安土(あづち)桃山時代の武将。小者から身をおこし、織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を確立した。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門(やえもん)の子。母は尾張御器所(ごきそ)村(名古屋市昭和区)の生まれで、名はなか(後の大政所(おおまんどころ))。秀吉の生年については2説あり、土屋知貞(ともさだ)の『太閤素生記(たいこうすじょうき)』などには天文(てんぶん)5年申歳(さるどし)(1536)の正月元日生まれとし、秀吉が右筆(ゆうひつ)の大村由己(ゆうこ)に命じて書かせた『関白任官記』などには天文6年酉(とり)歳の2月6日とし、判然としないが、申歳生まれ説は、幼名の日吉丸(ひよしまる)説、日吉大権現(だいごんげん)の申し子説やその容貌(ようぼう)とも深く結び付いて生じたもののようで、今日では後者が有力視されている。なお、その容貌からであろう、幼時にはあだ名を小猿(こざる)、長じてからは猿とか、はげ鼠(ねずみ)と称された。
[橋本政宣]
秀吉7歳のとき、父弥右衛門が病死し、母なかは織田信秀の茶同朋(ちゃどうぼう)筑阿弥(ちくあみ)に再嫁したので、秀吉も養父のもとで一時期を過ごしたが、やがて武家奉公を志して家を出て、遠江(とおとうみ)久能(くのう)の城主松平元綱に仕え、ついで1554年(天文23)18歳のとき、尾張清洲(きよす)の城主であった織田信長に小者として仕えた。その忠勤ぶりは、信長の草履(ぞうり)を懐中で温めていたというエピソードに象徴されるように抜群のものがあった。1561年(永禄4)、弓の衆浅野長勝の養女おね(杉原定利の女(むすめ)、後の北政所(きたのまんどころ))を娶(めと)り、このころから木下藤吉郎(とうきちろう)秀吉を名のり、その機敏な行動と才覚によっていよいよ頭角を現し、1566年には濃尾(のうび)国境に位置する墨俣(すのまた)(岐阜県大垣(おおがき)市)に築城し、美濃(みの)攻略の拠点を確保した功により部将に取り立てられ、1568年信長が足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛(じょうらく)すると、京都の奉行(ぶぎょう)の一人として活動した。1570年(元亀1)から始まる越前(えちぜん)朝倉氏、近江(おうみ)浅井氏との戦いでは、姉川の戦い、小谷(おだに)城の攻略などで戦功をたて、1573年(天正1)、浅井氏の居城・旧領北近江3郡を与えられ、12万石の大名となり、この年7月には、木下を改め羽柴(はしば)藤吉郎秀吉と名のる。
これより領主として北近江支配にあたり、今浜に居城を築き長浜と改めるとともに、信長の部将として各地に転戦し、1575年の越前一向一揆(いっこういっき)攻めには大いに活躍し、この年12月には筑前守(ちくぜんのかみ)に任じられた。やがて織田政権の本願寺との対決が重要課題となって中国経略が緊急性を帯びてくると、秀吉はその総大将に抜擢(ばってき)され、1577年播磨(はりま)に出陣して姫路城に本拠を置き、これより約5年の歳月を要して播磨・備前(びぜん)・美作(みまさか)・但馬(たじま)・因幡(いなば)の経略を行う。1582年備中(びっちゅう)に出兵し、清水宗治(しみずむねはる)の拠(よ)る高松城に迫って水攻めにし、毛利勢と対決すべく、信長の出馬を待ったが、信長はその西下の途中、明智光秀(あけちみつひで)のために本能寺の変で横死した。秀吉は変報に接するや、急遽(きゅうきょ)毛利氏と講和することに成功し、宗治の切腹を見届け、すさまじい強行軍で姫路城に帰着し、軍勢を整えて亡君の弔(とむらい)合戦に挑み、光秀を山崎の戦いで破った。本能寺の変後わずか11日目のことである。
[橋本政宣]
