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  11. 豊臣秀吉
日本大百科全書(ニッポニカ)

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豊臣秀吉
とよとみひでよし
[1537―1598]

安土(あづち)桃山時代の武将。小者から身をおこし、織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を確立した。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門(やえもん)の子。母は尾張御器所(ごきそ)村(名古屋市昭和区)の生まれで、名はなか(後の大政所(おおまんどころ))。秀吉の生年については2説あり、土屋知貞(ともさだ)の『太閤素生記(たいこうすじょうき)』などには天文(てんぶん)5年申歳(さるどし)(1536)の正月元日生まれとし、秀吉が右筆(ゆうひつ)の大村由己(ゆうこ)に命じて書かせた『関白任官記』などには天文6年酉(とり)歳の2月6日とし、判然としないが、申歳生まれ説は、幼名の日吉丸(ひよしまる)説、日吉大権現(だいごんげん)の申し子説やその容貌(ようぼう)とも深く結び付いて生じたもののようで、今日では後者が有力視されている。なお、その容貌からであろう、幼時にはあだ名を小猿(こざる)、長じてからは猿とか、はげ鼠(ねずみ)と称された。
[橋本政宣]

出世一途

秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死し、母なかは織田信秀の茶同朋(ちゃどうぼう)筑阿弥(ちくあみ)に再嫁したので、秀吉も養父のもとで一時期を過ごしたが、やがて武家奉公を志して家を出て、遠江(とおとうみ)久能(くのう)の城主松平元綱に仕え、ついで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲(きよす)の城主であった織田信長に小者として仕えた。その忠勤ぶりは、信長の草履(ぞうり)を懐中で温めていたというエピソードに象徴されるように抜群のものがあった。1561年(永禄4)、弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女(むすめ)、後の北政所(きたのまんどころ))を娶(めと)り、このころから木下藤吉郎(とうきちろう)秀吉を名のり、その機敏な行動と才覚によっていよいよ頭角を現し、1566年には濃尾(のうび)国境に位置する墨俣(すのまた)(岐阜県大垣(おおがき)市)に築城し、美濃(みの)攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられ、1568年信長が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛(じょうらく)すると、京都の奉行(ぶぎょう)の一人として活動した。1570年(元亀1)から始まる越前(えちぜん)朝倉氏、近江(おうみ)浅井氏との戦いでは、姉川の戦い、小谷(おだに)城の攻略などで戦功をたて、1573年(天正1)、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となり、この年7月には、木下を改め羽柴(はしば)藤吉郎秀吉と名のる。
これより領主として北近江支配にあたり、今浜に居城を築き長浜と改めるとともに、信長の部将として各地に転戦し、1575年の越前一向一揆(いっこういっき)攻めには大いに活躍し、この年12月には筑前守(ちくぜんのかみ)に任じられた。やがて織田政権の本願寺との対決が重要課題となって中国経略が緊急性を帯びてくると、秀吉はその総大将に抜擢(ばってき)され、1577年播磨(はりま)に出陣して姫路城に本拠を置き、これより約5年の歳月を要して播磨・備前(びぜん)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・因幡(いなば)の経略を行う。1582年備中(びっちゅう)に出兵し、清水宗治(しみずむねはる)の拠(よ)る高松城に迫って水攻めにし、毛利勢と対決すべく、信長の出馬を待ったが、信長はその西下の途中、明智光秀(あけちみつひで)のために本能寺の変で横死した。秀吉は変報に接するや、急遽(きゅうきょ)毛利氏と講和することに成功し、宗治の切腹を見届け、すさまじい強行軍で姫路城に帰着し、軍勢を整えて亡君の弔(とむらい)合戦に挑み、光秀を山崎の戦いで破った。本能寺の変後わずか11日目のことである。
