フナ(コイ目コイ科)の観賞用に改良された飼育品種で,アジア大陸の長江(揚子江)下流域で古くから改良が行われていたといわれる。色彩,体の長短,ひれの有無,形状などの差異により多くの品種に分けられている。日本に最初に輸入された時期については諸説があるが,室町時代の末期,文亀2年(1502)に当時の明から泉州堺の港に伝来したとの記録がほぼ定説となっている。以後,日本で長期間にわたって飼育改良されて多くの品種が固定されている。さらに第2次世界大戦後,新たに輸入された諸品種をとくにいわゆる〈中国金魚〉として〈在来の諸品種〉と区別している。
在来品種のおもなものはワキン,リュウキン,デメキン,オランダシシガシラ,シュブンキン,ランチュウ,トサキン,ヂキンなどである。ワキン(和金)は原種のフナに形がもっとも近くて,体は細長く,各ひれも短い。ただ色彩は赤色,または赤色と白色との斑紋をもつものとがある。尾びれにはフナと同様の〈フナ尾〉と後方が左右に3叉(三つ尾),または4叉(四つ尾)している,いわゆる〈開き尾〉とがある。キンギョの品種の中でもっともじょうぶで飼いやすい。リュウキン(琉金)は体が著しく短くて太く,腹部が膨らんでいる。尾びれは開き尾で長く,その他のひれも長い。デメキン(出目金)はその名のとおり左右の眼が大きく,横に突出している。デメキンは色彩によりアカデメ(赤出目),クロデメ(黒出目)およびサンシキデメ(三色出目。キャリコデメともいう)の3品種に細分される。両眼が背方へ突出するものをチョウテンガン(頂天眼。中国では望天眼という)といい,背びれを欠くものを正しい形としている。オランダシシガシラ(和蘭師子頭)は形はリュウキンに似ているが,頭部の背面に肉瘤(にくりゆう)が発達する。色彩は赤色,または赤白斑であるが,赤白色,青色,黒色に透明なうろこを混じえたものをアズマニシキ(東錦)と呼んでいる。シュブンキン(朱文錦(金))はフナとサンシキデメとの交雑品種から選抜育種したもの。尾びれはフナ尾で,体は細長く,各ひれはいずれも長い。色彩は赤色,白色,青色,黒色および透明なうろこがモザイク状に配列されている。ランチュウ(蘭鋳)は体が太く短く,ほぼ鶏卵型で,背びれを欠く。頭部の背面に肉瘤が発達する。ランチュウは熱心な愛好者が多く,ランチュウのみを対象とする品評会なども行われている。トサキン(土佐金)は土佐で改良された品種で,体の形はほぼリュウキンに近いが,尾びれの左右両端が著しく前方へ反転している。ジキン(地金。別名は六鱗,シャチ,孔雀尾)は江戸時代にワキンから選抜育種された品種といわれ,名古屋を中心に飼育されている。著しい特徴は尾びれが上・下葉とも基底部から完全に左右に分かれ,ほぼ垂直に四つ尾の形になっている(これを孔雀尾という)ことである。なお,この品種は斑紋にも独特の規程が設けられ,体が白く,唇,背びれ,胸びれ,腹びれ,しりびれ,尾びれの6ヵ所のみが赤いものを尊重する。したがってうろこの赤色部を人工的に抜いて脱色させる手術も行われている。このほかにキャリコcalico,コメットcomet,ヤマガタキンギョ(山形金魚),ナンキン,ツガルニシキ(津軽錦),ヒロニシキ(弘錦)などがある。
いわゆる〈中国金魚〉には日本在来の品種に近いものもあるが,ここでは著しい特徴をもつもののみを列挙するにとどめる。チンチュウユイ(珍珠魚,pearl scale。チンチュウリン(珍珠鱗)ともいう)はうろこに石灰質が沈着して,それぞれのうろこが真珠を散りばめたように半球状に突出している。シュイパオユエン(水泡眼,water bubble eye)は日本ではふつうは日本流にスイホウガンと呼ぶ場合が多い。眼の下側にリンパ液の入った水泡が発達し,眼は上を向いてくる。ジゥチュウユイ(絨球魚,ponpon,narial bouquet)は鼻孔を覆う肉質の突起(鼻孔褶(びこうしゆう))が異状に大きく発達して房のようになった品種をいう。日本にも戦前からわずかながらオランダシシガシラの一部にこのような形質をもった品種が存在し,ハナフサ(またはハナブサ。