りきいきとつ) 吾這宝剣(わがこのほうけん) 祖仏共殺(そぶつともにころす)、提(ひっさぐ)る我得具足(わがえぐそく)の一太刀(ひとつたち)今此時(いまこのとき)ぞ天に抛(なげうつ)」が辞世であった。墓は大徳寺本坊方丈裏、同聚光院墓地にある。
茶の湯の面では、秀吉時代になって独自性を打ち出し、それまでの四畳半にかわる二畳、一畳半といった小間(こま)の茶室と、それにふさわしい茶法を創案した。山崎の妙喜庵待庵(みょうきあんたいあん)(二畳)は、1582年秀吉の命を受けて利休がつくったものとされる。茶陶についても、86年ころには、いわゆる宗易型茶碗(ちゃわん)を完成、その美意識は黒楽(くろらく)茶碗に結実している。利休が茶の湯の大成者とされるのは、身辺にある雑器を道具に取り上げるなど、茶の湯のもつ日常性を追求する一方、小間の茶室にみるような、茶の湯の非日常的な求道(ぐどう)性を追求し、茶の湯の限界を窮めたところにあったといえよう。利休七哲は、武門を中心とする利休の高弟たちのことをいい、慶長(けいちょう)初年にはその1人、古田織部(ふるたおりべ)が茶湯名人の称を得ている。千家の家督、利休の茶統は、後妻宗恩の連れ子少庵(しょうあん)(妻は利休の娘亀女)とその子宗旦(そうたん)へと受け継がれ、宗旦の子のとき三千家に分流した。なお、没後から利休回帰が進んだが、ことに百回忌にあたる1690年(元禄3)に向けて高揚し、茶聖化の傾向も現れている。
[村井康彦]
桃山時代の町衆茶人,茶道の大成者。通称与四郎。法諱宗易。抛筌斎と号し,利休は居士号。堺今市に魚問屋を営む千与兵衛の子として生まれた。千という姓は祖父の田中千阿弥に由来すると伝えられる。利休は若くして,当時の堺町衆に流行していた茶の湯に親しみ,武野紹鷗について茶を学んだ。また堺南宗寺に住した大林宗套に参禅し法諱を与えられるなど,禅の影響を強く受けた。確かな記録にみえる最初の利休の茶会は,1544年(天文13)に奈良の塗師松屋久政を招いた茶会で,当時23歳であった。名物の香炉を飾り,村田珠光ゆかりの茶碗で茶をたてており,早くも相当の実力があったと思われる。65年(永禄8)には戦国武将,松永久秀の茶会に招かれ,すでに茶の宗匠として今井宗久,津田宗及などとともに名高い存在であった。
73年(天正1),天下統一をめざす織田信長は京都妙覚寺に茶会を開き,堺の町衆として利休も招かれた。さらに75年には信長の茶会で利休は点茶の役をつとめている。ほぼこのころには利休は信長に茶頭として仕えていたのであろう。82年の本能寺の変後,信長政権を継承した豊臣秀吉も茶の湯を好み,利休を重用して3000石の知行を与えたという。85年10月7日秀吉は関白就任のお礼に禁中で茶会を開き,正親町天皇に献茶した。利休も秀吉とともに名物道具を中心に台子(だいす)の茶を披露し,利休居士号を天皇から与えられた。秀吉は利休を単なる茶頭の役にとどめず,弟の秀長とともに秀吉政権を支える政治的に重要な役割をになわせた。87年10月1日秀吉は京都北野天満宮境内において,全国統一の完成を誇示すべくいわゆる〈北野大茶湯〉を開いた。高札を立てて全国の茶人に茶会への参加をよびかけ,身分をこえた各階層の人々が800席以上(一説には1500席)の茶席を境内にしつらえ,秀吉は所蔵の名物道具を見物させ,利休たちとともにみずから茶をふるまった。しかしこの茶会の事実上の推進者は利休と思われ,秀吉の権力を背景に利休の実力が大いに発揮され,茶の湯の最盛期を現出させたといえよう。
89年利休は父親の50回忌法要のために大徳寺山門の修築を企て,同年12月5日に落成した。しかし山門完成後,寄進者の利休木像を山門楼上に置いたことが,その2年後,利休の罪科として問題化した。そして91年2月28日,秀吉の命により利休は京都で切腹した。70歳であった。利休切腹の直接の理由は山門の木像問題であるが,その政治的背景を考えると,全国統一に成功し,次に朝鮮半島をねらう秀吉にとってその拠点となる博多の重要性が増し,逆に堺の勢力をバックとする利休の政治的立場が弱まった点があり,また秀吉政権内部の対立が秀長の死によって表面化し,その抗争に利休がまきこまれた面があろう。その他,切腹の理由に秀吉が利休の娘に横恋慕したとも,また利休が道具の不正な売買をしたともいうが,確認はできない。利休の息子には先妻との間に生まれた道安(千道安),後妻宗恩の連れ子少庵があり,少庵(千少庵)とその子宗旦(千宗旦)の家系に,利休死後数年を経て千家の再興が許され,今日の千家の茶道の源流となった。
利休の茶の湯は町衆の間に発達したわび茶の伝統をうけつぎ,茶会と点前(てまえ)形式の完成,独創的な茶室と道具の創造,茶道の精神性の深化という面で,現代の茶道の型を定立した。まず,従来の茶会が饗宴的な遊興性が強かったのに対し,懐石といわれる料理の簡素化をはかり,茶会の趣向にわびの美意識を貫いた。また茶室では山崎妙喜庵の待庵にみられる2畳敷という極小の茶室を造り,土壁や皮付丸太の柱など今日の和風住宅に大きな影響を与えた茶室の構成と意匠を創造した(数寄屋造)。道具では,1586年(天正14)の茶会で〈宗易型〉の茶碗が登場し,楽長次郎の陶芸を指導したように,茶碗,釜その他茶道具のデザインにも独創的な試みを企て,従来の名物中心の茶に対し,新作あるいは無名の道具を積極的にとりあげた。すでに1563年(永禄6)の茶会で圜悟(えんご)の墨跡を用いたように,利休は禅の墨跡を掛物の中心にすえ,また古渓宗陳,春屋宗園らの禅僧と親交を持ち,禅の枯淡閑寂の精神を茶の湯に求めた。しかしその茶風は戦国時代の下剋上の精神に似て,既成の名物観や茶の湯の権威を打ち破り,自由で新しい試みを創造するものであったから,利休の弟子の山上宗二によれば,利休の茶は山を谷,西を東といいなすような茶で,名人なればこそ許される特異な茶であったという(《山上宗二記》)。いわば,世間の常識を破る利休の茶は,秀吉によって下剋上の時代が終結されると同時にその存在が許されなくなる性格であり,したがって文化史的に利休の死をみれば,戦国時代文化から近世文化への転換を象徴するものともいえよう。
→茶道(ちゃどう)
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