[橋本政宣]

天下統一

信長死後の事態の収拾策を織田家の重臣が協議した清洲会議において、秀吉は丹羽長秀(にわながひで)・池田恒興(つねおき)などを味方につけ宿老柴田(しばた)勝家の主張を抑え、実質的な信長後継者としての道を踏み出す。1583年、秀吉打倒を策する信長の三男信孝(のぶたか)、滝川一益(かずます)に対し、その機先を制して美濃・伊勢(いせ)に出兵して攻め、ついでこれに呼応して越前より近江に出兵してきた勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破り、越前に攻め入って北庄(きたのしょう)城(福井市)の柴田氏を滅ぼし、さらに加賀・越中(えっちゅう)を平定し、ついで信長の次男信雄(のぶかつ)に働きかけて信孝を自殺させるとともに、一益を降(くだ)して尾張・伊勢を支配下に入れる。中国の雄毛利氏もまた好(よしみ)を通じてくる。このように信長の後を受けて全国覇者となる確固たる道を歩むなかで、それにふさわしい城として、商品流通・水陸交通の要地でもある大坂に築城の工を起こした。翌1584年、信雄・徳川家康の連合軍と争った小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは、軍事的には手痛い打撃を受けたものの、政治的手段を弄(ろう)して信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、1585年、信雄・家康に呼応して蜂起(ほうき)した紀伊根来(ねごろ)・雑賀(さいか)の一揆を討伐し、ついで四国征伐を行って長宗我部(ちょうそがべ)氏を降した。そして家康に対しては、実妹(旭(あさひ)姫)を嫁がせるなどの種々の方策をとって上洛を促し、1586年、家康を臣従させた。この間、1584年11月、従三位(じゅさんみ)・権大納言(ごんだいなごん)となり、1585年3月、正二位・内大臣となり、同年7月、摂家間で関白職をめぐって争っていたのに乗じ、近衛龍山(このえりゅうざん)の猶子(ゆうし)として関白・従一位となり、古代的な権威を借りて身分制社会の頂点にたち、1586年12月には太政(だいじょう)大臣となり、豊臣の姓を賜った。関白となった秀吉は、1588年、関白政権の政庁として京都内野に新築なった聚楽第(じゅらくだい)に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ、徳川家康をはじめとする列席の諸大名に天皇への忠誠とともに秀吉への忠誠を誓わせ、朝廷の伝統的権威を背景にして天下に号令することを示した。国内平定においても、まず勅諚(ちょくじょう)をかざして停戦や講和を命じ、これに応じないときには勅命に背くとして征伐した。1587年には九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多(はかた)・長崎を直轄化し、キリシタン禁令を発し、貿易の独占を図った。1590年、小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、ここに天下統一を成し遂げた。
この統一事業に並行して、秀吉は連年のごとく検地を実施してきたが、文禄(ぶんろく)年間(1592~1596)にもっとも盛んに行い全国的に及ぼした。天正(てんしょう)の石直(こくなお)しとも、太閤検地ともいい、中世の複雑に重層した土地関係を整理し、一地一作人制を確立し石高(こくだか)制を実施し、兵農分離を促進した。太閤検地と並ぶ秀吉の重要施策に刀狩(かたながり)がある。農民から武器を没収することは、1576年(天正4)に柴田勝家が加賀国で行った例があるが、秀吉はまず1585年になお根強い力をもっていた寺院の武装を解除するため、高野山(こうやさん)、多武峰(とうのみね)などの刀狩を行い、ついで西日本を平定した時機をねらって、1588年には全国的に刀狩令を出した。諸国の百姓が刀・脇差(わきざし)・弓・鑓(やり)・鉄炮(てっぽう)その他の武器をもつことを禁じ、これを没収することを命じたこの法令は、農村の武器廃絶令ではなく百姓の武具所持禁令というべきもので、身分制的な規制であって、兵農分離の促進を意図したものであった。なお、この刀狩と同時に、海賊禁止令を出している。ついで小田原征伐の翌年、3か条の定書(さだめがき)を出し、侍身分の者が町人や百姓になること、百姓が町人や職人になることを禁じ、武士・百姓・町人・職人の身分の固定化を図った。江戸時代の士農工商の身分秩序は実にこの定書に濫觴(らんしょう)している。