鼻房)と名付けられていた。ファンサイ(翻鰓,out-folded operculum)は左右のえらぶたが外側に反転していて,内部の赤いえらが見える。ホントウ(紅頭,red cap)は形態はほぼオランダシシガシラに似ているが,色彩は全身が白地で頭頂部に濃赤色のほぼ円形の斑紋がある。日本ではタンチョウ(丹頂)と呼ぶことが多い。なお,これに近縁の品種で背びれを欠くものも輸入されている。ホウユイ(褐魚,brown goldfish。またはツエユイ(赭魚)ともいう)は日本では一般にチャキン(茶錦(金))でとおっている。形はほぼオランダシシガシラ型で,色彩がその名のとおり茶褐色または赤褐色の品種である。チンウェンユイ(青文魚,blue goldfish。またはランウェンユイ(藍文魚)ともいう)は形はチャキン型で体色が青色またはやや藍色を帯びた青色である。ただしこの品種で日本に輸入されているものは色彩の変異が多く,また成長に伴っても変化するようである。
日本におけるキンギョの養殖地(生産地)はほぼ全国にわたっているが,愛知県弥富(やとみ)市,奈良県大和郡山市および東京都の江戸川下流域周辺が昔から三大生産地として有名である。ただし東京都の場合は都市開発の影響を受けて立地条件が不利になった地域が多い。欧米にも輸出されている。
キンギョは元来観賞用に育種改良されたもので,水温や溶存酸素量などの水質に対する抵抗力も比較的強い。飼育適温は15~25℃くらいだが,5℃以下でも,35℃くらいでもある程度の生存は可能である。飼育場所は室内と室外とに分けられる。飼育上の注意を略記すると,室内での飼育はほぼ全品種にわたって可能であるが,その目的は観察ないし観賞に限られ,繁殖には不適当である。体の細長いワキン,シュブンキンなどと,体の太く短いリュウキンやデメキンなどとを同一水槽で飼うことは好ましくない。室内飼育の場合は主としてガラス,またはプラスチック製の水槽でキンギョを横(側面)から見ることになる。水槽は単に水を満たすだけでもよいが,底に砂または砂利を敷き,水草などを植えてもよい。飼育する尾数が少ない場合は特別なくふうはいらないが,過密だと酸素不足のため呼吸困難に陥り,水面に口を出してぱくぱくやるようになる(鼻上げ)。このため狭い水槽にやや多くを収容したい場合には循環ろ化装置を使う必要がある。最近はこれらの装置も技術が発達して比較的簡単で効率のよい製品が市販されている。用水は井戸水でも水道水でもよいが,水道水をすぐに使う場合は塩素を除くために,ハイポ(チオ硫酸ナトリウム)を極少量加えるとよい。キンギョは動・植物質の両方を食べる雑食性の魚で,餌としてはイトミミズ,アカムシ(ユスリカの幼虫),パンくずなどでよいが,最近はキンギョ用の混合飼料が市販されているのでつごうがよい。給餌の際にもっとも注意しなければならないのは,食べ残しのない程度に与えるということである。残った餌は腐敗して水中の酸素を消費するうえ,水質を悪くするのでピペットで取り除く。水替えは飼育槽の条件(収容尾数など)によっても異なるが,一般に高温期(夏)にはやや回数を増やし(週1回くらい),冬にはほとんど水を替える必要はない。
室外の庭などに池を掘ったり,大型の水槽(コンクリート製,プラスチック製)などで飼う場合は,単なる観賞のほかに,繁殖させることも可能である。産卵期は東京では4~5月である。雌,雄の親魚を入れ,水草やポリエチレンを房状に裁断したものを浮かしておくと,早朝から午前中にかけてこれらの浮遊物に産卵する。産着卵は親魚と別にして孵化(ふか)させて育てる。受精卵は水温20℃で4~5日でかえる。孵化直後の仔魚(しぎよ)は3~4日間腹部の卵黄を栄養にして育ち,その後は自分で餌をとるようになる。このときにミジンコがあればもっとも便利だが,ない場合は市販のブラインシュリンプ(アルテミア),またはゆで卵の黄身を細かに砕いて与える。キンギョの稚魚は大部分の品種では最初はフナと同様に黒く,数ヵ月の後に赤色や赤色と白色の斑紋をもつようになる。生後早いものは満1年,ふつうは満2年で成熟する。室外の池で飼うのは観賞を目的とする場合は一般にワキン,シュブンキン,コメットなどの体の細長く動作の敏速な品種が適し,これらはコイなどといっしょに放養してもさしつかえない。リュウキン,デメキンなども繁殖させる場合は室外の容器のほうが有利である。なお,ランチュウは標準体型の決りがきびしく,また弱いこともあり,その飼育には水温その他に関して特別の注意が必要である。
