最高峰である御前峰(二七〇二・二メートル)、および大汝峰(二六八四メートル)・剣ヶ峰(二六七七メートル)の三峰からなる主頂部と、南方の別山(二三九九・四メートル、小白山ともいう)・三ノ峰(二一二八メートル)、西方の白山釈迦岳(二〇五三・二メートル)などを合せた総称。主峰三峰を白山三峰、これに別山・三ノ峰を加えて白山五峰というよび方もある。山頂は県南東部、岐阜県境に位置し、山域は白峰村・尾口村、岐阜県白川村・荘川村・白鳥町、福井県大野市・勝山市などにまたがる。白山山系は南方に続く能郷白山(一六一七・三メートル、岐阜・福井県境)山系とともに両白山地を構成する。手取川水系・庄川水系の分水嶺であり、山系南部は九頭竜川や長良川の水源となっている。山頂付近では冬季の積雪が一〇メートルにも達し、残雪も多く、古称「しらやま」ともども四季を通じて山頂が白く遠望されることが山名の由来である(「色葉字類抄」など)。古くから信仰の対象となり、とくに手取川流域の加賀、九頭竜川流域の越前、長良川流域の美濃に生れた信仰は仏教や道教の影響を受けながら山岳信仰として展開し、平安時代の初期までには各国(各流域)ごとの信仰拠点として加賀馬場・越前馬場・美濃馬場のいわゆる三馬場が形成された(白山之記)。加賀は白山本宮白山寺(現鶴来町)、越前は白山中宮平泉寺(現勝山市)、美濃は白山本地中宮長滝寺(現白鳥町)が各馬場の中核となり、それぞれから白山の頂上(禅頂・禅定ともいう)を目指す登拝路、白山本道(白山禅定道ともいう)が開かれた。白山信仰の隆盛に伴って当山は富士山・立山とともに日本三霊山・三名山の一つに数えられている。
〔白山の自然〕
白山は最終氷期(ウルム氷期)の氷河活動による浸食作用を明確に確認できるわが国の南西限にあたる。このため当山より西ではみられなくなる、あるいはきわめて少なくなるという動・植物も多種あり、生物分布上からも重要な山である。山麓にはブナ林、中腹の亜高山帯にはダケカンバ、オオシラビソの林が広がり、山頂部の緩斜面ではハイマツやハクサンコザクラ、ハクサンボウフウ、ハクサンフウロなどの高山植物がみられる。また亜高山帯のダケカンバ林を中心に、ツキノワグマ、ニホンカモシカ(特別天然記念物)、ニホンザルなどの哺乳類やイヌワシなどの野鳥が多く生息する。昭和三七年(一九六二)石川・福井・岐阜・富山の四県にまたがる山域は白山国立公園に指定された。山麓には白山温泉・白峰温泉(白峰村)、岩間温泉・新岩間温泉(尾口村)・中宮温泉(吉野谷村)などの温泉が点在、室堂平には県立白山室堂センター、中宮温泉口には石川県白山自然保護センターなどの施設も整備され、また国民休養地の指定を受けた尾口村一里野を中心に一帯が白山一里野県立自然公園となっている。
〔白山の生成〕
白山の山体は二つの異なる基盤、およびその上に噴出した安山岩質の溶岩流や火砕流堆積物からなる。基盤の一は西・南域に広く分布し、手取統とよばれる中生代白亜紀前期の堆積岩、いま一つは濃飛流紋岩類と総称され、白亜紀末期から古第三紀にかけての火成活動の産物で、きわめて硬くおもに北・東部に分布する。白山の火山体は標高の割に薄く、厚さは最大で四〇〇メートル。このため二つの基盤とも二二〇〇メートル以上の高い標高地点で一部露出している。手取統の頁岩中にはシダ、イチョウ、ソテツ類などの植物化石が多く含まれ、これらの植物化石は手取植物群とよばれている。同植物群は当初、白峰村桑島の手取川右岸、通称化石壁で採集した標本をもとに研究され、同所からは近年、恐竜の歯や足跡の化石も発見されて注目を集めた。なお別山は火山ではなく手取統からなり、地層の縞模様から四海波岳の別称がある。