[橋本政宣]

夢のまた夢

天下統一を成し遂げた翌1591年(天正19)、側室淀殿(よどどの)との間にもうけた愛児鶴丸(つるまる)を喪(うしな)った秀吉は、血縁による政権の維持を図るため、関白職を甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲り、自らは太閤と称し、豊臣政権の総力をあげて国内統一の延長線上に朝鮮出兵を敢行していく。当時「唐(から)入り」と称されたごとく、まず朝鮮を従え明(みん)国を服属させるという「仮道入明(かどうにゅうみん)」を目的としたものであるが、秀吉がこの計画を明らかにしたのは、関白任官の直後にあたる1585年9月であった。その動機については諸説があり、中国・朝鮮との貿易回復をねらったもの、「佳名を三国にのこす」考えから出たもの、などといわれているが、唐入りは国内統一の過程のなかで標榜(ひょうぼう)され、戦争意欲をあおり領主層の領土拡張の欲望を大陸に向け放出させることに大きな意味をもたされてきた以上、天下統一が唐入りに連ならざるをえなかった。
出兵にあたり秀吉は、これを支える物質的基盤を調査するため、1591年全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握をなし、1592年(文禄1)、関白秀次により人掃(ひとばらい)令が出され、全国の家数・人数の調査が行われた。そして秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋(なごや)の本陣に赴いて、総指揮にあたった。小西行長・加藤清正を先鋒(せんぽう)とする大軍は釜山(ふざん)に上陸し、わずか20日のうちに朝鮮の首都を陥落させ、この緒戦の勝利に気をよくした秀吉は、日本、中国、朝鮮にまたがる三国国割り計画を打ち出し、秀吉自身は、まず北京(ペキン)に入り、ついで寧波(ニンポー)に居所を定め、進んで天竺(てんじく)(インド)を征服するという遠大な構想をも吐露している。これはまさに大局的判断を欠いた空想にすぎないものであったが、これをまじめに考えていたところに秀吉の悲劇があった。やがて明の大軍の到着、朝鮮兵の立ち直り、義兵民の蜂起(ほうき)などによって、戦局は進展せず、明との和議交渉に入ったが、互いの思惑は相いれるはずもなく、やがて決裂し、1596年(慶長1)ふたたび朝鮮出兵となるが、戦意も盛り上がらず、秀吉の病死によって撤兵命令が出されるまで、延々と戦争が続けられた。これを文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役というが、これは豊臣政権にとって大きな痛手となり命取りとなった。
しかも、政権内部においても、太閤と関白秀次との間に統治権的なあり方からの矛盾が顕在化し、これは淀殿所生の秀頼(ひでより)の継嗣(けいし)問題とも絡んで、秀次事件へと発展し、秀次を切腹させることで秀頼の将来の安泰を図ったが、諸大名に豊臣家の行く末と政権の維持を依頼しなければならない状況を招いた。五奉行・五大老の制が整備されるのは秀吉晩年に至ってのことで、1598年の春に盛大に醍醐(だいご)の花見を行ったのが最後の豪遊となり、死期の迫るのを悟った秀吉は、8月5日五大老に幼い秀頼の将来のことをせつせつと訴えた遺言状を認(したた)め、同18日に波瀾(はらん)に富んだ62歳の生涯を閉じた。「つゆとをちつゆときへにしわがみかな 難波(なにわ)の事もゆめの又ゆめ」が辞世の和歌であった。
[橋本政宣] 

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検索コンテンツ
1. 木下藤吉郎・羽柴秀吉・豊臣秀吉
日本史年表
丙戌〉 12・19 秀吉 ,太政大臣に任官(公卿補任)。 1587年〈天正15 丁亥〉 3・1 豊臣秀吉 ,島津氏攻めのため,大坂を出立(多聞院日記)。 158 ... ...
2. 豊臣秀吉 画像
日本大百科全書
安土(あづち)桃山時代の武将。小者から身をおこし、織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を確立した。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右 ... ...
