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キリスト教

ジャパンナレッジで閲覧できる『キリスト教』の日本大百科全書(ニッポニカ)のサンプルページ

キリスト教
きりすときょう
Christianity

イエスをキリスト(救世主)と信じる宗教と定義づけることができる。本項目では、キリスト教を歴史的に概観する。その主眼はキリスト教思想史であるが、教会史も織り込み、さらに日本の場合、社会、文化への影響にも触れる。歴史的展開の理解が、キリスト教全般への目を開かせ、個々の小項目の理解にも役だつことを意図するものである。同時に、キリスト教の現代世界における分布の解説をも含め、全般の状況を把握するのに役だつことを目ざす。
[赤司道雄]

キリスト教成立の背景

西暦はイエスの誕生から始まる。しかし、イエスの生まれたのは、紀元前7年から紀元後1年の間ぐらいとしかいえない。イエスは敬虔(けいけん)なユダヤ教徒の家に生まれ育った。当時一般のユダヤ教徒の間に広まっていた信仰に終末観があった。イスラエルはすでに前8世紀末に北半分がアッシリアに侵略され、前6世紀初めには南ユダもバビロニアに滅ぼされて多くのユダヤ人が捕囚の身となり、ペルシアによって解放されたのちも独立国とならず、ギリシアの支配時代に及ぶ。さらにシリアのセレウコス王朝によるユダヤ教への迫害は激しく、前2世紀なかば独立戦争によりハスモン王朝が成立する。しかしふたたび前63年にローマの支配下に置かれ、イエスの時代に及ぶ。
元来ユダヤの民は、神の選民であるというイスラエル固有の民族信仰をもっている。これが長い異邦の支配下に現実のものとならないことから、ペルシア思想の影響を受けてユダヤ教に取り入れられたのが終末観である。悪のこの世界が終わり、神自身の支配、神の国の到来が待望された。このとき終末の審判があり、死者も復活して、義(ただ)しいユダヤ教徒がこの国の民となる。この神の国をもたらし、その王となるのがメシアである。メシアのヘブライ原語「マーシーアハ」m〓sh〓achは「油注ぐ」m〓sh〓chの変化で「油注がれた者」の意であり、古来「王」をさす。この終末観では「ユダヤの救主(すくいぬし)」の内容をもつ。
[赤司道雄]

イエス・キリスト――キリスト教の成立

イエスの活動は福音(ふくいん)と自他ともによばれた。神の国の幸福の音信(いんしん)(知らせ)を人々にもたらす働きである。
イエスの教えの中心は愛(アガペーagap〓)である。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(「マタイ伝福音書」22章37~39。「ルカ伝福音書」10章27)。この二つの愛に、イエスの神観、人間観のすべてが要約されている。当時神の国の到来を切望するユダヤ教徒にとって、最後の審判で義とされ、神の国に入る資格を得ることが最大の課題であった。ユダヤ教はこの資格を明確に律法によって規定した。義の神の前に義とされる人間は、律法を厳格に守る者でなければならない。指導者たる律法学者、パリサイ派は、全国の会堂で預言書と律法を教え、神の国に入る準備をさせていた。
しかしこの律法を学ばないアム・ハ・アレツ(田舎(いなか)者)と蔑視(べっし)されていた者、さらに律法に触れることも許されぬ罪人(つみびと)とよばれる人々がいた。これら社会的に差別された人々、彼らには神の国の扉は閉ざされていた。イエスの福音の対象はまさにこれらの人々であった。これは、イエスの神観、人間観が、ユダヤ教を超えたことによる。神は罪人をも包む愛の神である。人の価値に上下はない。自らを捨てて神の愛のなかに入る(神を愛する)とき、愛の神の子として、隣人を愛する人となることができる。自らの罪を悔い、己を卑しくすることのできるこの世でもっとも恵まれない人々こそ神の前に義とされると説き、それらの人々に福音を説いた。しかしこれは、ユダヤ教の指導者には、律法を廃することと映り、さらにこの「罪人」に触れたイエス自身が「罪人」と同列視されることであった。ガリラヤ地方を中心とするイエスの活動は多くの人々に影響を与え、なかにはイエスをメシアと信じる者さえ出てきた。しかし、イエスが弟子とともにユダヤ教の中心エルサレムに上って活動を続けたとき、律法学者、パリサイ派、また祭司サドカイ派はローマ官憲に、政治的な反ローマのメシア運動家として、イエスを訴え、民衆を扇動して十字架の死に追いやった。
イエスの弟子たちは、栄光のメシアとして夢みた師の敗残の姿をあとに散った。しかしまもなくイエスの復活の信仰がおこり、イエスは真のメシアであるという信仰へと展開した。ただし、このメシアとは、民族的なユダヤの救主ではなく、人類の生命の救主という新しい意味をもつものとなった。ヘブライ語「マーシーアハ」は当時の世界語ギリシア語に訳されたとき、「油注ぐ(クリオーXrio)」の変化「油注がれた者(クリストスXristos)」とされ、『新約聖書』のなかに定着されて「キリスト」となり、イエスを救主(キリスト)と信じる人々は「クリスチャン」Xristianoiとよばれるようになった。このことから、キリスト教とは、イエスをキリストと信じる宗教と定義することができよう。
[赤司道雄]

