小説家。江戸牛込馬場下横町(現・新宿区牛込喜久井町一)に生る。父は小兵衛直克(五〇歳)、母は後妻で千枝(四一歳)、五男三女の末っ子で、金之助と命名される。夏目家は江戸町奉行支配下の町方名主で、この地方の実力者。しかし歓迎されぬ子として、生後まもなく四谷の古道具屋(一説に八百屋)に里子に出され、また二歳のときに四谷大宗寺裏の門前名主塩原昌之助の養子に出された。養父母に溺愛されたが、老後の扶養をめあてであることを、早くも知った。一〇歳のとき、養父母の不和から塩原姓のまま生家にもどり、五年後、実母の死に遭った。この間、小学校を三度転じ、東京府第一中学に学んだが、二年にして、二松学舎に転じて、漢学を修めた。漢学から文学への志望を抱き、唐宋の詩文から文章の学、左国史漢から有用の学、すなわち文人的要素と国士的要素から文学観念を懐いていた。文明開化の時代に漢学を迂遠と考えて英学に転じ、成立学舎に英語を学び、一八歳で、大学予備門(のちの第一高等中学)に入った。中村是公、芳賀矢一、橋本左五郎は予科で同級であった。腹膜炎を患い、原級にとどまりなどしたが、発奮して、卒業まで首席を通した。二一歳の年、長兄、つづいて次兄を結核で失い、翌年、実父は夏目姓に復籍させた。
明治二一年九月、本科一部に進み、英文科の専攻を決意した。同級に正岡子規がおり、子規の漢詩文集『七艸集』を漢文で評し、漱石と号した。この号は蒙求を出典とし、偏屈者の謂であった。夏、友人と房州に遊び、子規にならい漢詩文集『木屑録』を草し、子規の批評を乞うた。爾来、両者は親交を結んだ。二三年九月、東京帝大文科大学英文科に入り、文部省貸費生、ついで翌年に特待生となった。お雇い教師J=M=ディクソンのために『方丈記』を英訳し、みごとな出来ばえに賞讃を博した。しかし英語で文学上の述作を、との志はくずれ、英文学に欺かれたような不安がめばえた。
眼科医で出会った銀杏返しの女との初恋は虚しく、敬愛する末兄和三郎の後妻登世は悪阻がもとで歿し、正体も知れぬ心に悩まされ、もちまえの慈憐主義にも拘らず、厭世主義に陥った。この心の苦闘が、このころの『老子の哲学』『英国詩人の天地山川に対する観念』などを裏づけている。明治二六年七月に大学を卒業し、大学院に残り、英文学を深く究めるとともに、東京専門学校、東京高師の英語教師となった。哲学科の小屋保治(のちの大塚)を知り、大塚楠緒子(久寿雄)との間に三角関係が生じたという説がある。いずれにせよ、教師としての適格性の疑い、血痰を吐き、結核の疑いや、恋愛の苦悩などから神経を患い、鎌倉円覚寺に参禅をしたのち、二八年四月、愛媛県尋常中学(松山中学)の英語教師となって、松山に赴任し、自己に沈潜し、不可解な人生を根源から究めようとした。日清戦争に従軍して喀血した子規を温かく迎え、俳句や漢詩を娯しんだ。
翌明治二九年、三〇歳で貴族院書記官長の娘中根鏡子と結婚し、五高教授に転じ、熊本に一家を構えた。この結婚は幸福なものでなく、教師生活に安住することもできず、文学的な生活を送りたいという願いを強めたが、適当の機会を得ることができなかった。この間、重要な感想『人生』(「龍南会雑誌」明29・10)、そのほか『トリストラム・シヤンデー』(「江湖文学」明30・3)などの英文学研究の一端をしめす文章を発表した。
明治三三年五月、三四歳で、文部省留学生として、英語研究のために、満二ヵ年英国留学を命ぜられ、一〇月末、ロンドンに着いた。一年あまりシェイクスピア学者W=J=クレイグの個人教授をうけたが、英国学者の実態を知り、かれらについて抱いた買いかぶりを脱却した。自分の納得できぬ外国学者の言説を疑い、自家独自の見識をもって、独力で自己の学問思想を組織する信念をたてた。そこで二年有四月、下宿籠城主義をとって、古今の英文学書を蒐集耽読し、心理学的社会学的方法をもって、英文学の本質を究める大事業をもくろんだ。『文学論』への方法論的自覚であった。同時に「自己本位」を倫理的な問題として、奥深いところで自己の方法化の問題をすすめ、Xなる人生に取組む自覚であった。この孤独な激甚な努力は強度に神経を痛め、漱石発狂の噂となり、文部省にまで伝わった。子規死去の報をきいた年、帰朝の途についた。
