大山(おおやま)町と長野県大町市の境にそびえる峻峰。標高二九二四・二メートル。すぐ南西にそびえる三俣蓮華(みつまたれんげ)岳の古名が鷲羽岳であったため山名に混乱が生じ、「二つの鷲羽岳」などといわれた。鷲羽岳の称は越中・信濃・飛騨三国境の山を主として、幾つかの峰の総称だったかとも思われるが、のち東側の最も高く山容壮大な当峰を東鷲羽ヶ岳と名付け、広義の鷲羽岳から独立させた。その初出は文化五年(一八〇八)石黒信由作製の新川郡立山之後御縮山之図(県立図書館蔵)であろう。「三州地理志稿」も東鷲羽ヶ嶽の名を掲載している。新川郡組分見取絵図(同館蔵)は西鷲羽岳・東鷲羽岳と東西二峰に分けて記載し、西鷲羽岳は現在の三俣蓮華岳にあたる。脇坂長右衛門が天保七年(一八三六)作製した新川郡奥山絵図、同年の新川郡大綱色分絵図(ともに県立図書館蔵)、江戸時代末期の黒部大川筋絵図(吉沢家蔵)などは東鷲羽岳のことを龍池ヶ岳と記すが、これは山の南側にある火口湖(現鷲羽池)を龍池として畏敬したところから生じた別名であろう。「三州地理志稿」は黒部川について「其源出鷲羽ケ嶽」と記し、以後ほとんどすべての地誌に黒部川源頭と記載されている。明治四二年(一九〇九)登山家辻村伊助は鷲羽岳頂上に立ち、「山と呼ぶ山は悉く四方に、此所はその渦巻の中心に位して、眼を遮ぎるものは少しもない」と感激したが、北アルプスの中心点として登山家のあこがれの的となった。深田久弥は日本百名山の一に選んだ。平地には姿を見せない最奥の山といわれたが、高岡市付近から薬師(やくし)岳の右側に兜をもたげたような姿を望むことができる。登山路としては裏銀座を縦走してたどりつくコース、雲(くも)ノ平から南下するコース、薬師岳方面から立山連峰南部の山を縦走していくコースなどがある。
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