原始キリスト教――イエスの弟子とパウロ

イエスの直弟子ペテロ、ヨハネ、ヤコブを中心とする使徒たちは、復活の信仰に支えられながら、イエスこそキリストであるという宣教に立ち上がり、新しい信徒を獲得しながら教勢を伸ばしていった。しかしユダヤ教指導者の圧迫の手は、彼らのうえにも厳しかった。彼らは次々と殉教者を出しながらも、追跡を避けながらの伝道は、かえって地域を広げ、北はサマリアからシリア、南はアフリカ、西は小アジアに至った。十二使徒のうち、ヨハネはエペソ(エフェソス)に落ち着いて晩年まで初代教会の指導者となり、マルコはアレクサンドリアに教会を建設、アフリカ伝道を開いたが、他の使徒は殉教したようである。しかし、彼らは多くの困難のなかにも、共産生活を営みながら、まもなくパウロをその陣営に加え、急速に地中海世界の各地にキリスト教を根づかせた。
キリスト教をユダヤ教の枠から決定的に解放し、人種的にも地理的にも世界宗教へと飛躍させたのはパウロの伝道である。パウロはキリキアのタルソで生まれ、ローマの市民権をもつヘレニズム的教養を身につけた人物であったが、同時に厳格なユダヤ教徒としての教育を受け、パリサイ派に属した。彼もまた初めは、律法をないがしろにするキリスト教を敵視し、迫害の先頭にたった。
このパウロがキリストの復活の信仰に目覚めたことは、律法主義の行き詰まりからの離脱を意味した。律法は義を教え、罪を教える。しかし罪から人を解放する力はなく、肉の罪のなかにある限り、死は人間の敗北以外のなにものでもない。この悩みから彼を救ったのは、キリストの復活と愛の信仰であった。回心後の彼は、バルナバのとりなしでペテロたちと和睦(わぼく)したあと、アンティオキアを拠点として、小アジア、ヨーロッパ南岸への伝道旅行の途についた。彼の伝道対象は、これらの地に離散するディアスポラのユダヤ人のみならず、地理的にも多くの異邦人を包含した。第一次伝道を終えエルサレムに上ったパウロは、イエスの直弟子たちと、異邦人伝道と割礼(かつれい)の問題について協議し、ペテロ以下の同意を得た。その後はパウロもまた迫害、妨害、入獄などの苦難に耐えながら、第二次、第三次の伝道旅行を通して、キリスト教を小アジア世界からヨーロッパに及ぶ世界宗教とした。
初代教会は、ユダヤ教とローマ政府の双方から迫害されたが、ユダヤ教の会堂、個人の家、カタコンベ(地下墓所)などで集会を行い、その組織を整えていった。「コリント人への第一の手紙」(12章28)によって、紀元60年以前に、使徒、預言者、教師、補助者、管理者などの役職があったことが知られる。また「使徒行伝」「テモテへの手紙」には、長老、執事、監督などについて記されている。このように教会はだんだんにその制度を整え、2世紀初め、「テモテヘの手紙」によると、司祭としての監督、または長老、助祭としての執事の役職が定められるようになった。また神学的にも、パウロ、長老のヨハネの指導のもとに、『新約聖書』時代に、イエスの神格化、キリストの贖罪(しょくざい)による神との和解といったキリスト教神学の基礎が固まっていった。
[赤司道雄]

カトリック教会の成立

2世紀以後、教会は組織を整え、経典としての『新約聖書』を編纂(へんさん)し、ユダヤ教から受け継いだ聖書に『旧約聖書』としてキリストの準備の書としての位置を与え、ともにカノン(聖典)として採用した。さらに140年ごろローマ教会で定めた「ローマ信条」をはじめとして、信条が制定された。こうした時代から中世の教皇庁を中心とするローマ・カトリック教会成立までの初代教会を、古カトリック教会とよぶ。この教会に明確な概念規定を与え、教会確立を決定的にしたのが、カルタゴ教会の監督キプリアヌス(190ころ―258)である。彼は『カトリック教会の統一について』において、教会は地上に実現された唯一の救済機関であること、神と人とを媒介する霊的な権威は司教に与えられたものであること、を主張した。またキリストが一つ、真理が一つであるように、教会も一つであり、すべての司教は、キリストより天国の鍵(かぎ)を与えられたペテロ(「マタイ伝福音書」16章18~19に準拠)の権威を受け継ぐローマの司教であると主張した。カトリックとはギリシア語katholikosから出たもので、「全体的」「普遍的」「公的」の意味をもち、キプリアヌスの概念規定を象徴的に表す語として、西方ローマ教会の固有名詞となった。
古カトリック教会は教会制度の整備とともに、異端を排除しながら正統神学の確立に努めた。キプリアヌスのほかユスティノス、テルトゥリアヌス、アレクサンドリアのクレメンス、オリゲネスなどの教父たちは「護教派」とよばれる。彼らは、キリストの歴史性を否定するグノーシス派、キリストの神性を認めないアリウス派に対して、キリストの神性と歴史性を同時に強調した。この神学は、「父なる神」「子なる神」「聖霊の神」の三つの神格(位格)が一つの神格として一体をなすという「三位(さんみ)一体説」を中心とする教説dogmaを形成させた。教会は宗教会議を重ねて、カトリック神学と組織を固め、325年のニカイア公会議では、アリウス説を異端として退け、神の子キリストは父なる神と本質的に同質の神格を有することを確認した。
[赤司道雄]