白山の火山活動は四〇万―三〇万年ほど前、現山頂北部で始まった。この時期の噴出物は目附谷と丸石谷に挟まれた山稜(加賀禅定道にあたる)に広く分布し、加賀室火山とよばれている。その後約一五万年という長い休止期を経て、新旧二期の火山活動があり(古白山火山と新白山火山)、現在の白山が形成される。古白山火山の活動は火の御子峰西側付近を噴出の中心として、約一五万―一〇万年前頃まで続いた。同活動によって湯ノ谷川支流千才谷に千仞ヶ滝、丸石谷上流に百四丈滝がつくられ、古白山は標高三〇〇〇メートルを超えて、美しい円錐形の山体を有していたと推定される。大汝峰を形成する溶岩はこの時期のものである。その後約八万年間の休止期があり、この間に激しい浸食作用を受け、約二万年前から現在につながる新白山火山の活動が始まる。新白山の火山活動は大きく三つの時期に分けられる。第一期では御前峰を含む山頂部や室堂平・弥陀ヶ原などを形成する溶岩や火砕流が噴出、柳谷の不動滝もつくられた。第二期には山頂部で大崩壊が起こり、このときの岩屑流は庄川支流大白川谷に沿って流れ落ち、頂部には馬蹄形の窪みが残された。第三期には崩壊窪地から溶岩流が東側へ流失、転法輪谷や小白水谷を埋め、山頂部では窪地内から剣ヶ峰が噴出して中央火口丘となった。岩屑流の発生から剣ヶ峰の形成までは約五千―二千年前までの出来事と考えられる。剣ヶ峰形成以後も翠ヶ池などからの噴火活動がたびたび起こり、現在山頂部に残る大小一五個の火口群はこのときの所産である(以上「白山」など)。
〔噴火の記録〕
火山である白山は歴史時代に入っても、その噴火が記録される。「白山之記」によれば長久三年(一〇四二)白山越前室の住僧良勢が新宮を設け三馬場の座主・別当を追放し、参詣人の進物を押領、このため加賀馬場の行人らは良勢を焼殺すという事件が起こった。放火・殺人の輩が寄宿する不浄を怒った白山は噴火し、このとき翠ヶ池が生じたと記す。その後延応元年(一二三九)・天文一六年(一五四七)にも活動したことがみえ(「新編分類本朝年代記」など)、同二三年には大規模な噴火が起こっている。同年の活動はまず四月一日に「当禅頂煙立登」とその兆しがみえはじめ、五月二八日には「剣山南焼上、大盤石吹上、正殿大床ヤネ打抜」と剣ヶ峰付近の活動が活発となり、以後大川(手取川)は「水灰」となって硫黄の流出により「魚死ヌ、人民川水ヲ不含」との状態が続き、一〇月八日には「大震動シテ、国中諸人以外驚」き、白山寺は「煙充満」し「川水又如前濁ル、其後湯煮事立山ノ地獄同之」であったという(白山宮荘厳講中記録)。この噴火活動は弘治三年(一五五七)まで続いた(「長滝寺荘厳講執事帳」長滝寺文書)。その後、天正七年(一五七九)から万治年間(一六五八―六一)まで幾度かの噴火が記録され(「混見摘写」金沢市立図書館蔵、前掲荘厳講執事帳など)、同三年「別山にて南北にあたり黒雲出る、其内より長き壱丈計法師三人見ヘ申候」(混見摘写)などの記載を最後に活動を休止している。なお、慶雲三年(七〇六)八月三日越前国より「山災不止」との言上があり、山火事を鎮めるため奉幣使が派遣されたとの記載や(続日本紀)、仁寿三年(八五三)・貞観元年(八五九)の白山比神の神階昇叙も白山の噴火に関連して行われたものと考える説もある。
〔白山信仰の成立〕
白山信仰は「しらやましんこう」ともいい、山名の由来と同様に、当初は雪をいただいた諸所の山、「しらやま」に対する普遍的な信仰を指し示す普通名詞であった。しかし、やがて当山を対象とした固有の山岳信仰を表す名詞になったものであろう。一般的な「しらやま」信仰は河川の水源となる白き神々の座を水神・農耕神として仰ぐ信仰であり、水田農耕社会が始まると同時に生れていたであろう。当山を水源とする加賀手取川・越前九頭竜川・美濃長良川の各流域でも、それぞれ独自の白山信仰が形成されていったと思われる。これら流域ごとに一つのまとまった信仰が形成されたのは加賀国でいえば道君や江沼臣など国造級の地方豪族による政治的・宗教的支配が確立した六世紀以降のことと考えられる。白山は一方で日本海を生活の基盤とする人々にとっては、海上における山ダメ(山当)の指標となり、白山の神々は航海・漁労の守護神でもあった。
奈良時代に入り神仏習合が進み、平安時代以降、本地垂迹説に基づいて本地仏―垂迹神との関係が確立されると当山では御前峰(現在白山比神社奥宮を祀る)が伊弉冉神を垂迹神とし、白山妙理大菩薩を号し、本地仏は十一面観音、以下同様に大汝峰(大汝神社)は大己貴神で本地は阿弥陀如来、別山(別山神社)は小白山大行事で聖観音を本地とするという、白山三所権現を基本とする考え方が信仰の核心に据えられる。この神仏の体系は天徳二年(九五八)に原形が成立したとされる「泰澄和尚伝記」によって確立、世に広まったが、同書には後補・追筆の部分もあり、実際に前述のような三所権現の信仰が定着したのは熊野でそれぞれの本地仏が熊野三山三所に決定したとされる平安時代末期一一世紀後半よりも後代のことと考えられる。
