最高峰である
白山は最終氷期(ウルム氷期)の氷河活動による浸食作用を明確に確認できるわが国の南西限にあたる。このため当山より西ではみられなくなる、あるいはきわめて少なくなるという動・植物も多種あり、生物分布上からも重要な山である。山麓にはブナ林、中腹の亜高山帯にはダケカンバ、オオシラビソの林が広がり、山頂部の緩斜面ではハイマツやハクサンコザクラ、ハクサンボウフウ、ハクサンフウロなどの高山植物がみられる。また亜高山帯のダケカンバ林を中心に、ツキノワグマ、ニホンカモシカ(特別天然記念物)、ニホンザルなどの哺乳類やイヌワシなどの野鳥が多く生息する。昭和三七年(一九六二)石川・福井・岐阜・富山の四県にまたがる山域は白山国立公園に指定された。山麓には白山温泉・白峰温泉(白峰村)、
白山の山体は二つの異なる基盤、およびその上に噴出した安山岩質の溶岩流や火砕流堆積物からなる。基盤の一は西・南域に広く分布し、手取統とよばれる中生代白亜紀前期の堆積岩、いま一つは濃飛流紋岩類と総称され、白亜紀末期から古第三紀にかけての火成活動の産物で、きわめて硬くおもに北・東部に分布する。白山の火山体は標高の割に薄く、厚さは最大で四〇〇メートル。このため二つの基盤とも二二〇〇メートル以上の高い標高地点で一部露出している。手取統の頁岩中にはシダ、イチョウ、ソテツ類などの植物化石が多く含まれ、これらの植物化石は手取植物群とよばれている。同植物群は当初、白峰村
白山の火山活動は四〇万―三〇万年ほど前、現山頂北部で始まった。この時期の噴出物は
火山である白山は歴史時代に入っても、その噴火が記録される。「白山之記」によれば長久三年(一〇四二)白山越前室の住僧良勢が新宮を設け三馬場の座主・別当を追放し、参詣人の進物を押領、このため加賀馬場の行人らは良勢を焼殺すという事件が起こった。放火・殺人の輩が寄宿する不浄を怒った白山は噴火し、このとき翠ヶ池が生じたと記す。その後延応元年(一二三九)・天文一六年(一五四七)にも活動したことがみえ(「新編分類本朝年代記」など)、同二三年には大規模な噴火が起こっている。同年の活動はまず四月一日に「当禅頂煙立登」とその兆しがみえはじめ、五月二八日には「剣山南焼上、大盤石吹上、正殿大床ヤネ打抜」と剣ヶ峰付近の活動が活発となり、以後大川(手取川)は「水灰」となって硫黄の流出により「魚死ヌ、人民川水ヲ不含」との状態が続き、一〇月八日には「大震動シテ、国中諸人以外驚」き、白山寺は「煙充満」し「川水又如前濁ル、其後湯煮事立山ノ地獄同之」であったという(白山宮荘厳講中記録)。この噴火活動は弘治三年(一五五七)まで続いた(「長滝寺荘厳講執事帳」長滝寺文書)。その後、天正七年(一五七九)から万治年間(一六五八―六一)まで幾度かの噴火が記録され(「混見摘写」金沢市立図書館蔵、前掲荘厳講執事帳など)、同三年「別山にて南北にあたり黒雲出る、其内より長き壱丈計法師三人見ヘ申候」(混見摘写)などの記載を最後に活動を休止している。なお、慶雲三年(七〇六)八月三日越前国より「山災不止」との言上があり、山火事を鎮めるため奉幣使が派遣されたとの記載や(続日本紀)、仁寿三年(八五三)・貞観元年(八五九)の白山比
神の神階昇叙も白山の噴火に関連して行われたものと考える説もある。