信長死後の事態の収拾策を織田家の重臣が協議した清洲会議において、秀吉は丹羽長秀(にわながひで)・池田恒興(つねおき)などを味方につけ宿老柴田(しばた)勝家の主張を抑え、実質的な信長後継者としての道を踏み出す。1583年、秀吉打倒を策する信長の三男信孝(のぶたか)、滝川一益(かずます)に対し、その機先を制して美濃・伊勢(いせ)に出兵して攻め、ついでこれに呼応して越前より近江に出兵してきた勝家を賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで破り、越前に攻め入って北庄(きたのしょう)城(福井市)の柴田氏を滅ぼし、さらに加賀・越中(えっちゅう)を平定し、ついで信長の次男信雄(のぶかつ)に働きかけて信孝を自殺させるとともに、一益を降(くだ)して尾張・伊勢を支配下に入れる。中国の雄毛利氏もまた好(よしみ)を通じてくる。このように信長の後を受けて全国覇者となる確固たる道を歩むなかで、それにふさわしい城として、商品流通・水陸交通の要地でもある大坂に築城の工を起こした。翌1584年、信雄・徳川家康の連合軍と争った小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦いでは、軍事的には手痛い打撃を受けたものの、政治的手段を弄(ろう)して信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、1585年、信雄・家康に呼応して蜂起(ほうき)した紀伊根来(ねごろ)・雑賀(さいか)の一揆を討伐し、ついで四国征伐を行って長宗我部(ちょうそがべ)氏を降した。そして家康に対しては、実妹(旭(あさひ)姫)を嫁がせるなどの種々の方策をとって上洛を促し、1586年、家康を臣従させた。この間、1584年11月、従三位(じゅさんみ)・権大納言(ごんだいなごん)となり、1585年3月、正二位・内大臣となり、同年7月、摂家間で関白職をめぐって争っていたのに乗じ、近衛龍山(このえりゅうざん)の猶子(ゆうし)として関白・従一位となり、古代的な権威を借りて身分制社会の頂点にたち、1586年12月には太政(だいじょう)大臣となり、豊臣の姓を賜った。関白となった秀吉は、1588年、関白政権の政庁として京都内野に新築なった聚楽第(じゅらくだい)に後陽成(ごようぜい)天皇の行幸を仰ぎ、徳川家康をはじめとする列席の諸大名に天皇への忠誠とともに秀吉への忠誠を誓わせ、朝廷の伝統的権威を背景にして天下に号令することを示した。国内平定においても、まず勅諚(ちょくじょう)をかざして停戦や講和を命じ、これに応じないときには勅命に背くとして征伐した。1587年には九州征伐を行って島津氏を降し、九州の国割りを行うとともに、博多(はかた)・長崎を直轄化し、キリシタン禁令を発し、貿易の独占を図った。1590年、小田原征伐を行って北条氏を滅ぼし、さらに奥州を平定して、ここに天下統一を成し遂げた。
この統一事業に並行して、秀吉は連年のごとく検地を実施してきたが、文禄(ぶんろく)年間(1592~1596)にもっとも盛んに行い全国的に及ぼした。天正(てんしょう)の石直(こくなお)しとも、太閤検地ともいい、中世の複雑に重層した土地関係を整理し、一地一作人制を確立し石高(こくだか)制を実施し、兵農分離を促進した。太閤検地と並ぶ秀吉の重要施策に刀狩(かたながり)がある。農民から武器を没収することは、1576年(天正4)に柴田勝家が加賀国で行った例があるが、秀吉はまず1585年になお根強い力をもっていた寺院の武装を解除するため、高野山(こうやさん)、多武峰(とうのみね)などの刀狩を行い、ついで西日本を平定した時機をねらって、1588年には全国的に刀狩令を出した。諸国の百姓が刀・脇差(わきざし)・弓・鑓(やり)・鉄炮(てっぽう)その他の武器をもつことを禁じ、これを没収することを命じたこの法令は、農村の武器廃絶令ではなく百姓の武具所持禁令というべきもので、身分制的な規制であって、兵農分離の促進を意図したものであった。なお、この刀狩と同時に、海賊禁止令を出している。ついで小田原征伐の翌年、3か条の定書(さだめがき)を出し、侍身分の者が町人や百姓になること、百姓が町人や職人になることを禁じ、武士・百姓・町人・職人の身分の固定化を図った。江戸時代の士農工商の身分秩序は実にこの定書に濫觴(らんしょう)している。
[橋本政宣]
天下統一を成し遂げた翌1591年(天正19)、側室淀殿(よどどの)との間にもうけた愛児鶴丸(つるまる)を喪(うしな)った秀吉は、血縁による政権の維持を図るため、関白職を甥(おい)の秀次(ひでつぐ)に譲り、自らは太閤と称し、豊臣政権の総力をあげて国内統一の延長線上に朝鮮出兵を敢行していく。当時「唐(から)入り」と称されたごとく、まず朝鮮を従え明(みん)国を服属させるという「仮道入明(かどうにゅうみん)」を目的としたものであるが、秀吉がこの計画を明らかにしたのは、関白任官の直後にあたる1585年9月であった。その動機については諸説があり、中国・朝鮮との貿易回復をねらったもの、「佳名を三国にのこす」考えから出たもの、などといわれているが、唐入りは国内統一の過程のなかで標榜(ひょうぼう)され、戦争意欲をあおり領主層の領土拡張の欲望を大陸に向け放出させることに大きな意味をもたされてきた以上、天下統一が唐入りに連ならざるをえなかった。