〔泰澄伝承〕
白山は養老元年(七一七)泰澄によって開かれたという伝承は広く知れ渡っている。越の大徳とよばれた泰澄は「泰澄和尚伝記」によると越前国麻生津(現福井市)の出身で、一四歳のとき十一面観音の霊夢をみて、越前国丹生郡の越知山で修行を積み、しだいにその呪験力が世に知られ、大宝二年(七〇二)に鎮護国家の法師に任ぜられた。この年、能登島(現能登島町)の小沙弥(臥行者)が泰澄を尋ねて来て侍者となった。臥行者は験力をつかって北海行船から糧米を請うていたが、出羽の船頭神部浄定(浄定行者)は臥行者の験力に感じ、泰澄の弟子となった。霊亀二年(七一六)はじめて貴女(白山神)の夢告があり、その導きにより翌養老元年、泰澄は白山に登拝する。
九頭竜川に沿って登り、林泉(平泉寺)で、同所が白山神の遊所で中居であること、白山神が伊弉冉尊で妙理大菩薩と号することを悟る。天嶺禅定に達し、翠ヶ池畔で白山神を拝し祈ると、神は初め九頭竜の形で現れたが、真身である十一面観音の姿を示す。次いで泰澄が別山に向かうと宰官が現れ、聖観音の現身である小白山別山大行事であると告げた。次いで大汝峰に登拝すると、老翁に会い、本地は阿弥陀如来で、現身は大己貴と名乗った。小白山別山大行事・大己貴とも御前峰の妙理大菩薩の神務輔佐の神々と知った泰澄は、養老三年まで練行を積み下山、翌年以降、他の行者たちが白山に登拝修行するようになったという。泰澄は養老六年護持僧となり、禅師の位を許されて神融禅師と号し、神亀二年(七二五)白山に詣でた行基と相会、天平八年(七三六)には玄を訪ね、大陸将来の経論五千余巻を披閲、とくに十一面経を授けられる。翌九年、流行の疱瘡を十一面法によって終息させ、大和尚位を許され、泰澄を号する。天平宝字二年(七五八)以後、越知山の大谷に籠り、神護景雲元年(七六七)八六歳で同所に没した。
この伝記がどこまで事実を伝えているかはともかくとして、泰澄と名乗る民間の仏教者が越前馬場を中心に修行を重ね、九頭竜川流域の人々に白山の霊験を語り、強い影響を与えていたことは確かであったろうと思われる。また泰澄の出身地麻生津が日野川水系の要津であり、二人の侍者が日本海海運との関係が深いことから伝承の背景に運送を業とする有力な海民集団の存在があること、旧来の白山信仰に新たに観音信仰の強い影響が加わったことなどが指摘されている。
〔三馬場の成立と白山修験〕
入唐八家の一人で、帰国後京都東寺の長者に補せられた宗叡(寛平五年没)は修行時代「越前国白山」で苦行を重ねたといい(「三代実録」元慶八年三月二六日条)、一三代天台座主尊意(天慶三年没)の幼年時代の師である苦行僧賢一は元慶二年(八七八)越の白山に入ったという(尊意僧正伝)。これらの記載から九世紀には白山が修験の行場として広く知れ渡っていたことがうかがえ、「白山之記」では天長九年(八三二)に三方の馬場が開かれたとする。馬場は「ばんば」とよみ、一般には白山に登拝する人々が、たとえ馬に乗ってきた高貴な人でも、そこで下馬し、以後は徒歩で登らなければならない場所と解されているが、白山信仰の高まりのなかで参詣者が増えるにつれて、そうした参詣者の集合地となった山麓の特定の場所(遥拝地=里宮)をさしたものであろう。
越前馬場平泉寺を起点とする禅定道は、まず北東にそびえる三頭山に登り、尾根伝いに児卒塔婆を横に法恩寺峠(法恩寺山)を上り、急坂を下って滝波川上流追分で、小原峠越の道に出る。小原村(現勝山市)の出小屋早内森から、泰澄が白山開闢の折、白山権現の使者三足の白雉が山頂の方角を教えた所と伝える雉子神の地(現同上)を経て川上峠(小原峠)へ出、さらに三ッ谷(現白峰村)を過ぎて、手取川沿いに一の瀬(市ノ瀬、現同上)に至る。この地には平岩という所があって、白山禅定の人々の一の垢離をとる所という。さらに六万部山(現六万山)・剃刀宿・慶松平・別当坂・畜生谷・殿ヶ池・真砂坂・蛇塚・弥陀ヶ原を過ぎて、室堂から頂上に至った。美濃馬場は長滝寺を出発点とした。前谷・檜峠を通って越前国の石徹白(現白鳥町)に出、上在所の白山中居神社(現同上)から山に入る。鉞石・銚子ヶ峰・一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰を経て美濃馬場支配の別山に至る。別山からは尾根伝いに御舎利山・油坂・南竜ヶ馬場を経て室堂平に至り、御前峰に登拝する。