白山信仰は「しらやましんこう」ともいい、山名の由来と同様に、当初は雪をいただいた諸所の山、「しらやま」に対する普遍的な信仰を指し示す普通名詞であった。しかし、やがて当山を対象とした固有の山岳信仰を表す名詞になったものであろう。一般的な「しらやま」信仰は河川の水源となる白き神々の座を水神・農耕神として仰ぐ信仰であり、水田農耕社会が始まると同時に生れていたであろう。当山を水源とする加賀手取川・越前九頭竜川・美濃長良川の各流域でも、それぞれ独自の白山信仰が形成されていったと思われる。これら流域ごとに一つのまとまった信仰が形成されたのは加賀国でいえば道君や江沼臣など国造級の地方豪族による政治的・宗教的支配が確立した六世紀以降のことと考えられる。白山は一方で日本海を生活の基盤とする人々にとっては、海上における山ダメ(山当)の指標となり、白山の神々は航海・漁労の守護神でもあった。
奈良時代に入り神仏習合が進み、平安時代以降、本地垂迹説に基づいて本地仏―垂迹神との関係が確立されると当山では御前峰(現在白山比
神社奥宮を祀る)が伊弉冉神を垂迹神とし、白山妙理大菩薩を号し、本地仏は十一面観音、以下同様に大汝峰(大汝神社)は大己貴神で本地は阿弥陀如来、別山(別山神社)は小白山大行事で聖観音を本地とするという、白山三所権現を基本とする考え方が信仰の核心に据えられる。この神仏の体系は天徳二年(九五八)に原形が成立したとされる「泰澄和尚伝記」によって確立、世に広まったが、同書には後補・追筆の部分もあり、実際に前述のような三所権現の信仰が定着したのは熊野でそれぞれの本地仏が熊野三山三所に決定したとされる平安時代末期一一世紀後半よりも後代のことと考えられる。
白山は養老元年(七一七)泰澄によって開かれたという伝承は広く知れ渡っている。越の大徳とよばれた泰澄は「泰澄和尚伝記」によると越前国
九頭竜川に沿って登り、林泉(平泉寺)で、同所が白山神の遊所で中居であること、白山神が伊弉冉尊で妙理大菩薩と号することを悟る。天嶺禅定に達し、翠ヶ池畔で白山神を拝し祈ると、神は初め九頭竜の形で現れたが、真身である十一面観音の姿を示す。次いで泰澄が別山に向かうと宰官が現れ、聖観音の現身である小白山別山大行事であると告げた。次いで大汝峰に登拝すると、老翁に会い、本地は阿弥陀如来で、現身は大己貴と名乗った。小白山別山大行事・大己貴とも御前峰の妙理大菩薩の神務輔佐の神々と知った泰澄は、養老三年まで練行を積み下山、翌年以降、他の行者たちが白山に登拝修行するようになったという。泰澄は養老六年護持僧となり、禅師の位を許されて神融禅師と号し、神亀二年(七二五)白山に詣でた行基と相会、天平八年(七三六)には玄
を訪ね、大陸将来の経論五千余巻を披閲、とくに十一面経を授けられる。翌九年、流行の疱瘡を十一面法によって終息させ、大和尚位を許され、泰澄を号する。天平宝字二年(七五八)以後、越知山の大谷に籠り、神護景雲元年(七六七)八六歳で同所に没した。
この伝記がどこまで事実を伝えているかはともかくとして、泰澄と名乗る民間の仏教者が越前馬場を中心に修行を重ね、九頭竜川流域の人々に白山の霊験を語り、強い影響を与えていたことは確かであったろうと思われる。また泰澄の出身地麻生津が日野川水系の要津であり、二人の侍者が日本海海運との関係が深いことから伝承の背景に運送を業とする有力な海民集団の存在があること、旧来の白山信仰に新たに観音信仰の強い影響が加わったことなどが指摘されている。
入唐八家の一人で、帰国後京都東寺の長者に補せられた宗叡(寛平五年没)は修行時代「越前国白山」で苦行を重ねたといい(「三代実録」元慶八年三月二六日条)、一三代天台座主尊意(天慶三年没)の幼年時代の師である苦行僧賢一は元慶二年(八七八)越の白山に入ったという(尊意僧正伝)。これらの記載から九世紀には白山が修験の行場として広く知れ渡っていたことがうかがえ、「白山之記」では天長九年(八三二)に三方の馬場が開かれたとする。馬場は「ばんば」とよみ、一般には白山に登拝する人々が、たとえ馬に乗ってきた高貴な人でも、そこで下馬し、以後は徒歩で登らなければならない場所と解されているが、白山信仰の高まりのなかで参詣者が増えるにつれて、そうした参詣者の集合地となった山麓の特定の場所(遥拝地=里宮)をさしたものであろう。
