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  11. 高松塚古墳

高松塚古墳

ジャパンナレッジで閲覧できる『高松塚古墳』の国史大辞典・日本歴史地名大系のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

高松塚古墳
たかまつづかこふん

飛鳥 (あすか)の古墳を代表する7世紀末~8世紀初頭の壁画古墳。特別史跡。奈良県高市 (たかいち)郡明日香 (あすか)村平田の丘陵南斜面に築かれた直径約20メートル、高さ約5メートルの円墳。

 埋葬の施設は墳丘中央で南に開口する凝灰岩製の石棺式石室。内法 (うちのり)は長さ265.5センチメートル、幅103.5センチメートル、高さ113.4センチメートル。石室内部の壁、天井、床に漆食 (しっくい)を塗り、東・西・北壁と天井に壁画を描く。東壁の中央に青竜 (せいりゅう)、上に日像、南に男子4人群像、北に女子4人群像。西壁も中央に白虎 (びゃっこ)、その上に月像を配し、南に男子4人群像、北に女子4人群像、また北壁の中央に玄武 (げんぶ)を描く。天井には径9ミリメートルに切り抜いた金箔 (きんぱく)を星とし、朱線で結ぶ星宿をつくる。

 石室前には中軸線上に幅3メートルの墓道が墳丘外へと開き、石壁扉石より南5メートルには発掘の動機となった方形切り石の礼拝石がある。石室を覆う墳丘土は土質の異なる盛土 (もりつち)を互層に叩 (たた)きしめた版築で築く。石室西寄りに出土した漆塗り木棺は内面を白土の下地に朱彩。外面は漆膜上に金箔を貼 (は)る。人骨は熟年男性一体分があった。棺は装飾されたらしく、金銅製の透飾金具、円形飾金具、金銅製座金具がある。中世に盗掘にあったが、残された副葬品は白銅製海獣葡萄鏡 (ぶどうきょう)、銀装大刀外装具、ガラス玉、琥珀 (こはく)玉があった。出土品は国立飛鳥資科館で展示している。

 1972年(昭和47)3月の壁画発見は、考古学、古代史、美術史をはじめ、関連分野にも多くの影響を与えた。また社会的にも関心が集まり、壁画保存のため保存科学の総力をあげた保存施設がつくられた。古墳横に壁画の模写を展示する高松塚壁画館がある。

[猪熊兼勝]



世界大百科事典

高松塚古墳
たかまつづかこふん

飛鳥時代後半の壁画古墳。奈良県高市郡明日香村平田の丘陵南斜面にある直径約20m,高さ約5mの小円墳で,1972年発掘された。墳丘は土質の異なる土を互層につき固めた版築積みで,中央に凝灰岩製の石棺式石室を築き,石室前の墓道には方形の礼拝石を置く。石室内部の全壁面にしっくいを塗り,東壁中央に青竜,西壁中央に白虎,北壁に玄武(南壁には朱雀が描かれていたと推定されるが剝落している)の四神を配し,青竜の上に日輪,白虎の上に月輪を配する。東西壁の手前には男性4人,後方に女性4人の群像,また天井および側壁面には円形の金箔を朱線で結んだ星宿を描く。石室内の漆塗木棺の表面には金箔を貼る。棺の装飾として,金銅製の透し飾金具,円形飾金具と,鐶座金具の八角形座金具が出土した。副葬品は白銅製海獣葡萄鏡,銀装大刀外装具,ガラス玉,琥珀玉がある。人骨は熟年男性1体があった。石室前には壁画保存の施設を作り,壁画は現状のまま保存している。江戸時代文武陵に推定された時,墳頂に1本の松があったところから,高松塚の名がある。
[猪熊 兼勝] 壁画の発見は,考古学にとどまらず古代史,美術史など関連学界に多くの影響を与えたが,ことに極彩色の四神,男女群像また星宿の壁画は,中国初唐末706年(神竜2)の永泰公主墓壁画中の男女群像や,朝鮮半島高句麗の墳墓壁画中の四神図などとの深い関係を示すものとして注目された。さらに壁画中に見いだされる文様や壁画技法には,法隆寺金堂壁画に共通する点が多く,その製作年代や各モティーフの源流を考えるうえで重要である。
[百橋 明穂]