一方、白山本宮白山寺を起点とする加賀馬場禅定道は「白山之記」などによるとまず本宮から手取川の渓谷に沿って別宮(現鳥越村)へ向かった。別宮は三間一面の宝殿や拝殿・渡殿を備えていたという。さらに不動明王を本地とする佐羅大明神(現吉野谷村)を経て、瀬戸野(現尾口村)から支流尾添川の左岸をさかのぼる。幾度か同川を渡り返しながら、途中、右岸の笥笠中宮(現吉野谷村、古くは「けがさ」と称したといい、単に中宮ともいう)に詣でる。笥笠中宮は加賀馬場禅定道の中間点で、女人の参拝はここまでとされた。同宮の本地は如意輪観音で、三間一面の神殿のほか、彼岸所・講堂・常行堂・法華三昧堂などを備え、長吏僧隆厳や社家冬見氏や春見氏が奉仕していたという。駕籠の渡しで再び左岸に移り、虚空蔵菩薩の垂迹神を祀る加宝宮(現尾口村)に詣でる。「護応石」とよばれる霊石や「壺の水」の霊泉を脇に見ながら祓谷の渓流を上り檜新宮(現同上)に詣でる。地蔵菩薩を本地とする同宮を経て、付近に多聞天を安置する小社のある藁履の御峰に達する。登拝者はこの峰に草鞋を脱いで奉納したという。そこからは尾根伝いに高滝・雨池(天池)・北竜ヶ馬場・御手鉢を経て、大汝峰・御前峰に至った。なお各禅定道は時代によって若干異同がある。
前述のように長久三年には越前室住僧良勢と加賀馬場行人らが争うなど、三馬場の間では白山禅定(頂上)の祭祀権と開山泰澄の権威をめぐる争奪が江戸時代に至るまで幾度となく繰返されている。当初は泰澄の出身地である越前馬場が優位であったと思われる。長寛元年(一一六三)頃に原形が成立したとされる「白山之記」では白山三神の垂迹と本地を示すほかは泰澄伝記の強い影響はみられない。しかし、その後、加賀馬場が優勢となって以降の永正五年(一五〇八)に成立した白山禅頂御本地垂迹之由来私伝(白山比神社文書)では、泰澄が貴女の夢告を受ける地が林泉から白山本宮の舟岡山の石室や安久濤ヶ淵(現鶴来町)に移されるなど、越知山で修行したことを除き、泰澄の縁地はすべて加賀を舞台として展開するように書換えられている。一方で平安時代末期には平泉寺・白山寺・長滝寺の三ヵ寺とも順次延暦寺の末寺となり、三馬場の帰一化も進行、延暦寺の守護神近江日吉大社では山王七社の一として客殿に白山姫神を祀るようになっている。
白山を行場とする白山修験の活動は、たとえば全国にその足跡と伝説を残す八百比丘尼が「康富記」では白比丘尼とみえることから(文安六年五月二六日条・同二七日条など)、白山に関連する勧進比丘尼ではなかったかと指摘されるように全国的な広がりをみせていたと思われる。白比丘尼は法華経の説経祭文を歌い、集団で移動する勧進比丘尼であったと考えられる。これは熊野比丘尼と同じ職能をもち、唱える祭文の一つが白山祭文であり、白神祭文であったとされる。昭和六一年には主峰三峰から銅・鉄・石製の仏具を中心に土器類などを含む各種信仰遺物が採集されている(白峰村の→白山山頂遺跡)。しかし、熊野や大峯、出羽羽黒のように白山修験独自の教団組織は発達しなかった。このため中世・近世における御師活動も美濃馬場を除いて著しいものはないものの、江戸時代初期には三霊山への三禅定が流行し参詣曼陀羅が作成されている。また参詣の案内書として十返舎一九の「金草鞋」加州白山参詣、金子有斐の「白山遊覧図記」などが著された。大正二年(一九一三)調査の「内務省神社局明細帳」では旧加賀・越前・越中・越後・美濃・尾張・三河地方を中心に四三府県二千七一六社の白山社が確認される。山形県では最上川流域沿いに分布が濃密で、日本海と各河川を結ぶ水運によって白山信仰が広まっていったことを暗示させる。
〔都人からみた白山〕
