534年(安閑天皇1)に武蔵地方で起きた地方豪族の反乱。『日本書紀』によると、534年、武蔵国造笠原直使主 (かさはらのあたいおみ)と同族の笠原直小杵 (おき)とが、国造の地位をめぐって対立した。笠原直小杵は上毛野 (かみつけぬ)(群馬県)地方の豪族上毛野君小熊 (かみつけぬのきみおぐま)と結び使主を討とうとした。これに対して、使主は大和 (やまと)政権に訴え出て助けを求めた。国造の地位をめぐる対立が、東国の有力豪族上毛野君と大和政権との戦乱に発展した。反乱の結果、小杵は滅ぼされ、使主が国造の地位につき、代償として、横渟 (よこぬ)、橘花 (たちばな)、多氷 (おほひ)、倉樔 (くらす)の四か所を屯倉 (みやけ)として大和政権に提供した。この反乱は、6世紀の地方の有力豪族の在地支配と、大和政権の支配との拮抗 (きっこう)を示すものであろう。
武蔵国造の本拠地は、武蔵国埼玉 (さきたま)郡笠原郷(埼玉 (さいたま)県行田 (ぎょうだ)市埼玉 (さきたま))と考えられ、埼玉 (さきたま)古墳群がその墳墓と推定されている。埼玉古墳群は、5世紀後半~7世紀初頭にかけての武蔵地方最大の規模をもつ古墳群である。とくに、埼玉古墳群の稲荷山 (いなりやま)古墳(前方後円墳、全長117メートル)から出土した鉄剣銘は、稲荷山古墳の被葬者の先祖からの氏族伝承と代々「杖刀人首」として大和政権に奉仕してきたことなどが記されている。銘文中の「辛亥年」は471年と推定され、武蔵国造の反乱以前の、東国の豪族と大和政権との関係を示す重要な資料である。