教会とローマ帝国

キリスト教はその初期に急速な発展を遂げるにしたがい、ローマ帝国からの圧迫が表面化してきた。ただ、有名なネロの迫害(64)は、ネロがローマ大火の責任をキリスト教徒に転嫁したものである。帝国の圧迫が宗教上の理由から、しかも全国に広がったのは3世紀以後である。ローマは帝国の衰運を皇帝崇拝によって挽回(ばんかい)しようとし、これに強く反発したキリスト教会を圧迫したのである。デキウス帝(在位249~251)の250年、バレリアヌス帝(在位253~260)の258年に、皇帝崇拝を国民儀礼として強制されたキリスト教徒は頑強に抵抗し、全国的に迫害、処刑された。ディオクレティアヌス帝(在位284~305)は、カトリック教会そのものを絶滅させようと大規模な迫害を行い、多くの殉教者が出た。
しかし、キリスト教徒の団結はかえって固くなり、帝国側はむしろこれを利用するほうが得策であるという方針に転換せざるをえなくなった。コンスタンティヌス大帝(在位306~337)は、313年「ミラノ勅令」を発してキリスト教を承認、322年にはこれを公認宗教religio licitaとして国家の保護を与えた。さらにテオドシウス1世(在位379~395)は392年キリスト教をローマの国教とし、すべての異教異端を禁じた。以後キリスト教はカトリック(普遍的・公的宗教)の実をあげ、中世末に至るまで西欧社会の精神的指導権を確保した。
[赤司道雄]

中世のキリスト教

カトリック教会は教勢の伸張に伴い、全教会をローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの五大教区に分けた。このうち後三者は7世紀になってイスラム帝国の支配下に入り、前二者が東西に大きな勢力を保った。しかしこの東西教会はそれぞれビザンティン帝国とゲルマン民族の諸国家との間の異なった政治関係によって、その社会的役割も変わり、両教会間の関係も分離する傾向にあった。東方教会では、ビザンティン帝国の治下に、皇帝を首長とする皇帝教皇主義にたつギリシア正教会が形成され、ロシアその他のスラブ社会にも勢力を伸ばし、東方文化圏をつくった。一方、西のローマ教会は、ゲルマン民族の移動とともに、中世西欧社会で独立的立場を確立し、東方教会との協調を崩していく。451年カルケドン公会議で、コンスタンティノープルの大司教はローマの下位にたつと決定して対立は深まる。さらに9世紀なかばの教皇ニコラウス1世(在位858~867)と東の大司教フォティオス(820ころ―891ころ)との対立を経て、11世紀、教皇レオ9世と大司教ケルラリウスの相互破門により決定的に分裂し、ローマ教会とギリシア正教会に分かれた。
ローマの神聖政治はゲルマン民族の大移動によってその様相を変える。フランク王国は、他のゲルマン諸族がアリウス派の影響を受けたのに対して、すでに5世紀メロビング朝のクロービス(在位481~511)がローマ・カトリックに改宗し、これと提携して中世西欧社会に勢力を張った。ピピン(在位751~768)はローマ教皇の承認のもとに王位につき、返礼として、彼が征服したロンバルディア人の土地を教皇に献じた。これが「教皇領」の起源であり、この経済上の拠点を得たことで、すでにすべての真理と権威の象徴とされていた教皇は、世俗的にも西欧社会の一大勢力となっていった。さらにカール大帝(在位768~814)は、その領土を大いに拡大するとともに、領内にキリスト教を広めたので、800年のクリスマスに教皇レオ3世(在位795~816)から西ローマ皇帝の冠を受けた。彼は教皇の支持のもとに旧西ローマ領とゲルマン地域を包含する西欧文化圏の統一を完成した。大帝の死後、帝国は9、10世紀のノルマン人などの第二次民族移動とともに急速に崩壊したが、10世紀、東フランクすなわちドイツにオットー1世(在位936~973)がたち、諸侯を抑えて王権を固めるとともに、教皇を助けてイタリアの内乱を鎮圧、962年教皇から帝冠を受け、神聖ローマ帝国と称した。
この間にローマ教会は、9世紀から11世紀にかけて、西欧全土に世俗的な勢力を伸ばしていった。各地方の司教や修道院長は領主や信徒から土地を寄進され、強大な封建領主となった。教皇はオットー1世の死後しだいに皇帝に圧力を加え、教皇グレゴリウス7世(在位1073~85)は、僧官任命権をめぐり皇帝ハインリヒ4世(在位1056~1106)の反対を抑え、これを破門して屈服させた。その後ドイツとイタリアでは、教皇派と皇帝派の争いが続き、結局、教皇の権力は帝権を完全に抑え、教皇インノケンティウス3世(在位1198~1216)の代には、教皇は全西欧君主のうえに君臨し、各国内の教会および教皇領の政治的自主権をかちとった。
ローマ教会の組織はローマ伝統の法的精神の土壌のうえに整えられ、多くの法令が定められた。その集大成は、13世紀教皇グレゴリウス9世(在位1227~41)の制定した『法令集』Gregorianaをもととし、クレメンス5世(在位1305~14)により成文化された『教会法典』Corpus juris canoniciである。これにより教皇の多くの権限が確立し、教皇papa、司教episcopus、司祭pastorの聖職者の階層制が定められた。
このように教会組織が整理され、その権威が高まるとともに、世俗化傾向も増大していった。そのなかで本来のキリスト教の霊的な生活に徹しようとする動きも現れた。修道院monasteriumは元来オリエントに起源を有するが、それは隠遁(いんとん)的なものであった。これに対し、イタリアのベネディクトゥスが6世紀なかばローマ近郊に建てたモンテ・カッシーノの修道院は、社会的活動とも結び付けられた。ここでは修道士は、清貧、貞潔、服従の厳格な戒律に服するとともに、「主に対する奉仕」を旨とし、学問と労働を重んじた。修道士は訓練を終えたのち、世界各地に派遣され、奉仕の生活を通じて伝道した。その後10世紀にクリュニー修道院の改革によって修道院は教皇の直属となり、中央集権的でしかも国際的な修道会がつくられ、11、12世紀には各地に多くの修道院が設立されるに至った。このうちアッシジのフランシスコの創設したフランシスコ会とドミニクスのたてたドミニコ会は、ともに乞食(こじき)団Ordines Mendicantesとよばれ、私有財産を捨て清貧のうちに托鉢(たくはつ)を通じて伝道した。
カトリック教会の『公教要理』は、公の真理veritas catholicaは聖書そのものよりむしろ聖伝traditio sacraであるとしている。これは、古カトリック時代から異端を排除しながら形成され、ペトルス・ロンバルドゥスの『神学命題集』などに集成されたものである。カトリック神学はすでに4世紀アウグスティヌスがその基礎を据えたが、中世のスコラ学派によって完成される。「哲学は神学の奴僕(しもべ)」philosophia ancilla theologiaeはその基本精神を表す。「知らんがために信ずる」credo ut intelligamの語で知られるアンセルムス、またボナベントゥラ、ロンバルドゥスなどがスコラ神学を体系化したが、これを完成したのはトマス・アクィナスである。彼によってその権威を裏づけられた秘蹟(ひせき)sacramentumは、1439年の宗教会議で、「洗礼」「堅信」「聖体」「悔悛(かいしゅん)」「終油」「品級」「婚姻」の七つに定められ、神の恩寵(おんちょう)は、キリストの体としてのカトリック教会による秘蹟を通してのみ与えられるとされた。
さしも権勢をほしいままにしたローマ・カトリック教会も衰勢の時期を迎える。教会、教皇の権力の衰退の一因は十字軍の失敗にある。十字軍は、セルジューク・トルコ人がビザンティン帝国を脅かし、エルサレム巡礼のクリスチャンを迫害したことから、聖地回復の名で、1096年教皇ウルバヌス2世(在位1088~99)の提唱で組織され、1270年までの約200年、7回に及ぶ。一時その成功によって教皇や教会の権威は大いに高まったが、結局失敗に終わり、宗教心の衰退、教皇権の失墜の一因となった。さらに、中世末、近世国家がしだいに台頭するとともに、フランス王フィリップ4世(在位1285~1314)は14世紀初め教皇庁を南仏アビニョンに移した。これが「アビニョン教皇庁」(アビニョンの幽囚)である。その後も教会分裂(1378~1418)がおこり、教皇が並立して争うなど教皇の権威は地に落ちた。14世紀末イングランドのウィクリフ、15世紀初めのボヘミアのフスなどの宗教改革の試みが始まり、農民一揆(いっき)と結合したロラーズの乱、フス派の戦争など相次いでカトリック教会の勢力を脅かすようになった。
[赤司道雄]