日本歴史地名大系

奈良県:高市郡明日香村平田村 > 高松塚古墳
高松塚古墳
たかまつづかこふん

[現]明日香村大字上平田

平田ひらたの西南部、文武天皇檜隈安古岡上ひのくまのあこのおかのへ陵から北に延びる丘陵にある古墳で、江戸時代に文武天皇陵に擬定されたこともある。昭和四七年(一九七二)三月、橿原考古学研究所・明日香村により調査、壁画の発見で同年一〇月には文化庁も調査を実施した。

古墳は径約一六メートル、高さ約五メートルの円墳であり、墳丘は版築をもって築成。墳丘の南側には墓道があり、その作業面に敷板の痕跡が四条あった。墓道の正面には凝灰岩の切石を組合せた横口式石槨があり、その南側石の外より向かって右上に盗掘坑があった。石槨内法の計測値は、長さ二・六五メートル、幅一・〇三メートル、高さ一・一四メートルで、漆塗木棺が置かれ、棺は長さ二・〇二メートル、幅約六〇センチで金箔を漆箔にしてある。また側壁面には漆喰を施し、極彩色の壁画が描かれる。

壁画は、星宿・日月・四神・人物群像で、天井の中央には紫微垣と二十八宿を表す星宿が描かれ、東西両壁中央上部には、東壁に金箔で日像、西壁には銀箔で月像を表し、さらに盗掘のため消失した南壁面を除いて、各々壁面の中央に、東壁には青竜、西壁には白虎、北壁には玄武のいわゆる四神を描く。さらに東壁面南側には男子四人の人物群像、北側には女子四人、相対する西壁面にも南側に男子四人、北側にも女子四人をそれぞれ群像形式で描く。このような本格的な壁画のある古墳は、日本では初めての出現であり、これをめぐって種々の見解が述べられた。しかしこれらの壁画の根本にあるものは中国における伝統的な思想を背景にするものである。また盗掘を受けていたものの、金銅装棺金具や、海獣葡萄鏡一面、銀装大刀外装具などが残存していた。壁画や副葬品は他の古墳とは著しく異なり、むしろ正倉院宝物をはじめ、社寺に伝世されてきたものに近く、高松塚古墳の文化史的意義を高めることになった。古墳は国特別史跡、壁画は国宝、出土遺物は国重要文化財。

なお壁画はその保存上公開が不可能であり、古墳を中心として周辺地域を公園化し、そのなかに「高松塚壁画館」を設け、原寸の原状模写図・復原模写図および出土品の模造などが陳列され、一般に公開されている。また壁画の保存のための施設も設けられ、壁画保存のための修理が行われている。

