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ジャパンナレッジで閲覧できる『菅家文草』の世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ
改訂新版・世界大百科事典
菅家文草
かんけぶんそう
菅原道真の漢詩文集。12巻。900年(昌泰3)成立。前半6巻は詩468首を年次順に,後半6巻は散文161編をジャンル別に集める。道真は政府高官であった得意時代,〈月夜に桜花を翫(もてあそ)ぶ〉(385),〈殿前の薔薇を感(ほ)む〉(418)など艶冶巧緻の作を多く詠む(作品番号は《日本古典文学大系》所収のものによる)。なかんずく,〈春娃(しゆんわ)気力無し〉(148),〈催粧〉(365)の詩と序は,宮廷専属歌舞団の舞姫の官能的な姿態を描いて,王朝妖艶美の頂点に立つもの。それは《源氏物語》〈花の宴〉の巻,《栄華物語》〈音楽〉の巻に展開し,早くも中世幽玄美の道を予見させる。また京の大学寮に学ぶ学生群像を描く連作(129~138)は当年の受験生10態を描いたもの。あるいは教育者として,学徒と喜びや哀しみを共にする諸作品,転任を余儀なくされる役人生活の憂鬱や学者どうしの嫉視反目の渦中で,中傷讒誣(ざんぶ)に憤り嘆く述懐自照の諸作なども注目すべきところである。巻三・四は讃岐守として南海道に赴いた讃州失意時代の詩を収める。〈舟行五事〉(236),〈路に白頭の翁に遇ふ〉(221),藺笥(いげ)の翁との問答連作(228~231)などは目の覚めるような批判詩である。ことに傑作〈寒早十首〉(200~209)は地方の悲惨な民衆生活10態を描く仁和期の職人尽しであり,平安朝における貧窮問答歌といえる。また愛児の死を悼んで切々たる悲痛の情を吐露した〈阿満(あまう)を夢みる〉(117)は,彫りの深い哀傷文学である。後半6巻は散文の世界。菅家廊下(菅家の門人の私塾)の日常を生き生きと描く〈書斎記〉(526),相撲節会の作り物を具体的に描写する〈左相撲司標所記〉(527)は,四六体の装飾なしに,日常語で,事実を平明に直叙する。〈申し文〉の中では,農民の立場から検税使の派遣に反対した奏状(602)が,装飾を使わない,記録体の散文として特筆すべきものである。ひたすら事実のみに密着して論理明快,気迫に満ちた痛烈な批判詩といえる。これらはいずれも新しい開拓である。このほか,対話問答体の白話詩や唱和応酬詩,敦煌曲子五更転の形式や連作形式,100韻の長詩形式など,その形式,内容の豊富さは驚くべきものがある。それはもはや中国詩文の模倣でなく,真に日本の詩人の心の表現となっており,この多様さ,豊富さは日本文学のもつほとんどすべての問題をはらみ,その後の日本語文学展開の道を用意する。
→菅家後集
[川口 久雄]
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国史大辞典
菅家文草
かんけぶんそう
菅原道真の漢詩文集。十二巻。昌泰三年(九〇〇)八月十六日菅家三代集二十八巻(祖父清公の『菅家集』六巻、父是善の『菅相公集』十巻および道真の自撰別集十二巻)を醍醐天皇に奏進した。鴻臚贈答詩一巻、讃州客中詩二巻、昌泰進献文草、元慶以往藁草その他手許の詩文ノートを集成して、前六巻に詩、後六巻に散文をまとめたのである。巻一は少年時代(一―十五歳)・修業時代(十六―二十六歳)・新進官僚時代(二十七―三十二歳)の詩作品。十一歳、島田忠臣の指導ではじめて作った漢詩を巻頭にして、自邸の菅家廊下で家学の紀伝道の勉学にはげみ、寮試を受験する前の模擬テストの答案さえ含む。方略試に合格し少内記に任じて官僚生活のスタートをきり、渤海使節接待の役をし、民部少輔の勤務の日常生活詠や敦賀の気比紀行詩がある。巻二は文章博士時代(三十三―四十一歳)の作品。式部少輔・文章博士に進み、家学を継ぐ地位になるとともに、学閥の抗争や同僚の嫉妬に苦しめられ、出家をさえ考える。「有所思」「詩情怨」の作にそうした悩みがうたわれる。父や愛児阿満
(あまろ)を先立てた悼亡の詩もある反面、「春娃気力なし」と題する妖艶な侍宴の詩序や詩をも作る。巻三・四は讃州時代(四十二―四十六歳)の作。讃岐守として赴任した失意時代の生活を旅愁望郷の感情をもってうたう。同時に地方の民衆の生活の実態に触れて、社会的な視座から諷喩批判の意識で詠じた作に佳作が多い。「寒早十首」とか、「路に白頭翁に遇ふ」といった白話的な自由な作、国分寺蓮池詩のような唱導詩など彼の詩人としての振幅を示す。巻五は宰相時代(四十六―五十一歳)の作。讃岐守の任みちて帰京し、宇多天皇の信任を得て、蔵人頭・左中弁を経て、寛平五年(八九三)参議となり、中央政府においてめざましく躍進する時代で、藤原基経没後、同時平と雁行するに至る。渤海大使裴
が再度来航して唱和する作品をはじめ、宮廷侍宴の絢爛たる妖艶美の詩が多い。巻六は丞相時代(五十一―五十六歳)の作。寛平七年中納言、ついで権大納言を経て昌泰二年右大臣に任ぜられ、同僚納言たちの反感を買うなかで、『菅家文草』十二巻を奏進する栄光の絶頂期に至る前後、侍宴詩や障子詩がある。以上巻六までが漢詩集で、四百六十八首ある、大別して公的な侍宴のはれの詩と、私的な日常生活の感動をよんだ作とある。前者はきらびやかな美意識の作、後者はさらさらとした白描のタッチの即興詩が多い。巻七―十二の散文は賦・銘・賛・祭文・記・詩序・書序・策問・対策・詔勅・奏状・願文など各ジャンル百六十九篇からなる。彼の散文も大別して公的な事務的な四六駢儷体系の美文と、私的な即興的なさらさらとした平易な表現の漢文とある。なかでも日常生活を描写して一抹のユーモアを点じた自由な散文、たとえば「書斎記」や「左相撲司標所記」のごときは、紀長谷雄の「亭子院賜飲記」「競狩記」、都良香の「富士山記」の散文とともに、平明な海路紀行たる『土佐日記』の国語散文の世界にすぐとなり合うものとして、注目すべきもの。彼の漢詩の中に白描的なスタイルで諷喩意識をもりこんだ作品があり、彼の散文の中にこうした平明な日本化した漢文体作品があることは、延喜の文芸革新の潮流を先取りするものとして文学史的に注目すべき点である。尊経閣文庫所蔵古写本が善本である。版本には寛文版本系と元禄版本系とがある。『日本古典文学大系』七二に収められている。
[参考文献]
久松宗淵編『北野文叢』(『北野誌』地・人)、同編『北野藁草』、坂本太郎『菅原道真』(『人物叢書』一〇〇)、川口久雄『菅家文草菅家後集』解説(『日本古典文学大系』七二)、同「菅原道真の作品および思想の特質」(『平安朝日本漢文学史の研究』上所収)、弥永貞三「菅原道真の前半生」(『日本人物史大系』一所収)
(川口 久雄)
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