越前馬場平泉寺を起点とする禅定道は、まず北東にそびえる
一方、白山本宮白山寺を起点とする加賀馬場禅定道は「白山之記」などによるとまず本宮から手取川の渓谷に沿って別宮(現鳥越村)へ向かった。別宮は三間一面の宝殿や拝殿・渡殿を備えていたという。さらに不動明王を本地とする
前述のように長久三年には越前室住僧良勢と加賀馬場行人らが争うなど、三馬場の間では白山禅定(頂上)の祭祀権と開山泰澄の権威をめぐる争奪が江戸時代に至るまで幾度となく繰返されている。当初は泰澄の出身地である越前馬場が優位であったと思われる。長寛元年(一一六三)頃に原形が成立したとされる「白山之記」では白山三神の垂迹と本地を示すほかは泰澄伝記の強い影響はみられない。しかし、その後、加賀馬場が優勢となって以降の永正五年(一五〇八)に成立した白山禅頂御本地垂迹之由来私伝(白山比
神社文書)では、泰澄が貴女の夢告を受ける地が林泉から白山本宮の
白山を行場とする白山修験の活動は、たとえば全国にその足跡と伝説を残す八百比丘尼が「康富記」では白比丘尼とみえることから(文安六年五月二六日条・同二七日条など)、白山に関連する勧進比丘尼ではなかったかと指摘されるように全国的な広がりをみせていたと思われる。白比丘尼は法華経の説経祭文を歌い、集団で移動する勧進比丘尼であったと考えられる。これは熊野比丘尼と同じ職能をもち、唱える祭文の一つが白山祭文であり、白神祭文であったとされる。昭和六一年には主峰三峰から銅・鉄・石製の仏具を中心に土器類などを含む各種信仰遺物が採集されている(白峰村の→
「万葉集」巻一四に「栲衾白山風の寝なへども子ろが襲着の有ろこそ良しも」が収められる。白山は歌枕として知られ、「能因歌枕」は加賀国とし、「五代集歌枕」「和歌初学抄」など多くの歌学書は越前に分類する。「しらやま」のほか、「こしのしらやま」「こしのしらね」「こしのたかね」などとして詠じられる。また、「み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にかわが里を見む」(「万葉集」巻一二)と詠じられる「越の大山」を白山とする説もある(奥義抄)。都人にとって、白山から連想されるものは北国・雪・純白などであったが、遠く離れた地にあって、白山の雪は夏でも決して消えることがないとみなされるようになった。「こしなりける人につかはしける」として紀貫之が詠じた歌に、「思ひやるこしの白山しらねどもひと夜も夢にこえぬよぞなき」(古今集)とあり、「おほえのちふるがこしへまかりけるむまのはなむけによめる」として、藤原兼輔朝臣が詠じた「君がゆくこしのしらやましらねども雪のまにまにあとはたづねむ」(同書)などがある。これらの歌にみえる白山すなわち白嶺(しらね)は、白山すなわち「不知」(しらね)を意味するとも考えられる。「後撰集」に「しら山へ詣でけるに、道中より便りの人につけてつかはしける」として、「宮こまでおとにふりくる白山はゆきつきがたき所なりけり」(よみ人しらず)と詠じられたように、東国ほどではないにせよ辺境の地と感じられていた。
