解説・用例
「しょうがつ(正月)」に同じ。
*春曙抄本枕草子〔10C終〕二・ころは「ころは、正月(シャウグヮチ)、三月、四五月、七月、八九月、十月、十二月、すべて折につけつつ、一年(ひととせ)ながらをかし」
*雲形本狂言・米市〔室町末~近世初〕「歳暮の御祝儀の正月(シャウグヮチ)のお拵(こしらえ)のと有てにぎにぎしいが」
*天草本平家物語〔1592〕四・二「ジュエイサンネンxoguachi (シャウグヮチ) ヒトイノ コトデ ゴザルニ」
暦の上での1年の切れめを祝う新年の行事。新年を迎えることを,年取り,年越しともいう。大晦日から元日にかけての行事に主体があるが,ほぼ1月いっぱい続く。行事の流れは,1日を中心にする大正月と,15日を中心にする小正月とに大別できるが,このほか7日の七日正月,20日の二十日正月を重視する場合もある。12月はすでに正月の始まりで,東北地方北部では,12月中に神仏の年取りがある。正月のしたくの開始は,一般には12月13日である。山へ行って門松や正月の飾木を取り,家のすす払いをする。家を清め,門松を立て,しめ飾をするのは,そこが神聖な神祭の場であることを表すのである。
新年にまつる神を歳神あるいは歳徳神(としとくじん)という。神職が配る歳神のお札や御幣を,神棚や床の間にまつることが多いが,年棚をつくり,歳神の御幣をまつる古風な様式もある。わらべうたでは,歳神を〈正月さま〉と呼び,遠くから訪れてくる神とうたっている。トシには稲などの稔(みの)りの意味があるが,それだけで歳神を稔りの神と限定することはできない。厄病よけに,歳神とともに厄神の御幣をまつったり,神職の配った厄神の御幣を大晦日に道の辻に送り出したりする土地もある。厄神の宿といって,大晦日の夕方,厄神を家に迎え,正月をすごさせる家も多い。歳神と厄神は正月の神の両面で,こうした新年の神祭には,陰陽道の知識を持つ民間宗教家の影響が大きい。歳神が初卯の日に帰るというのも,宮中の儀礼と共通する。
古代には,大晦日の夜,家に死者の霊を迎えて食物を供えてまつる風習が広くあった。東日本には後世まで残っていたことは《徒然草》にみえ,現に〈みたまの飯〉といって先祖の霊に握飯を供える習俗が行われていたが,年末の魂祭は平安時代には京都や西日本にもあったことが《日本霊異記》や《枕草子》にうかがえる。琉球諸島では,今も正月は盆とともに先祖をまつる行事の色彩が強い。新年の行事が盆行事と一対をなしている伝えも多く,沖縄で,盆はあの世の人をこの世の人が招き,正月はあの世の人がこの世の人を招く日であるといっているのは,二つの行事の特色をよく表している。新年は時間の周期が原点にもどる日で,時間的へだたりが超克され,この世とあの世との交流が可能であると考えられた。中国でも大晦日に先祖の霊を迎える例があり,これが新年の行事の重要な要素であった可能性は大きい。
大晦日の夜の年越しそばや元日から三が日の朝の雑煮など,新年の行事には特定の食物を食べる習慣がある。大晦日の夕食に添える年取り魚も顕著な例である。東日本ではサケ,西日本ではブリを用いることが多い。正月が精進でないことを表す食品である。正月の食物の代表は餅である。歳神には鏡餅を供える。平安時代,宮中では,譲葉(ゆずりは),大根,押鮎(おしあゆ),橘(たちばな)をのせて鏡餅を供えたが,天皇には〈歯固め〉といって,三が日の朝,鏡餅,大根,魚,鹿や猪の肉(代用は雉(きじ)の肉)などを盛った膳を供えた。天皇は見るだけであったのは神供の形式であろう。雑煮とは本来,こうした神に供えた食品をさげて食べる調理法で,神と人が食事をともにする直会(なおらい)の一種であった。普通の神は鳥獣の肉を忌むが,南九州でも,近ごろまで,雑煮に野鳥や野獣の肉を入れたという。新年にまつる神が,やや特異であったことをおもわせる。