宗教改革

ローマ・カトリック教会は、その画一的な性格によって、西欧の貴族社会、封建社会に共通の精神的権威とされていた。これに対して、近世の市民社会では、個人の自主的性格が、おのおの自らの信仰を確立することを求める。新しいキリスト教はこうした時代の要請が生み出したものといえよう。外的権威としてのカトリック的キリスト教は、内的な個人の信仰の問題として個別化されたのである。これが、一つの教会(カトリック)の姿を、多様な形のプロテスタント各派の運動に展開させたゆえんである。またプロテスタント運動が、王権が強く国家教会主義が確立していたイギリスやフランスにおいては、産業化が進み市民社会が発展したにもかかわらず伸張せず、政治的に不安定な状態の続いていたドイツ、スイスにおいて急速に発展したのも同じ理由による。
プロテスタントのおこりは、カトリックの修道士出身のマルティン・ルターが、教皇レオ10世(在位1513~21)がサン・ピエトロ大聖堂の改修費にあてるために発行した免罪符(めんざいふ)に反対し、1517年に「九十五か条の論題」95 Thesenを発表して公に抗議(プロテスト)したことに始まるとされる。これは、すでにみたウィクリフ、フスなどの反カトリック的運動を決定的にしたものである。また神学的には、エックハルトに発し、個人の内面的な救済を中心にするドイツ神秘主義の思想などがその素地をつくっていたものである。ルターの宗教改革の基本は、カトリックの三つの本質、伝承主義、秘蹟による救済、祭司制度に対立するものである。すなわち、第一は、神の真理の唯一の根拠は聖書にあり、すべての信徒は直接にこの真理に向かうべきであるとして、自ら『旧・新約聖書』を原語からドイツ語に翻訳した。第二に、キリスト教徒は「信仰によってのみ義とされる」もので、教会の外的な秘蹟による救いを否定した。第三に、「すべての信徒は祭司である」と主張し「万人祭司説」を唱えた。ルターはカトリック教会との論争の時期を経て、さらに運動を社会的に推進した。彼は、宗教改革に賛成する諸侯の保護のもとに地方君主的教会統治制das landesherrliche Kirchenregimentを設立、1529年には諸侯のコミュニケ「プロテスタティオ」Protestatioを発表して、プロテスタント教会の社会的地位を確立した。
ジャン・カルバンは、1520年代のフランスの宗教的混迷のなかで、人文主義思想の教育を受けてプロテスタントに改宗した。1534年教皇とローマ教会を非難する「プラカード事件」を機に、フランソア1世がプロテスタントを弾圧するやスイスに逃れて、36年『キリスト教綱要』を著し、改革的立場を明らかにした。ツウィングリの影響下にあったスイスの改革者たちは、ツウィングリの死後、カルバンをジュネーブに招き、この都市を典型的なキリスト教的市民社会とし、ヨーロッパ各地に大きな影響を与えたので、プロテスタント運動は一大勢力となった。
彼の運動の特色は、カトリックの教会主義に対して、キリストの福音を信じる内的信仰によって救済を求める福音主義であり、さらに全生活の聖化を目ざす社会的実践運動である。ジュネーブに具現した神政政治体制は、彼のつくった「教会規定」により、市民生活を牧師と長老との協議会の支配下に置いた。これは、ルターが市民の職業を神の召命として、世俗生活のなかに神の支配をみる近世的な宗教観を具体化したものといえる。カルバン派の教会はヨーロッパ各地に広まり、改革派教会とよばれ、ルター派教会とともにプロテスタントの二つの主流となった。
ルターとカルバンの改革は、教会制度や儀礼と社会とのかかわりでは、カトリック教会を一変したものであった。しかしそれは、ルネサンスと同一線上にある人間回復の運動ではない。それは神中心主義であり、信条、神学自体を転換するものではなかった。ルター派も改革派もその信仰の中心は、カトリックそのままの「使徒信経」であり、カルバンはアウグスティヌスの救済予定説を受け継いでいる。神学的な意味での宗教改革は、むしろ正統派でない少数派のなかにみることができる。たとえば、幼児洗礼を認めず、反権力的、急進的な運動を展開した再洗礼派Anabaptist、教理・信条よりも内心の敬虔を信仰の基本とする敬虔団Collegia Pietatis、三位一体論を否定しイエスの人性を主張するユニテリアンなどの各派がそれである。
イギリスの国教会(イングランド教会)Anglican Churchの独立は、宗教改革によるものではなく、政治的、経済的理由によるものであった。ヘンリー8世(在位1509~47)はルターを攻撃し、ローマ教会から「信仰の擁護者」の称号を受けるほどであったが、離婚問題を機にローマ教会から離脱し、1534年「首長令」Act of Supremacyを発して、イギリス王を国教会の唯一最高の首長とし、教皇領その他のローマ教会領を国家に帰属させた。その後イギリス国教会はカルバン主義の影響を受け、ピューリタン運動などを生んだが、カトリック的傾向とプロテスタント的傾向をあわせもつようになり、前者を高教会派High Church、後者を低教会派Low Churchとよび、併存しながら今日に至っている。
ローマ・カトリック教会は、プロテスタント運動に対抗するため、教会内部の革新を図りながら、武力を行使する反改革運動をおこした。1545年から63年にわたって数回開かれたトリエント公会議で、あらゆる信条が再検討され、カトリック神学が再確認された。またイグナティウス・ロヨラを中心とするイエズス会は強力な軍隊的組織によって、世界的なプロテスタント排撃運動を行いながら、伝道を進めた。
[赤司道雄]