「万葉集」巻一四に「栲衾白山風の寝なへども子ろが襲着の有ろこそ良しも」が収められる。白山は歌枕として知られ、「能因歌枕」は加賀国とし、「五代集歌枕」「和歌初学抄」など多くの歌学書は越前に分類する。「しらやま」のほか、「こしのしらやま」「こしのしらね」「こしのたかね」などとして詠じられる。また、「み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にかわが里を見む」(「万葉集」巻一二)と詠じられる「越の大山」を白山とする説もある(奥義抄)。都人にとって、白山から連想されるものは北国・雪・純白などであったが、遠く離れた地にあって、白山の雪は夏でも決して消えることがないとみなされるようになった。「こしなりける人につかはしける」として紀貫之が詠じた歌に、「思ひやるこしの白山しらねどもひと夜も夢にこえぬよぞなき」(古今集)とあり、「おほえのちふるがこしへまかりけるむまのはなむけによめる」として、藤原兼輔朝臣が詠じた「君がゆくこしのしらやましらねども雪のまにまにあとはたづねむ」(同書)などがある。これらの歌にみえる白山すなわち白嶺(しらね)は、白山すなわち「不知」(しらね)を意味するとも考えられる。「後撰集」に「しら山へ詣でけるに、道中より便りの人につけてつかはしける」として、「宮こまでおとにふりくる白山はゆきつきがたき所なりけり」(よみ人しらず)と詠じられたように、東国ほどではないにせよ辺境の地と感じられていた。
白山の雪が消えない雪、年を越えて降積む雪とみなされていたことを示す例としては、凡河内躬恒が「こしのくにへまかりける時、しら山を見てよめる」歌、「きえはつる時しなければこしぢなる白山の名は雪にぞありける」(古今集)などがあり、躬恒は「神代より年を渡りてあるうちに降りつむ雪の消えぬ白山」(西本願寺本「躬恒集」)と言切っている。このように躬恒によって、雪の消えない白山が印象づけられることとなった。さらに進むと、長い不遇などを比喩する表現として用いられるようになる。清原元輔が「つかさめしのねのびにあたりて侍けるに按察更衣のつぼねより松をいだして侍けるを詠み侍ける」として、「雪深きこしのしら山我なれやたがをしふるに春をしるらむ」(後拾遺集)と詠じている。幾年も徐目に漏れて仕官のできない我が身を、「雪深きこしのしらやま」にたとえたものである。
以上のように白山は、文芸上の決められた位置を与えられていたが、もちろん信仰の対象としても知られていた。都人による登拝の早い例は、宗叡による承和一四年(八四七)のものであるが、「本朝法華験記」などにも山岳霊場としてあげられている。「宇津保物語」(菊の宴)に、「いみじき大願をたて、あるは山林にまじりて、金の御嶽、越の白山、宇佐の宮まで参り給ヒつゝ、願し申給はぬ人なき中にも」とあり、参詣の対象としてかなり知られた存在であったらしい。「枕草子」に「二十日の程に雨降れど、消ゆべきやうもなし、すこしたけぞ劣りもて行く、白山の観音、これ消えさせ給ふな、といのるも、ものくるほし」とある。中宮定子が中宮職の庭に雪山を作らせたが、女房たちは雪山の消える時期をめぐって賭けをした。清少納言も賭けに加わったのであるが、あまり早く雪山が消えないように白山の観音に祈ったという。しかし、都人が白山の仏神の存在を思い知らされたのは、安元三年(一一七七)の白山宮衆徒の愁訴であったろう。白山宮衆徒が神輿を奉じて、加賀国目代の藤原師経が白山中宮末寺八院の一つを焼払ったことを延暦寺に愁訴したのであったが、「平家物語」(巻一)では、その時の様子を次のように描く。「白山の神輿既に比叡山東坂本につかせ給ふと云ほどこそありけれ、北国の方より雷飫う鳴て、都をさしてなりのぼる、白雪くだりて地をうづみ、山上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで皆白妙に成にけり」。白山が雷をおびただしく落し、雪で大地を埋めつくす、畏怖すべき存在として描かれている。
中世に入ると、「梁塵秘抄」(巻二)に「勝れて高き山、(中略)日本国には白山、天台山」とあるように、比叡山とならんで秀でて高い山として詠じられるようになった。文明一八年(一四八六)六月京都を出発した聖護院道興は、「白山禅定し侍りて三の室にいたり侍るに雪いとふかく侍りければ、おもひつゞけ侍りける」として、「しら山の名に顕れてみこしちや峰なる雪の消る日もなし」(廻国雑記)と詠じている。また下山する途中夕立ちにあいながら「ゆふたちの雪はしらねの雪けかな」と詠じた。鶴来村(現鶴来町)では上古剣が飛来したという地名のいわれを聞いたが、「しら山の雪のうちなる氷こそ麓の里のつるき成けれ」と述べており、地名の由来は白山の剣にあると考えたらしい。なお延徳三年(一四九一)細川政元と同道して越後へ向かった冷泉為広はミナト河(手取川)を渡りエナミヂ(米光、現松任市)からカサバ(笠間、現同上)へ向かう道すがら、右手に遠くフクドミ(福留、現同上)と「ハクサン」を眺めている(越後下向日記)。これが「はくさん」の訓の早期のものであろう。