明治三六年一月、東京に帰ると三月、駒込千駄木町五七に移転。一高、および小泉八雲の後任として帝国大学文科大学の講師を兼任した。東大ではロンドンから持って帰った宿題『文学論』、のちには『十八世紀英文学』(『文学評論』)を論ずるほか、『マクベス』『リヤ王』『ハムレット』などの綿密なシェイクスピア評釈に打込んだ。当初こそ小泉八雲の留任運動の飛沫をあびて不快な思いをしたが、熊本以来の寺田寅彦をはじめ、鈴木三重吉、森田草平、小宮豊隆、野上豊一郎らの門下生を周辺にあつめた。自己の学問的苦業や家族的煩瑣に神経を痛めつけられる中で、門下生との饒舌は救いであり、さらに高浜虚子にすすめられて、喜んで写生文の筆をとった。滑稽文学『吾輩は猫である』の成立である。これは同時に作家漱石の誕生をうながした。『吾輩は猫である』ははじめ短編として着手され、評判のあまり続編を書き、一〇回にわたって「ホトトギス」に連載された。多年の鬱憤をぶちまけて、資本制社会の偽瞞を諷刺するとともに、「太平の逸民」たる知識人たちの「良心と自由の世界」にメスを加えて、これを批判することをも辞さなかった。反面において『倫敦塔』(「帝国文学」明38・1)『カーライル博物館』(「学鐙」明38・1)『幻影の盾』(「ホトトギス」明38・4)、『琴のそら音』(「七人」明38・5)『一夜』(「中央公論」明38・9)『薤露行』(「中央公論」明38・11)『趣味の遺伝』(「帝国文学」明39・1)の七編の普通に浪漫的といわれる短編を発表、のち、『漾虚集』(明39・5 大倉書店)にまとめた。七編中四編までがロンドン留学を記念する四部作であり、内三編が中世英国に取材し、浪漫的であるが、その背後に自己の存在の根源にある謎の部分に暗い眼をむけた作品として新たに照射されている。逆にいえば、自我の奥底にひそむ不条理な生を『漾虚集』にさぐりながら、その憂さを笑わるべき人間に晴らしたのが『吾輩は猫である』であった。
『吾輩は猫である』と同質の諷刺文学を『坊つちやん』(「ホトトギス」明39・4)に書いたのちに、『草枕』(「新小説」明39・9)『二百十日』(「中央公論」明39・10)『野分』(「ホトトギス」明40・1)を書いた。『野分』を除く三編は『鶉籠』(明39・1 春陽堂)にまとめられた。『坊つちやん』に平凡な日本人の善悪両面を描いたあとで、『草枕』では不浄な現世の外に出て、清浄な別乾坤に遊ぶ「俳句的小説」を書いた。主人公の画工を藉りて、出世間的な「非人情の天地」を成立させる東洋的な芸術論が一編の趣旨であるが、この余裕派小説を可能にしたものは、日露戦争を背景に、遠く祖先の罪を負う女主人公の謎的存在に由来することをほのめかしている。いずれにせよ、俳句的小説を書きながら、これを一面としてしりぞけ、『坊つちやん』以後の正義感、道義感に生きる『二百十日』や『野分』に、むしろ文学の本流を考えていた。明治三九年一一月、読売新聞社から招聘の話があったが、条件が折合わなかった。三月、本郷区西片町四番地に移転した。
翌明治四〇年二月、大阪朝日新聞社から同様の話があり、ついで東京朝日の池辺三山の来訪となって、意気に感じ、綿密な契約のうえ、三月、入社した。これよりさき、京都帝大から招聘があり、また東京帝大から英文学教授の内示があったが、これを辞した。当時、大学教授の職を断り、世間から水商売同様に賤しまれる新聞記者に身を売り、意気軒昂としていた。漱石の市民的見識である。