近代のキリスト教

プロテスタントの神学思想が大きな転換をみせたのは、宗教改革の時代ではなく、近代になって、自由主義と科学の進歩によるものである。
アルミニウス主義は、16世紀にオランダの改革派教会内におこった自由主義運動である。アルミニウスは、カルバンの人間の堕罪(だざい)と救済予定説に反対して、人間の自由意志の尊重と、神の普遍的な救済を主張した。18世紀なかばイギリスに設立されたユニバーサリストは、この流れのうえにたち、アメリカに渡って一教派を形成した。
理神論は、近世のイギリスの経験論、さらにフランスに渡って唯物論に発展する思想に影響を受けながら、17~18世紀にイギリスでおこった。キリスト教思想史のなかで、もっとも極端な合理主義といえるものである。キリスト教の特色の一つは、神がキリスト・イエスにおいて啓示されるという啓示宗教的特質にある。しかし理神論は、宇宙の創造者としての神を認めるが、啓示に伴う多くの不合理を退けようと試み、啓示そのものを否定する自然宗教の立場にたった。ハーバートは理神論の祖といわれ、その唱える五概念――唯一の神の存在、礼拝、礼拝の基本は敬虔と徳行にあること、悔い改めと道徳的進歩による贖罪、現在と将来における神の賞罰――は理神論の基本概念となった。
理神論はフランスに渡ってさらにラディカルになり、キリストとイエスを区別したルソー、キリスト教をまっこうから非難したボルテールなどの思想を生んだ。また百科全書派を経て懐疑論になり、ドルバックの『自然の体系』(1770)は、無神論者の信仰告白といわれた。
ドイツにおいても合理主義の風潮は高まり、理神論の影響はまずライマールスに現れた。彼は唯物論、無神論に対しては自然宗教を弁護したが、同時に聖書の不合理な箇所を批判することによってキリスト教を攻撃した。このライマールスの論文は、のちにレッシングによって『狼獄吏(ろうごくり)の断片』7部(1774~78)として出版された。しかしレッシングは他面ライマールスを批判し、聖書批評とキリスト教思想は異なるべきであり、イエスの宗教の本質は、聖書にも教理にもなく、愛の教えにあると説いた。彼はまた『賢者ナータン』(1779)を著し、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大宗教がその目的を一にすると説き、キリスト教が唯一の神の啓示ではないことを主張した。
前述の啓蒙(けいもう)思想の合理主義は、聖書の高等批評という画期的な研究を生み、キリスト教の基本的信仰に新しい方向を与えた。聖書はこれまでキリスト教のどのような立場からも神聖視され、神の真理の誤りなき啓示とされてきた。これは下等批評とよばれる聖書テキストの文献的研究でも、外すことのできない前提であった。しかし高等批評は、聖書もまた人間の手による歴史上の文書であるという認識から、これに客観的、歴史的分析を加えた。その極端なものは、聖書のすべてを神話としてイエスの歴史性をも否定するものにまで至ったが、全般的には、聖書にみられる神学的あるいは神話的粉飾を洗い落として、イエスおよび原始キリスト教の真の姿を明らかにしようとするものであった。これによって自由神学は、概念的な合理主義から、歴史的な具体的事実を基礎としてイエスの基本精神を生かそうとする新しい信仰的立場を固めた。
シュトラウスの『イエス伝』(1835~36)は、合理主義を超えた歴史神学への道を開き、現代に至る新しい聖書研究の基礎を示した。従来の聖書研究は、聖書のすべてを神の霊の啓示によるものとするか、合理的に再解釈しようとするものかの、まったく反対の二つの立場があるとしていた。シュトラウスは、この反対のようにみえる二つの解釈は、実は、聖書の伝承の背後の一つ一つに物理的な意味での歴史的事実があるという共通の前提があると指摘した。聖書の伝承の背後に、もう一つ別の、信仰という心理的な歴史事実があり、これを探ることに歴史研究の一つの課題があるとする。この方法は、とくに福音書研究において「チュービンゲン学派」によって展開され、聖書を構成する原資料がしだいに明らかにされた。さらに、文書資料のもととなる口伝(くでん)の段階までさかのぼろうとする試みが、個々の説話の様式の相違を、これを生み出した「生活の座」Sitz im Lebenのなかでとらえようとする様式史的研究に発展した。また、他宗教との比較研究も取り入れられ、「宗教史学派」が生まれた。前記の様式史的研究の代表の一人ブルトマンは、歴史的研究がその分析的態度によって『新約聖書』全般を支える神話を見逃しがちなことを指摘し、個々の神話を選択排除するのではなく、『新約聖書』全体を非神話化entmythologisierenすることによって、逆に『新約聖書』全体の宣教を近代的な人間の決断を迫るものとするという新しい問題を提起した。