〔中世の白山〕
白山信仰は中世においても加賀・越前・美濃の三馬場でそれぞれ独自の展開をみせる。久安三年(一一四七)加賀馬場は越前馬場に続いて延暦寺末となり(「白山本宮神主職次第」白山比神社文書、以下断りのない限り同文書)、日吉七社にならい、白山本宮・金剣宮・三宮(現鶴来町)・岩本宮(現辰口町)・中宮・佐羅宮・別宮(現吉野谷村)が整備され、前四社を本宮四社、後三社を中宮三社と称するゆるい連合体を構成した。この七社を合せて白山七社と称した(白山之記)。加賀禅定道の基点に位置し、一一世紀以来加賀一宮となっていた本宮白山寺の長吏は白山七社惣長吏を兼ね、本寺延暦寺の白山別当の下に置かれた。
養和元年(一一八一)能登国に続き、加賀国の武士が反乱を起こして越前国へ攻め入ったとき、加賀馬場はこれを支援したと推定する説もある。一方「平家物語」「源平盛衰記」などによれば、越前平泉寺長吏斎明は寿永二年(一一八三)四月燧城(現福井県今庄町)の合戦の際、平氏軍に帰参し、のち木曾義仲により誅されている。加賀馬場と越前馬場の政治的立場の相違の背景には、長久年間の争いが白山禅頂の参詣者の進物をめぐってのものであったように、禅頂の権利(のち杣取権と称される社殿造営権)をめぐる抗争があった。この争いは中世には加賀馬場の優勢のうちに展開し、近世の白山争論へ継承される。一二世紀頃、その伝記等において白山禅定(登拝修行)が伝えられる僧として、永治二年(一一四二)以前に白山宮宝殿に経典を奉納した僧西念(同年三月一七日「僧西念供養目録」東京国立博物館蔵)、久安五年以前に白山に参詣し、白山禅頂宝殿に鰐口などを寄進した末代上人(「本朝世紀」同年四月一六日条・「白山之記」)などが知られる。
暦応二年(一三三九)から康永二年(一三四三)頃の間と推定される六月七日付武蔵国金沢称名寺(現横浜市)宛の真如書状(柳瀬福市氏旧蔵文書)によれば、能美郡軽海郷に展開していた白山中宮八院の法師たちが南朝方に属したため没落し、足利尊氏方の那谷寺(現小松市)が八院を掌握したという。一方白山本宮の動きについては、建武四年(一三三七)六月三日付の僧貞意起請文の存在などから一応尊氏方にあったものと思われるものの、以後文和二年(一三五三)までの文書は現存せず、また「白山宮荘厳講中記録」も元徳二年(一三三〇)以後観応二年(一三五一)までの記事が残っていないため、具体的な動きは知りえない。
「廻国雑記」によれば、道興は能美郡の本折(現小松市)から梯川支流滓上川流域の仏の原(現同上)を通り、手取谷「吉野川」(現吉野谷村)に入り、白山禅定を果したが、「三の室」に至り、歌を詠じている。この三の室とは「白山之記」にみえる「加賀室」の後身と考えられ、白山禅頂御本地垂迹之由来私伝では「三ノ宿大室」と記され、大汝峰北麓に所在した。道興は中宮から檜新宮を経て禅頂へ向かう加賀禅定道を通ったことがうかがえる。下山の時は吉岡(現河内村)を経て下白山(白山本宮)と剣(金剣宮)を訪れている。白山連峰北部の笈ヶ岳山頂の経塚から出土した二本の経筒(東京国立博物館蔵)のうち一本は永正一五年武蔵国太田庄光福寺の住僧実栄が「大乗妙典六十六部内一部」を旦那正朝の逆修のために納経したものであった。ほかの一本は大聖寺の住僧善養房禅守が同行一二人とともに旦那空範のために「六十六部如法経」の一部を納経したもので、年紀はないが前記一本と同時期の納経とみられる。六六部の一部とあることから、白山が全国六六ヵ所の霊地に含まれ、これらを回り経典を一部ずつ埋納していったものと推定される。