五月三日、『入社の辞』を掲げ、美術学校の講演『文芸の哲学的基礎』(「朝日新聞」明40・5・4~6・4)を載せ、『文学論』(明40・5 大倉書店)を刊行し、最初の新聞小説『虞美人草』(「朝日新聞」明40・6・23~10・29)を連載した。いよいよ職業作家として従来の余技的態度を一擲し、「文芸上の述作を生命とする」文学的生涯に入った。『文芸の哲学的基礎』や『文学論』が語るように、文学に一見識をもった思想的作家の誕生である。
最初の新聞小説『虞美人草』を執筆するにあたり、文章上も、結構上も、固くなって凝りすぎ、古風な美文意識と物語意識(勧懲意識)をもって終始するにいたった。しかし漱石が心血を注いだというのが評判になり、三越が虞美人草浴衣を、王宝堂が虞美人草指輪を売出し、新聞売り子が呼売りする騒ぎであった。漱石入社は商策としても成功であった。
『虞美人草』連載中に牛込区早稲田南町七番地に移転した。
この極彩色の『虞美人草』の反措定として、一青年の体験を素材に、「揮真文学」の実験として、『坑夫』(「朝日新聞」明41・1・1~4・6)が書かれた。一九歳の良家の青年が恋愛事件から家出して、足尾銅山に坑夫生活をする。入山の事情や坑夫生活を後年の回想という書き方で、性格の輪廓をはずし、心の状態を、「意識の流れ」に近い方法で追求した二十世紀小説の先取として注目すべき成果をみせている。実際、人間の意識には外部に現れぬ「正体の知れない」「潜伏者」のあることを確認し、そのまとまりのつかない事実を事実のままに意識的に記した最初の作品であった。ついで書かれる小品『文鳥』(「朝日新聞」明41・6・ 13~21)や『夢十夜』(「朝日新聞」明41・7・25~8・5)は、この「潜伏者」の自覚が「夢」の形で感覚的に形象化されたものにほかならず、漱石の心のあり方を知るうえで、きわめて重要な作品となり、諸説がある。とにかく、自己の内部の生の深淵に、「潜伏者」の自覚に、深く降り立ち、現実的に定着し、爾後の作品を解く鍵を含んでいる。
ついで青春小説『三四郎』(「朝日新聞」明41・9・1~12・29)、『永日小品』(「朝日新聞」明42・1・1~2・14)を書き、『文学評論』(明42・3 春陽堂)を刊行し、『それから』(「朝日新聞」明42・6・27~10・14)を連載、中村是公と満韓に旅行した。『三四郎』は、青春小説であるとともに、「無意識の偽善」を取りあげた点で、「潜伏者」の問題の展開である。『永日小品』はロンドン生活の回想や身辺のできごとの感想やコントをものしながら、かならずしものどかな作品ではなく、内部の声にきき入っているところがある。これが直接に『それから』の主題となると、偽善の崩壊と生死の淵とが現れてくる。そして満韓旅行を『満韓ところどころ』(「朝日新聞」明42・10・21~12・30)に書いた。ただし「朝日文芸欄」を開設し(明42・11・25~44・10・23)、これを主宰したので、全行程の半ばに達しないところで打切った。
「朝日文芸欄」は世間からは反自然主義の牙城と目されたけれど、「公平と不偏不党」を標榜し、自然主義を取入れていた。『それから』につづいて、『門』を掲げ、そのじみな写実性において、自然派から迎えられた。もちろん、『門』は『それから』の後日譚の趣があり、平凡な夫婦生活にも、過去の罪業からきた生の深淵に脅かされる不安をみせていた。