白山の雪が消えない雪、年を越えて降積む雪とみなされていたことを示す例としては、凡河内躬恒が「こしのくにへまかりける時、しら山を見てよめる」歌、「きえはつる時しなければこしぢなる白山の名は雪にぞありける」(古今集)などがあり、躬恒は「神代より年を渡りてあるうちに降りつむ雪の消えぬ白山」(西本願寺本「躬恒集」)と言切っている。このように躬恒によって、雪の消えない白山が印象づけられることとなった。さらに進むと、長い不遇などを比喩する表現として用いられるようになる。清原元輔が「つかさめしのねのびにあたりて侍けるに按察更衣のつぼねより松をいだして侍けるを詠み侍ける」として、「雪深きこしのしら山我なれやたがをしふるに春をしるらむ」(後拾遺集)と詠じている。幾年も徐目に漏れて仕官のできない我が身を、「雪深きこしのしらやま」にたとえたものである。
以上のように白山は、文芸上の決められた位置を与えられていたが、もちろん信仰の対象としても知られていた。都人による登拝の早い例は、宗叡による承和一四年(八四七)のものであるが、「本朝法華験記」などにも山岳霊場としてあげられている。「宇津保物語」(菊の宴)に、「いみじき大願をたて、あるは山林にまじりて、金の御嶽、越の白山、宇佐の宮まで参り給ヒつゝ、願し申給はぬ人なき中にも」とあり、参詣の対象としてかなり知られた存在であったらしい。「枕草子」に「二十日の程に雨降れど、消ゆべきやうもなし、すこしたけぞ劣りもて行く、白山の観音、これ消えさせ給ふな、といのるも、ものくるほし」とある。中宮定子が中宮職の庭に雪山を作らせたが、女房たちは雪山の消える時期をめぐって賭けをした。清少納言も賭けに加わったのであるが、あまり早く雪山が消えないように白山の観音に祈ったという。しかし、都人が白山の仏神の存在を思い知らされたのは、安元三年(一一七七)の白山宮衆徒の愁訴であったろう。白山宮衆徒が神輿を奉じて、加賀国目代の藤原師経が白山中宮末寺八院の一つを焼払ったことを延暦寺に愁訴したのであったが、「平家物語」(巻一)では、その時の様子を次のように描く。「白山の神輿既に比叡山東坂本につかせ給ふと云ほどこそありけれ、北国の方より雷飫う鳴て、都をさしてなりのぼる、白雪くだりて地をうづみ、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙に成にけり」。白山が雷をおびただしく落し、雪で大地を埋めつくす、畏怖すべき存在として描かれている。
中世に入ると、「梁塵秘抄」(巻二)に「勝れて高き山、(中略)日本国には白山、天台山」とあるように、比叡山とならんで秀でて高い山として詠じられるようになった。文明一八年(一四八六)六月京都を出発した聖護院道興は、「白山禅定し侍りて三の室にいたり侍るに雪いとふかく侍りければ、おもひつゞけ侍りける」として、「しら山の名に顕れてみこしちや峰なる雪の消る日もなし」(廻国雑記)と詠じている。また下山する途中夕立ちにあいながら「ゆふたちの雪はしらねの雪けかな」と詠じた。
白山信仰は中世においても加賀・越前・美濃の三馬場でそれぞれ独自の展開をみせる。久安三年(一一四七)加賀馬場は越前馬場に続いて延暦寺末となり(「白山本宮神主職次第」白山比
神社文書、以下断りのない限り同文書)、日吉七社にならい、白山本宮・
養和元年(一一八一)能登国に続き、加賀国の武士が反乱を起こして越前国へ攻め入ったとき、加賀馬場はこれを支援したと推定する説もある。一方「平家物語」「源平盛衰記」などによれば、越前平泉寺長吏斎明は寿永二年(一一八三)四月
暦応二年(一三三九)から康永二年(一三四三)頃の間と推定される六月七日付武蔵国
「廻国雑記」によれば、道興は能美郡の