3. 豊臣秀吉[百科マルチメディア]
日本大百科全書
「豊臣秀吉画像 南化玄興賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ... ...
4. 豊臣秀吉
世界大百科事典
1536-98(天文5-慶長3) 安土桃山時代の武将。天文6年出生説もある。織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門を父として尾張中村に生まれた。はじめ木下藤吉郎を名の ... ...
5. とよとみ‐ひでよし【豊臣秀吉】
デジタル大辞泉
[1536〜1598]安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、日吉丸。初名、木下藤吉郎。織田信長に仕え、戦功をたて、羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝 ... ...
6. とよとみ‐ひでよし【豊臣秀吉】
日本国語大辞典
安土桃山時代の武将。幼名日吉丸、初名木下藤吉郎。尾張国(愛知県)の人。初め松下之綱に仕えたが、のち織田信長のもとで戦功をたて、重用されて、苗字を羽柴に改める。中 ... ...
7. とよとみひでよし【豊臣秀吉】 画像
国史大辞典
死後江戸時代前期にかけて多くの伝記が作成された。小瀬甫庵『太閤記』・竹中重門『豊鑑』・林羅山『豊臣秀吉譜』などが代表的で、甫庵のように儒教的立場から論評を加えた ... ...
8. とよとみ-ひでよし【豊臣秀吉】
日本人名大辞典
1537−1598 織豊時代の武将。天文(てんぶん)6年生まれ。尾張(おわり)(愛知県)の足軽木下弥右衛門の子。母はなか(天瑞(てんずい)院)。織田信長に足軽と ... ...
9. とよとみひでよし【豊臣秀吉】
日本架空伝承人名事典
うな風潮もあったことを考える必要があろう。[三鬼 清一郎]爰に後陽成院之御宇に当て、太政大臣豊臣秀吉公と云人有。自©微小 ... ...
10. 豊臣秀吉[文献目録]
日本人物文献目録
豊臣秀吉の刀狩』桑田忠親『豊臣秀吉の灌城』川島鋥三郎『豊臣秀吉の狐狩に関する文書』桑田忠親『豊臣秀吉の勤皇』花見朔巳『豊臣秀吉の検地事業』牧野信之助『豊臣秀吉の ... ...
11. Toyotomi Hideyoshi 【豊臣秀吉】
Encyclopedia of Japan
1537−1598 Warlord of humble origins who in 1590 completed the work of national r ... ...
12. 豊臣秀吉印[図版] 画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ... ...
13. 豊臣秀吉花押[百科マルチメディア]
日本大百科全書
©Shogakukan ... ...
14. 豊臣秀吉花押[図版] 画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ... ...
15. 豊臣秀吉の指物と馬印[百科マルチメディア]
日本大百科全書
右から、幟(のぼり)、馬印(うまじるし)、母衣(ほろ)、番指物(ばんさしもの)、大馬印、番指物。『御馬印』 巻4 寛永年間(1624~1644) ... ...
16. Ro・dri・gues 音声
ランダムハウス英和
2 ロドリゲス:João,(1561-1634):ポルトガルのイエズス会宣教師;豊臣秀吉,徳川家康の知遇を得た;『日本大文典』(1604). ... ...
17. San Fe・li・pe 音声
ランダムハウス英和
エラ北東部,Orinoco 川に臨む都市.2 サンフェリペ:1596年,暴風で土佐に漂着し,豊臣秀吉に積荷を没収された(San Felipe Incident) ... ...
18. あいおいちょう【相生町】京都市:上京区/京極学区 地図
日本歴史地名大系
「京内まいり」(宝永五年)などによれば今出川通以北、寺町通以東の地一帯は、文禄年中(一五九二―九六)豊臣秀吉の命で四条櫛笥(現中京区)から移建された日蓮宗立本寺 ... ...
19. 愛知[県] 画像
世界大百科事典
農業技術の発展に伴う農業生産力の飛躍的増大によるところが大きい。戦国時代に出現した織田信長,豊臣秀吉,徳川家康が天下統一を成し遂げるに至った要因としても,京に近 ... ...
20. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
が、最後は織田信秀の手に帰した(信長公記)。その子信長は天文三年(一五三四)この城内で、また豊臣秀吉も二年後に程近い中村に生れたといわれる。信長の後は、長子信忠 ... ...
21. あいづせいばつ【会津征伐】
国史大辞典
動員して香刺(こうざし)に新城を取り立て、家康の上洛の要請に応じなかったことにあった。しかし家康の真意は豊臣秀吉死後の政局を有利に展開し、かつ石田三成一党を挑発 ... ...
22. あいづにしかいどう【会津西街道】栃木県:総論
日本歴史地名大系
奥州と関東を結ぶこの谷筋は要衝であった。同一八年八月会津黒川(会津若松)で奥州仕置をすませた豊臣秀吉は、帰途はこの道を通っている。寛永二〇年(一六四三)会津藩主 ... ...
23. あいづはん【会津藩】
国史大辞典
まさに「奥羽の王者」にふさわしい強大な大名となった。政宗は黒川を拠点として関東進出の野望をもっていたが、豊臣秀吉の忌諱にふれ、わずか一年余で会津は没収され、蒲生 ... ...
24. あいづわかまつし【会津若松市】福島県
日本歴史地名大系
白鬚水とよぶ。〔近世〕天正一八年六月、伊達政宗は会津蘆名氏攻略の罪と小田原参戦の遅参をとがめられ、豊臣秀吉から会津一円と岩瀬・安積両郡を没収され、同年九月五日蒲 ... ...
25. あいのうらむら【相之浦村】長崎県:南松浦郡/奈留町
日本歴史地名大系
・古巣・下り松・相ノ浦が点在する。文禄元年(一五九二)肥前名護屋(現佐賀県鎮西町)に在陣中の豊臣秀吉は五島に猪瀬彦作(湯野瀬孫作)を派遣して材木を求めたが、相ノ ... ...
26. あいのまち【愛野町】長崎県:南高来郡
日本歴史地名大系
島津氏と連合して天正一二年(一五八四)龍造寺隆信を沖田畷(現島原市)で敗死させ、再び旧領を回復、豊臣秀吉による九州仕置を迎える。江戸時代には天保郷帳に記される野 ... ...
27. あいのまちどおり【間之町通】京都市:中京区
日本歴史地名大系
天正一八年(一五九〇)豊臣秀吉の都市改造に際して開かれた通りで、現在の中・下京区を南北に貫通し、高倉通の西に位置する。姉小路通と高辻通間、松原通と万寿寺通間は中 ... ...
28. あいのまち‐どおり【間之町通り】 地図
デジタル大辞泉
京都市街地を南北に走る道路の呼び名。北の丸太町通りから南の七条通りに至る。全長約2キロ。豊臣秀吉によって新設されたといわれる。 ... ...
29. あいのやま【間山】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
隠宇治岡©」とある。豊臣秀吉は天正年中(一五七三―九二)この地の奉行でもあった田丸城主稲葉道通に命じて道を通じさせた。以後民家が並び ... ...
30. あいはらにしむら【鮎原西村】兵庫県:津名郡/五色町
日本歴史地名大系
った。毘沙門堂には大坂大仏師宮内法橋作の金剛界大日如来がある。境内には春日神社がある。西方に豊臣秀吉の白巣城攻めにゆかりがあるといわれる幟立がある。 ... ...
31. あいらごう【姶良郷】鹿児島県:肝属郡/吾平町
日本歴史地名大系
(「上井覚兼日記」同月七日条)。同一五年島津氏が豊臣秀吉に降ったのちは姶良を含む肝属郡は伊集院幸侃(忠棟)へ宛行われた(同年五月二五日「豊臣秀吉朱印状」島津家文 ... ...
