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元禄文化

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元禄文化
げんろくぶんか

元禄(1688~1704)前後の上方(かみがた)中心の町人文化。広義には、17世紀後半から18世紀前半の長い時代文化を含むので、町人文化だけにはとどまらない。しかし幕藩制社会の確立の時代にあたるため、小市民社会の形成と封建的武家支配との間に緊張関係があって、封建的な武家文化との対抗のなかで、古典的な貴族文化からの雅(みやび)の吸収と、小市民社会の俗(ぞく)を主張しているのが特色である。
[高尾一彦]

華麗な貴族的雅の拡大

上方は王朝貴族の本拠であるから、民衆がその文化を学ぶ力量を備えるようになると、貴族的雅は民衆の文化的創造の重要な契機となってくる。このことがもっとも端的に現れるのは美術工芸の世界である。その作品はまず公家(くげ)、武家、豪商の奢侈(しゃし)的需要にこたえるもので、貴族的雅を内包した表現が必要だったからである。この方面では本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の書画、茶碗(ちゃわん)や『舟橋蒔絵硯箱(ふなばしまきえすずりばこ)』、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の『風神雷神図屏風(びょうぶ)』など、後水尾(ごみずのお)天皇や烏丸光広(からすまみつひろ)などの貴族的サロン文化に通じる雅の創造がすでに存在した。この伝統の下に元禄の美術工芸を代表するのは尾形光琳(おがたこうりん)で、その作品『八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)』や『紅白梅図屏風』などの華麗な装飾が有名である。光琳の弟乾山(けんざん)は野々村仁清(にんせい)に陶芸を学んだが、仁清が『色絵藤花文茶壺(いろえとうかもんちゃつぼ)』など高雅優美な作品をもつのに対し、乾山は『色絵梅花文茶碗』などの素朴な雅趣に満ちた作品が多い。これは雅の元禄的バリエーションである。また京の西陣(にしじん)織のような高級絹織物も、宮崎友禅斎(ゆうぜんさい)の染色技術の開発や新作デザインでいっそう華麗なものとなった。なお建築の分野でも、八条宮家の桂(かつら)離宮や後水尾院の修学院(しゅがくいん)離宮がすでに完成したので、民間の遊里島原(しまばら)(京都市下京区)ではその内装だけ宮殿に近いぜいたくな角屋(すみや)の建築が延宝(えんぽう)(1673~81)ころから始まっている。島原も初めは公家や諸大名の遊び場所であったからであろう。
[高尾一彦]

小市民的情緒の視聴覚化

これらの文化財は、公家、武家、豪商ら上流階級のものではあったが、上方の民衆の制作にかかり、つねに民衆の目に触れるものであった。しかし、民衆はそれら自体を所有することはまれで、その象徴の所有のみで満足しなければならなかった。すなわち墨一色のイラスト(挿絵)によってである。元禄前後の出版事業の盛行に伴いイラスト入りの書物の板行によって可能となった。たとえば『人倫訓蒙図彙(じんりんきんもうずい)』(1690)は図解社会百科で身分や職業の物知り辞典だが、同時に日常生活から文化全般に展望がきく。また『女用訓蒙図彙』(1687)は婦人啓蒙用図解百科で、そのような出版自身が元禄文化の大事な意味を知らせるが、そこに図解された日用調度品はまさに華麗な美術工芸品の象徴とみることができる。また種々の友禅染の図案や、さらに日本髪の各種のイラストは上方の民衆の生活文化として注目される。それらはまさに小市民的情緒の具体化でもあった。そこには雅と俗の小市民的統一がある。そこでイラストとして注目されるのは浮世絵である。これは俗の俗たるものと考えがちだが、都市風俗とくに女性風俗を描いて秀逸で、そのうち墨一色の版画にしたものは量産が可能なため広く民衆に親しまれた。江戸の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の『岩木絵(いわきえ)つくし』『和国百女』などの絵本は、その優れた例であろう。また鳥居清信(とりいきよのぶ)は独自な一枚物の役者絵版画を発表して鳥居派の画風を開いた。やや遅れて出た京都の西川祐信(すけのぶ)は墨一色ながら『百人女郎品定(ひゃくにんじょろうしなさだめ)』のような優雅な絵本を残した。なお園芸やいけ花の盛行も市民的情緒の視覚化とすることができる。『抛入花伝書(なげいればなでんしょ)』(1684)の刊行は立花(りっか)のような制約のない「投入れ」が茶の湯とともに市民の日常生活のなかに定着したことを示している。また『錦繍枕(きんしゅうまくら)』や『花壇地錦抄(かだんちきんしょう)』(1695)は江戸市民の園芸趣味を伝えている。
聴覚では、わが国最初の音楽入門書『糸竹初心集(しちくしょしんしゅう)』(1664)がある。これは一節切(ひとよぎり)(尺八(しゃくはち)の一種)、筑紫箏(つくしごと)、三味線の手引であるが、それらの楽器の普及と音曲の分野の拡大がわかる。その練習曲のなかに『吉野の山』のような流行歌や、後の箏(そう)の名曲『六段』『乱(みだれ)』の原曲が記載されている(『六段』の完成は宝暦(ほうれき)ころ、『乱』が確認できるのは安永(あんえい)ころになる)。なお、当時すでに日本独自のさまざまな音階を理論づけた中根元圭(げんけい)『律原発揮(りつげんはっき)』(1692)も忘れられない。視聴覚化の総合芸術はいうまでもなく人形浄瑠璃(じょうるり)であるが、人形の演出では辰松(たつまつ)八郎五郎や吉田文三郎らがあり、義太夫節(ぎだゆうぶし)という独特な曲調を創始した竹本義太夫がいる。また歌舞伎(かぶき)も同じ総合芸術になるが、ここでは俳優、とくに上方の坂田藤十郎や女形の水木辰之助、芳沢(よしざわ)あやめ、江戸の荒事(あらごと)を得意とした市川団十郎を忘れてはなるまい。なお団十郎の荒事芸は、東日本の御霊(ごりょう)信仰の普及に支えられていたという。
[高尾一彦]

