NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1700冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史文化
  8. >
  9. 時代・年号
  10. >
  11. 化政文化

化政文化

ジャパンナレッジで閲覧できる『化政文化』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ

化政文化
かせいぶんか

文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804~1830)ころの江戸中心の町人文化。大江戸文化ともいう。しかし広義には、18世紀後半から19世紀前半の長い時代文化のことをさすので、その様式も広範囲にわたり、その内容も複雑多岐になる。その中心は小市民的な合理主義や美的情緒であるが、幕藩制社会の弛緩(しかん)の時代にあたるため、一方で生活的・娯楽的要素が強いとともに、他方で政治的・批判的要素を含むのが特色である。
[高尾一彦]

日常生活の余裕文化

都市農村を問わず化政期前後になると、社交や教習が民衆の日常生活の一部を占めてくる。民衆生活の余裕の拡大と生活文化の享受が、社交や教習の盛んとなる理由である。正月、5月、9月の満月の夜に日の出を待つ日待(ひまち)、二十三夜待、庚申待(こうしんまち)など、日待月待のなかば娯楽行事化がある。江戸でも『東都歳時記』(斎藤月岑(さいとうげっしん)著、1836)にみられる年中行事があり、伊勢講や富士講など講中の宗教的行事があるが、いずれも社交に基礎を置く生活文化の盛行である。民衆の教習についても学問、風俗、室内芸、舞台芸とさまざまであるが、室内芸でいえば花道、茶道、香道、和歌、書道、画工、連歌(れんが)、俳諧(はいかい)、囲碁、将棋があり、いずれも家元(いえもと)の指導下で行われる安定した生活文化の教習といえよう。とくに注目されるのは、侍、町人の身分を超えた知識人たちのやや知的な社交である。
そうしたなかで日本画の円山応挙(まるやまおうきょ)や呉春(ごしゅん)(松村月渓(まつむらげっけい))、また伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が生まれ、文人画の田能村竹田(たのむらちくでん)や渡辺崋山(わたなべかざん)が活躍する。この方面の代表作、池大雅(いけのたいが)・与謝蕪村(よさぶそん)合作の『十便十宜図(じゅうべんじゅうぎず)』は雅(みやび)の最たるものといえよう。なお洋画銅版画の司馬江漢(しばこうかん)や亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)の出現もこの時代ならばこそである。また俗(ぞく)では、江戸で旗本や札差(ふださし)らの絵暦(えごよみ)の交換会から、鈴木春信(すずきはるのぶ)の美人画、それも浮世絵、錦絵(にしきえ)が誕生した。春信の優美な美人画のあと鳥居清長(とりいきよなが)、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、歌川国貞(うたがわくにさだ)、渓斎英泉(けいさいえいせん)と続くが、歌麿の『婦人相学十躰(ふじんそうがくじったい)』や英泉の『浮世風俗美女競』は江戸女の「いき」や「はり」の美を表現したものといえよう。また雅俗を超えて『北斎漫画(ほくさいまんが)』や崋山の『一掃百態』は、民衆を活写して秀逸である。
詩歌のほうは柄井川柳(からいせんりゅう)の『誹風柳多留(はいふうやなぎだる)』や太田南畝(おおたなんぽ)の狂歌、一茶(いっさ)の『おらが春』が有名となった。小説のほうでは短編遊里小説の洒落本(しゃれぼん)、その絵草紙化である黄表紙(きびょうし)が誕生したが、通(つう)や「うがち」の知的遊びが横溢(おういつ)している。これを集大成したのが山東京伝(さんとうきょうでん)で、洒落本『傾城買四十八手(けいせいかいしじゅうはって)』はその代表作である。ついで式亭三馬(しきていさんば)の滑稽本(こっけいぼん)『浮世床(うきよどこ)』『浮世風呂(ぶろ)』が人情風俗を描き、柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の絵草紙合巻(ごうかん)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』が古典にあわせて当世を活写し、為永春水(ためながしゅんすい)の人情本『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』が市井の男女の人情を主張する。いずれも日常生活の余裕の産物である。なお、文化ころブームとなった朝顔栽培のような園芸も、寺門静軒(てらかどせいけん)の『江戸繁昌記(はんじょうき)』(1832~1836)にみえる寄席(よせ)の話芸も生活文化の所産である。
[高尾一彦]