正月行事には,村落社会の構成単位である〈家〉が表現されている。一家の主人が年男と称して行事を主宰し,門松取り,すす払いなどのしたくから,元日の若水汲み,雑煮の炊事など神事をすべてつかさどる。大晦日に,家中そろって寝ずに元日を迎えるのもお籠りの形で,12時になると村の鎮守に参る準備である。著名な社寺への初詣は,その都市的発展である。年始も本家と分家の関係がある家や近隣の家をまわるのが本来である。道具や小屋にもしめ飾をつけ,年取りをさせる意識がある。正月行事の実体には,家屋敷の年取りと,家の中での神祭との二重の意味がある。門松も,松以外の木を用いたり,一本だけ立てたり,家の大黒柱に立てるなど変化があり,もとは家屋の年取りのしるしであったかもしれない。
1月2日あるいは4日に仕事始めがある。農家では田畑を耕すまねごとをする。商家では2日が初荷,初商いである。初山入りを仕事始めとする地方も多い。山の木の伐り初めで,平安時代の宮中の初子の小松引き(子(ね)の日の御遊び)に相当する。このとき小正月の飾木を取ってくるが,それを稲の種子播きや田植の儀礼に用いる例が多い。これは稲を守る神の象徴の木を迎える儀礼の一形態である。旧暦2月は稲の種子おろしの月で,正月の行事はその前段をなしていた。1月11日の田打ち正月や,小正月の庭田植で,田打ちや田植の模擬作業をするなど,稲の豊作を祈る行事がある。現代の正月行事には,暦による正月の行事と,古来の稲作開始前の儀礼とが重なり合っている。
→小正月
中国においても正月は民俗上もっとも重要な祝日である。現代でも新暦の正月は形式的に祝われるだけで,都市も農村も晴れやかでにぎにぎしい祝祭の気分に包まれるのは,春節と呼ばれる,農暦(陰暦)1月1日前後の数日間である。正月の行事は,まず農暦12月23日(小年)の竈(かまど)神(灶王爺(そうおうや))送りからはじまる。この神はふだんから家人の素行に目を光らせており,この夜昇天して玉皇(道教の最高神)に1年間の調査結果を報告し,それによって新年の一家の吉凶が決まるという俗信があるので,告げ口をさせないために手厚く盛大に送るのである。それが終わるといよいよ年もおしつまり,人々は新しい灶王爺や門神(魔除けの神)や百分(ポーフエン)(天地の百神)の絵像を買いととのえ,春聯(しゆんれん)(めでたい対句を書いた赤く細長い紙)や〈福〉と書いた四角い紅紙を貼りつける。大晦日の夜になると年夜飯(年越しの食事)をいただき,守歳(年越しの徹夜)をして新年を待つ。その間,爆竹が打ち鳴らされ,主婦たちは正月のごちそうである餃子作りに精を出す。年が明けると,神々を拝し(接神),四方を拝し,祖先の霊を拝し,年長者に正月の挨拶をし(拝年),子どもたちはお年玉(圧歳銭)をもらう。ちなみに,屠蘇(とそ)を飲む風習は6世紀の《楚(けいそ)歳時記》にみえているが,中国では早くにすたれてしまった。外では,竜灯舞,獅子舞,跑旱船(ほうかんせん)などがくり出し,正月気分を盛りあげる。正月7日(人日(じんじつ))には,日本の七草粥(ななくさがゆ)の源流になった,7種の野草のスープを作る風習があったが(《楚歳時記》),今日ではほとんどみられない。正月15日を元宵節(げんしようせつ)といい,この夜を中心に前後数日間,家々の軒先や街角に色とりどりのちょうちんがともされ,人々は新年最初の満月の夜を楽しむ(上元)。このいわゆる元宵観灯はすでに唐代からあるが,この日をもって正月は終わる。
朝鮮の正月は,元来一年中の無事を祈って静かに引きこもる月であると考えられていた。元旦には正朝茶礼といって家廟の祖先の霊をまつる。新しい衣服を着て家族の年長者に対して新年の挨拶を述べ,年賀にまわる。この日,日本の雑煮に当たる餅湯(トックック)や甑餅を食べる。門排(金甲神将図)や歳画(鶏や虎の画や道教系の神像)を門や壁に貼って不祥を払う。また竹で編んだひしゃく形の箛(または竹ぼうき)を戸口や壁にかけて幸福をかき集める意とする。元旦から12日までは干支で日を呼び,予祝儀礼や年占が結合している。例えば最初の子の日にはチュイプルノリ(鼠火戯)といって田野の草を焼いてネズミや虫の害を防ぎ,辰の日には婦人たちが竜卵汲み(天から降った竜が井戸に卵を生むといい,竜卵の入った水を最初に汲む事)をして農運を占う。立春には中国と同様に種々な吉意の文句を大書して貼りつける。正月の行事の大部分は14~15日に集中している。15日は上元で最初の満月であり,秋夕(旧暦8月15日。中秋節)に対して大望日といわれもっとも重要な祭日である。この日,迎月(タルマジ)という満月祭が行われ,人々はこの日の月で1年の吉凶を占い種々な願いごとを祈る。上元の夜は夜なべしての夜歩きが許され,女子の解放の機会でもある。一方この日には清浄な男子を祭主として部落祭が行われ,一年中の平安と豊穣を祈る。元旦や立春の行事の大部分が明らかに中国からの受容であると考えられるのに対して,上元の諸行事は朝鮮古来の固有の満月祭を中心とした新年の祭りであるということができる。