中世加賀・越前両場の争いは康正三年白山禅頂遷宮霊異記(密谷文書)でもうかがえる。同書によれば康正三年(一四五七)七月加賀白山七社が白山禅頂の社殿遷宮を行おうとした際、越前平泉寺衆徒がこれを阻止するため訴訟を起こしたものの敗訴した。このため同寺衆徒らは禅頂に登り、加賀白山七社の大衆と対峙、種々の霊異により平泉寺側の失敗に終わったと伝える。白山禅頂御本地垂迹之由来私伝によれば、
中世後期に入ると白山の仏神に一部変化がみられる。室町時代に成立した「義経記」巻七(平泉寺御見物之事)に「岩本の十一面観音」とみえるように、岩本宮の本地仏が地蔵から十一面観音に変化し、大永七年(一五二七)の書写といわれる大永神書でも岩本宮は十一面観音であり、児宮の本地を釈迦(「白山之記」では如意輪観音)、別宮の本地を薬師如来(「白山之記」では十一面観音・阿弥陀如来・聖観音の三所権現)とするなど、加賀の独自性の主張がみられ、こうした主張も越前馬場との抗争激化に伴うものであろう。同書ではまた上七社・中七社・下七社をあげて、日吉大社の山王二一社に類似する上・中・下の三宮制に則した主張もみせている(尾口村史)。
文明三年本願寺蓮如の越前
天文一〇年八月二一日白山禅頂の大汝峰の社殿が強風で倒壊(「白山宮荘厳講中記録」同年条)。越前平泉寺の支援を受けた
白山山頂社殿の造営権、白山杣取権などをめぐる、牛首村・風嵐村と尾添村の争論(白山争論)は近世も継続した。天正八年前記二村は、白山の西麓から北麓にかけての一四村とともに加賀国から越前国大野郡に所属が変わり、江戸時代は越前福井藩領、正保元年(一六四四)幕府領福井藩預地となる(「白山一巻留書」林西寺文書など)。明暦元年(一六五五)加賀藩前田氏の山上堂社建立発願に端を発し、福井藩と加賀藩との領境問題となった。加賀藩は即決を避けて時機を待ち、寛文六年(一六六六)再び争論が起こったときに、五代藩主前田綱紀の後見であった会津藩主保科正之らの斡旋もあって、尾添・
元文三年(一七三八)大汝峰の修復を平泉寺が行ったためまたも争論となり、寛保三年(一七四三)の幕府裁定で尾添村は加賀馬場からの入山者の案内と室堂宿泊の権利、平泉寺は山上三社の支配権を与えられた(文久三年「白山麓十八ヶ村由緒控」金沢市立図書館蔵など)。こうして平泉寺が白山信仰にかかわる諸権利をほぼ独占して明治に及んだ。しかし明治の神仏分離令によって同寺が衰え、また郷土史家であった石川県官森田平次の精細な調査によって、明治五年(一八七二)には一八ヵ村すべてが加賀国能美郡に属することになり、翌六年山上の神祠は白山比
神社の奥宮と定められた。神仏分離令により白山山中に祀られていた仏像は下山させられ、白山五仏をはじめとする仏像は白峰村
白山麓十八ヶ村は奥山の豪雪地帯であり、近世の村高は合せて三〇〇石余しかなく、山の民は出作り小屋で焼畑(むつし・あらし)と養蚕・製糸を営んでおり、「毛吹草」に牛頸布・島布がみえる。林業では木呂・木羽・炭・薪を産出し、
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石川県南東部にある市。白山国立公園の山岳部から日本海まで、多様な地形が広がる。平成17年(2005)2月に松任(まっとう)市 ...
(しらやまひめ)神社奥院があり、古 ...
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(しらやまひめ)神社の奥宮。*義経記〔室町中か ...
神社
神(菊理媛(きくりひめ)神)、伊 ...
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