出兵にあたり秀吉は、これを支える物質的基盤を調査するため、1591年全国に御前帳を作成して提出することを命じて、国ごとの石高の把握をなし、1592年(文禄1)、関白秀次により人掃(ひとばらい)令が出され、全国の家数・人数の調査が行われた。そして秀吉は全国の諸大名に朝鮮出兵の軍令を下して征明軍16万人を編成し、自らも肥前名護屋(なごや)の本陣に赴いて、総指揮にあたった。小西行長・加藤清正を先鋒(せんぽう)とする大軍は釜山(ふざん)に上陸し、わずか20日のうちに朝鮮の首都を陥落させ、この緒戦の勝利に気をよくした秀吉は、日本、中国、朝鮮にまたがる三国国割り計画を打ち出し、秀吉自身は、まず北京(ペキン)に入り、ついで寧波(ニンポー)に居所を定め、進んで天竺(てんじく)(インド)を征服するという遠大な構想をも吐露している。これはまさに大局的判断を欠いた空想にすぎないものであったが、これをまじめに考えていたところに秀吉の悲劇があった。やがて明の大軍の到着、朝鮮兵の立ち直り、義兵民の蜂起(ほうき)などによって、戦局は進展せず、明との和議交渉に入ったが、互いの思惑は相いれるはずもなく、やがて決裂し、1596年(慶長1)ふたたび朝鮮出兵となるが、戦意も盛り上がらず、秀吉の病死によって撤兵命令が出されるまで、延々と戦争が続けられた。これを文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役というが、これは豊臣政権にとって大きな痛手となり命取りとなった。
しかも、政権内部においても、太閤と関白秀次との間に統治権的なあり方からの矛盾が顕在化し、これは淀殿所生の秀頼(ひでより)の継嗣(けいし)問題とも絡んで、秀次事件へと発展し、秀次を切腹させることで秀頼の将来の安泰を図ったが、諸大名に豊臣家の行く末と政権の維持を依頼しなければならない状況を招いた。五奉行・五大老の制が整備されるのは秀吉晩年に至ってのことで、1598年の春に盛大に醍醐(だいご)の花見を行ったのが最後の豪遊となり、死期の迫るのを悟った秀吉は、8月5日五大老に幼い秀頼の将来のことをせつせつと訴えた遺言状を認(したた)め、同18日に波瀾(はらん)に富んだ62歳の生涯を閉じた。「つゆとをちつゆときへにしわがみかな 難波(なにわ)の事もゆめの又ゆめ」が辞世の和歌であった。
[橋本政宣]
安土桃山時代の武将。天文6年出生説もある。織田信秀に仕えた足軽木下弥右衛門を父として尾張中村に生まれた。はじめ木下藤吉郎を名のる。
秀吉は遠江の松下之綱(ゆきつな)に仕えたのち織田信長の家臣となり,戦功と才覚によって頭角をあらわした。1573年浅井氏の滅亡後に近江を与えられ,長浜に居城して領域的支配をつよめた。このころ筑前守に任ぜられ羽柴姓を称し,奉行人としての地歩を固めた。77年の中国征伐には明智光秀とともに先鋒をつとめ,播磨三木城の別所長治を討ち,81年には吉川(きつかわ)経家が守備する因幡鳥取城を陥落させ,翌年備中高松城を包囲し毛利氏との決戦を目前にしていた。このおりに信長暗殺の報に接し,直ちに毛利氏と講和を結んで兵をかえし,山崎の戦で明智光秀を破った。その直後に清須会議で信忠(信長の長男)の遺児三法師(秀信)を織田家の跡目に据え,みずから後見人となった。この強引な措置に反対する宿老の柴田勝家と83年近江賤ヶ岳に戦い,越前北ノ庄で滅ぼした。また織田信孝(信長の三男)を尾張内海に自殺させ,主導権を握った。同年かつての石山本願寺跡に大坂城を築き,畿内先進地帯を権力的に掌握し,全国制覇にのり出した。翌年織田信雄(のぶかつ)(信長の次男)・徳川家康の連合軍と小牧・長久手に戦い,外交的手段で家康を臣従させた。85年関白に任官し,古代的な権威をかりて身分制社会の頂点に立ち,翌年太政大臣となり豊臣姓をうけた。みずから京都に造営した聚楽第(じゆらくだい)に88年後陽成天皇を迎えるなど朝廷に接近し,延暦寺や春日社の復興に力をかして仏法の庇護者を自認する態度をとった。他方では紀伊の根来(ねごろ),雑賀(さいか)一揆を鎮圧し僧侶の武器を没収し,公家・寺社の荘園を改めて所領の確認を行った。四国の長宗我部氏を下したのち,87年九州の島津氏を平定し,新たな国分(くにわけ)を行った。90年小田原の後北条氏を滅亡させ,さらに奥羽の諸大名も服属させ,全国統一を達成した。