合理主義から自由主義への脱皮という流れは、近代組織神学においてもシュライエルマハーの新しい宗教論の展開へとつながる。彼はその主著『宗教論』(1799)と、『キリスト教信仰』(1821~22)において、宗教を哲学や倫理とはっきり区別し、直観と感情による個人の絶対帰依(きえ)の体験であるとした。また歴史的には自然宗教なるものは実在せず、あるものは個々の実証宗教であり、キリスト教は歴史宗教を完成したものであるとする。
リッチュルは、カントの認識論のうえにその価値判断説をたて、近代神学に大きな影響を与えた。彼は、もっとも根本的な価値判断は、人間が自然存在であると同時に、精神的な人格であるという判断であり、この人間が自然に対して精神の勝利を得る実践的な働きが宗教であるとした。この実践的な立場は、キリストが神の国建設の基礎であるという認識を促し、ここに初めて、キリストを神の愛の啓示と認めるキリスト教信仰の意義が果たされるとした。
合理主義から、自由主義、歴史主義への転換は、しかし客観主義という同一線上にある。第一次世界大戦前後からの社会の混迷は、キリスト教信仰にも不安の影をもたらしていた。不安の心理は冷静な客観的認識では満足しない。哲学界がカント、ヘーゲルを経て、生の哲学、実存哲学と主観的立場を明らかにすると軌を一にして、キリスト教神学は、ネオ・オーソドクシーの新風をもって全神学界を覆う傾向をみせる。カール・バルト、ブルンナー、ニーバーなどに代表される現代神学の有力な一派である。バルトは『ロマ書講解』(1919)において、近代的、文化主義的神学思想を激しく攻撃し、神学をあらゆる人間学的前提から解放し、もっぱら神のことばのうえに基礎づけようとした。しかし、この派の神学者といわれる者もかならずしもバルトをそのまま受け継いではいない。ブルンナーは神の啓示を受け取る側の人間の主体性をも認めようとする。アメリカのニーバー、ティリヒになると社会倫理的な性格を明らかにするようになる。
教会史の面でも近代の合理主義的な傾向に対立する動きが現れてくる。すでにみた敬虔主義の教会活動は、単なる正統主義への批判に固定化していたが、ウェスリーの運動は、理性主義に対抗する実践的な福音主義運動となった。その教義の中心は、堕罪を救うキリストの贖罪と、聖霊による再生であった。これは理性的、神学的なものではなく、個人的な霊感による宗教的体験として把握されていた。この立場は、個人の禁欲生活の方法methodの厳格さを要求し、メソディズムとよばれ、イギリスの産業労働者の間に社会事業を推進させながら広まってゆき、メソジスト教会をおこしてさらにアメリカにも大きく勢力を伸ばし、バプティスト教会とともに、アメリカでの二大福音主義教会として、新大陸のフロンティアの世界に教勢を張った。
近代的なキリスト教の流れは、しかし着実に教会に新しい勢力を生み、スコットランドでは長老派Presbyteriansが新しい一教派となり、クロムウェルのピューリタン革命から会衆派Congregationalistsが生まれ、いずれもアメリカに渡って正統派の大教派となった。これらの教派は、小教派ではあるが社会的影響力の強いクェーカーQuakers、ユニテリアンUnitarian Churchなどとともに社会事業に力を注ぎ、キリスト教を近代社会のヒューマニズムの流れのなかにも展開させることに成功した。
広教会派Broad Church Partyは、こうした社会運動をイギリスに展開させた代表的なものである。イギリスでは、1833年から40年にわたって、オックスフォード大学の関係者を中心に、オックスフォード運動とよばれる高教会派の復古運動がおこっていた。これは、当時の宗教的自由主義の風潮に反対し、教会の儀礼と祭司制度を中心とする歴史的権威を主張したものであった。広教会派は、こうした動きをカトリック的反動であると主張して、非国教徒をも包含する立場から、さらに社会問題のすべてにキリスト教運動がかかわるべきことを提唱した。作家キングズリーはキリスト教社会主義運動をおこして、産業組合や労働学校を設立した。
[赤司道雄]