中世加賀・越前両場の争いは康正三年白山禅頂遷宮霊異記(密谷文書)でもうかがえる。同書によれば康正三年(一四五七)七月加賀白山七社が白山禅頂の社殿遷宮を行おうとした際、越前平泉寺衆徒がこれを阻止するため訴訟を起こしたものの敗訴した。このため同寺衆徒らは禅頂に登り、加賀白山七社の大衆と対峙、種々の霊異により平泉寺側の失敗に終わったと伝える。白山禅頂御本地垂迹之由来私伝によれば、河北郡井家庄の領主井上左衛門は、毎年六月一八日の白山禅頂朝戸開(山開き)のとき、進物を一〇人の人夫に運ばせて、一五日から先達・代官とともに参詣したという。追記の日記によれば、六月一五日、一ノ宿下白山の地蔵院の住持・先達に酒二〇樽の代銭一貫文、翌一六日、二ノ宿中宮法台坊に同じく二〇樽の代銭一貫文、一七日には三ノ宿大室(加賀室)へ行く途中の火ノ新宮(檜新宮)へ一五樽の代銭一貫文、天池室へ一五樽の代銭一貫七五〇文の礼物を納め、ほかに富樫惣社・金剣宮に各二〇〇文、八幡に一〇〇文、三ノ宮に一〇〇文、大御前(御前峰の奥宮)に二〇〇文、加子宮(加宝宮)に一〇〇文の神楽銭を納めていたという。井上左衛門の話は必ずしもすべてが事実とはいえないが、禅頂に近づくにしたがい樽の代価も高くなるという合理的記述もみられ、ある程度の事実を反映しているとされる。こうした道者の礼物・進物や神楽銭などの参銭徴収という利害が、杣取権(社殿造営権)をめぐる相論の背景にあったとされる(尾口村史)。
中世後期に入ると白山の仏神に一部変化がみられる。室町時代に成立した「義経記」巻七(平泉寺御見物之事)に「岩本の十一面観音」とみえるように、岩本宮の本地仏が地蔵から十一面観音に変化し、大永七年(一五二七)の書写といわれる大永神書でも岩本宮は十一面観音であり、児宮の本地を釈迦(「白山之記」では如意輪観音)、別宮の本地を薬師如来(「白山之記」では十一面観音・阿弥陀如来・聖観音の三所権現)とするなど、加賀の独自性の主張がみられ、こうした主張も越前馬場との抗争激化に伴うものであろう。同書ではまた上七社・中七社・下七社をあげて、日吉大社の山王二一社に類似する上・中・下の三宮制に則した主張もみせている(尾口村史)。
文明三年本願寺蓮如の越前吉崎(現福井県金津町)留錫以来白山麓山内にも真宗が浸透する。元来加賀馬場では禅定道正面に阿弥陀如来を本地とする大汝峰を仰いで阿弥陀信仰の伝統があり、白山信仰は真宗浸透の障害にはならなかったといわれる。文明六年本願寺派の支援を受けた富樫政親(東軍方)が弟幸千代(西軍方)を攻めた際、白山本宮長吏澄栄や衆徒も政親方に加わり、能美郡蓮台寺城(現小松市)を落している(「白山宮荘厳講中記録」同年条)。また長享二年(一四八八)六月加賀一向一揆が政親を高尾城(現金沢市)に包囲したときも、金剣宮・本宮衆徒が「国内ノ一大事コレニ過ベカラズ、一国破レ家亡ビナバ、両社トテモ安穏ニ有ベカラズ、民ハ根、君ハ葉ナレバ、根ノ民ニ合力セヨ」と宣議して、三千余が「諏訪口」まで出陣したという(官知論)。享禄の錯乱の際、当初劣勢であった藤島超勝寺・和田本覚寺は山内に退却、同所より出撃して波佐谷松岡寺を焼払い蓮綱と一族を山内に幽閉している。同年七月摂津石山本願寺より坊官下間頼秀らが超勝寺・本覚寺支援に下向すると、白山本宮長吏澄祝らもこれに加勢、近辺の賀州三ヵ寺派の清沢願得寺(現鶴来町)に放火し、金剣宮やその寺家在家共々焼払っている(「白山宮荘厳講中記録」同年条)。しかし、本宮内部には三ヵ寺派を支援する勢力もあり、天文六年七月若松本泉寺が超勝・本覚二ヵ寺に反撃を試みて失敗したとき、本宮長吏澄祝の弟平等坊が若松方に加勢して追われ、白山禅頂を越えて越前へ亡命、慌てた澄祝は理性坊澄範(澄祝の弟か)を本覚寺へ人質に出し事無きを得ている(同書同年条)。「天文日記」同年八月二八日条でもこの件について長吏の狼狽ぶりを「おかしく候」と記すが、加賀馬場が一向一揆を形成する一軍団にすぎなくなった立場の一端が現れているとされる(尾口村史)。