32. あいらちょう【吾平町】鹿児島県:肝属郡
日本歴史地名大系
残して所領を没収され、伊地知伯耆守重秀が姶良に地頭として配された。伊地知氏と、同一五年島津氏が豊臣秀吉に降伏したのち肝属郡を領した伊集院幸侃(忠棟)の下で、麓の ... ...
33. あい-りょうさ【安威了佐】
日本人名大辞典
?−? 織豊-江戸時代前期の武士。豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ)。天正(てんしょう)14年(1586)大坂城でのイエズス会準管区長コエリョと秀吉との会見の仲立ちをし ... ...
34. あおき[あをき]【青木】
日本国語大辞典
その一族とする説がある。〔二〕近世の摂津国麻田藩主。初代の重直は美濃に住し、土岐氏・斎藤道三・織田信長、ついで豊臣秀吉に仕え、摂津国豊島郡に千四百石の地を宛行な ... ...
35. 青木氏
世界大百科事典
近世大名。美濃国の出身。一重はもと今川氏に仕え,一時徳川家康に属したが,その後父重直とともに豊臣秀吉に仕えて1万石を領した。1615年(元和1)豊臣氏滅亡後,再 ... ...
36. あおきうら【青木浦】香川県:丸亀市
日本歴史地名大系
は家数七八・人数三八九、船数一九のうち二八〇―九〇〇石船七(「塩飽諸訳手鑑」藤井家蔵)。山は豊臣秀吉の大坂城築城の際積出された青木石の産地。明治以降当地は青木石 ... ...
37. あおきかずしげ【青木一重】
国史大辞典
徳川家康の家人のとき姉川の戦に参陣、勇名をはせたが、元亀三年(一五七二)丹羽長秀に属し、ついで豊臣秀吉に仕え、使番・黄母衣衆となり、天正十三年(一五八五)摂津国 ... ...
38. あおき-かずしげ【青木一重】
日本人名大辞典
1551−1628 織豊-江戸時代前期の大名。天文(てんぶん)20年生まれ。青木重直の長男。徳川家康,のち豊臣秀吉・秀頼につかえる。大坂落城後出家して宗佐と号し ... ...
39. あおきし【青木氏】 画像
国史大辞典
青木重直が土岐頼芸・斎藤道三・織田信長に仕え、豊臣秀吉の時、摂津国豊島郡・兎原郡で千七百六十石余を知行した。その子一重は、今川氏・徳川家康・豊臣秀吉に仕え、豊島 ... ...
40. あおき-しげなお【青木重直】
日本人名大辞典
享禄(きょうろく)元年生まれ。土岐頼芸(とき-よりなり),斎藤道三(どうさん),織田信長につかえたのち,豊臣秀吉の伽衆(とぎしゅう)となる。文禄(ぶんろく)3年 ... ...
41. あおき-ひでもち【青木秀以】
日本人名大辞典
?−1600 織豊時代の武将。豊臣秀吉の一族。天正(てんしょう)11年賤ケ岳(しずがたけ)の戦いに従軍,13年紀伊(きい)入山(にゅうやま)城主。のち播磨(はり ... ...
42. あおきむら【青木村】岐阜県:大垣市/旧安八郡地区
日本歴史地名大系
「新撰美濃志」によれば、青木刑部卿法印浄憲の先祖は当村出身で、浄憲は土岐・斎藤両氏に仕え、のち織田信長・豊臣秀吉に従ったが、慶長一八年(一六一三)に「大坂の城に ... ...
43. あおきむら【青木村】静岡県:三島市
日本歴史地名大系
天正一八年(一五九〇)五月一七日青木之郷の百姓は、伊奈忠次より田地の耕作・開発と、徳川家康や豊臣秀吉からの伝役・御用を勤めることを命じられている(「伊奈忠次郷中 ... ...
44. あおつか【青塚】愛知県:西春日井郡/豊山町/豊場村
日本歴史地名大系
頂上に富士社(祭神木花開哉姫命)を祀る(西春日井郡誌)。俗に天正一二年(一五八四)の小牧・長久手の戦の時、豊臣秀吉の将森長可がこの塚に陣し、長久手で一敗するや、 ... ...