アメリカのキリスト教

アメリカにキリスト教が最初に移植されたのは、1607年のイギリス国教徒のバージニア移住による。しかし、この新大陸にキリスト教精神が本当に根を下ろしたのはピューリタンによる。17世紀初め、イギリスで圧迫を受けたピューリタンの分離派は、オランダに亡命し、1620年メイフラワー号でアメリカに渡り、プリマスに植民地を開いた。1628年には会衆派がマサチューセッツに、33年には長老派がコネティカットに移住し、新大陸開発の先鋒(せんぽう)となった。以後アメリカの精神史はピューリタンの影響を大きく受けるようになった。開かれた自由な市民社会と、楽観主義的なヒューマニズム、このアメリカの社会と思想の特色は、ピューリタニズムと相まって、アメリカのキリスト教会の性格を形成する。
アメリカのキリスト教会の特色の第一は、多数に分かれた教派にある。ヨーロッパでは、法律的には教会は国家と分離する傾向を強めているが、現実には歴史的伝統によって、各地域に特定の教会の勢力が固定している。しかし、アメリカでは、すでにピューリタンがイギリスの圧迫を逃れた避難民であったように、その後もヨーロッパ各国から移住してきた各教会に属する人々は、自由の新天地を求めた宗教的避難民といえる。彼らは相互にその宗教的マイノリティ(少数派)の権利を認め合うようになり、移住の順に新しい植民地に定着していった。
前記のような移民のあり方に伴う教会の多様化とともに、これらの各教会がさらに新大陸の自由でヒューマニスティックな精神によって分派を生み、教派はいっそうその数を増すようになった。カルバン派のなかにおいてさえ、救済予定説に対してヒューマニズムの立場からの批判がおこり、使徒教会Disciples of Christという新しい大教派を派生させた。またホーリネス教会Holiness Churchは、クリスチャンの完璧(かんぺき)な生活、聖霊による再生を主張してメソジスト教会から分かれ、さらにそのなかの再臨派Adventistsからナザレン教会などのいくつかの分派を生んだ。
自由なオプティミズムは、伝統にとらわれない新興のセクトを生み、新しいタイプの教団を加えた。モルモン教やエホバの証人Jehovah's Witnessesなどは、会員による巡回伝道によって教勢を伸ばしている。
アメリカのキリスト教、とくにプロテスタント教会を特色づける第二のものに、リバイバルとよばれる伝道方法がある。それは、感情を高揚させることによって霊感を受け、信仰を復興させることをいう。1730年代、すでに定着したアメリカのキリスト教界は沈滞の期を迎えていたが、このときエール大学内におこった信仰復興運動がそれで、その後も繰り返し、キリスト教の沈滞期を脱する運動としておこる。とくにフロンティアの世界では、メソジスト、バプティストの二大福音主義教会のなかで広がりをみせ、キャンプで何日も続く集会を行い、歌と踊りのなかに新しい信者を獲得していった。
[赤司道雄]

東洋におけるキリスト教

中近東に始まるキリスト教の東洋への伸長は、5世紀ネストリウス派の台頭によりカトリック教会から分かれるとともに、8世紀からインド、中国にまで教勢を広げた。しかし13~14世紀にはモンゴルの侵略により衰微した。ローマ教会は16世紀に東方伝道に力を入れるようになり、また17世紀にはプロテスタント・ルター派がインド伝道を開始し、東洋のキリスト教も活気をみせるようになる。19世紀にはプロテスタント各派が中国に盛んに伝道したが、1949年中華人民共和国の成立により終止符を打つ。朝鮮は古くから鎖国的でキリスト教の伝道は困難であった。19世紀とくにアメリカ・プロテスタントの伝道により信徒を増したが、日本の統治下に入り、一面日本からの伝道もあったが、日本政府の圧迫を受けるようになった。
[赤司道雄]