秀吉の全国統一は武力による征服であることはもちろんだが,綸旨(りんじ)による停戦命令など天皇の権威を十分に利用する点に特徴がみられる。また主要都市や鉱山を直轄下におき貨幣を鋳造し,諸国の座や関を整理するなど商工業の把握につとめた。方広寺大仏殿の造営のため職人を動員し,百姓から武具を取り上げる刀狩令の口実とするなど,新たな身分編成につとめている。九州征伐の直後にキリシタン宣教師の追放を指令し(伴天連(バテレン)追放令),布教の手段となっていた南蛮貿易を自己の統制下におき,武具など先進技術や生糸輸入の独占をはかった。山崎の戦の直後から始まった太閤検地は,征服地を拡大するにつれて全国に及び,石高制に基づいた年貢収取体制の確立により兵農分離を促進させた。91年の身分統制令によって武家奉公人がかってに百姓町人に戻ることは禁止され,身分の固定化をもたらした。
検地の竿と鉄砲隊の威力によって進められてきた秀吉の全国支配は,天下統一によって新たに獲得すべき領地がなくなり,家臣へ恩賞として与えることが不可能となった。1592年(文禄1)かねてから服属を求めていた明国を討つため朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を令し,全国の大名を肥前名護屋(なごや)に集結させた。すでに関白職は甥の秀次に譲り,みずからは太閤として外征に専念し朝鮮へも渡るつもりでいた。緒戦の勝利に気をよくした秀吉は,後陽成天皇を北京に移し,その関白職に秀次をつけ,日本の帝位は若宮(皇子良仁親王)か八条宮(皇弟智仁(としひと)親王)に継がせ,その関白には羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるといった,日本・中国・朝鮮にまたがる三国国割(くにわり)計画を呈示した。これは大局的判断を欠いた空想にすぎないものであるが,秀吉の描いた構想を如実に物語っており,やがてインドまでを含めたものに発展していく。しかしこの計画は朝鮮民衆の義兵組織によって砕かれ,明の援軍の到着によって補給路が絶たれた。明との和議交渉に際し,秀吉は朝鮮の南半分の割譲や勘合貿易復活,明の皇女を天皇の后とすることなどを要求した。この交渉は決裂し,97年(慶長2)再び朝鮮へ兵を送った。この間,秀吉に実子秀頼が誕生したことなどから秀次との関係が不和となり,95年秀次は高野山で切腹させられた。戦局の膠着化にともない大名間の対立は深刻化し,農民は兵粮米調達のため過重な負担を強いられるなど,国内は重苦しい雰囲気につつまれた。98年醍醐で華やかな花見が催されたが,秀吉は心身の衰えが激しくなり,8月に幼少の秀頼の前途を案じながら,五大老,五奉行に遺言を残して世を去った。
秀吉の出生はなぞにつつまれており,自己宣伝的要素と重なって忠実を無視した物語が作られた。すなわち,秀吉の母(大政所,天瑞院)は萩中納言という貴族の娘で,尾張に配流されていたが,許されて上洛して宮中に仕え,再び尾張に帰ってすぐに秀吉を生んだと,天皇の落胤であることを暗示するものである。これは大村由己(ゆうこ)の《関白任官記》にも記され,ひろく流布した。同じような趣旨は外交文書にも盛られ,1590年(天正18)の朝鮮,93年(文禄2)の高山国(台湾)へ送った国書では,自分が生まれるとき母は太陽が懐中に入る夢を見,その夜は日光が室中に輝いたと述べている。自己を神秘化し天皇との関係を強調する,まったく虚妄の物語が作られることは,一面では豊臣政権の性格を暗示するものといえよう。
秀吉の出自が無名の名主百姓層であることは,専制権力者という面を見失わせ,江戸時代においても庶民の間に〈豊太閤(ほうたいこう)出世物語〉として素朴な共感を抱かせるもととなったが,明治以後はそれが増幅して作り変えられ,英雄崇拝の観念と結びついていった。とくに戦前では〈大東亜共栄圏の先駆者〉として賞賛するような風潮もあったことを考える必要があろう。
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