第18回オリンピック競技大会。1964年(昭和39)10月10日開会式、同24日閉会式の15日間にわたって行われた。政府は10月10日の開会式を記念して国民の祝日、体育の日を定めた。なお、体育の日は1998年(平成10)「国民の祝日に関する法律」の改正により、連休を作るため10月第2月曜日に変更された。
[深川長郎]
1959年、ドイツのミュンヘンで行われた第55回国際オリンピック委員会(IOC)総会で立候補した都市は、ブリュッセル、デトロイト、東京、ウィーンで、投票の結果は東京34、デトロイト10、ウィーン9、ブリュッセル5で、東京と決定した。以前、1940年(昭和15)の第12回大会が決定していたが、日中の間に不幸な戦争が起こり、1938年7月15日大会の返上を決定した。その後、第二次世界大戦とともに、オリンピックも中断を余儀なくされ、戦後復活した1948年のロンドン大会も日本の参加は認められず、1952年ヘルシンキ大会にふたたび招かれるまで参加不能となった。
戦後いち早くスポーツ再建に努めた日本スポーツ界は、東京大会の夢をもう一度と国際スポーツへの活動の活発化を図り、1958年、東京で第3回アジア競技大会を戦後初めての国際総合競技会として開催するなど努力を重ね、国会もまた誘致のための決議をするなど、国民的世論として大会待望の空気が強まった。ミュンヘンのIOC総会には、安井誠一郎東京都知事が開催立候補都市の代表として出席、また日本オリンピック委員会委員の平沢和重(かずしげ)(1909―1977)が日本の小学校の教科書を手に、日本のオリンピック運動が根強いものであるとの演説を行い、招致に成功した。
東京大会の予算は、1兆0800億円と公表されている。これは、国費で建造した各種競技施設、とくに国立陸上競技場の拡張、国立オリンピックプールの建設など、東京都が建てた駒沢(こまざわ)オリンピック公園の諸施設などで、選手村の改造費、大会関連の高速道路や主要道路、さらに東海道新幹線の建設費なども関連経費に含まれている。大会の直接運営費は98億5800万円で、国と東京都の補助金が各16億8000万円、オリンピック資金財団が扱った寄付金が28億5500万円、入場料16億0900万円、その他事業収入14億4300万円が主要財源となっている。他方、日本選手団の選手強化費としては20億円の巨費をかけた。
さらに競技運営に万全が期せられ、科学的施設・設備が取り入れられ、審判の器材、用具の改良などオリンピック史上最高のもので、IOCをはじめ各国の絶賛を浴びた。
[深川長郎]
競技は、陸上競技、漕艇(そうてい)、バスケットボール、ボクシング、カヌー、自転車、フェンシング、サッカー、体操、ウエイトリフティング、ホッケー、レスリング、競泳と飛込、近代五種、馬術、射撃、水球、ヨットに、新しくバレーボールと柔道が入り20競技163種目にわたり、93か国5151人が参加した。日本は役員82人を含む437人が20競技に参加した。
メダル争いは、金メダルはアメリカが36を獲得してソ連の30を押さえ、日本は16個を得て3位に入った。ほかに東西ドイツは統一チームを組み10、イタリア、ハンガリーも10、ポーランド7、オーストラリア6、チェコスロバキア5、イギリス4と続いた。
この大会では、世界新記録47、オリンピック新記録111を出し、とくに競泳でのティーンエイジャーの活躍は目覚ましく、水泳と体操の若年齢化が目だったことは、これ以後のスポーツ界の特色として今日に至っている。マラソンでは、エチオピアのアベベが2連勝を果たし、円谷幸吉(つぶらやこうきち)(1940―1968)も健闘して3位に入り、メインスタジアムに日章旗を掲げることができた。水泳の女子100メートル自由形ではオーストラリアのドン・フレーザーDawn Fraser(1937― )が3連覇の偉業をなし、体操の女王チェコスロバキアのチャスラフスカVera Caslavska(1942― )の妙技は世界を圧倒した。新登場の女子バレーボールは日ソの激しい対戦となり、「東洋の魔女」といわれた日本の女子チームの金メダルは、オリンピック史上に一つの話題を供した。このほか、男子円盤投げでアメリカのオーターAlfred Oerter(1936―2007)は3連勝を遂げ、アメリカのヘイズRobert Hayes(1942―2002)は陸上100メートルで初の10秒の壁を破る9秒9を記録したが、惜しくも追風参考となった。棒高跳び決勝ではドイツのレーニッツKlaus Lehnertzに対しアメリカのハンセンFrederick Morgan Hansen(1940― )の激しい争いは夜10時に達し、ついに5メートルを超えハンセンが5メートル10で金メダルに輝いた。実に8時間余に及ぶ大激戦で6万観衆を魅了した。体操では、日本の活躍は目覚ましく、ローマに続いて団体優勝を遂げ4種目に金メダルを得た。柔道は日本のお家芸とあって軽・中・重量級と順調にメダルを得たが、最後の無差別級でオランダのヘーシンクAntonius Johannes Geesink(1934―2010)に軍配があがった。これらの試合の模様は全世界にテレビ放映され、初の衛星中継が成果をあげ、開会式はアメリカとカナダに同時中継され、ヨーロッパには録画放映された。
[深川長郎]
東京オリンピックは、IOCから完璧(かんぺき)なまでのきめ細かい運営と賞賛の辞を受けた一方、金メダル16、銀メダル5、銅メダル8と日本の競技力を世界に示す画期的な収穫をあげたといえる。と同時にこの大会が一つのきっかけとなって、日本経済の高度成長につながったとする世界的論評も現れた。しかし、当初エントリーしていた北朝鮮とインドネシアは、先に国際競技連盟の制止にもかかわらず開催されたいわゆる新興国競技大会(ガネフォ)に出場して、国際競技連盟から出場停止を受けている選手を強引に出場させようとしたため、政治的なもつれとなり、両国は開会式の朝、総員引揚げ帰国したという事件もあり、オリンピック円満開催に政治的理由による一片の影を落とした。本大会のために建築された国立屋内総合競技場の設計者丹下健三(けんぞう)と記録映画『東京オリンピック』の監督市川崑(こん)には、オリンピック・ディプロマが贈られるなど、協力者に対してもメダルに匹敵する処遇がなされた。東京オリンピックはいちおう成功裏に幕が下ろされたが、以降、日本のスポーツ界に与えられた課題もまた大なるものとなった。いわゆる「オリンピックを契機として」ということばが随所に現れ、メダル主義のスポーツ界から広く国民スポーツ振興の施策が求められた。結果として、地域のスポーツクラブの組織づくり、施設づくりは広く市町村民向けの運動広場を中心に考えられるようになるなど、国民のスポーツへの関心が高まった。
一方、スポーツの科学的研究も一気に進み、トレーニング方法、選手の健康管理などにもスポーツ医科学の新しい方式が採用されるようになった。オリンピック選手村のあった東京・代々木の跡地は、国立オリンピック記念青少年総合センターとして社会教育の施設に生まれ変わった。また敷地の一部は東京都代々木公園となり、都民の緑のオアシスとして親しまれている。
[深川長郎]
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