日本のキリスト教

わが国におけるキリスト教の歴史は、1549年(天文18)イエズス会所属スペイン人のフランシスコ・ザビエルの鹿児島渡来に始まる。戦国時代を通じ教勢は九州から京都にまで及んだ。しかし豊臣(とよとみ)秀吉による弾圧、さらに1612年(慶長17)に始まる江戸幕府による禁教政策と1639年(寛永16)以来の鎖国によって布教はとだえた。しかしその後も仏教徒を装い、宗門改(あらため)に応じながらも信仰を持続した秘密組織が各地に「隠れキリシタン」として潜伏し、1859年(安政6)の宣教復活に及んだ。1865年(慶応1)には、その前年建設された長崎の大浦天主堂で、隠れキリシタンが公に信仰を表明した。これを「復活キリシタン」とよぶ(一方、教会に復帰せぬ集団が現在も北九州地方にあり、これを「離れキリシタン」とよぶ)。その後もキリスト教はなお禁制下にあり、各地で迫害が続けられ、1868年、70年(明治3)には多数の浦上キリシタンが殉教している。
カトリック、プロテスタント両教会が、公に禁制を解かれたのは、1873年であったが、すでに65年ごろよりプロテスタントの宣教師が来日、英語教育などを行いながら、徐々に信徒を獲得していった。
近代日本のキリスト教界には、ローマ・カトリック教会と、プロテスタント諸教派合同の日本基督(キリスト)教団、イギリス国教会とアメリカ・カナダの聖公会伝道会の合同による日本聖公会の三大教会のほか、ほとんどすべての欧米のキリスト教会が伝道されている。また内村鑑三(かんぞう)により提唱され、その弟子たちによって広く伝道されている無教会派、ドイツの流れをくみながら日本で設立された自由派など、日本独自のものもある。
明治初期のプロテスタント・キリスト教徒は「一致教会」を設立して超教会の教会を目ざしたが、まもなく当時アメリカ・プロテスタント各派に強まっていたセクト主義に影響され、アメリカからの伝道会の数と同じだけの教派に分かれた。しかし第二次世界大戦ごろまでに大教派は母教会から独立しており、戦時中の統制の影響もあって、ほとんどのプロテスタント教派が合同して日本基督教団となった。第二次大戦後はアメリカの新しいセクトが宣教団を送り、またいくつかの小教派は日本基督教団から離れた。
キリスト教が近代日本の社会や文化に与えた影響は、とくにアメリカ・プロテスタンティズムの、人間尊重、自由、平等、博愛の精神による。教育界への影響力は大きく、とくに女子教育に道を開き、早くも1873年(明治6)フェリス女学校が創設されている。婦人矯風(きょうふう)会は禁酒運動、廃娼(はいしょう)運動の主動力となった。政治の世界でも、社会主義、労働組合には安部磯雄(あべいそお)らクリスチャンの指導者が多い。医療、身障者施設、孤児院などの社会事業にもキリスト教団体の貢献が大きい。
[赤司道雄]

現代におけるキリスト教の動向

現代の世界のキリスト教の分布状況は、カトリック、正教会、プロテスタントのそれぞれの教勢は落ち着きがみられ、著しい動きはエキュメニカル・ムーブメント(世界教会運動)である。キリスト教は長い歴史のなかで分立しさまざまな対立さえ生み出してきたが、各派ばらばらの海外伝道による混乱への反省と共産主義への対抗意識から、各派は、共通のキリスト者としての信仰において、一致して現代社会に対処しようとする世界教会運動を生んだ。
1948年アムステルダムで「世界教会協議会」(WCC)が結成され、61年ニュー・デリーの会議ではロシアと東欧の正教会が加盟し、第二バチカン公会議(1962~65)以来、ローマ・カトリック教会も積極的に参加するようになった。64年のローマ教皇のイスラエル訪問と、東方正教会大主教との会見、82年のイギリス女王との面会は、カトリック教会の歴史上画期的な、対立する教派・宗派との和解を示すものである。
[赤司道雄]

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19. キリスト教綱要
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閻魔(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
閻魔は冥府の王として仏教とともに日本に入り、恐ろしいものの代名詞とされたが、地蔵菩薩と習合して信仰対象にもなった。奈良時代には閻羅王と書かれ、まれに閻魔国とも書かれている(『日本霊異記』)。閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略で、閻魔王の意味である。
信教の自由(日本大百科全書・世界大百科事典)
宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由。宗教の自由ともいう。信教の自由は、宗教的権威から人間精神を解放することにより、近代の精神的自由の確立に大きな役割を果たした。また、信教の自由は、人間の魂の救済にかかわる自由として、精神的自由の源をなし、近代以来の
三宝絵詞(東洋文庫・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
平安中期,出家した尊子内親王に源為憲が献じた仏教入門書。表題には「絵」とあるが,絵は失われて詞書だけがのこる。本生譚,経典の功徳,仏教・年中行事などを内容とする。1990年01月刊
渓嵐拾葉集(国史大辞典・世界大百科事典)
叡山の光宗が応長元年(一三一一)から貞和四年(一三四八)にかけて叡山天台の行事・作法や口伝法門などを集録したもの。もと三百巻あったと伝えるが、現在は百十三巻。顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部からなり、当時の天台の顕・密・禅・戒に関する
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