町人文学の雅と俗

さて市民的美的情緒の内容を文字で明確化できるのは、やはり町人文学である。ここでは貴族的雅と小市民的俗が巧みにあわされて、比較的品のある町人の喜怒哀楽が結晶する。文学の伝統的分野として俳諧(はいかい)があり、京の松永貞徳(ていとく)のそれを継いだ大坂の西山宗因(そういん)は軽妙な俗を短詩にまとめ、それはさらに井原西鶴(さいかく)や松尾芭蕉(ばしょう)に引き継がれた。ただし西鶴と芭蕉ではまったく正反対の展開を遂げる。芭蕉は「高く心を語りて俗に帰るべし」という不易流行(ふえきりゅうこう)の雅俗の統一を理想とし、風雅の作詩に励んで『猿蓑(さるみの)』『奥の細道』などの作品を残した。西鶴は矢数(やかず)俳諧の作詩バイタリティーを浮世草子(うきよぞうし)の短編小説の展開に注ぎ、『好色一代男』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』などの作品にまとめた。『一代男』などは俗の俗たるものとみせながら、実は古典のパロディーであり転合書(てんごうがき)(戯(ざ)れ書)であって、そこに粋(いき)という雅俗の新しい結晶を生み出した。粋は男女双方の誠の心に支えられた美的情緒で、民衆的人間的なものである。そこには武家社会の支配倫理に対抗しうる町人倫理の主張がある。その町人倫理を義理と人情という形で劇的な極限状況で表現したのが、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』であった。
[高尾一彦]

小市民的経験知の成果

都市と農村の社会的分業が貨幣商品経済で結ばれるとき、そこに成立する京、大坂、江戸三都の小市民社会の成立は、多様な経験に基づく民衆の知性を高める。したがって民衆は自己教育や自己鍛練の必要を痛感し、まずは読み・書き・そろばんの寺子屋の発達を促す。また芸能の謡曲も、上方民衆の声楽の楽しみとして普及したほか、啓蒙(けいもう)的、報道的、実用的内容を盛った新作謡曲が広く行われた。そうした一般的傾向のうえに学問や思想が発達する。新井白石(あらいはくせき)は朱子学者で政治家だが、『読史余論(とくしよろん)』『西洋紀聞(きぶん)』では市民的知性と同質のものが認められる。伊藤仁斎(じんさい)は朱子学を批判して『論語(ろんご)』『孟子(もうし)』の原典に帰る古学を唱えたが、市井の学者として市民生活の人情や信頼や寛容を重んじるまさに小市民的経験的知性を『童子問(どうじもん)』などで示した。荻生徂徠(おぎゅうそらい)は政治から道徳を切り離す新しい知見を『弁道』『政談』で発表した。その弟子太宰春台(だざいしゅんだい)は支配道徳より経済を重んじる学説を『経済録』で説いた。さらに後の安藤昌益(しょうえき)は『自然真営道(しぜんしんえいどう)』を書いて封建的支配を徹底的に批判し、生産者中心の理想社会を素朴空想的に描いた。文学では契沖(けいちゅう)が『万葉代匠記(だいしょうき)』で文献学的研究を進め国学の先駆となった。数学では関孝和(たかかず)が「発微算法(はつびさんぽう)」を創始し微積分に及んでいる。天文暦学では安井算哲(さんてつ)(渋川春海(しぶかわはるみ))が日本人で初めて貞享暦(じょうきょうれき)を編成し、医学では名古屋玄医(なごやげんい)が臨床実験を尊重して古医方の先駆となった。このほか、貝原益軒(えきけん)の『大和本草(やまとほんぞう)』は博物学、宮崎安貞(やすさだ)の『農業全書』は農学の一定レベルを示す。蘭学(らんがく)の先駆は青木昆陽(こんよう)である。なお町人の独創的学問として石田梅岩(ばいがん)の心学(しんがく)が商業倫理に貢献した。また市民的経験知に直接関係はないが、為政者側の修史事業として、幕府の『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』(1670)、水戸藩の『大日本史(本紀列伝)』(1720)がある。
[高尾一彦]

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