外なる未知の体験

民衆の日常生活の余裕は、外なる未知の世界への行動を可能とし、その体験が人間的成長に有効なことが知られてくる。まず世俗的な面からいえば、物見遊山(ものみゆさん)や湯治(とうじ)のような旅行体験であろう。伊勢参(いせまい)りのようなものも、実は京大坂廻(まわ)りが目的とされた。こうした旅行の記録が橘南谿(たちばななんけい)、菅江真澄(すがえますみ)、鈴木牧之(すずきぼくし)らの紀行文や見聞記となる。代表として司馬江漢の『長崎西遊旅譚(ながさきさいゆうりょたん)』をあげておこう。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』もまたそうした体験の俗耳に入りやすい例ということができる。浮世絵風景版画の葛飾北斎(かつしかほくさい)『冨嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』や安藤広重(あんどうひろしげ)『東海道五十三次』などはまさに未知の体験の伝達であり、旅行済みの向きには旅の詩情の視覚的記録であった。次に宗教的な面でいえば、伊勢参り、善光寺(ぜんこうじ)参り、金毘羅(こんぴら)参りがあり、また一つの社寺に百度詣(ひゃくどまい)りするのではなく千社(せんじゃ)詣りにその効果を期待する流行があった。外へ外への要求のなかで、坂東(ばんどう)、秩父(ちちぶ)、江戸、西国の三十三所の聖地巡礼が普及するのも当然である。さらに高山登拝信仰も盛んとなる。宝暦(ほうれき)(1751~1764)以来富士講が江戸中心に関東一円に広がり、毎年講中の何人かが実際に登頂するのである。幕府はたびたび禁令を出して富士講を弾圧している。さらに前人未踏の北アルプスの槍ヶ岳(やりがたけ)まで1828年(文政11)に念仏修験行者(ねんぶつしゅげんぎょうじゃ)播隆(ばんりゅう)らが登頂に成功して仏像を安置し、その登拝への道が開かれた。
[高尾一彦]

非日常的世界の創造

日常生活とはまったく異質な世界を、祭礼や演劇や文学の世界で創造したり享受したりできるようになった。まず文政(ぶんせい)の町触(まちぶれ)にみられるように、江戸の神田(かんだ)、山王(さんのう)両社やそのほか町かぎりの小祭で、仮面や仮装の盛行があった。次に『歌舞伎年代記(かぶきねんだいき)』(1804)を編集できるほど江戸歌舞伎の伝統が蓄積され、まずはその華麗な世界の展開が注目される。『京鹿子娘道成寺(きょうがのこむすめどうじょうじ)』(1753)は歌舞伎の舞踊と音楽の決定版となる優雅なものであった。また岩井半四郎の七変化(しちへんげ)舞踊(1806)以来、1人が早替りで踊る連続舞踊曲の変化ものが流行し、民衆は非日常的な華麗な世界に酔うこととなる。また鶴屋南北(つるやなんぼく)の『東海道四谷怪談(よつやかいだん)』は、舞台にしたたかな悪の世界を展開したもので、恐ろしい悪態の芝居であった。こうした非日常的な芝居の世界の創造に、やがて欠かせぬものとなるのは回り舞台などのからくりであり、主人公たちの刺青(しせい)の登場であろう。演劇に関係なくいえば、「からくり」では細川半蔵『機巧図彙(からくりずい)』(1796)が優れ、刺青では浮世絵の役者絵、武者絵にすばらしいものが多い。一勇斎国芳(いちゆうさいくによし)『通俗水滸伝豪傑(つうぞくすいこでんごうけつ)百八人之一個(ひゃくはちにんのひとり)』(1827)がその始まりで、国貞や国周(くにちか)によって刺青役者絵の新しいジャンルができた。さて芝居に即していえば、浮世絵、役者絵の発達を先に指摘すべきであった。勝川春章(かつかわしゅんしょう)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、歌川豊国(うたがわとよくに)、歌川国貞がそれで、写楽の役者大首絵(やくしゃおおくびえ)がとくに有名である。
なお音楽について補足すれば、中村歌右衛門(なかむらうたえもん)上演の七変化もの(『遅桜手爾波七字(おそざくらてにはななもじ)』1811)で公表された長唄(ながうた)の名曲『越後獅子(えちごじし)』や、純音楽つまり座敷長唄『吾妻八景(あづまはっけい)』(1829)がある。そして上方(かみがた)の光崎検校(みつざきけんぎょう)『弦曲大榛抄(げんきょくたいしんしょう)』(1828)のような三味線の精巧な楽譜の発明も忘れてはならない。
また付言するなら、化政期の歌舞伎よりも、柳亭種彦らの草双紙合巻(くさぞうしごうかん)のほうが誌上歌舞伎として喜ばれていた。貸本などで安く手にすることができたからであろう。さらに貸本で大衆にアピールしたものに、読本(よみほん)の伝奇的世界の創造がある。早くは上方の上田秋成(あきなり)『雨月物語(うげつものがたり)』があり、当代では曲亭馬琴(きょくていばきん)の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』(北斎画)や『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』など、勧善懲悪の保守的ムードをもつとはいえ、すばらしいロマン的世界を構築したものといえよう。
[高尾一彦]