漱石は神経衰弱が軽快する一方、生来の胃病に悩まされ、満韓旅行で悪化させた。『門』を擱筆すると、長与胃腸病院で、胃潰瘍の診断を受けて入院した。退院すると、伊豆の修善寺温泉に転地療養したが、逆結果を生み、八月二四日、大吐血、危篤に陥った。いわゆる「修善寺の大患」であり、人間観、死生観に大きな影響を与えた。二ヵ月後東京に帰り、長与病院に再入院後、七ヵ月ぶりに帰宅した。入院中に書いた体験記『思ひ出す事など』(「朝日新聞」明43・10・29~44・2・20)に当時の心境が描かれている。「仰臥人如啞。黙然見大空。大空雲不動。終日杳相同」生命力の厚薄との関係で自己の存在をとらえ、暫時の安息をなつかしんだ。長与病院に再入院中、博士会の推薦で文学博士の学位を授与されたが、固辞し、文芸委員会にも参加しなかった。病がやや軽快すると、長野で講演、その夏、大阪朝日から関西各地で講演した。『道楽と職業』『現代日本の開化』『中味と形式』『文芸と道徳』などはその題名で、のちに『社会と自分』(大2・2 実業之日本社)に収録された。近代社会における職業の分化と専門化が人間を不具にし、日本の近代化が内発的ではなく、外発的であり、内容が変われば必然的に形式も変わるべきであるなどの文明批評に平生の信念を吐露した。しかし真夏の講演に胃潰瘍が再発し、入院治療した。帰京後も痔瘻のために入院手術した。
この間、漱石入社に骨を折った主筆池辺三山の退社、「朝日文芸欄」の廃止などの事件があり、漱石も一度は三山に殉じて辞表を出したが、慰留された。一一月二九日、五女ひな子の急死に遭い、痛恨久しいものがあった。『門』に次いで一年半ぶりに書いた長編『彼岸過迄』には、「雨の降る日」の一章を設け、幼女を失った悲しみを永久に遺した。『彼岸過迄』は短編を重ねて長編小説を構成する技法を採用した最初の小説である。相思相愛の男女が結婚しようとして結婚できぬ根源を内部的に自我に問いつめ、結局、自然を「考へずに観る」超越的心境を獲得することで自我意識を脱却した。しかし漱石は実存的関心からこれで問題が解決したとは考えられず、逆に自意識の深淵に深くおりたつ。そこで『行人』において主人公を自我経から狂気に追いつめ、また『こゝろ』においてもう一つの結論、自殺に追いつめた。漱石は『彼岸過迄』の執筆中に池辺三山の急死(明45・2・28)に遭い、これを追悼したが、『行人』の執筆中には三度胃潰瘍の発病を見、中絶し、その病苦が神経衰弱の悪化とあわせて近代知識人の不安と寂寞と孤独となって、作品に凝集した。『こゝろ』においては先生の自殺を明治天皇の崩御から明治の精神との関連で考え、そこに特別の意義をおいた。しかも漱石は、『こゝろ』の擱筆後、四度、胃潰瘍の発作に病臥した。起床すると、学習院で『私の個人主義』を講演、さらに随筆『硝子戸の中』(「朝日新聞」大4・1・13~2・23)を発表、良寛の書を愛する心境を吐露し、京洛への旅に神経を休めた。
京都への旅で胃潰瘍に病臥したが、帰京すると、『道草』を執筆した。『硝子戸の中』でみずからの生い立ちを語ったことが機縁となり、いままでの実験的な小説の方法とは異なった自伝の方法で、英国留学から帰国した教師時代、『吾輩は猫である』を書かせた家族生活の実相を描いた。このころ芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らの若き門下生が出入りして、木曜会を若返らせるとともに、糖尿病に罹り、これがために昂進した神経衰弱を慰めるところがあった。大正五年五〇歳を迎え、新年随想『点頭録』(大5・1・1~21)に、二年目に入った第一次世界大戦について軍国思想を批判し、しばらく養生に過ごしたのちに、最後の未完に終わった小説『明暗』にとりかかった。相変わらず醜悪な人間の生臭い百鬼夜行を小説につづりながら、漱石は南画風な水彩画を書き、良寛の書を読み、漢詩をつづり、道をもとめて、「則天去私」の境地に思いを馳せていた。
一一月二二日、五度目の胃潰瘍の発作に大内出血し、一二月九日夕刻逝去した。鎌倉円覚寺の釈宗演により文献院古道漱石居士の戒名が贈られ、雑司ケ谷墓地におさまった。
『漱石全集』全一四巻(大6~8 岩波書店)『漱石全集』全一九巻(昭10~12 岩波書店)『漱石全集』全一六巻(昭40~42 岩波書店)『漱石文学全集』全一〇巻、別巻一(昭45~49 集英社)などがある。
代表作
代表作:既存全集