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検索コンテンツ
1. 高松塚古墳
日本大百科全書
飛鳥あすかの古墳を代表する7世紀末~8世紀初頭の壁画古墳。特別史跡。奈良県高市たかいち郡明日香あすか村平田の丘陵南斜面に築かれた直径約20メートル、高さ約5メー
2. 高松塚古墳
世界大百科事典
飛鳥時代後半の壁画古墳。奈良県高市郡明日香村平田の丘陵南斜面にある直径約20m,高さ約5mの小円墳で,1972年発掘された。墳丘は土質の異なる土を互層につき固め
3. たかまつづか‐こふん【高松塚古墳】
日本国語大辞典
「あすかたかまつづか(飛鳥高松塚)」に同じ。〓[コ]
4. たかまつづかこふん【高松〓古墳】画像
国史大辞典
出土遺物は重要文化財に指定されている。 [参考文献]橿原考古学研究所編『壁画古墳高松塚』、高松塚古墳綜合学術調査会編『高松塚古墳壁画』 (網干 善教)
5. たかまつづかこふん【高松塚古墳】奈良県:高市郡/明日香村/平田村
日本歴史地名大系
壁画や副葬品は他の古墳とは著しく異なり、むしろ正倉院宝物をはじめ、社寺に伝世されてきたものに近く、高松塚古墳の文化史的意義を高めることになった。古墳は国特別史跡
6. 高松塚古墳
日本史年表
705年〈慶雲2 乙巳〉 この頃 高松塚古墳 が造られたか。 1972年〈昭和47 壬子〉 3・21 奈良県明日香村の 高松塚古墳 で極彩色の壁画発見(3月2
7. 高松塚古墳 1[別刷図版]画像
国史大辞典
れている。 1 元禄年間の高松塚古墳(『諸陵考』) 奈良県立奈良図書館所蔵 2 昭和14年の高松塚古墳 3 発掘前の高松塚古墳 昭和46年4月 4 発掘中の高松
8. 高松塚古墳 2[別刷図版]画像
国史大辞典
高松塚古墳は丘陵斜面に造られた円墳で、墳丘は寺院建築の基壇造りの際に行う版築状の土固めをする。墓室は飛鳥地方周辺に分布する石棺式石室(横口式石槨)で、発掘の結果
9. 高松塚古墳 3[別刷図版]画像
国史大辞典
8 西壁南側男子群像 4人の男性が横並びの構図で描かれ、女性群像ほど動きがない。椅子・鉾袋や先端の曲がった毬杖を持ち、袋をさげている。緑の上衣の男性がかぶるのは
10. 高松塚古墳 4[別刷図版]画像
国史大辞典
10 東壁中央日象図 日象は月象(図14)とともに故意に損壊されており、細部がわからないため赤鳥が描かれていたかどうかは確認できない。星宿図(図11)と同様に金
11. 高松塚古墳 5[別刷図版]画像
国史大辞典
13 北壁中央玄武図 奥の北壁中央に描かれる。亀と蛇の向き合う部分が削られていて全容は不明。ただし、昭和58年(1983)に調査が行われたキトラ古墳では、ファイ
12. 高松塚古墳 6[別刷図版]画像
国史大辞典
石室内に残っていた遺物は、木心乾漆棺(漆塗木棺)・銀荘大刀外装金物・金銅製棺装飾金具・玉類(ガラス玉・琥珀玉)・海獣葡萄鏡などと人骨であった。これらのうち棺と飾
13. 高松塚古墳 7[別刷図版]画像
国史大辞典
18 出土品 先の海獣葡萄鏡をはじめとする出土品は、飛鳥時代の精緻をきわめた工芸品である。木棺は金銅製対葉華文飾金具(下段右)で飾られ、同じく金銅製の六花形座金
14. 高松塚古墳 8[別刷図版]画像
国史大辞典
を注入し、和紙でゆっくり押さえるなど、高松塚古墳に適した修復方法がとられた。 19 保存施設完成後の高松塚古墳断面模型 20 保存施設完成後の高松塚古墳 昭和5
15. 明日香(村)画像
日本大百科全書
村内至る所に古墳、史跡が散在する。1972年(昭和47)の発掘調査で発見された極彩色壁画の高松塚古墳(1973年特別史跡、極彩色壁画は1974年国宝)をはじめ、
16. あすか【飛鳥・明日香】
日本国語大辞典
豊浦宮に推古天皇が即位して後百余年間都が置かれた。飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらみや)、橘寺、高松塚古墳、マルコ山古墳のほか、多くの史跡に富む。歌枕。*万葉集
17. あすかしりょうかん【飛鳥資料館】
国史大辞典
谷口吉郎の設計による数寄屋風コンクリート造り。飛鳥地域の主たる出土遺物を保管する。この中には高松塚古墳出土品、石人像、須弥山石など重要文化財四点を含む。展示は宮
18. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
かった。当代の遺品は乏しく、古墳出土の人物埴輪はにわや天寿国繍帳てんじゅこくしゅうちょう、高松塚古墳の壁画などから推測するほかはない。玉類をはじめとするアクセサ
19. 飛鳥時代
世界大百科事典
代表的作品としては薬師寺東塔,興福寺仏頭・薬師寺金堂薬師三尊像・同東院堂聖観音像,法隆寺金堂壁画・高松塚古墳壁画などがあげられる。いっぽう大津皇子の漢詩文,柿本
20. あすか‐たかまつづか【飛鳥高松塚】
日本国語大辞典
七世紀末の築造。昭和四七年(一九七二)に壁画を発見。壁画は国宝、古墳は特別史跡に指定されている。高松塚古墳
21. あぼし-よしのり【網干善教】
日本人名大辞典
学の手ほどきをうける。昭和30年橿原(かしはら)考古学研究所所員,48年関西大教授。47年高松塚古墳の調査に参加し彩色壁画を発見。60年関西大調査隊をひきいイン
22. いしのからとこふん【石のカラト古墳】奈良県:奈良市/秋篠・富雄地区/山上村
日本歴史地名大系
、金銀の玉、銀装唐様太刀の鞘の責金具、金箔、漆の断片などが検出されている。上円下方の墳形、高松塚古墳(高市郡明日香村)に類似した石室の構造、平城京の北方丘陵上に
23. 逸文(風土記) 477ページ
日本古典文学全集
天上観と地上観とが混交する。「天地接合の観念」(勝俣隆『国語国文』54‐2)による。なお、高松塚古墳天井部には昴畢をはじめ二十八宿の全てが描かれている。幼女は少
24. 逸文(風土記) 519ページ
日本古典文学全集
(『古事記年報』三六)。神功皇后は説話的存在(直木孝次郎、塚口義信)。ロングの巻スカート。高松塚古墳壁画の女人像が身に付ける。平安朝になって実態を失い装飾化。『
25. いのうえみつさだ【井上光貞】
国史大辞典
出版を行う組織力をも備えていた。考古学や東洋史学など関連諸分野の研究者との交流に努め、特に高松塚古墳壁画や稲荷山古墳出土鉄剣銘など新しい遺跡・遺物の発見には大き
26. いりえ-まさみ【入江正巳】
日本人名大辞典
池上秀畝(しゅうほ),前田青邨(せいそん)に師事。院展を中心に出品。仏教美術を制作・研究し,昭和48年高松塚古墳壁画の模写に参加。53年奈良県の当麻寺(たいまで
27. 永泰公主墓
世界大百科事典
している。前室にはそれぞれの壁に2幅の壁画があるが,東壁に描かれた女性の群像の持物が飛鳥の高松塚古墳壁画と比較できる。岡崎 敬 Yǒng tài gōng zh
28. えもと-よしかず【江本義数】
日本人名大辞典
のち国士舘大教授。33年から49年まで東京国立文化財研究所の調査研究員として法隆寺金堂焼損壁画,高松塚古墳壁画の微生物調査をした。昭和54年5月18日死去。86
29. えんぷん【円墳】
国史大辞典
のちに横穴式石室が発達するに伴い、傾斜面に羨門を設けた。終末期古墳にも円墳の形式は多く、奈良県高松塚古墳もその例である。ほかに蓮花文の彫刻のある石棺が安置されて
30. 帯画像
日本大百科全書
結び垂らしているという意である。古墳時代の埴輪はにわの人物像に締められている帯は、前または横で結んでいる。高松塚古墳の壁画に同様の姿がみられる。飛鳥あすか・奈良
31. 絵画画像
日本大百科全書
移入・消化し、さらに格調の高い典雅な絵画を制作した。仏画では法隆寺金堂壁画(1949焼失)、世俗画では高松塚古墳壁画の人物像のような、同時代の唐の遺品にもまさる
32. 海獣葡萄鏡
日本大百科全書
わが国の社寺に伝世されたものが少なくなく、法隆寺五重塔心礎埋納物あるいは高松塚古墳副葬品に含まれていることでも有名である。高松塚古墳出土品には、図像文様が完全に
33. 海獣葡萄鏡
世界大百科事典
。日本には,正倉院あるいは社寺に伝世された優品も少なくなく,また,法隆寺五重塔心礎埋納物や高松塚古墳副葬品に含まれていて,とくに有名になった。海獣葡萄鏡は奈良時
34. かいじゅうぶどうきょう【海獣葡萄鏡】
国史大辞典
りの良好な例が多いが、倣製鏡も存在する。従来、日本各地から二十有余面が出土しており、奈良県高松塚古墳出土鏡(重要文化財)は面径一六・八センチを測り、わが出土鏡と
35. 鏡画像