経験的合理主義の前進

民衆生活の余裕や外なる世界への体験を可能としたのは、諸産業の発達やそれに伴う海陸交通路の整備である。なかでも鎖国下における食料の自給自足と増産はその基礎であった。大蔵永常(おおくらながつね)の『農具便利論』(1822)は省力と地域性尊重の特筆すべき書であり、また『広益国産考(こうえきこくさんこう)』(1842)をその代表的成果とすることができる。なお諸産業発達のイラスト情報『日本山海名物図会』(1754)、『山海名産図会』(1799)は、版を重ねて発行部数が多い。それらは、都市農村を問わず小市民社会の拡大によって経験的合理主義が発達し、近代的知性に接近するものである。すでに科学的啓蒙(けいもう)活動家として平賀源内(ひらがげんない)や司馬江漢があり、科学的啓蒙的情報として江漢の『春波楼筆記(しゅんぱろうひっき)』や杉田玄白(すぎたげんぱく)の『蘭学事始(らんがくことはじめ)』などがある。民衆にもっとも身近な医学や天文暦学の進歩は、まさに市民的な経験的合理主義に支えられた知性の産物である。
医学では吉益東洞(よしますとうどう)『医事或問(いじわくもん)』、前野良沢(まえのりょうたく)らの『解体新書』、宇田川玄随(うだがわげんずい)『西説内科選要(せいせつないかせんよう)』があり、薬学では古医方の東洞『薬徴』の恩恵が大きい。天文暦学では志築忠雄(しづきただお)『暦象新書(れきしょうしんしょ)』のニュートン力学の研究、高橋至時(たかはしよしとき)『ラランデ暦書管見(れきしょかんけん)』の近代天文学ノートなど高い水準を示す。稲村三伯(いなむらさんぱく)らの『ハルマ和解(わげ)』は蘭学のための辞書として役だった。これに比べると人文社会科学方面は近代的知性にまだ遠いが、山片蟠桃(やまがたばんとう)『夢之代(ゆめのしろ)』の仏儒教学的権威批判や、三浦梅園『玄語』の壮大な気の哲学、本多利明(ほんだとしあき)『経世秘策(けいせいひさく)』の重商主義的政策の主張、本居宣長(もとおりのりなが)『古事記伝』など国学の思想的構築だけは、ぜひあげておかねばならない。いずれも封建政治批判の役割を果たしている。
[高尾一彦]