キンギョには寄生虫がつきやすい。目だつのは,甲殻類のイカリムシやチョウ(ウオジラミ)で,前者はうろこの間に突き刺さって寄生し,口腔(こうこう)内にもつく。いずれもピンセットで除去するが,遊泳期の子虫は,有機リン剤(数百万分の1の濃度)で駆除できる。白点病は原虫の寄生によって起こり,魚体に白い粉をふりかけたようになる。魚を1%未満の食塩水に移すと虫は落ちる。このとき,水温を徐々に30℃くらいまで上げると効果が高まる。吸虫のギロダクチルスなどはえらをおかし,魚ははげしく泳ぎ回る。5%の食塩水に10分くらいか,0.01%の酢酸液に約1時間入れてやると効果がある。
明代の本草学者李自珍は,鯽(しよく)(フナ)のほかに金魚の祖先として鯉,鰍,(さん)をあげている。中国で体色を変化させた野生の鯽についての記録は,おそくとも唐代(618-907)にまでさかのぼる。北宋の時代(960-1126)になると,体色が金色に変色した金鯽魚の記録は多くなるが,蘇軾(そしよく)(東坡),蘇舜欽らの詩が有名である。鯽の生息地帯である浙江省杭州の西湖の金鯽魚をうたったもので,このため今日では,唐代の金鯽魚の記録を残す浙江省の嘉興の南湖とともに西湖も金魚の発生地,その故郷であるとされている。蘇軾らがうたった金鯽魚は,西湖のほとりの仏寺の池に放生(ほうじよう)されていたものであった。放生は,殺生を禁ずる仏教の戒律からくるもので,野にとらえた生き物を放す行為をいい,この行為によって果報がもたらされると信じられた。こうして金魚の半飼育化が始まったわけである。放生され,体色が金色に変化した金鯽魚は,仏寺の放生池で飼養され,珍奇な魚として観賞され,まずは宮廷において珍重され御園で養魚され始めた。やがて士大夫の間にも伝わり私園の池に飼養されるようになる。南宋(1127-1279)になると金魚の飼養,販売を専門とする金魚屋(魚児活)が出現している。このことは,金魚の人工的養殖が始まったことを物語る。14世紀以降,明・清時代になると,体色のみならず形状などおおくの改良が人工的に加えられ品種が増えていく。金魚の飼養,観賞は庶民層にまで広がり,当時の首都,北京では〈盆魚〉と称し,鉢に金魚を飼うことが流行し北京の風俗の一つとなった。新中国においても金魚の飼養,観賞は盛んである。すでに154種以上の品種が生み出されている。なお,中国の金魚は16世紀に日本に将来されたほか,17世紀もしくは18世紀にフランスをはじめヨーロッパ,アメリカにもたらされ,観賞魚として今日に及んでいる。
金魚を売り歩く行商人。5月ころから8月ころまでの期間に,小住宅,小商店の多い町を〈金魚やあ金魚--〉と語尾を少し長くした感じの呼声で流して歩く。ところどころで立ち止まって通行人や子どもなどに金魚を見せて購買欲をそそるが口上はいわない。明治になってガラス製の金魚鉢が安価に提供されだすと,夏の下町の風物詩といわれるほどに金魚売は東京の下町で定着した。幕末から明治へかけては,てんびん棒で金魚を入れたおけを前後に担って売りにきた。大正のころには大八車にガラス製の容器を積んでくる金魚売が増えたが,昭和初期からは自転車のリヤカーに金魚を入れた容器とからの金魚鉢を積んでくる者が増えた。涼しげな水色の薄物のはんてんに半ズボン,麦わら帽子などのスタイルの金魚売は,秋から翌年の春までは焼芋などを行商して過ごす。金魚売は季節で売る物を変える行商人である。
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