45. あおはかむら【青墓村】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区
日本歴史地名大系
天正一四年(一五八六)九月二一日、大谷村の一八八貫六八〇文の地が那波和泉守に安堵されている(「豊臣秀吉朱印知行目録写」名和文書)。慶長郷帳には大谷村とみえ、村高 ... ...
46. あおばらむら【青原村】島根県:鹿足郡/日原町
日本歴史地名大系
集落西の尾中山城跡(標高二〇〇メートル)は吉見氏の部将中屋氏の居城跡。中屋善四郎は文禄二年(一五九三)豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、京城の西三里の所で討死した(朝 ... ...
47. あおむら【阿保村】大阪府:松原市 地図
日本歴史地名大系
。丹北郡に属する。文禄三年(一五九四)一二月二日、豊臣秀吉は代官末吉勘兵衛利方に「安保村」八〇八石余を支配させ、年貢の徴収を命じた(「豊臣秀吉朱印状」末吉文書) ... ...
48. あおやなぎむら【青柳村】岐阜県:揖斐郡/池田町
日本歴史地名大系
ねて安堵している。安国寺は小寺にある臨済宗妙心寺派寺院。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に青柳一六一石余とみえる。慶 ... ...
49. あおやまはちまんぐう【青山八幡宮】静岡県:藤枝市/八幡村
日本歴史地名大系
が伝えられ、また名請人として神主のほか社僧の真言宗青山寺などがみえる。同一八年一二月二八日、豊臣秀吉は神主三郎左衛門(石橋氏)に宛てて青山八幡領として八幡領一七 ... ...
50. あおやまむら【青山村】滋賀県:愛知郡/愛東町
日本歴史地名大系
山の内」とみえ、同人宛に外村・青山村のうち四〇〇石が宛行われている。天正一九年一〇月二一日の豊臣秀吉朱印宛行状(同文書)によれば、「おくらとの」へ青山村のうち五 ... ...
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豊臣秀吉と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書(ニッポニカ))
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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明石掃部(明石全登/あかしてるずみ)(日本人名大辞典・世界大百科事典・国史大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。宇喜多秀家につかえ,関ケ原の戦いで西軍に属して敗れ筑前(福岡県)秋月にすんだ。大坂の陣では豊臣秀頼の招きに応じ,真田幸村らと活躍したが,慶長20年(1615)大坂落城の際に死んだとも,逃亡して元和4年に病死したともいう。
長宗我部盛親(国史大辞典)
一五七五-一六一五。安土桃山時代の武将。土佐国の大名。幼名千熊丸、右衛門太郎(増田右衛門尉長盛を烏帽子親として右衛門、盛親を名乗る)、土佐守。天正三年(一五七五)岡豊(おこう)城(高知県南国市)に生まる。長宗我部元親の四男、母は斎藤氏。
毛利勝永(日本人名大辞典)
織豊-江戸時代前期の武将。毛利勝信の子。関ケ原の戦いで西軍に属し,敗れて父とともに土佐高知藩主山内一豊(かずとよ)にあずけられる。慶長19年子の勝家と脱走して大坂城にはいり
後藤基次(後藤又兵衛)(改訂新版・世界大百科事典)
織豊政権期の武将。通称又兵衛。氏房,政次ともいう。播磨三木城主別所氏に仕えた新左衛門の子。豊前黒田氏に養われ,孝高・長政父子に仕えた。長政に従って豊臣秀吉の九州征伐,文禄・慶長の役に従軍,関ヶ原の戦にも戦功をあげる。
豊臣秀頼(国史大辞典)
一五九三-一六一五。豊臣秀吉の第二子。文禄二年(一五九三)八月三日大坂城内に生まれた。母は側室浅井氏(茶々、淀殿)。秀吉は実子に恵まれず、浅井氏との間に鶴松を得たが三歳にして死別した。このため秀頼誕生の喜びは大きく、みずから肥前名護屋の陣中より正室北政所に書状を送り
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