上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


化政文化の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 27
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 化政文化
日本大百科全書
文化・文政(ぶんかぶんせい)(1804~1830)ころの江戸中心の町人文化。大江戸文化ともいう。しかし広義には、18世紀後半から19世紀前半の長い時代文化のこと ...
2. 化政文化
世界大百科事典
→文化文政時代 ...
3. かせい‐ぶんか[クヮセイブンクヮ]【化政文化】
日本国語大辞典
〔名〕文化・文政年間に江戸を中心に栄えた町人文化。近世後期文化の頂点を示す。文学では読本・滑稽本・人情本・合巻のほか俳諧・雑俳などが流行。また、浄瑠璃・歌舞伎・ ...
4. かせいぶんか【化政文化】
国史大辞典
や盆栽なども、現代ですらとうてい及ばないほど極度の発展をとげた。 [参考文献]林屋辰三郎編『化政文化の研究』 (西山 松之助)  ...
5. かせいぶんか【化政文化】 : 近世
国史大辞典
化政文化〕 十九世紀初期の化政期は、平和で豊年が続き、前代文化がいっそう隆盛を見せ、鎖国による自国文化の内部醗酵が進展して、芸道諸領域に、たとえば雅楽の世界 ...
6. えど【江戸】
国史大辞典
江戸経済の上方依存度の稀薄化は文化面にも影響を与え、いわゆる元禄文化においては、江戸の独自性は弱かったが、化政文化においては大江戸の繁栄を背景に独自の江戸文化を ...
7. 江戸時代
世界大百科事典
ある。→幕藩体制 文化 江戸時代の文化は,桃山文化に接続する初期,元禄文化を中心とする中期,化政文化(文化文政時代)に代表される後期,の3期に区分される。 桃山 ...
8. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
『鎖国論』(ケンペルの『日本見聞記』の抄訳)。このころ植村文楽軒、文楽座の基礎をつくる1802(享和2)化政文化時代始まる。十返舎一九『東海道中膝栗毛』初編刊1 ...
9. えどっこ【江戸ッ子】
国史大辞典
ことになったが、その実力は化政期になるといっそう広汎な分野の巨大なエネルギーとなり、いわゆる化政文化を創造し、温泉・名所・巡拝・開帳・講中の旅・縁日・祭礼などの ...
10. かえいぶんか【嘉永文化】 : 近世
国史大辞典
町人の力の威力を見せた十九世紀中期の弘化・嘉永から、海外貿易が開始される安政末までの十数年間は、化政文化がさらに発展を見せ、手作り文化のピーク時代を現出し、世界 ...
11. か‐せい[クヮ‥]【化政】
日本国語大辞典
江戸時代の年号、文化(一八〇四〜一八)と文政(一八一八〜三〇)の併称。また、その時代。→化政文化。カセ ...
12. きんせい【近世】
国史大辞典
開いたばかりでなく、史学や国学の研究法に大きな影響を与え、その成果がこの時代に現われてきた。 〔化政文化〕 十九世紀初期の化政期は、平和で豊年が続き、前代文化が ...
13. 三都
世界大百科事典
のピークを示しており,また京都を中心とした寛永文化,大坂を舞台にした元禄文化,江戸に展開した化政文化という,それぞれの都市の繁栄した時代に,固有の文化を創出して ...
14. しゃかいとけいざい【社会と経済】 : 江戸
国史大辞典
江戸経済の上方依存度の稀薄化は文化面にも影響を与え、いわゆる元禄文化においては、江戸の独自性は弱かったが、化政文化においては大江戸の繁栄を背景に独自の江戸文化を ...
15. じょうはなしんめいぐう【城端神明宮】富山県:東礪波郡/城端町/城端町/野下町
日本歴史地名大系
に供をした(荒木家文書)。その後、安永四年(一七七五)の曳山車騒動もあったが(城端曳山史)、化政文化の影響で優雅な曳山祭となる。明治以後、曳山祭は五月一五日に変 ...
16. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 14ページ
東洋文庫
老中首座に起用,寛政の改革を行なわしめた。93(寛政5)年定信退官後は治政再び緩み,いわゆる化政文化を現出。1837(天保8)年将軍を子家慶に譲り,大御所と称し ...
17. とくがわいえなり【徳川家斉】
国史大辞典
浮華に流れた。他方、庶民の経済活動の発展とともに文化活動が広く都市・農村に展開して、いわゆる化政文化を現出した。天下は泰平にみえたが、支配体制の矛盾は深まってい ...
18. ふじわらぶんか【藤原文化】
国史大辞典
いずれの時代にも共通しているところであるから、藤原文化のみを「国風」と呼ぶのは、学問上適当ではなく、元禄文化や化政文化などと区別する標識とはなり得ない。藤原文化 ...
19. ぶんか・ぶんせいき【文化・文政期】
国史大辞典
かに異なっていることをどのように説明するのかなど、なお多くの基礎的研究が必要な段階にある。→化政文化(かせいぶんか),→文政の改革(ぶんせいのかいかく),→徳川 ...
20. 文化・文政時代
日本大百科全書
化政文化 ...
21. 文化文政時代
世界大百科事典
松前藩に返付した。長期的展望を欠いたこのような幕府の蝦夷地政策は,その後に禍根を残した。北島 正元 化政文化 化政文化とは,19世紀前半,文化・文政期の文化現象 ...
22. りっか【立花】
国史大辞典
繊細・優美・洒脱な構成により、全体の統一をはかるなど洗練された独自の花形を考案した(『新撰瓶花図彙』)。化政文化の華美な傾向を反映して、池坊専定はそれまでの「生 ...
23. れきしこうろん【歴史公論】
国史大辞典
それぞれの特集に関する座談会や研究史・論考・特集関係文献解説のほかに、書評や情報動向を構成の柱としている。「化政文化と民衆」(一ノ一)、「明治維新と日本の近代化 ...
24. れきしこうろん【歴史公論】 : 歴史公論/(二)
国史大辞典
それぞれの特集に関する座談会や研究史・論考・特集関係文献解説のほかに、書評や情報動向を構成の柱としている。「化政文化と民衆」(一ノ一)、「明治維新と日本の近代化 ...
25. 【総論】京都市地図
日本歴史地名大系
めぐる自然にも、文化が見いだされていたのである。元禄文化が上方を中心とした文化であったのに対して、化政文化はむしろ江戸に重点がかかっていた。しかし諸国の殖産興業 ...
「化政文化」の情報だけではなく、「化政文化」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