天文一〇年八月二一日白山禅頂の大汝峰の社殿が強風で倒壊(「白山宮荘厳講中記録」同年条)。越前平泉寺の支援を受けた牛首・風嵐両村(現白峰村)が社殿の造営を行った。ところが尾添村(現尾口村)あるいは白山本宮の訴えにより、同一二年一二月二四日本願寺証如は社殿の破却を命じている(天文日記)。これは加賀禅定道の登り口に位置する尾添村に対抗して同禅定道から大きく外れ越前禅定道に近い牛首・風嵐両村が、参詣者の参銭入手のため起こした事件といわれ、白山麓でも牛首谷の人々が同じ白山麓のほかの地域と異なる微妙な動きをみせる遠因を示すとされる。尾添村の要請を受けた白山本宮長吏澄辰は、天文一三年朝廷・京都青蓮院・本願寺と交渉を重ね、また尾添村与七郎も山科言継に礼物を持参し(「言継卿記」「天文日記」など)、同年六月五日には朝廷より尾添村の禅頂諸堂杣取権が安堵されている(後奈良天皇綸旨)。しかし、牛首・風嵐両村には石川郡河内庄地頭で幕府奉公衆の結城宗弘が支援していたため、尾添村はさらに天文一四年二月幕府に訴え(「言継卿記」同年二月一四日条)、交渉を重ねた結果、同年六月二四日、白山本宮・尾添村を勝訴とする政所奉行人の意見状が出された(「室町幕府政所奉行人意見状案」伺事記録、密谷文書など)。翌七月一九日にも同様な意見状が出されており(伺事記録)、これらに基づいて幕府の裁許が行われたのであろう。
〔白山麓の村々〕
白山山頂社殿の造営権、白山杣取権などをめぐる、牛首村・風嵐村と尾添村の争論(白山争論)は近世も継続した。天正八年前記二村は、白山の西麓から北麓にかけての一四村とともに加賀国から越前国大野郡に所属が変わり、江戸時代は越前福井藩領、正保元年(一六四四)幕府領福井藩預地となる(「白山一巻留書」林西寺文書など)。明暦元年(一六五五)加賀藩前田氏の山上堂社建立発願に端を発し、福井藩と加賀藩との領境問題となった。加賀藩は即決を避けて時機を待ち、寛文六年(一六六六)再び争論が起こったときに、五代藩主前田綱紀の後見であった会津藩主保科正之らの斡旋もあって、尾添・荒谷両村(現尾口村)を幕府へ上知したい旨を申出た。同八年前記の福井藩預地一六村とともに一八村が幕府直轄領となり、これらは白山麓十八ヶ村と称された(石川郡の→白山麓十八ヶ村)。しかし争論は絶えず、元禄一二年(一六九九)には御前峰・別山は延暦寺・平泉寺と牛首・風嵐両村、大汝峰は紀州高野山・白山寺と尾添村の奉仕と定められた(平泉寺文書)。
元文三年(一七三八)大汝峰の修復を平泉寺が行ったためまたも争論となり、寛保三年(一七四三)の幕府裁定で尾添村は加賀馬場からの入山者の案内と室堂宿泊の権利、平泉寺は山上三社の支配権を与えられた(文久三年「白山麓十八ヶ村由緒控」金沢市立図書館蔵など)。こうして平泉寺が白山信仰にかかわる諸権利をほぼ独占して明治に及んだ。しかし明治の神仏分離令によって同寺が衰え、また郷土史家であった石川県官森田平次の精細な調査によって、明治五年(一八七二)には一八ヵ村すべてが加賀国能美郡に属することになり、翌六年山上の神祠は白山比神社の奥宮と定められた。神仏分離令により白山山中に祀られていた仏像は下山させられ、白山五仏をはじめとする仏像は白峰村林西寺や尾添の白山社に、美濃馬場に関係するものは石徹白の大師堂に預けられた。
白山麓十八ヶ村は奥山の豪雪地帯であり、近世の村高は合せて三〇〇石余しかなく、山の民は出作り小屋で焼畑(むつし・あらし)と養蚕・製糸を営んでおり、「毛吹草」に牛頸布・島布がみえる。林業では木呂・木羽・炭・薪を産出し、深瀬(現尾口村)の檜木笠、荒谷の蒲脛布(スネ当て)が特産で、瀬戸では近世後期に石灰を産出した。また、歩荷・牛荷賃持の出稼に出た。白山登拝者の宿や参銭徴収・札宝印頒布も現金収入の途であった。しかし大部分の農民の生活は貧しく、ごく少数の大地主の下に地内子(地名子)として従属し、焼畑を年季で借りて生計を保った。ヒエが常食で、生糸・絹布生産は小松等の商人の前貸制の下にあった。そうした生活を精神的に支えるべく真宗を篤信し、村々に道場が営まれており、古くからかんこ踊(県指定無形民俗文化財)があり、尾口村の東二口・深瀬では近世中期からの人形芝居でくまわし(国指定重要無形民俗文化財)が伝えられている。昭和三〇年代半ばで焼畑はほとんど消滅して土木稼が増え、やがて過疎化が深刻な問題となった。昭和三三年の大日川ダム建設で小原・津江(現小松市)が廃村となり、同四九年手取川ダムの着工により白峰村の桑島・下田原、尾口村の鴇ヶ谷・深瀬・釜谷・五味島の大半が水没した。また同五二年の白山スーパー林道の開通、五四年の国道一五七号の改良もあって交通が便利になり、住民が都市・平野部へ散った反面、温泉・スキー場・自然観察・民俗資料館などの施設が整ってきて観光客を集めている。