世界大百科事典
る中国との交渉が開始されたころである。唐鏡の搬入とその技術による仿製鏡の製作が再び始まる。高松塚古墳や正倉院の遺品がそれを代表し,また正倉院文書には,鋳鏡の実態
36. かがみ【鏡】
国史大辞典
この時期の東国では鈴鏡が盛行するが、一般的には前代からの伝世鏡が副葬されるにすぎない。終末期古墳の奈良県高松塚古墳からは、海獣葡萄鏡が出土している。これは七世紀
37. かしはらこうこがくけんきゅうしょ【橿原考古学研究所】
国史大辞典
学界に提供した。中でも新沢一二六号墳の四神図とガラス器は五、六世紀の国際交流を実証した。その延長上に高松塚古墳の壁画(昭和四十七年)や藤ノ木古墳の鞍金具(同六十
38. かみよどはいじ【上淀廃寺】鳥取県:西伯郡/淀江町/寺内村
日本歴史地名大系
荘厳にする方式がとられていたとみられ、奈良法隆寺と比較される。図柄は法隆寺金堂、奈良県明日香村の高松塚古墳の壁画と共通点があるとされ、新旧の技法が混在し、描法・
39. 河合隼雄[臨床心理学の第一人者、死去]
情報・知識 imidas
著書多数。2002年1月、3人目の民間出身の文化庁長官に就任。06年4月、文化庁が奈良県明日香村の高松塚古墳壁画の損傷を隠していた事実が発覚すると、同村を訪れて
40. 乾漆棺
日本大百科全書
ほか、天武てんむ陵、聖徳太子墓にもこれを用いた可能性が強い。また木芯乾漆棺を使用した古墳に高松塚古墳、マルコ山古墳がある。両者の間には、夾紵棺を上位とする身分差
41. かんしつかん【乾漆棺】
国史大辞典
。大阪府聖徳太子墓も、太子と妃との棺は同じく乾漆棺であったことが記録されている。なお奈良県高松塚古墳や埼玉県八幡塚古墳などからも乾漆棺の残部が発見されている。→
42. キトラ(亀虎)古墳
世界大百科事典
,墳丘は直径約11m,高さ約4mの円墳をなし,規模は高松塚古墳よりやや小さい。しかし1983年ファイバースコープによって石槨北壁に高松塚古墳壁画によく似た玄武(
43. キトラ古墳
日本大百科全書
6メートル、高さは少なくとも1.1メートル以上と推定され、高松塚古墳のものと類似している。ただし天井の形態が、断面が台形をしていて、平天井の高松塚古墳よりわずか
44. きとらこふん【キトラ古墳】奈良県:高市郡/明日香村/阿部山村
日本歴史地名大系
また壁画修復のための剥取り作業も行われている。当墳は藤原京時代に檜前地域に築かれた終末期古墳の一基で、高松塚古墳に先行するものと考えられる。〈平成一八年三月〉
45. クワ画像
世界大百科事典
導入については,679年に唐からクワ種子が移入されたと伝えられるが,詳細は明らかではない。高松塚古墳の壁画には当時(約1200年前)すでに絹が使われていたことが
46. 化粧
世界大百科事典
とともに紅,白粉,沢(たく)(脂綿(あぶらわた))などの化粧品を知ってからのことであろう。高松塚古墳の壁画や正倉院の《鳥毛立女屛風(とりげりつじよのびようぶ)》
47. 玄武
日本大百科全書
この信仰は朝鮮や日本にも伝播でんぱし、わが国では奈良の薬師寺金堂の本尊台座や、飛鳥あすかの高松塚古墳の石槨せっかく内壁などにこの四神像がみられる。桐本東太
48. 高句麗画像
世界大百科事典
きな影響を与えた。 仏教文化以外にも,高句麗文化の影響は日本文化の随所にみられる。例えば,高松塚古墳や九州各地の装飾古墳の壁画には,高句麗の古墳壁画の影響や,高
49. 考古学画像
日本大百科全書
欠損している両腕はいかなる動勢をとっていたのか、ギリシア神殿の円柱にみられるエンタシスは何のためなのか、高松塚古墳の壁画は何を表しているのか、蟹満かにまん寺の本
50. 古墳画像
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大塚初重円墳もっとも普遍的に分布しているのは平面形が円い円墳である。7世紀末ごろに築造された奈良県高松塚古墳のような、いわゆる「終末期古墳」は、土まんじゅうのよ
「高松塚古墳」の情報だけではなく、「高松塚古墳」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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