化政文化と同じ時代・年号カテゴリの記事
化政文化(日本大百科全書(ニッポニカ))
文化・文政(1804~1830)ころの江戸中心の町人文化。大江戸文化ともいう。しかし広義には、18世紀後半から19世紀前半の長い時代文化のことをさすので、その様式も広範囲にわたり、その内容も複雑多岐になる。その中心は小市民的な合理主義や美的情緒であるが、幕藩制社会の弛緩の時代に
寛永文化(国史大辞典)
後水尾・明正天皇の寛永年間(一六二四―四四)を中心とした近世初頭の文化をさし、桃山文化の残映と元禄文化への過渡的役割を果たした。ふつう元和偃武ののち、明暦―寛文のころまでを含めて考えられる。江戸幕府の封建的体制の強化される時にあたって、京都の宮廷と上層町衆を中心として
元禄文化(日本大百科全書(ニッポニカ))
元禄(1688~1704)前後の上方中心の町人文化。広義には、17世紀後半から18世紀前半の長い時代文化を含むので、町人文化だけにはとどまらない。しかし幕藩制社会の確立の時代にあたるため、小市民社会の形成と封建的武家支配との間に緊張関係があって、封建的な武家文化との対抗のなかで
戦国時代(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
日本史の時代区分の一つで、室町時代後期と重なり合う。一般的には、応仁元年(一四六七)の応仁の乱から織田信長の入京の永禄十一年(一五六八)、あるいは、信長の将軍足利義昭の追放(室町幕府の滅亡)の天正元年(一五七三)に至る百余年間をいい、室町時代(前期)
江戸時代(日本大百科全書・世界大百科事典)
▲範囲と概観厳密には、江戸に幕府が開かれた1603年3月24日(慶長8年2月12日=旧暦)から、1869年4月5日(明治2年2月24日=旧暦)事実上の東京遷都が行われた日までの266年間をさすと考えられるが、一般には1600年の関ヶ原の戦い以降、
時代・年号と同じカテゴリの記事をもっと見る


「化政文化」は日本の歴史に関連のある記事です。
その他の日本の歴史に関連する記事
長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
延暦十三年(七九四)に奠(さだ)められた日本の首都。形式的に、それは明治二年(一八六九)の東京遷都まで首府であり続けたが、律令制的な宮都として繁栄したのは、承久二年(一二二〇)ころまでであって、その時代から京都という名称が平安京の語に替わってもっぱら
日本の歴史に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1700冊以上(総額750万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