→上元
タイ国では1889年に太陽暦が採用されたが,それ以前の太陰暦時代の慣行が踏襲されて4月13日が元旦とされた。1941年には1月1日を元旦とするよう改められた。しかしこの新しい元旦は社会的に内容がほとんどない。大晦日に国王と首相が放送とテレビで年頭の挨拶をしたり,翌朝国王自身が僧侶に王宮で年始の布施(ふせ)をしたり,また王宮前広場で庶民が多数の僧侶に布施をするのが行事として目だつにすぎない。いぜんとして町でも村でも生きている実質上の正月は,4月13日から15日にかけてのソンクランと呼ばれるもののほうである。この時期は乾季の終末期で,稲の収穫もいっさいが完了したいわゆる農閑期であり,祭りには最適の時期である。ソンクランの行事には仏教国タイにふさわしく仏教とかかわりのあるものが多い。例えば,人々が毎日僧に食事を寄進すること,13日の午後には寺で仏像と住職とを洗い清める行事を行い,さらに14日には日ごろ尊敬する老齢者を訪ねて,それぞれの手に香りのついた水を注いで清めること,これらは尊敬の念の表明だけでなく,みずからの罪の洗い落しおよび釈迦,僧侶,老人などの若がえりの意味がある。この14日にはまた,人々は寺の境内に土や砂を運びこみ,個人,世帯,集団などでそれぞれ仏塔の形のものを競ってつくる。このおりには寺の内外で店が出たり催物があったり,楽しい場面が現出する。ソンクランの期間にはまた人々は魚や鳥などの生物を放して,それによって功徳(くどく)を積む習慣もあった。しかし正月行事は仏教的行事がすべてではもちろんない。ソンクランの賑やかな正月気分をいやがうえにも盛り上げるのは,実は若い人たちの間での盛んな水の掛けあいである。このときばかりは,若い男女は日ごろの慎みも忘れてバケツや洗面器を持って人を追いかけ,水の掛けあいに興ずる。これは首都のバンコクなどではみられなくなったが,地方では町でも村でも実に盛んに行われている。これによってやがてきたる耕作期に十分な降雨がもたらされるようにとの類感呪術的意味あいもあるという。この水掛けもその例だが,ソンクランには青年男女の間での各種の遊戯が昔は全国的に行われて,彼らの笑い声が街や村に夜更けまできこえたものである。
タイの正月行事を,地理的に隣接し,歴史的にも関係の深いカンボジアの伝統的正月行事と比較すると,類似する点が多い。元旦の設定それ自体が共通で,4月の最初の満月の日である12日か13日が新年の開始であること,また村人が互いに水の掛けあいを楽しむこと,青年男女たちが日常的な距離を一挙に縮めて,綱引きとか,布製のまりの投げあいを伴う一種の歌垣(うたがき)の遊びなどを楽しむ形で盛んに交歓することなどが,その好例である。東南アジア大陸部では,国や民族の違いをこえて,正月行事に共通する要素がすくなくない。
→暦 →新年
解説・用例
「しょうがつ(正月)」に同じ。
*春曙抄本枕草子〔10C終〕二・ころは「ころは、正月(シャウグヮチ)、三月、四五月、七月、八九月、十月、十二月、すべて折につけつつ、一年(ひととせ)ながらをかし」
*雲形本狂言・米市〔室町末~近世初〕「歳暮の御祝儀の正月(シャウグヮチ)のお拵(こしらえ)のと有てにぎにぎしいが」
*天草本平家物語〔1592〕四・二「ジュエイサンネンxoguachi (シャウグヮチ) ヒトイノ コトデ ゴザルニ」
補注
本項関連の子見出し項目は「しょうがつ」の項にまとめた。また、他の語と複合した「しょうがち…」の解説・用例は「しょうがつ…」の見出しのもとにおさめた。
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