スズキ目アジ科ブリ属の海産魚。温帯性の回遊魚で日本各地の沿岸に見られる。季節によってはカムチャツカ半島の南部,サハリン,沿海州,朝鮮半島および台湾沿海にも出現する。典型的な紡錘形で,わずかに側扁する。背は青色,腹部は銀白色で,吻端(ふんたん)から尾にかけて幅広い黄色の1縦帯が通る。頭が大きく,やせて側線部の黄帯が目だちキブリと呼ばれる瀬付き群と,よく肥満し背の青色の濃いアオブリと呼ばれる回遊群とが区別される。回遊の際の移動速度は速く,標識放流の結果から平均毎時0.5ノット,速いときには1ノットくらい出す。遊泳水深は表層3mくらいから40mくらいまでだが,ふつうは6~20mの範囲を泳ぐ。産卵期は1,2月から8,9月と長期にわたるが,盛期は3~5月である。日本海のブリの主産卵場は男女群島,太平洋系群については土佐湾から九州西部のやや沖合水域と推定されている。産卵場の北限は日本海は若狭湾から富山湾で,太平洋側は相模湾または伊豆諸島近海である。1腹60万~150万粒の卵を産む。6~7cmまでの稚魚は流れ藻につき,海流によって運ばれる。この時期のものをモジャコという。
ブリは成長とともに名まえが変わる出世魚の一つで,各地にさまざまな呼名があるが,大きくわけて,ワカシ(ワカナ)→イナダ→ワラサ→ブリとフクラギ(ツバス,ツバイソ)→ヤズ→ハマチ→メジロ→ブリの系列が見られる。4年で全長70cmくらいに成長し,これ以上がブリと呼ばれる。ブリの語源はアブラに由来するという説と,年経りたる魚からきたフリに由来するという説とがある。鰤という字は日本でつくられた字である。中国で魚師というのは大魚,老魚の意で,これから鰤の字をつくってあてたらしい。ブリの名は古い記録には見られず,《和名抄》に波里万知(ハリマチ)の名で出てくるのが初めで,これがつまって室町期にハマチとなり,同時にブリの名も現れる。
ブリは敏しょう,活発で漁労技術が進むまではとるのがむずかしかった魚種である。ブリ漁業が日本の重要な漁業になったのは江戸時代になってからである。江戸期に珍重されたのは丹後産の〈伊根(いね)鰤〉で,それに次ぐのが越中産とされた。このころから現在にいたるまでおもな漁法は定置網で,建刺網から台網,大敷網,大謀網,落し網と変化してきた。江戸から明治,大正,昭和とブリ漁業の歴史は定置網発達の歴史でもあり,技術の進歩につれて漁獲量が増した。定置網のほか,近年若年魚を対象とした巻網,釣りなどによる漁獲量が増えてきた。九州から対馬では,回遊ブリに餌を与えて一定の水域に止めておき,これを漁獲する飼付漁業が見られる。ブリの漁獲量は昭和期を通して多少の例外はあるが年間3万~5万t程度であった。しかし昭和40年代以降ハマチ養殖が急速に増え,昭和46年には養殖ものの生産量が天然ものの漁獲量を超えた。最近は養殖ものが天然ものの約3倍となり,合わせて20万tほどの生産量となっている。ハマチ養殖は昭和初年から香川県下で始められていたが,盛んになったのは合成繊維漁網を用いたいけす網養殖法が行われるようになってからで,短期間で普及した。種苗のモジャコの供給地は三重,高知,宮崎,鹿児島などの沿岸である。最近は多くが小割り式となっている。放養種苗数は8000万尾前後,餌として使われるイワシ,イカナゴ,サバなどの量は130万tに達する。生産量は15万t前後なので8~9倍の餌が使われていることになる。養殖地は関西,四国,九州で,出荷時の大きさからハマチと呼ばれた。現在では全国的にハマチといえば養殖ブリをさすようになった。
ブリのしゅん(旬)は冬で,南下する親ブリが寒ブリと呼ばれるもので,産卵にそなえて餌を飽食しよく太り,脂がのっていて非常に美味である。1m以上のものがとくにうまい。養殖のハマチは餌をどんどん食べさせて太らせるので,脂肪が多すぎてしつこく,天然ものに劣る。ブリの肉はタンパク質,脂質,ビタミン,ミネラルなどすべて豊富で栄養面でもすぐれた食品である。またヒスチジンがきわめて多く,これが美味の一要素といわれる。この量はとりたてより,少し時間が経ってからのほうがずっと多くなる。刺身,照焼きにすることが多いが,酢の物,ぬた,薫製などにもする。バター焼きなど洋風調理にも向く。昔は保蔵の問題があり,生肉には微毒があるなどといわれ,塩ブリとして流通するものが多かった。
なお,日本産のブリ属には他にヒラマサ,カンパチなどの有用種が含まれる。
ブリは成長するにつれて名称が変わるので,江戸時代には〈出世魚〉といってめでたいときに用いられた。正月に用いる魚は〈正月魚〉〈年取り魚〉といって各地で一定の魚が用いられているが,西日本の正月には塩ブリが欠かせないものとされ,東日本の塩ザケと好一対をなす。長野県の松本平から木曾川筋を境にして,その北東部ではサケを,南西部ではブリを用いるという。とくに山陰から北陸沿岸の定置網で捕獲されたものが喜ばれ,塩蔵したものは飛驒から松本方面にまで送られ,重要な商品とされた。正月魚は,なまぐさものを口にしなければ新しい年を迎えられないように感じていた時代のなごりといえる。またタイやブリなどのめでたい魚を料理したときには,その尾やひれを板壁などにはって残しておき,それを少しずつ切って贈物にそえ,のし(熨斗)のかわりにする地方もかつては見られた。これも忌がかかっていない清浄な品物であることを表示するものであった。
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